百合御殿ノ三姉妹

山岸マロニィ

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【拾弐】月下ノ告白

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 それから彼は、洋服箪笥の横の整理箪笥に目を向けた。引き出しを開けると、下着類が収められている。さすがに憚られ、零はすぐにそこを閉めた。他の引き出しも調べたが、同様だった。
 ただ、一番上のふたつの小引出しは、零に首を捻らせるものだった。――左の小引出しには、脱脂綿と大量のサラシ。そして、右の引き出しは、空だったのだ。
「…………」
 脱脂綿は、女性が使うものだとは理解できる。だがこれだけの量のサラシは、一体どうやって使うのか?
 そして、空の引き出し。全ての引き出しに多くの物が詰まっている中で、ここだけ空という事は、何かを取り出した後、と考えるべきだろう。それは一体何なのか?

 化粧台には、少女趣味な化粧品類が収められていた。そして、最も大きな引き出しに隠すように収められた「少女画報」。彼女が零に依頼に来る切っ掛けとなったものだ。零は手に取り開いて見るが、特に変わったところはない。

 そして、天蓋付きのベッド。……例の、貞吉との逢瀬の際に汚れたというシーツは、証拠品として押収されたのだろう、今は綺麗なものに交換されている。白のレースがあしらわれた布団や枕、そして、ベッド全体を覆う、薄桃色のカーテン。まるで人形遊びに使う玩具の寝台を、そのまま大きくしたような意匠である。
 ……いや、ベッドだけではない。この部屋全体がそうなのだ。生活感がまるでない。この部屋の中で、人形である彼女は、誰かに遊んで貰えるのをじっと待っている……。
 そんな発想が脳裏に浮かび、零はゾクッと身を震わせた。――そうなのだ。彼女はまさしく、この部屋で、人形として生きてきたのだ。……父親に愛撫されるだけの、人形として。
 窓のない部屋で、その宿命から逃れられない絶望を抱えた彼女の精神状態は、いかようなものであったか。そして姉の松子から、その生き様に背徳感を植え付けられた彼女の精神状態とは……。

 息苦しくなった零は、空気を求めるように窓を見上げた。
 ……この窓は開くのだろうか?
 換気くらいはできないと不都合だ。しかし、どうやって?
 部屋を見回し、零は気付いた。……壁とベッドの隙間に、棒のようなものが立て掛けてある。
 先端に小さな鈎が付いたそれは、窓枠にある金具の穴と合いそうだ。果たして試してみるとピッタリと嵌り、くるくると棒を回せば、窓の硝子が、縦半分の位置を軸に回転した。
 零の身長なら、踏み台があれば窓まで顔が届きそうである。彼は化粧台の椅子を持ってくると、その上に乗った。
 高さ一尺、幅三尺ほどの回転窓。窓枠だけなら、人ひとり抜け出せない事もない。しかし、中心に回転式の窓硝子があるため、その隙間は半尺のところで上下に分かれ、人が通るのは無理だ。捜査陣もそう判断したのだろう。
 窓の向こうに目を遣れば、屋敷の段差になった下の部分、和建築の瓦屋根が続いている、それだけだ。
「…………」
 特に見所もないと、零は踏み台を降りようとした。その時、不安定な化粧台の椅子に足を取られよろめく。……すると、咄嗟に掴んだ窓硝子がグラリと揺れたのだ。
「――――!」
 何とか体勢を立て直し、再び窓硝子を見てみる。……確かに、回転式の窓枠から、硝子だけが外れかかっている。
「……これは……」
 そっと硝子を引っ張る。するとそれは、いとも簡単に外れた。
「…………」
 警察も、これには気付かなかったらしい。よく見ると、本来窓枠に固定するはずの金具がなくなっているのだが、「窓硝子は外せる」という前提条件がなければ、気付かない程度のものだ。
 ――もしかしたら、梅子はここから逃走したのではないか。
 零は色めき立った。窓硝子を整理箪笥の上に置き、しかし……と再び周囲を見渡した。……梅子のような小柄な少女が、化粧台の小さな椅子程度で、あの窓に手が届くとは思えない。他に足場になるようなものは、何かないか?
 と、そこで気付いた。……ベッドの天蓋は、ベッドに固定されている訳ではなく、独立した造りになっているのだ。
 試しに引き出してみる。頑丈そうな造りではあるが、棒を直方体に組み合わせただけの軽いものだ。絨毯を滑って、いとも簡単に引き出せた。
 ……その時、カーテンの影に隠れて見えなかった四本の支柱に、革手錠が取り付けられているのに気付いた。何に使われたものかは想像するまでに及ばない。零は顔をしかめた。
 ともあれ、今は窓からの逃走経路の検証である。天蓋を窓の下まで運ぶ。強度を増すためだろう、頭と足に当たる部分に、横向きに棒が渡してある。これに足を掛ければ、十分に梯子として使える。
 案の定、一分後には、零の体は屋根の上に出ていた。細身とはいえ、大の大人の彼でも可能なのだ。小柄な梅子なら、すんなり出られたに違いない。
 ……だが、そこが逃走経路にはなり得ない事に、零はすぐに気付いた。……天蓋である。あれがそのまま置かれていては、すぐに窓から出た事が分かってしまう。外した窓硝子も同じく。梅子が失踪した時、扉は内側から施錠されており、警官が突入した際に壊されたのだ。言わばだったのだ。
「……無駄骨でしたね……」
 零は大きく伸びをした。

 その時、彼の目にある光景が飛び込んできた。
 零は興味を引かれ、銅葺きの三角屋根をよじ登る。最初にこの屋敷を訪れた時、つづら折れから見上げたあの屋根だ。三角のその頂点が、ちょうど椅子のように平らになっており、零はそこに腰を下ろした。
 ――そこにあったのは、百合園を望む、何も遮る物のない大パノラマであった。
 裏門からの薮、離れの屋根、天狗堂、池の畔の舞台、水車小屋、東屋。それらを包み込むように咲き誇る、百合の花園。そして、その向こうに果てしなく彼方まで続く山々と、青空。
「…………」
 南からの日を浴びた光景は、別世界のように見えた。零は状況を忘れて、しばらくその光景に見入った。
 ……彼女も、ここからの景色を眺めていたのだろうか。昼間でここまで美しいのだ。満点の星空が照らす幻想的な眺めなら、夢の世界にでも入り込んだような気分になったのではなかろうか。窓のない部屋に閉じ込められた彼女の心が、この景色に魅了されても不思議はない。もしかしたら、父が不在の夜は部屋を抜け出し、こうして、ここに座って眺めていたのかもしれない。

 しばらくそうしていると、下から声を掛けられた。
「あんた、何してんだ?」
 刑事である。未だ姿が見えぬ梅子の捜索に汗を流している姿が、百合園のそこかしこに見える。
「……あ、いや、景色を見ていただけです」
「あっそう。紛らわしい」
 去っていく刑事を見送り、零は首を竦めた。……確かに、彼らにとっては不審すぎる行動だ。
 ならば、少しでも協力しよう。ここから見える景色に、怪しいところはないか……。

 ――そして、零は気付いたのだ。
 ここからなら、不知火清弥が殺された、あの古井戸が丸見えなのだ。

 もちろん、今彼女がそこに隠れている事は有り得ない。しかし、ずっと彼の心に引っ掛かっていたのだ。
 ――全ての犯行が来住野梅子によるものだとして、窓のない部屋に住む彼女が、どうやってあの古井戸の存在を知り得たのか?
 その疑問が、ここで解決した。彼女は夜、ここで百合園を眺めている時、貞吉の不審な行動を目撃したのだ。だから彼女は、あの古井戸に山犬が飼われている事も知っていた――!
 彼女は、それを利用したのだ。
「無駄骨ではありませんでした」
 満足げに、零は顎を撫でた。
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