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【捌】第二ノ事件
③
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「……それはどういう意味ですか?」
百々目は犬神零に刺すような視線を向けた。
「昨日の夜の記者会見、けしかけたのは、私です」
「…………」
「どうにも、十四郎氏に一発食らわせてやりたくてですね、つい」
言葉と裏腹に、零は顎を撫でながら、不遜な表情で見返してくる。百々目は溜息を吐いた。
「それは褒められた行為ではない。しかし、新聞記事を読めば分かります。……彼は自分の意思で、あの記者会見を行った」
「犯人も、あなたがいようといまいと関係なく、自分の意思で、犯行を行ったんですよ。違いますか?」
――心を見抜かれたのか。百々目は肩を竦めた。そんな彼の様子に横目を送り、零はソファーに身を沈めた。
「まぁ、落ち込んでる気持ちは分からないではないんですけどね。ご自身の管理下で殺人事件を起こされたんです。……しかし、あなたらしくありませんね。捜査よりも現場の効率化などど、事件から逃げ出すような事を言い出すとは。これだから、エリートという人種はいけません」
「皮肉を言いに来たのですか」
「まあ、そんなところです」
零は渋い顔の百々目を眺めていたが、やがて身を乗り出した。
「ところで、警部殿のお考えはどうです? ――来住野竹子さんの事件と、今回の不知火清弥さんの事件。関わりがあると思いますか?」
「動機の点から、それぞれ別の犯行と見ています」
「まぁ、そう見えますね。……しかし、昨夜の記者会見が犯行の動機として、こんなに警察の目がある時をわざわざ選んで、犯行に及ぶ必要があるんですかね? 隠したいところは既に開示されていた訳ですし、慌てて口封じをする必要性があったとも思えません」
それには、百々目も眉を上げた。
「ならば、動機が他にあると?」
「まぁ、ただの勘ですが。……考えたくないんですよ。この穏やかな村に、凶悪な殺人鬼が二人もいるとは」
「ならば君は、来住野竹子氏と不知火清弥氏の事件が同じ人物による犯行だと言いたいのだね? しかし、そこに共通する動機は何だと?」
「そこが分かれば、この事件は、一気に解決するんでしょうけど」
零は意味深な目を百々目に向けた。
「――それを明かすには、第一の事件の被害者が誰であるのか、はっきりさせておく必要があるかと思います」
百々目は目を見開いた。
「気になるんですよ。……事件の前後で、来住野梅子さんの様子が、大きく変わっているんです。初めは、双子の姉妹を失ったショックかとも思ったんですが、事件の様相を見ていると、もしかしたら、と」
「確かに、状況的に疑わしい点はある。しかし、父親である十四郎氏が、被害者は竹子さんであると断言しているのだ」
「あんなに瓜二つのお二人を、十四郎氏はどう見分けておられるのですか? それをご本人に確認なさいましたか?」
「…………」
「思い出してみました。天狗堂の遺体を発見した時、彼がどのような反応をしたのか。――彼は、遺体を引きずり下ろそうとしました。その時ですよ、『竹子』と呼んだのは。つまり、目視ではなく、他の方法で、二人の区別をしたのではないかと」
「それはたまたま、その時に呼んだだけかもしれない」
「まぁ、そう考えるのが普通でしょうけど……」
再びソファーに身を預け、零はモジャモジャと頭を搔いた。
「どうもそこに、このふたつの事件の鍵が隠されているような気がしてならないんですよ。常人が想像も及ばないような、常軌を逸した秘密が」
百々目はテーブルに肘を置き、組んだ両手に顎を乗せ、険しい視線を零に送る。
「……実を言うと、私も悔しいのです。昨夜、小木曽巡査を発見できる機会があったにも関わらず、それを見逃し、挙句、再び睡眠薬を盛られました」
「何だと?」
「離れに、その可能性が高いと思われる弁当箱をそのまま置いてあります。お調べください。
……天狗堂の一件にしたってそうです。一体私は、この屋敷に何をしに来たのか。――もしくは、何の目的で呼ばれたのか。天狗伝説の狂信者から身を守って欲しい、などという単純なものではないのではと」
「それはなぜ?」
「犯人の描く筋書きの上での、私の立ち位置が分からない、とでも言いましょうか。単なる予定外のお邪魔虫なのか、それとも……」
零は天井のシャンデリヤを仰いだ。窓からの風が、硝子の飾りを揺らしている。
「そんな風でまぁ、私の探偵としての矜恃もズタズタなんですよ。してやられる一方で、目の前で二人も殺されたんですから。私にとっても犯人は憎い。帰れと言われても、この事件解決までは、居座るつもりでいますので。
――そこでですがね、警部殿、ひとつ、賭けをしてみませんか?」
「賭け、だと?」
「はい。――どちらが先に、真祖に辿り着くのか」
ニヤリと顔を向ける零に対し、百々目は苦い顔をした。
「君は顔に似合わず、俗っぽい嗜好があるのだな」
「まあ、そう仰らず。それとも、未来の警察幹部を約束されたエリートであらせられる警部殿が、賭けというのはまずいですか?」
「……いや、構わんよ。で、何を賭ける?」
零はニヤニヤと顎を撫でた。
「事件解決の打ち上げに、多摩荘で最も豪勢な宴、というのは。あそこの酒、地酒でしょうが、実にいい。もちろん、桜子さんの分も含めて」
「良かろう。だがこちらも、赤松警部補や喜田刑事をはじめ、捜査員が大勢いる。彼らの分も含めてで良いのだな? そうでなければフェアではない」
「……ま、まあ、いいでしょう。お受けしますよ」
やや冷や汗を浮かべながらも、零は立ち上がった。
「ただし、得た情報は隠さない。相手に必ず伝える。これがルールです」
配膳室で、ぬか漬けをツマミにお茶を飲んでいた桜子は、自慢げに通行証を見せびらかす犬神零に呆れた顔を向けた。――そこには、百々目の署名と印が入っている。
「彼のプライドを突っついて、賭けを口実に、捜査本部への立ち入り許可を貰ったのは分かったわ。だけど、負けたらどうするの?」
「…………」
「そうやってまた墓穴を掘ってくる。本当、馬鹿ね」
「そう言わないでください。もし我々が勝てば、桜子さんもご相伴に預かれるんですから」
零も桜子の隣に腰を下ろし、ぬか漬けに手を伸ばした。
「あっそ。良かったわね。……ところで、検死に随分と時間がかかってるみたいね」
そう言うと、思い出したのだろう、零は再び青い顔をして口を押さえた。
「菊岡先生に、今日は大人しくしてるように言われたでしょ?」
「お水をどうぞ」
亀乃に湯呑を差し出され、零は頭を下げた。
「私、心配だわ、松子さんが」
「松子様にはとても良くして貰っています。しっかり者で気配りのできる、とても優しいお方です」
「そんな方がどうして、家出などをされたんでしょうか?」
水の入った湯呑を自分の前に置き、亀乃も二人の向かいに腰を下ろした。
「……お気を病まれたようです」
「それは、いつ頃?」
「以前、貞吉さんから聞いたんですけど、貞吉さんがこのお屋敷で奉公しだして間もない頃は、松子様、あんな方ではなかったと」
「ほう?」
零は眉を寄せた。
「時も場も弁えずに奇声を上げたり、突然暴れだしたりなされたとか。ご自分でお体を傷つけないよう、みんなで取り押さえたって話です。小学校を卒業された後くらいからみたいですけど」
「今のご様子からだと、ちょっと想像できないわね」
「その頃はもっと使用人も多くて。また松子様の発作だと、みんな総出で宥めていたそうです。……そう言えば、松子様と凄く仲の良い使用人がいたとか。松子様がどんなに気分を乱されていても、その方が宥めると落ち着かれるような、そんな間柄だったようです。松子様の家出の直後に、追い掛けるようにいなくなってしまったみたいですけど」
「一緒に東京へ行かれたんでしょうか?」
「いえ。お里へ帰られたと、貞吉さんに聞きました」
「なるほど。……そして松子さんは、東京でスターとなられ、ご結婚を機に戻って来られた。……その時のご様子はご存知ですか?」
「その頃は、私もこちらでご奉公を始めてましたから。……お屋敷に戻られてしばらく、体調を崩されたとかで、今の洋館の場所にあった土蔵で、しばらく過ごされていました」
「土蔵?」
「はい。そこに、毎日のように菊岡先生がいらして。相当お悪いのかと思っていたんですけど、不知火清弥様がご様子を見に来られたら、たちまちお元気になられて。……愛の力って、凄いんだなと」
亀乃は頬を赤らめた。
「そんな、大好きな清弥様を亡くされた松子様が、お気の毒で……」
――午後四時。
長時間にわたる検死及び現場検証が終わったのと、竹子が白木の骨箱に入って戻ってくるのと、ぼぼ同時だった。
十四郎と梅子は、その足で広間に留められた。
松子はまだ眠っている。葬儀のため休みを言い付けられていた通い家政婦の初江が、葬儀から戻った又吉朝夫に事情を聞いたとみえて、先程慌ててやって来た。彼女が松子に付き添っている。
貞吉と亀乃も広間に呼ばれ、所在なさげに正座した。
真新しい骨箱に手を合わせ、赤松が一同に向き合う。少し離れて百々目、そして、彼らの後方に零と桜子が陣取る。
「……えー、まず、犬神探偵に依頼された、昨夜二人に供された助六の弁当箱ですが、睡眠薬が検出されました」
竹子の事件で睡眠薬が使用された事から、鑑識が試薬を持ってきていたため、すぐにそれは分かった。
「小木曽巡査の襲撃と同じく、犯行を見られないようにするために、犯人が仕込んだものと思われます」
「道理で、今朝も寝坊した訳よ」
桜子は小声で呟いた。
「そして、不知火清弥氏の検死結果ですが……」
赤松は目を細めて書類を睨んだ。
「死因は、……まぁ、ご存知の通り。血液中から多量のアルコールが検出されました。被害者は死亡時、泥酔状態であった、という事です。
死亡現場は、あの古井戸で間違いないでしょう。死亡推定時刻は、……あの状態でしたから、はっきりとは言えないのですがね、昨夜十時頃から、今朝四時くらいの間だろうと」
……零の頭にあの光景が浮かぶ。バラバラの四肢、噛み千切られた肉片、喰い散らかされた臓腑……。
「……大丈夫?」
またもや口を押さえた零を、桜子が心配そうに見た。コクリと頷いて、零は気を逸らそうと赤松を注視した。
「……それで、気になる事が幾つかありましてね。――まず、被害者の開襟シャツの胸ポケットに、こんなものが入っていました」
赤松が、半透明のパラフィン紙を示した。しわくちゃの紙切れのようなものが、伸ばして挟んである。……ドス黒い染みが下半分を染めている。
「恐らく、被害者を現場に呼び出した手紙かと思われます。この通り、汚れが酷く全部は読めないのですがね」
赤松は読み上げた。
「――今夜零時、百合園奥の古井戸で――と、ここまでは何とか読めます。つまり、被害者の死亡推定時刻がかなり絞られます。……本日、七月二十二日の、深夜零時前後と」
十四郎は相変わらず項垂れ、梅子は相変わらず無表情で前を見ている。
「それから、言わば凶器となったあの二匹の山犬ですが、暴れるもので、射殺して井戸から引っ張り出して解剖しました。胃の内容部は……」
「そこはいいです。先を進めてください」
百々目もハンカチで口を押さえ、赤松を促した。
「失礼しました。殺伐とした現場ばかり見ているもので、感覚がおかしいのですな。……えー、あの二匹の山犬は、解剖の結果、声を出せぬよう喉を潰されていた事が判明しました。栄養状態も良くなく、被害者があの古井戸に入るまで、極度の飢餓状態にあったようです」
零は顔をしかめた。恐らく犯人は、あの古井戸を凶器と認識して使ったのだ。……これ以上の残虐な凶器が、他にあるだろうか。
「――それから」
赤松はぐるりと一同を見渡した。
「あの古井戸の底には、鶏やら小動物の骨が多数、積み重なるように落ちていたのですが、その中に、人骨が一人分、混じっていました」
百々目は犬神零に刺すような視線を向けた。
「昨日の夜の記者会見、けしかけたのは、私です」
「…………」
「どうにも、十四郎氏に一発食らわせてやりたくてですね、つい」
言葉と裏腹に、零は顎を撫でながら、不遜な表情で見返してくる。百々目は溜息を吐いた。
「それは褒められた行為ではない。しかし、新聞記事を読めば分かります。……彼は自分の意思で、あの記者会見を行った」
「犯人も、あなたがいようといまいと関係なく、自分の意思で、犯行を行ったんですよ。違いますか?」
――心を見抜かれたのか。百々目は肩を竦めた。そんな彼の様子に横目を送り、零はソファーに身を沈めた。
「まぁ、落ち込んでる気持ちは分からないではないんですけどね。ご自身の管理下で殺人事件を起こされたんです。……しかし、あなたらしくありませんね。捜査よりも現場の効率化などど、事件から逃げ出すような事を言い出すとは。これだから、エリートという人種はいけません」
「皮肉を言いに来たのですか」
「まあ、そんなところです」
零は渋い顔の百々目を眺めていたが、やがて身を乗り出した。
「ところで、警部殿のお考えはどうです? ――来住野竹子さんの事件と、今回の不知火清弥さんの事件。関わりがあると思いますか?」
「動機の点から、それぞれ別の犯行と見ています」
「まぁ、そう見えますね。……しかし、昨夜の記者会見が犯行の動機として、こんなに警察の目がある時をわざわざ選んで、犯行に及ぶ必要があるんですかね? 隠したいところは既に開示されていた訳ですし、慌てて口封じをする必要性があったとも思えません」
それには、百々目も眉を上げた。
「ならば、動機が他にあると?」
「まぁ、ただの勘ですが。……考えたくないんですよ。この穏やかな村に、凶悪な殺人鬼が二人もいるとは」
「ならば君は、来住野竹子氏と不知火清弥氏の事件が同じ人物による犯行だと言いたいのだね? しかし、そこに共通する動機は何だと?」
「そこが分かれば、この事件は、一気に解決するんでしょうけど」
零は意味深な目を百々目に向けた。
「――それを明かすには、第一の事件の被害者が誰であるのか、はっきりさせておく必要があるかと思います」
百々目は目を見開いた。
「気になるんですよ。……事件の前後で、来住野梅子さんの様子が、大きく変わっているんです。初めは、双子の姉妹を失ったショックかとも思ったんですが、事件の様相を見ていると、もしかしたら、と」
「確かに、状況的に疑わしい点はある。しかし、父親である十四郎氏が、被害者は竹子さんであると断言しているのだ」
「あんなに瓜二つのお二人を、十四郎氏はどう見分けておられるのですか? それをご本人に確認なさいましたか?」
「…………」
「思い出してみました。天狗堂の遺体を発見した時、彼がどのような反応をしたのか。――彼は、遺体を引きずり下ろそうとしました。その時ですよ、『竹子』と呼んだのは。つまり、目視ではなく、他の方法で、二人の区別をしたのではないかと」
「それはたまたま、その時に呼んだだけかもしれない」
「まぁ、そう考えるのが普通でしょうけど……」
再びソファーに身を預け、零はモジャモジャと頭を搔いた。
「どうもそこに、このふたつの事件の鍵が隠されているような気がしてならないんですよ。常人が想像も及ばないような、常軌を逸した秘密が」
百々目はテーブルに肘を置き、組んだ両手に顎を乗せ、険しい視線を零に送る。
「……実を言うと、私も悔しいのです。昨夜、小木曽巡査を発見できる機会があったにも関わらず、それを見逃し、挙句、再び睡眠薬を盛られました」
「何だと?」
「離れに、その可能性が高いと思われる弁当箱をそのまま置いてあります。お調べください。
……天狗堂の一件にしたってそうです。一体私は、この屋敷に何をしに来たのか。――もしくは、何の目的で呼ばれたのか。天狗伝説の狂信者から身を守って欲しい、などという単純なものではないのではと」
「それはなぜ?」
「犯人の描く筋書きの上での、私の立ち位置が分からない、とでも言いましょうか。単なる予定外のお邪魔虫なのか、それとも……」
零は天井のシャンデリヤを仰いだ。窓からの風が、硝子の飾りを揺らしている。
「そんな風でまぁ、私の探偵としての矜恃もズタズタなんですよ。してやられる一方で、目の前で二人も殺されたんですから。私にとっても犯人は憎い。帰れと言われても、この事件解決までは、居座るつもりでいますので。
――そこでですがね、警部殿、ひとつ、賭けをしてみませんか?」
「賭け、だと?」
「はい。――どちらが先に、真祖に辿り着くのか」
ニヤリと顔を向ける零に対し、百々目は苦い顔をした。
「君は顔に似合わず、俗っぽい嗜好があるのだな」
「まあ、そう仰らず。それとも、未来の警察幹部を約束されたエリートであらせられる警部殿が、賭けというのはまずいですか?」
「……いや、構わんよ。で、何を賭ける?」
零はニヤニヤと顎を撫でた。
「事件解決の打ち上げに、多摩荘で最も豪勢な宴、というのは。あそこの酒、地酒でしょうが、実にいい。もちろん、桜子さんの分も含めて」
「良かろう。だがこちらも、赤松警部補や喜田刑事をはじめ、捜査員が大勢いる。彼らの分も含めてで良いのだな? そうでなければフェアではない」
「……ま、まあ、いいでしょう。お受けしますよ」
やや冷や汗を浮かべながらも、零は立ち上がった。
「ただし、得た情報は隠さない。相手に必ず伝える。これがルールです」
配膳室で、ぬか漬けをツマミにお茶を飲んでいた桜子は、自慢げに通行証を見せびらかす犬神零に呆れた顔を向けた。――そこには、百々目の署名と印が入っている。
「彼のプライドを突っついて、賭けを口実に、捜査本部への立ち入り許可を貰ったのは分かったわ。だけど、負けたらどうするの?」
「…………」
「そうやってまた墓穴を掘ってくる。本当、馬鹿ね」
「そう言わないでください。もし我々が勝てば、桜子さんもご相伴に預かれるんですから」
零も桜子の隣に腰を下ろし、ぬか漬けに手を伸ばした。
「あっそ。良かったわね。……ところで、検死に随分と時間がかかってるみたいね」
そう言うと、思い出したのだろう、零は再び青い顔をして口を押さえた。
「菊岡先生に、今日は大人しくしてるように言われたでしょ?」
「お水をどうぞ」
亀乃に湯呑を差し出され、零は頭を下げた。
「私、心配だわ、松子さんが」
「松子様にはとても良くして貰っています。しっかり者で気配りのできる、とても優しいお方です」
「そんな方がどうして、家出などをされたんでしょうか?」
水の入った湯呑を自分の前に置き、亀乃も二人の向かいに腰を下ろした。
「……お気を病まれたようです」
「それは、いつ頃?」
「以前、貞吉さんから聞いたんですけど、貞吉さんがこのお屋敷で奉公しだして間もない頃は、松子様、あんな方ではなかったと」
「ほう?」
零は眉を寄せた。
「時も場も弁えずに奇声を上げたり、突然暴れだしたりなされたとか。ご自分でお体を傷つけないよう、みんなで取り押さえたって話です。小学校を卒業された後くらいからみたいですけど」
「今のご様子からだと、ちょっと想像できないわね」
「その頃はもっと使用人も多くて。また松子様の発作だと、みんな総出で宥めていたそうです。……そう言えば、松子様と凄く仲の良い使用人がいたとか。松子様がどんなに気分を乱されていても、その方が宥めると落ち着かれるような、そんな間柄だったようです。松子様の家出の直後に、追い掛けるようにいなくなってしまったみたいですけど」
「一緒に東京へ行かれたんでしょうか?」
「いえ。お里へ帰られたと、貞吉さんに聞きました」
「なるほど。……そして松子さんは、東京でスターとなられ、ご結婚を機に戻って来られた。……その時のご様子はご存知ですか?」
「その頃は、私もこちらでご奉公を始めてましたから。……お屋敷に戻られてしばらく、体調を崩されたとかで、今の洋館の場所にあった土蔵で、しばらく過ごされていました」
「土蔵?」
「はい。そこに、毎日のように菊岡先生がいらして。相当お悪いのかと思っていたんですけど、不知火清弥様がご様子を見に来られたら、たちまちお元気になられて。……愛の力って、凄いんだなと」
亀乃は頬を赤らめた。
「そんな、大好きな清弥様を亡くされた松子様が、お気の毒で……」
――午後四時。
長時間にわたる検死及び現場検証が終わったのと、竹子が白木の骨箱に入って戻ってくるのと、ぼぼ同時だった。
十四郎と梅子は、その足で広間に留められた。
松子はまだ眠っている。葬儀のため休みを言い付けられていた通い家政婦の初江が、葬儀から戻った又吉朝夫に事情を聞いたとみえて、先程慌ててやって来た。彼女が松子に付き添っている。
貞吉と亀乃も広間に呼ばれ、所在なさげに正座した。
真新しい骨箱に手を合わせ、赤松が一同に向き合う。少し離れて百々目、そして、彼らの後方に零と桜子が陣取る。
「……えー、まず、犬神探偵に依頼された、昨夜二人に供された助六の弁当箱ですが、睡眠薬が検出されました」
竹子の事件で睡眠薬が使用された事から、鑑識が試薬を持ってきていたため、すぐにそれは分かった。
「小木曽巡査の襲撃と同じく、犯行を見られないようにするために、犯人が仕込んだものと思われます」
「道理で、今朝も寝坊した訳よ」
桜子は小声で呟いた。
「そして、不知火清弥氏の検死結果ですが……」
赤松は目を細めて書類を睨んだ。
「死因は、……まぁ、ご存知の通り。血液中から多量のアルコールが検出されました。被害者は死亡時、泥酔状態であった、という事です。
死亡現場は、あの古井戸で間違いないでしょう。死亡推定時刻は、……あの状態でしたから、はっきりとは言えないのですがね、昨夜十時頃から、今朝四時くらいの間だろうと」
……零の頭にあの光景が浮かぶ。バラバラの四肢、噛み千切られた肉片、喰い散らかされた臓腑……。
「……大丈夫?」
またもや口を押さえた零を、桜子が心配そうに見た。コクリと頷いて、零は気を逸らそうと赤松を注視した。
「……それで、気になる事が幾つかありましてね。――まず、被害者の開襟シャツの胸ポケットに、こんなものが入っていました」
赤松が、半透明のパラフィン紙を示した。しわくちゃの紙切れのようなものが、伸ばして挟んである。……ドス黒い染みが下半分を染めている。
「恐らく、被害者を現場に呼び出した手紙かと思われます。この通り、汚れが酷く全部は読めないのですがね」
赤松は読み上げた。
「――今夜零時、百合園奥の古井戸で――と、ここまでは何とか読めます。つまり、被害者の死亡推定時刻がかなり絞られます。……本日、七月二十二日の、深夜零時前後と」
十四郎は相変わらず項垂れ、梅子は相変わらず無表情で前を見ている。
「それから、言わば凶器となったあの二匹の山犬ですが、暴れるもので、射殺して井戸から引っ張り出して解剖しました。胃の内容部は……」
「そこはいいです。先を進めてください」
百々目もハンカチで口を押さえ、赤松を促した。
「失礼しました。殺伐とした現場ばかり見ているもので、感覚がおかしいのですな。……えー、あの二匹の山犬は、解剖の結果、声を出せぬよう喉を潰されていた事が判明しました。栄養状態も良くなく、被害者があの古井戸に入るまで、極度の飢餓状態にあったようです」
零は顔をしかめた。恐らく犯人は、あの古井戸を凶器と認識して使ったのだ。……これ以上の残虐な凶器が、他にあるだろうか。
「――それから」
赤松はぐるりと一同を見渡した。
「あの古井戸の底には、鶏やら小動物の骨が多数、積み重なるように落ちていたのですが、その中に、人骨が一人分、混じっていました」
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