久遠の呪祓師―― 怪異探偵犬神零の大正帝都アヤカシ奇譚

山岸マロニィ

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第参話──九十九ノ段

【廿壱】檻

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「……悪魔だったよ、あの男は」
 鯉若が弱々しく呟いた。
「あいつは、伊佐さんの画才に嫉妬してたんだよ。築き上げた権勢を守るために、自分より才がある人の存在を許せなかったんだ。だからあいつは、伊佐さんをわちきに紹介した」

「初めから、二人の仲を引き裂く事が目的だったんですね。恋破れた伊佐吉さんが筆を折るように――いや、あなたと心中をする事を狙って」
 鯉若はコクリと項垂れた。
「あいつは、わちきの事なんてどうでも良かったのさ。身請け話が破談になれば、懐も痛まないんだからね」
「そして、心中の約束をしたあなたがたは、竜睡楼の珊瑚の間を、その場所に選んだ。目黒心中になぞらえて、ですか?」
 だが鯉若は小さく首を横に振った。
「廓の外は、あそこしか知らなかったのさ。あいつに連れられて何度か行った、あそこしか」
「…………」

 零は哀れんだ目を彼女に向けた。
「しかし、約束は果たされなかった」
「それはうらんでやしないさ。……むしろ、あの場に居着く事で、伊佐さん――あの子の役に立てると思えば、幸せだった」

 彼女が伊佐吉に依頼した襖絵。それが彼女に、伊佐吉の正体を教えたのだろう。
 だから彼女は、伊佐吉が約束の場所に現れなかった事に安堵しながら、ひとり待ったのだ――死を。

「ですが、あなたには生きるという選択肢もあったはずです。竜睡楼へ彼が来なかった時点で妓楼へ戻れば、心中も足抜けも、なかった事にできたでしょう。伊佐吉さんも、殺人という罪を犯さずに済んだ。それなのに……」
「あんたは何も分かっていないようだね」
 鯉若は光のない目を零に向ける。
「一度遊女へ身を落とせば、廓の内も外も変わりゃしないのさ。身請けされたところで、その先にあるのもまた地獄。それならいっそ、本物の地獄に落ちた方がマシじゃないか」

 絶望に満ちた目の色は、零の心を締め付けた。
 苦しい息を細く吐き出し、零は話題を変えた。

「篠山栴檀が入れ替わった事を、どうやって知ったのですか?」
「描きに来たんだよ、彼が、襖絵を。……顔を隠したって分かるさ。子供の頃から見てる、あの絵を見れば」

 ――伊佐吉が篠山栴檀として現れた。
 その事で、彼女は彼の犯した罪を悟った。
 しかしそれ以上、彼に手を汚させたくない。
 彼女はそう切望し……。

 零は目を閉じる。
「ですが、彼が連れて来た画家の卵を手に掛けた行為は、あなたが悪魔と憎んだ篠山栴檀と、同じではありませんか」

 鯉若は顔を伏せた。
 弱々しい叫びが、細く漏れる。

「愛されてみたかった……一度でいいから」

 ――画家の卵殺し。それは、鯉若が弟に捧げた愛情、そのものであった。
 その形が、醜く歪んでいようとも。
 何度も何度も罪を重ね、その度に彼女は、愛する者の心が再び彼女へ向けられる事を、願っていたのだ。

 それと同時に、若い男を彼女の領域に迎える度に、彼女は試し続けた。
 自分を愛してくれる存在であるかどうかを。
 死を以てその愛を完結させてくれる者を求めて。

 愛情への渇望。それが、彼女の『呪い』だった。

 啜り泣きが響く。力なく折れた八本の脚が、そんな彼女を包み込む。
 余りに悲痛な真相を前に、ハルアキも言葉を失っていた。
 その肩にそっと手を置き、零は言った。
「――後は、私に任せて頂けませんか?」

 しかし、ハルアキはきっぱりと答えた。
「断る」
「…………」
「そなたに任せると、ロクな事にならぬ。それに……」
 ハルアキはキッと零を睨む。

「そなたもまた、死を望んではおらぬであろうな」

 それには、零は返答ができなかった。
 ただじっと、ハルアキに視線を返す。

 ……その時だった。
 ミシッと異音が響くのと同時に、床が傾いた。
 巨大化した甲虫の重量に耐えかねて、妓楼の建物が崩れだしたのだ。

「うわっ!」
 轟音を轟かせる屋根に押し潰される寸前、甲虫が飛び立った。その装甲で屋根を弾き飛ばして通りへ出ると、混乱して暴走を始めたのである。

「おい! 止まれ! 止まるのじゃ!」
 ハルアキが角を引っ張るが効果がない。
「おいナナシ! 何とかせい!」
「そんな事言われても知りませんって!」
 振り落とされないよう、しがみ付くだけで必死だ。
 甲虫は、吉原の街並みに体当たりをして、次々と建物を破壊していく。降り注ぐ瓦礫に襲われて、零はハルアキを庇う。
「死ぬ! 死ぬうう!」
「桜子さんの術を解いてください!」
「式札は残っておらぬ……」
「詰めが甘いんですよ、あなたは!」

 目に見える範囲の建物を破壊したのち、甲虫は大門に向けて突進を始めた。
 そこで零はハッとした。そして声を上げる。
「桜子さん! そのまま突っ込みましょう!」
「何を考えておる! あの門は、鋼鉄でできておるのじゃぞ」
「桜子さんならいけます」
「無茶苦茶じゃな……!」

 その言葉が終わらぬうちに、強い衝撃が奔った。
 ドガッ!
 巨大な角が跳ね上がり、その勢いで甲虫の巨体が宙を舞う。
 鋼鉄のアーチ門が跳ね飛ばされ、二人も宙に投げ出された。
 そして大門の正面に延びる階段に落ち、そのまま転がる。

「……クッ……!」
 痛みに息が詰まる。何とか起き上がり、這うように身を起こす。
 少し下方で、ハルアキが倒れている。近付いてみれば、気を失っているようだ。
 ……その向こうに桜子。術者の意識が途切れたため、式神の効果が消え、元の姿に戻っている。
 そっと顔を覗き込む。
「…………」
 静かに寝息を立てているところを見ると、無事なようだ。零は安堵の溜息を吐いた。

「……さて」
 零は立ち上がり、階段の上方を眺めた。
 吉原の街並みのあったその場所は、無残な残骸を晒していた。
 ――ところが見る間に、それらは空間に溶けていく。
 砂が風に舞うように全てが消えた跡には、他の場所と同様、碧い空間でうねる階段だけがあった。

 ――やはり。
 あの吉原大門、つまり、九十九段の屏風絵こそが、鯉若をあの場所に封じておく『檻』であったのだ。
 廓しか知らぬ遊女。その楔が、解き放たれた。

 そして、階段の最上部に、彼女は立っていた。
 蜘蛛の脚は消え、往時の美しい姿のまま。
 零は声を掛けた。
「あなたはもう自由です。……往くべきところへ行かれてはどうですか?」

 だが、鯉若は小首を傾げただけだった。
「自由? 何だい、そりゃ」

 零のはらわたが凍える。
 ――気付かなかった。

 幼い頃から、姉として、遊女として、当たり前に自由を奪われてきた彼女は、『自由』というものを知らないのだ。

 返す言葉を失う零に、鯉若は笑った。
「いいかい? 池の鯉はね、水の外じゃ生きていけないのさ。――同情するんなら、せめて、一緒に死んでくれないかい?」

 蜘蛛の脚が生える。その爪が階段を這い、零の元へと降りてくる。
 ……その大きさに気付いて、彼の背筋は凍り付いた。

 遠目に見ていたため、人の大きさに惑わされていた。
 しかし近付くにつれ、それが怪物じみた大きさである事を彼は理解した。
 ――吉原大門という『檻』を壊した事で、大きさの概念が失われたのだろう。
 この空間と同じように、欲望のまま、その姿は膨張する。

 高く見上げる位置から、八つの黒い目をぬめぬめと光らせた白い顔が見下ろす。
 前方の脚が振り下ろされる。一撃で階段は粉砕され、咄嗟に零は、桜子とハルアキを抱えて飛び降りた。
 そしてすぐ下を流れる階段に着地するが、黒い脚は軽々とそこに伸びてくる。
 それを睨みながら、零は考えた。二人を抱えたままでは対処できない。どうすれば……。

 零は周囲を見渡した。そしてあるものに目を止めた。

 ――錦鯉。

 碧の空間を悠々と泳ぐそれは、パクパクと大きく口を開きながら、ゆっくりとこちらに向かって来た。
 ……そうだ!

 鯉が階段の下を通り過ぎる瞬間、零は桜子、次いでハルアキを投げ落とした。
 二人の姿は、餌を飲み込むように、口の中に吸い込まれた。

 それから零は、手にした根付に、
「二人を頼みましたよ」
 と告げ、再びその口に投げ込む。

 全てが鯉の体内に消えた後、零は懐から取り出した呪符の束を構えた。
 それを鯉に向けて投げる。すると、呪符は蝶のようにハラハラと舞い、鯉の鱗に張り付いていく。その途端、複雑に描かれた文様が渦を巻くように蠢き、ある形を象った。

 ――太陰太極図たいいんたいきょくず

 太乙の印。
 それに囲まれた空間の内部は、こちらからは干渉できない異空間となる。
 仮設の結界ではあるが、二人の身を守るには足りるだろう。

 ――この異空間には、鯉若以外の存在は、零のみである必要があるのだ。

 蜘蛛の脚がやって来る。
 棘のような産毛の生えたその隙間から、零は八つの目を見上げた。

「そうですね。死にましょうか、一緒に」
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