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【拾弐】月下ノ告白
⑥
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――午後からも、特に進展がないまま、時間だけが過ぎていった。
強いて言えば、ハルアキが持ってきた睡眠薬の包みを青梅の病院に鑑定に出したところ、ほうじ茶に混入されたものと同じ成分であった、という内容の連絡が、赤松から入った事くらいである。しかしこれも、既にその前提で捜査をしているため、裏付けに過ぎない。
明日からは、警察犬が投入されるようである。彼らも多忙で予定が合わず、手配に時間が掛かってしまった。そのため、人間がどんなに労力を割くよりも明日を待った方が良いという空気が流れ、捜査員たちの動きも形骸的なものになっていた。
零と桜子は、百合園を散策していた。完全に行き詰まった状況が息苦しく、百合の香りで肺を満たしたい、そんな気分だったのだ。
池の畔に差し掛かった時、桜子が呟いた。
「……あの時の松子さんの舞、素晴らしかったわ。もう見えないのかしら」
「…………」
零は舞台に上がってみた。なだらかな斜面を満たす百合の花と、その隙間を縫う径。そこに集う人々の視線と撮影用の閃光器の光を一身に浴びた彼女は、その瞬間だけは、不知火松子ではなく、花沢凛麗であったに違いない。……不知火松子という一個人になり切れない。それもまた、彼女を苦しめるものだったのだろう。先日、洋館で見た彼女の様子から、零はそのように感じだ。
この歪んだ楽園は、住む者の心を蝕み続けた。歪み、捻れ、擦り切れた理性は、やがてプツリと切れた。
――起こるべくして起こった事件。
零はそう考えるようになっていた。
その事件にも、間もなく、幕が下りる。
それが分かっているだけに、終幕を迎える前の憂鬱さのようなものが、彼を満たしていた。
それは、桜子も同じであったに違いない。零と並び、池に浮かぶ舞台から百合御殿を眺めながら、桜子は言った。
「せめて、彼女の中でだけでも、幸せな結末であって欲しいわ」
――終幕は、下弦の月が深い眠りについている頃、唐突に訪れた。
来住野十四郎の部屋を見張っていた警官の一人が、大きな叫び声を上げながら、捜査本部のある洋間に駆け込んで来たのだ。
彼は息も絶え絶えな様子で百々目に告げた。
「き、来住野梅子が、あの部屋で、し、死んでいます!!」
ちょうどその時、犬神零も捜査本部にいた。昼間見た、梅子の部屋から出られる三角屋根から見える景色。それに、トウシューズを組み合わせると、不知火清弥殺しの全貌が見えてくる、そんな話をしていたのだ。
「――何だと!?」
先を争うように、零と百々目は廊下を駆ける。そして、来住野十四郎の部屋に飛び込むと、部屋の主が百々目に飛び付いた。
「わ、私じゃない! 私は何も知らない! 本当だ、信じてくれ! 私は……」
百々目は無表情で、彼に平手打ちを食らわした。
その間に、零は奥の院、十四郎の居室と繋がった「秘密の部屋」へと駆け込んだ。
押し入れに偽装した扉を入り、階段を数段下りたそこは、中央に大きなベッドが据えられた部屋だった。壁は毒々しい赤に塗られ、様々な道具が壁に吊るされている。それらが何に使われるものかは、言うまでもない。
……その壁の、戸棚が動いたと思われる場所に、人が屈んで通れるほどの四角い穴が、ポッカリと空いていた。
――そして、部屋の中央のベッドには、フランス人形が横たわっていた。
来住野梅子は、上質な白磁のような頬を乱れた黒髪から覗かせ、眠っているかのように見えた。右耳の上の白百合の髪飾りが、その横顔に彩りを添える。
彼女が零の元を訪れた時に着ていた、あのドレス。その着こなしに乱れはなく、だが、ふわりとしたスカートから覗く素足に、血が滴っていた。
犬神零はしばらく、そこで立ち尽くした。この屋敷で彼が見た光景が走馬灯のように脳裏にひしめき、激しい眩暈がした。
何度か深呼吸をして、何とかその悪夢を振り払うと、彼はベッドに近付いた。
来住野梅子の細い手は、手袋に包まれてはいなかった。代わりにその白い肌に、乾いた血が付着していた。
「…………」
零はその手にそっと触れる。……氷のように冷たい。だが……。
ふと、彼は違和感を覚えた。それを確かめようと、彼は彼女の胸に耳を当てる。――そして気付いた。違和感の正体に。それは、彼の心臓を凍り付かせるに足りるものだった。
だが、それ以上に訴えなければならない事があった。零は震える体を無理矢理起こし、百々目に向かってかすれた声を上げた。
「……脈があります。生きてます。早く、医者に……」
それからの怒涛の流れは、よく覚えていない。飛び交う怒号、叫ぶ百々目と、駆け回る警官たち。長屋門に横付けされた警察車両の後部座席に運び込まれた梅子。零は百々目に引き込まれるように、車に乗り込んだ。
――そして、夕日の差し込む診療所の待合室でひとり、彼女の処置が終わるのを待っていた。
百々目は菊岡医師と共に、処置室に入っている。村の診療所で出来得る限りの、懸命の処置が続いている。時折スミちゃんが受付に走ってきて、怒鳴るような声でどこかに電話をしている。
ポツンと掛けた硬いベンチで、零は百々目から渡されたものを両手に持ち、呆然と眺めていた。
「彼女の体の下にあった。――君宛ての手紙だ」
――犬神零さま
そう書かれた洋封筒。大きさは書道の半紙を半分にしたくらいあり、何が入っているのか、厚みがある。
しばらくその細いペン字の宛名を眺めていたが、やがて零は、ゆっくりとその封を解いた。
中には、十何枚かあるだろう、便箋の束が入っていた。零はそれに目を通していく。
……そして読み進めるうちに、彼の表情は次第に強張っていった。両目を見開き、激しい動悸で肩が揺れる。
最後まで目を通した後、彼は愕然を顔を上げた。そして、便箋を持つ両手を膝に置いた瞬間、封筒が床に落ちた。
――そこから転がり出た物を見て、彼は絶叫した。
捜査の様子を見ていた椎葉桜子は、応援に呼ばれて来ていた小木曽を掴まえた。
「……ねぇ、隠し通路があったって本当?」
捜査員たちが話す内容が、時折耳に入るのだ。小木曽は諦めたように答えた。
「あぁ、見つかったさ。……あの建て増し部分、斜面を乗り越えた半二階になってるだろ? あそこにトンネルがあった。――クソ親父の隠し部屋と、二人の娘の部屋を繋ぐトンネルが」
つまり、梅子はこの二日半の間、その狭い空間に隠れていたのだ。
「うまく作ってあってさ。娘たちの部屋の方は、床の絨毯の模様で出入口が見えなくしてあって、隠し部屋の方は、戸棚が隠し扉になってたんだぜ? 常人の考える事じゃねぇよ」
「あなたもそんな喋り方するのね」
「あ、当たり前だ! 俺だって人間だぞ? ……人間じゃねぇ奴を相手にする時には、こうもなるさ」
それから、桜子は炊事場に向かった。誰かと一緒にいないと耐えられない気分だったのだ。
いつも通り、そこには亀乃がいた。だが彼女は、気力を失ったように、呆然と配膳台の前に座っていた。
桜子の顔を見ると、亀乃はボソリと呟いた。
「……私、これからどうすればいいんでしょう」
その姿を見た桜子の目から、自然と涙が零れ出た。耐えていた感情が一気に押し流されるように溢れ出し、亀乃の手を取ってわんわんと泣きじゃくった。しばらくそうしてから鼻をすすると、桜子は精一杯の笑顔を取り繕って亀乃を見た。
「東京にいらっしゃいよ。私みたいな、何の取り得もない家出者でも、何とかやっていけてるのよ。あなたみたいな働き者なら、きっといい仕事が見つかるわ。……そうよ、多ゑさんにお願いするわ。あの広いお屋敷に、お手伝いさんが二人だけじゃ心細いもの。きっと受け入れてくれるわよ。ねぇ、そうしましょ。事件が片付いたら、一緒に東京に行きましょ」
亀乃も涙を光らせた目で桜子を見ていた。そしてコクリと頷いた。
――その夜、下弦の月が顔を見せる頃。
一台の車が、長屋門の前に到着した。懸命の処置により一命を取り留めた来住野梅子が戻ってきたのだ。
車から担架に移され、部屋へと運ばれていく。薬で眠らされてはいるが、容体は安定しているため、今後の逃亡の可能性の考慮した結果、窓のない彼女の部屋に置くのが最適だと判断されたのだ。もちろん、天蓋は取り払われ、床の穴も塞がれている。
中二階への階段を運ばれていく担架を見送りながら、桜子は溜息をついた。――梅子が自室に戻されたもうひとつの理由が、彼女の雇い主にあったのだ。
「診療所の入口で派手に転んで頭をぶつけた。数日前に頭に怪我をしたばかりだそうじゃないか。短期間に複数回、脳に衝撃を受けると、後遺症が残る場合がある。そのため、きっちり安静にするように、一晩こちらで様子を見る」
菊岡医師から先程、彼女にそう電話があったのだ。
そのおかげで、ただでさえ少ない診療所のベッドが埋まってしまい、梅子の方が押し出されたという、本末転倒の結果になったのだ。
「……全くもう、どうしようもない役立たずね」
桜子は憤慨しながらも離れに戻った。
離れの四畳半では、亀乃が静かに寝息を立てていた。桜子がどうしてもと誘ったのだ。女同士、しばらく語り合った後、亀乃は糸が切れたように眠りに落ちた。……長年の緊張から解放された、そんな気分があったのだろう。
亀乃は終始、鶴代の事を気にしていた。
「明日にはまた、ご実家に戻られるんでしょ? ……そのまま、こちらに戻らない方向になるんじゃないかしら」
桜子がそう答えると、亀乃は寂しく微笑んだ。
……そう、この家族は終わったのだ。何もかもが瓦解したのだ。
この屋敷の呪縛は、もうこれで、消え去ったのだ。
桜子は、亀乃の寝顔に微笑んでから、六畳との襖をそっと閉めた。
――下弦の月が中天に上る頃。
勝手口に忍び寄る影があった。
百合園、そして中庭には人影はない。犯人が確保され、その彼女も薬で眠らされているため、警備の必要がないからだ。
人影は炊事場、配膳室を抜け、広間との廊下に出る。捜査員たちも、長丁場の疲れからであろう、皆寝静まっていた。人影は足音を忍ばせ、慎重にそこを通り過ぎる。
廊下を抜けると、右手、中二階への階段に向かう。カタツムリのように渦を巻いた廊下を抜けた、突き当りの扉――。その鍵は壊され、それは何の躊躇もなく開いた。
影はそっとそこへ忍び入る。月明かりの薄暗い室内には、静かな寝息が響いている。影は摺り足でベッドに近付く。
――そこには、布団に半ば埋まった顔が、微動だにせず眠っていた。長い黒髪が目鼻を覆い、白い頬がわずかに見えている。彼女を運んだ警官たちにはそこまでの気遣いがなかったのだろう、枕は頭の下になく、ベッドの隅に置かれていた。
影は枕をそっと取り上げた。そして、その顔に力一杯押し付けた。
ベッドの人物は悶え、引き剥がそうとする手が宙を泳ぐ。……その手を見た影が、ビクッと体を硬直させた。手の力が緩んだ瞬間、ベッドの人物は彼女の手首を取り押さえた。
枕の下から覗いた目が、彼女に哀れんだ視線を向けた。
「――お待ちしていましたよ、不知火松子さん」
強いて言えば、ハルアキが持ってきた睡眠薬の包みを青梅の病院に鑑定に出したところ、ほうじ茶に混入されたものと同じ成分であった、という内容の連絡が、赤松から入った事くらいである。しかしこれも、既にその前提で捜査をしているため、裏付けに過ぎない。
明日からは、警察犬が投入されるようである。彼らも多忙で予定が合わず、手配に時間が掛かってしまった。そのため、人間がどんなに労力を割くよりも明日を待った方が良いという空気が流れ、捜査員たちの動きも形骸的なものになっていた。
零と桜子は、百合園を散策していた。完全に行き詰まった状況が息苦しく、百合の香りで肺を満たしたい、そんな気分だったのだ。
池の畔に差し掛かった時、桜子が呟いた。
「……あの時の松子さんの舞、素晴らしかったわ。もう見えないのかしら」
「…………」
零は舞台に上がってみた。なだらかな斜面を満たす百合の花と、その隙間を縫う径。そこに集う人々の視線と撮影用の閃光器の光を一身に浴びた彼女は、その瞬間だけは、不知火松子ではなく、花沢凛麗であったに違いない。……不知火松子という一個人になり切れない。それもまた、彼女を苦しめるものだったのだろう。先日、洋館で見た彼女の様子から、零はそのように感じだ。
この歪んだ楽園は、住む者の心を蝕み続けた。歪み、捻れ、擦り切れた理性は、やがてプツリと切れた。
――起こるべくして起こった事件。
零はそう考えるようになっていた。
その事件にも、間もなく、幕が下りる。
それが分かっているだけに、終幕を迎える前の憂鬱さのようなものが、彼を満たしていた。
それは、桜子も同じであったに違いない。零と並び、池に浮かぶ舞台から百合御殿を眺めながら、桜子は言った。
「せめて、彼女の中でだけでも、幸せな結末であって欲しいわ」
――終幕は、下弦の月が深い眠りについている頃、唐突に訪れた。
来住野十四郎の部屋を見張っていた警官の一人が、大きな叫び声を上げながら、捜査本部のある洋間に駆け込んで来たのだ。
彼は息も絶え絶えな様子で百々目に告げた。
「き、来住野梅子が、あの部屋で、し、死んでいます!!」
ちょうどその時、犬神零も捜査本部にいた。昼間見た、梅子の部屋から出られる三角屋根から見える景色。それに、トウシューズを組み合わせると、不知火清弥殺しの全貌が見えてくる、そんな話をしていたのだ。
「――何だと!?」
先を争うように、零と百々目は廊下を駆ける。そして、来住野十四郎の部屋に飛び込むと、部屋の主が百々目に飛び付いた。
「わ、私じゃない! 私は何も知らない! 本当だ、信じてくれ! 私は……」
百々目は無表情で、彼に平手打ちを食らわした。
その間に、零は奥の院、十四郎の居室と繋がった「秘密の部屋」へと駆け込んだ。
押し入れに偽装した扉を入り、階段を数段下りたそこは、中央に大きなベッドが据えられた部屋だった。壁は毒々しい赤に塗られ、様々な道具が壁に吊るされている。それらが何に使われるものかは、言うまでもない。
……その壁の、戸棚が動いたと思われる場所に、人が屈んで通れるほどの四角い穴が、ポッカリと空いていた。
――そして、部屋の中央のベッドには、フランス人形が横たわっていた。
来住野梅子は、上質な白磁のような頬を乱れた黒髪から覗かせ、眠っているかのように見えた。右耳の上の白百合の髪飾りが、その横顔に彩りを添える。
彼女が零の元を訪れた時に着ていた、あのドレス。その着こなしに乱れはなく、だが、ふわりとしたスカートから覗く素足に、血が滴っていた。
犬神零はしばらく、そこで立ち尽くした。この屋敷で彼が見た光景が走馬灯のように脳裏にひしめき、激しい眩暈がした。
何度か深呼吸をして、何とかその悪夢を振り払うと、彼はベッドに近付いた。
来住野梅子の細い手は、手袋に包まれてはいなかった。代わりにその白い肌に、乾いた血が付着していた。
「…………」
零はその手にそっと触れる。……氷のように冷たい。だが……。
ふと、彼は違和感を覚えた。それを確かめようと、彼は彼女の胸に耳を当てる。――そして気付いた。違和感の正体に。それは、彼の心臓を凍り付かせるに足りるものだった。
だが、それ以上に訴えなければならない事があった。零は震える体を無理矢理起こし、百々目に向かってかすれた声を上げた。
「……脈があります。生きてます。早く、医者に……」
それからの怒涛の流れは、よく覚えていない。飛び交う怒号、叫ぶ百々目と、駆け回る警官たち。長屋門に横付けされた警察車両の後部座席に運び込まれた梅子。零は百々目に引き込まれるように、車に乗り込んだ。
――そして、夕日の差し込む診療所の待合室でひとり、彼女の処置が終わるのを待っていた。
百々目は菊岡医師と共に、処置室に入っている。村の診療所で出来得る限りの、懸命の処置が続いている。時折スミちゃんが受付に走ってきて、怒鳴るような声でどこかに電話をしている。
ポツンと掛けた硬いベンチで、零は百々目から渡されたものを両手に持ち、呆然と眺めていた。
「彼女の体の下にあった。――君宛ての手紙だ」
――犬神零さま
そう書かれた洋封筒。大きさは書道の半紙を半分にしたくらいあり、何が入っているのか、厚みがある。
しばらくその細いペン字の宛名を眺めていたが、やがて零は、ゆっくりとその封を解いた。
中には、十何枚かあるだろう、便箋の束が入っていた。零はそれに目を通していく。
……そして読み進めるうちに、彼の表情は次第に強張っていった。両目を見開き、激しい動悸で肩が揺れる。
最後まで目を通した後、彼は愕然を顔を上げた。そして、便箋を持つ両手を膝に置いた瞬間、封筒が床に落ちた。
――そこから転がり出た物を見て、彼は絶叫した。
捜査の様子を見ていた椎葉桜子は、応援に呼ばれて来ていた小木曽を掴まえた。
「……ねぇ、隠し通路があったって本当?」
捜査員たちが話す内容が、時折耳に入るのだ。小木曽は諦めたように答えた。
「あぁ、見つかったさ。……あの建て増し部分、斜面を乗り越えた半二階になってるだろ? あそこにトンネルがあった。――クソ親父の隠し部屋と、二人の娘の部屋を繋ぐトンネルが」
つまり、梅子はこの二日半の間、その狭い空間に隠れていたのだ。
「うまく作ってあってさ。娘たちの部屋の方は、床の絨毯の模様で出入口が見えなくしてあって、隠し部屋の方は、戸棚が隠し扉になってたんだぜ? 常人の考える事じゃねぇよ」
「あなたもそんな喋り方するのね」
「あ、当たり前だ! 俺だって人間だぞ? ……人間じゃねぇ奴を相手にする時には、こうもなるさ」
それから、桜子は炊事場に向かった。誰かと一緒にいないと耐えられない気分だったのだ。
いつも通り、そこには亀乃がいた。だが彼女は、気力を失ったように、呆然と配膳台の前に座っていた。
桜子の顔を見ると、亀乃はボソリと呟いた。
「……私、これからどうすればいいんでしょう」
その姿を見た桜子の目から、自然と涙が零れ出た。耐えていた感情が一気に押し流されるように溢れ出し、亀乃の手を取ってわんわんと泣きじゃくった。しばらくそうしてから鼻をすすると、桜子は精一杯の笑顔を取り繕って亀乃を見た。
「東京にいらっしゃいよ。私みたいな、何の取り得もない家出者でも、何とかやっていけてるのよ。あなたみたいな働き者なら、きっといい仕事が見つかるわ。……そうよ、多ゑさんにお願いするわ。あの広いお屋敷に、お手伝いさんが二人だけじゃ心細いもの。きっと受け入れてくれるわよ。ねぇ、そうしましょ。事件が片付いたら、一緒に東京に行きましょ」
亀乃も涙を光らせた目で桜子を見ていた。そしてコクリと頷いた。
――その夜、下弦の月が顔を見せる頃。
一台の車が、長屋門の前に到着した。懸命の処置により一命を取り留めた来住野梅子が戻ってきたのだ。
車から担架に移され、部屋へと運ばれていく。薬で眠らされてはいるが、容体は安定しているため、今後の逃亡の可能性の考慮した結果、窓のない彼女の部屋に置くのが最適だと判断されたのだ。もちろん、天蓋は取り払われ、床の穴も塞がれている。
中二階への階段を運ばれていく担架を見送りながら、桜子は溜息をついた。――梅子が自室に戻されたもうひとつの理由が、彼女の雇い主にあったのだ。
「診療所の入口で派手に転んで頭をぶつけた。数日前に頭に怪我をしたばかりだそうじゃないか。短期間に複数回、脳に衝撃を受けると、後遺症が残る場合がある。そのため、きっちり安静にするように、一晩こちらで様子を見る」
菊岡医師から先程、彼女にそう電話があったのだ。
そのおかげで、ただでさえ少ない診療所のベッドが埋まってしまい、梅子の方が押し出されたという、本末転倒の結果になったのだ。
「……全くもう、どうしようもない役立たずね」
桜子は憤慨しながらも離れに戻った。
離れの四畳半では、亀乃が静かに寝息を立てていた。桜子がどうしてもと誘ったのだ。女同士、しばらく語り合った後、亀乃は糸が切れたように眠りに落ちた。……長年の緊張から解放された、そんな気分があったのだろう。
亀乃は終始、鶴代の事を気にしていた。
「明日にはまた、ご実家に戻られるんでしょ? ……そのまま、こちらに戻らない方向になるんじゃないかしら」
桜子がそう答えると、亀乃は寂しく微笑んだ。
……そう、この家族は終わったのだ。何もかもが瓦解したのだ。
この屋敷の呪縛は、もうこれで、消え去ったのだ。
桜子は、亀乃の寝顔に微笑んでから、六畳との襖をそっと閉めた。
――下弦の月が中天に上る頃。
勝手口に忍び寄る影があった。
百合園、そして中庭には人影はない。犯人が確保され、その彼女も薬で眠らされているため、警備の必要がないからだ。
人影は炊事場、配膳室を抜け、広間との廊下に出る。捜査員たちも、長丁場の疲れからであろう、皆寝静まっていた。人影は足音を忍ばせ、慎重にそこを通り過ぎる。
廊下を抜けると、右手、中二階への階段に向かう。カタツムリのように渦を巻いた廊下を抜けた、突き当りの扉――。その鍵は壊され、それは何の躊躇もなく開いた。
影はそっとそこへ忍び入る。月明かりの薄暗い室内には、静かな寝息が響いている。影は摺り足でベッドに近付く。
――そこには、布団に半ば埋まった顔が、微動だにせず眠っていた。長い黒髪が目鼻を覆い、白い頬がわずかに見えている。彼女を運んだ警官たちにはそこまでの気遣いがなかったのだろう、枕は頭の下になく、ベッドの隅に置かれていた。
影は枕をそっと取り上げた。そして、その顔に力一杯押し付けた。
ベッドの人物は悶え、引き剥がそうとする手が宙を泳ぐ。……その手を見た影が、ビクッと体を硬直させた。手の力が緩んだ瞬間、ベッドの人物は彼女の手首を取り押さえた。
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