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第参話──九十九ノ段
【拾参】天空
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「……ねぇ、どうしたのよ一体」
襖に押し付けられた桜子が不満げに声を出した。
早まる呼吸を抑えるように、ハルアキは低い声で命じる。
「絶対に振り向いてはならぬ」
その声色にただならぬものを感じたのだろう、桜子は口を閉ざした。
ふたつの繭は、畳の上でゆらゆらとしばらく揺れた後、ピタリと動きを止めた。
そして、ミシミシと何かを破る音――。
繭の裂け目から現れたのは、黒く細長い脚。
産毛が生えたその脚は、鋭い爪を器用に使い、繭の裂け目を拡げていく。
そこから、ぬるりと現れた頭は既に、人間のものではなかった。
八つの目を怒りに光らせ、牙をガチガチと鳴らしながら、八本の脚で畳に立つ。
縞模様の腹がおぞましいその姿は、巨大な女郎蜘蛛である。
それだけではない。ゾワゾワと迫る嫌な気配に天井を仰げば、和紙の張られた照明部分にびっしりと、黒い影が蠢いていた。
「ヒッ……!」
さすがのハルアキでさえ、鳥肌を禁じ得ない。
その上、天井の隙間から、小蜘蛛がポトン、ポトンと落ちてきて、ゆっくりとこちらに迫ってくるのだ。二匹の大蜘蛛の合図で、飛び掛ってくる気だろう。
……つまり、朱雀で焼き払ったのには、全く意味がなかったのである。
ハルアキは歯軋りした。
――不本意ではあるが、こうなれば、致し方ない。
ハルアキは桜子に小声で囁く。
「――逃げるぞ」
「どうやって?」
桜子の疑問は至極当然だ。襖が開けられない以上、この座敷からは出られない。
――と、突然、襖が勝手に動いた。
部屋中の襖が同時に、バタンと音を立てて敷居を滑る。
だが、出口が現れた訳ではなかった。
そこにあったのは、絵葉書の写真にあった、あの襖絵。
珊瑚にゆるりと腰を掛けた乙姫が、白い肌を露わに艶かしい目を向ける。
そして他の襖にも、子供の姿で見るのは憚られる姿の美女たちが描かれていた。
男女が情を交わすための部屋。
それに相応しい絵柄である。
……だがその艶美な図柄は、無惨に血飛沫で汚されていた。べっとりと生々しく濡れた赤黒い跡が、四面の襖全てを染めている。
ある場所は助けを求めるように手形を引き摺り、ある場所は叩き付けられたような激しい傷を穿ち……。
「…………」
それは、ハルアキの心臓を締め付けた。
これだけの出血がひとりの人間のものだとするならば、命は助からないだろう。
――鯉若という花魁の身に起きた、末路の痕跡なのかもしれない。
ふと部屋に目を戻すと、二匹の大蜘蛛がこちらを見ていた。
……いや、今の顔は、可愛らしい禿である。巨大な女郎蜘蛛の頭の部分だけ、少女のものになっているのだ。
彼女らは口を動かした。
「姐さまを解き放ってくんなまし」
「この蜘蛛の巣の呪いから」
その言葉は弱々しく、泣くように震えていた。
――ハルアキは察した。
この禿たちが彼の前へ姿を現した理由。それは、鯉若に起きた悲劇を伝えるため。
絵に描かれた存在である彼女たちには、助け請う事しかできなかったのだろう。
だがすぐに禿の顔は醜く崩れた。目、鼻、口、耳。穴という穴から黒い脚がざわざわと現れ、紙で作った面を破るように、白い肌を引き裂いていく。
禿の顔から生まれ出た小蜘蛛の群れは、大蜘蛛の脚を伝い畳へ下りると、一目散にハルアキの方へ奔ってきた。
ハルアキは式札を構える。
そして低い声で桜子に言った。
「そなたに頼みがある」
「な、何よ一体?」
「念じよ」
「……何を?」
「この座敷で命を落とした花魁を知る者のところへ行くようにと」
「どういう意味?」
――式神・天空。
晴明の扱う十二天将のうち、姿を持たない特殊な式神である。
その能力は、瞬間移動。
術者の存在を、別の場所へと瞬時に移動させる。
白虎の張った五芒星の結界はまだ生きている。これだけの蜘蛛――呪いの存在がある以上、結界は保っておいた方が良い。
それを壊さず結界外へ出るには、瞬間移動しかないのだ。
……だが、ハルアキはあまりこれを使いたくなかった。精度に難があるためだ。どこへ飛ばされるか分からない。
本来は、術者の望む目的地へと運ぶ能力を持つはずなのだが、どうもうまくいかず、痛い目を見た事が何度もある。
これは彼が安倍晴明であった頃からの事で、霊力がどうこうとは関係ない。単に、相性が悪いのだろう。
特に今宵の彼は、勘が殊更冴えない。
ならば、悪運が強い桜子にその行先を託した方がマシだ。そう彼は考えたのだ。
ハルアキは鋭く命じる。
「余計な事はどうでもいい。とにかく念じよ!」
「わ、分かったわ……」
ハルアキの言葉に気圧されて、桜子はもごもごと念じ始めた。……言葉にする必要はないのだが、まあ良い。
ハルアキは桜子のワンピースをギュッと掴み、迫り来る蜘蛛の群れを睨んだ。
そして、式札に命じる。
「――天空よ、飛ばせ!」
式札が黄金の焔を発した。それは二人の姿をすっぽりと覆う。
蜘蛛たちが動きを止めた。その前で、ハルアキと桜子の体は霧と化す。
――その霧が、風に靡くように霧散すると、後には血塗られた襖だけが残されていた。
襖に押し付けられた桜子が不満げに声を出した。
早まる呼吸を抑えるように、ハルアキは低い声で命じる。
「絶対に振り向いてはならぬ」
その声色にただならぬものを感じたのだろう、桜子は口を閉ざした。
ふたつの繭は、畳の上でゆらゆらとしばらく揺れた後、ピタリと動きを止めた。
そして、ミシミシと何かを破る音――。
繭の裂け目から現れたのは、黒く細長い脚。
産毛が生えたその脚は、鋭い爪を器用に使い、繭の裂け目を拡げていく。
そこから、ぬるりと現れた頭は既に、人間のものではなかった。
八つの目を怒りに光らせ、牙をガチガチと鳴らしながら、八本の脚で畳に立つ。
縞模様の腹がおぞましいその姿は、巨大な女郎蜘蛛である。
それだけではない。ゾワゾワと迫る嫌な気配に天井を仰げば、和紙の張られた照明部分にびっしりと、黒い影が蠢いていた。
「ヒッ……!」
さすがのハルアキでさえ、鳥肌を禁じ得ない。
その上、天井の隙間から、小蜘蛛がポトン、ポトンと落ちてきて、ゆっくりとこちらに迫ってくるのだ。二匹の大蜘蛛の合図で、飛び掛ってくる気だろう。
……つまり、朱雀で焼き払ったのには、全く意味がなかったのである。
ハルアキは歯軋りした。
――不本意ではあるが、こうなれば、致し方ない。
ハルアキは桜子に小声で囁く。
「――逃げるぞ」
「どうやって?」
桜子の疑問は至極当然だ。襖が開けられない以上、この座敷からは出られない。
――と、突然、襖が勝手に動いた。
部屋中の襖が同時に、バタンと音を立てて敷居を滑る。
だが、出口が現れた訳ではなかった。
そこにあったのは、絵葉書の写真にあった、あの襖絵。
珊瑚にゆるりと腰を掛けた乙姫が、白い肌を露わに艶かしい目を向ける。
そして他の襖にも、子供の姿で見るのは憚られる姿の美女たちが描かれていた。
男女が情を交わすための部屋。
それに相応しい絵柄である。
……だがその艶美な図柄は、無惨に血飛沫で汚されていた。べっとりと生々しく濡れた赤黒い跡が、四面の襖全てを染めている。
ある場所は助けを求めるように手形を引き摺り、ある場所は叩き付けられたような激しい傷を穿ち……。
「…………」
それは、ハルアキの心臓を締め付けた。
これだけの出血がひとりの人間のものだとするならば、命は助からないだろう。
――鯉若という花魁の身に起きた、末路の痕跡なのかもしれない。
ふと部屋に目を戻すと、二匹の大蜘蛛がこちらを見ていた。
……いや、今の顔は、可愛らしい禿である。巨大な女郎蜘蛛の頭の部分だけ、少女のものになっているのだ。
彼女らは口を動かした。
「姐さまを解き放ってくんなまし」
「この蜘蛛の巣の呪いから」
その言葉は弱々しく、泣くように震えていた。
――ハルアキは察した。
この禿たちが彼の前へ姿を現した理由。それは、鯉若に起きた悲劇を伝えるため。
絵に描かれた存在である彼女たちには、助け請う事しかできなかったのだろう。
だがすぐに禿の顔は醜く崩れた。目、鼻、口、耳。穴という穴から黒い脚がざわざわと現れ、紙で作った面を破るように、白い肌を引き裂いていく。
禿の顔から生まれ出た小蜘蛛の群れは、大蜘蛛の脚を伝い畳へ下りると、一目散にハルアキの方へ奔ってきた。
ハルアキは式札を構える。
そして低い声で桜子に言った。
「そなたに頼みがある」
「な、何よ一体?」
「念じよ」
「……何を?」
「この座敷で命を落とした花魁を知る者のところへ行くようにと」
「どういう意味?」
――式神・天空。
晴明の扱う十二天将のうち、姿を持たない特殊な式神である。
その能力は、瞬間移動。
術者の存在を、別の場所へと瞬時に移動させる。
白虎の張った五芒星の結界はまだ生きている。これだけの蜘蛛――呪いの存在がある以上、結界は保っておいた方が良い。
それを壊さず結界外へ出るには、瞬間移動しかないのだ。
……だが、ハルアキはあまりこれを使いたくなかった。精度に難があるためだ。どこへ飛ばされるか分からない。
本来は、術者の望む目的地へと運ぶ能力を持つはずなのだが、どうもうまくいかず、痛い目を見た事が何度もある。
これは彼が安倍晴明であった頃からの事で、霊力がどうこうとは関係ない。単に、相性が悪いのだろう。
特に今宵の彼は、勘が殊更冴えない。
ならば、悪運が強い桜子にその行先を託した方がマシだ。そう彼は考えたのだ。
ハルアキは鋭く命じる。
「余計な事はどうでもいい。とにかく念じよ!」
「わ、分かったわ……」
ハルアキの言葉に気圧されて、桜子はもごもごと念じ始めた。……言葉にする必要はないのだが、まあ良い。
ハルアキは桜子のワンピースをギュッと掴み、迫り来る蜘蛛の群れを睨んだ。
そして、式札に命じる。
「――天空よ、飛ばせ!」
式札が黄金の焔を発した。それは二人の姿をすっぽりと覆う。
蜘蛛たちが動きを止めた。その前で、ハルアキと桜子の体は霧と化す。
――その霧が、風に靡くように霧散すると、後には血塗られた襖だけが残されていた。
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