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第参話──九十九ノ段
【廿伍】罰
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篠山栴檀は戸惑った様子だった。しかし零の手の短刀を認めると、弾かれたように腰を浮かせた。
その彼の前で、零は粛然と立ち上がる。
「まだ私で良かったと思ってください。……あなたのお姉さんの最期を見届けましたが、そりゃあ無惨なものでしたよ。あなたの罪は、彼女以上に重い。太乙様なら、体を八つ裂きにしていたでしょう。しかし彼女は、人間に直接手を下す事はできないので、代わりに私が来ました」
淡々としたその言葉に慄いた栴檀は、長火鉢を蹴り倒して、背後の襖まで退いた。
零が一歩前に出る。
「私は血を見るのは嫌いですのでね。八つ裂きになどはしません。ですがせめて、心から悔やんで欲しいとは思います。生きている事を後悔するくらいの懺悔を、見せて欲しいですね」
襖に背を預けた栴檀が震え声を上げる。
「な、何者だ、貴様は……!」
零は小首を傾げ、光のない目を栴檀に落とした。
「さぁ、分かりません。せめて人間であって欲しいとは思います」
「…………」
「怖いですか? 怖いですよね。なら、謝りましょうよ。あなたのお姉さんは、謝っていましたよ、ごめんなさいと」
再び零が前に出る。寄り掛かった重みで襖が倒れ、栴檀は隣室に転がり込んだ。
そこは、作業部屋のようだった。栴檀が絵に専念するための部屋だろう。作業机や画材の棚が配置されている。
だが目を引くのは、部屋の中央に置かれた屏風絵。
――そこに描かれているのは、七色の布で逆さまに吊るされた女。
乱れた着物から太腿や乳房が露わとなり、滴る鮮血がそれらを彩る。
絶望に包まれたその眼が縋るように見る先は、天井から糸を垂れる、女郎蜘蛛。
無念を託すような彼女の美しい瞳の色は、灰色――鯉若のものだ。
だがその画風は、現在の篠山栴檀のものではない。古典的な日本画の筆致――九十九段の天井にある、錦鯉の絵に似ている。
「……君の推理にはひとつ、間違いがある」
ヨロヨロと栴檀が立ち上がり、屏風に手を添えた。
「私が師匠を殺した理由だ。……私はこの屏風を、どうしても手に入れたかったのだよ」
狂気じみた声が、甲高く室内に響く。
「どうだ? 美しいだろ? あの女は最後、命果てる寸前に、瑪瑙の間にこうして吊るされたのだ。事情を聞いたあの鬼畜は、画材を手に、あの部屋へ向かった。そして、描いたのだよ。……私が、私が描きたかった!」
震える手をかざし、栴檀は叫ぶ。
「これを愛と呼ばずに何と呼ぶだろう! 私はこの女に惚れた。そして、いつか私の絵で、この女を描いてやろうと思った。そのために、この屏風がどうしても欲しかった。ところがだ。あの鬼畜は俺に、十万円なら譲ってやろうと宣った。おまえのような綺麗な顔なら、陰間でもやればすぐだろうとな!」
零は無表情にそれを眺める。栴檀はキキキ……と笑い声を漏らしながら続けた。
「だから殺した。そして、顔を捨てたのだ、画家として生きて行くために。――だが、何度描いても、納得のいく絵が描けない。こうも冷酷に、この女の断末魔だけは描けないのだよ」
屏風に寄り掛かるように、栴檀は膝を折った。
冷淡に見下ろす零の口が動いた。
「それは、あなたの中に、生き生きと微笑む彼女の姿がずっと、あったからでしょう」
――玄関、そして妓楼の襖絵のような、清々しい思い出が。
魂が抜けたように項垂れる栴檀を前に、零は短刀を抜き放つ。
月を切り抜いたような一閃は、栴檀の体を、そして屏風の鯉若を両断して、再び鞘に収まった。
畳に血が広がる。
屏風を濡らす血飛沫は、まるで彼女自身のものように流れ落ち、やがてゆっくりと弟の上に倒れた。
その下に横たわる、仮面が外れ顕となった栴檀の顔に、深い懺悔の色が浮かんでいるように見えるのは、零がそう思いたいだけだろうか。
居間からパチパチと火が爆ぜる音がした。倒れた火鉢の火が座布団に引火したようだ。
零はそのままそれに背を向け、屋敷を後にした。
◇
「――おはようございます!」
桜子の元気な声が事務所に響く。
対してハルアキは、ゲッソリと青白い顔をしていた。
翌日の犬神怪異探偵社。
いつものように紅茶を飲みながら新聞を眺めていた零は、ハルアキの様子に目を細めた。
「どうかしたんですか?」
ハルアキはのそのそと応接椅子に座り込むと、背を丸めて膝を抱えた。
「ものすごく接待をされた」
「…………」
「シゲ乃と申す大家、それに住人の女共に、浅草じゅうを連れ回された。十二階に浅草オペラ、浅草寺に不忍池……」
ハハハと零はカップを置き、椅子に身を預け腕組みをした。
前の晩が遅かったため、昨日は休みとしたのだ。桜子が下宿に連れ帰った時はどうする気かと思ったが、休日を満喫してきたようだ。
「それは良かったではありませんか」
「良くなどない! 女物の着物を着せられたのじゃぞ!」
「濡れた服を洗濯しなきゃならなかったもの。着替えに、大家さんのお孫さんのお古を借りられただけ、感謝なさいよ」
桜子の言葉に、ハルアキは頭を抱える。
「その上、そなたの寝言が酷くて眠れなんだわ……余は疲れたぞ……」
長椅子にゴロンと寝そべるハルアキに、桜子が呆れた目を向けた。
「その割には、随分と楽しんでたじゃない。人形焼きとか雷おこしとか、いっぱいご馳走になって」
「断ってはならぬと無理をしたのじゃ! ……うう、気持ち悪い……」
そんなハルアキを横目に、桜子は零の机へとやって来て、ポンと菓子箱を置いた。
「大家さんからお土産よ。……何かね、知り合いの娘さんが絵の勉強をしてるらしくて、適当なモデルがいないか、探してるそうなの」
と言って、桜子は零に顔を寄せた。
「――ヌードモデルを」
「いや、それは……」
「勿論、断っておいたわよ。こんな貧相な人より、もう少しマシな人、探せばいくらでもいるわよって」
「…………」
それから桜子は、机に広げられた新聞記事に目を止めた。
「そういえば、篠山栴檀って人、亡くなったそうね、火事で」
「そのようですね……」
零は桜子の目から隠すように、新聞を畳んで引き出しに入れた。
その様子に細めた目を向け、桜子は声を低める。
「小間使いの男の子の話じゃ、その直前に、来客があったそうね。背の高い男。警察は、そいつが事情を知ってるんじゃないかって、探してるみたいよ」
「そうですか」
「一応、遠回しに関係者なんだし、あなたも調べたら?」
「私は探偵ですからね。お金にならない仕事はしませんよ」
そう言いながら、零は菓子箱から人形焼きを取り出し、パクリと頬張った。
「……それと、今回の依頼人のお榮さんには、何て報告するの?」
「竜睡楼の瑪瑙の間から発見された骸骨の中に、失踪した鱒三さんのものがあるか、警察が調べています。その結果が出たら、警察から、彼女に連絡が行くでしょう」
「それじゃあ、依頼料が貰えないじゃないの? 言ってる事が矛盾してるわよ」
……さすがに桜子は鋭い。零は溜息混じりに頭を掻いた。
警察は、瑪瑙の間の骸骨について、篠山栴檀が何らかの方法で殺害し、その場へ遺棄していた、としたようだ。――桜子にも、そう伝えるつもりである。
その篠山栴檀の死によって、真相は闇に葬られた。
これ以上、捜査が進展する事はないだろう――篠山邸から立ち去った、謎の男の正体を含め。
桜子も人形焼きに手を伸ばす。
「それにしても、変な夢を見た気がするのよね。……なぜか、巨大な甲虫になってね、街を壊して回るのよ」
零はハルアキに目を向けた。桜子、そしてシゲ乃にも、彼によって忘却の術を掛けられているのだが、今の彼が使う術は、あまり頼りにならないようだ。
「凄く馬鹿馬鹿しいんだけどね、なかなか爽快だったわ」
「活動写真なんかにしたら、面白いかもしれませんよ」
零がそう返すと、桜子がパチンと手を打った。
「そうだわ、今度活動写真を観に行かない? 浅草電気館に」
零は目を丸くした。……まさか、桜子にそんな誘いを受けるとは思わなかった。
こんな風にごく普通に、『人間』として生きていて、果たして許されるのだろうか?
だがすぐに桜子は、そんな零の視線からプイと目を逸らした。
「ガキンチョがどうしても行きたいって駄々をこねてたんだけど、昨日一日じゃ時間がなくて。保護者として付き合ってよね」
ハルアキは先程から反応しない。眠ってしまったようだ。
桜子がハルアキに上着を掛ける。
普段は見せない優しい横顔を見て、零は思った。
――この穏やかな日常も、きっと、運命なのだ。
零は微笑んだ。
「そうですね、行きましょう」
──第参話 完──
その彼の前で、零は粛然と立ち上がる。
「まだ私で良かったと思ってください。……あなたのお姉さんの最期を見届けましたが、そりゃあ無惨なものでしたよ。あなたの罪は、彼女以上に重い。太乙様なら、体を八つ裂きにしていたでしょう。しかし彼女は、人間に直接手を下す事はできないので、代わりに私が来ました」
淡々としたその言葉に慄いた栴檀は、長火鉢を蹴り倒して、背後の襖まで退いた。
零が一歩前に出る。
「私は血を見るのは嫌いですのでね。八つ裂きになどはしません。ですがせめて、心から悔やんで欲しいとは思います。生きている事を後悔するくらいの懺悔を、見せて欲しいですね」
襖に背を預けた栴檀が震え声を上げる。
「な、何者だ、貴様は……!」
零は小首を傾げ、光のない目を栴檀に落とした。
「さぁ、分かりません。せめて人間であって欲しいとは思います」
「…………」
「怖いですか? 怖いですよね。なら、謝りましょうよ。あなたのお姉さんは、謝っていましたよ、ごめんなさいと」
再び零が前に出る。寄り掛かった重みで襖が倒れ、栴檀は隣室に転がり込んだ。
そこは、作業部屋のようだった。栴檀が絵に専念するための部屋だろう。作業机や画材の棚が配置されている。
だが目を引くのは、部屋の中央に置かれた屏風絵。
――そこに描かれているのは、七色の布で逆さまに吊るされた女。
乱れた着物から太腿や乳房が露わとなり、滴る鮮血がそれらを彩る。
絶望に包まれたその眼が縋るように見る先は、天井から糸を垂れる、女郎蜘蛛。
無念を託すような彼女の美しい瞳の色は、灰色――鯉若のものだ。
だがその画風は、現在の篠山栴檀のものではない。古典的な日本画の筆致――九十九段の天井にある、錦鯉の絵に似ている。
「……君の推理にはひとつ、間違いがある」
ヨロヨロと栴檀が立ち上がり、屏風に手を添えた。
「私が師匠を殺した理由だ。……私はこの屏風を、どうしても手に入れたかったのだよ」
狂気じみた声が、甲高く室内に響く。
「どうだ? 美しいだろ? あの女は最後、命果てる寸前に、瑪瑙の間にこうして吊るされたのだ。事情を聞いたあの鬼畜は、画材を手に、あの部屋へ向かった。そして、描いたのだよ。……私が、私が描きたかった!」
震える手をかざし、栴檀は叫ぶ。
「これを愛と呼ばずに何と呼ぶだろう! 私はこの女に惚れた。そして、いつか私の絵で、この女を描いてやろうと思った。そのために、この屏風がどうしても欲しかった。ところがだ。あの鬼畜は俺に、十万円なら譲ってやろうと宣った。おまえのような綺麗な顔なら、陰間でもやればすぐだろうとな!」
零は無表情にそれを眺める。栴檀はキキキ……と笑い声を漏らしながら続けた。
「だから殺した。そして、顔を捨てたのだ、画家として生きて行くために。――だが、何度描いても、納得のいく絵が描けない。こうも冷酷に、この女の断末魔だけは描けないのだよ」
屏風に寄り掛かるように、栴檀は膝を折った。
冷淡に見下ろす零の口が動いた。
「それは、あなたの中に、生き生きと微笑む彼女の姿がずっと、あったからでしょう」
――玄関、そして妓楼の襖絵のような、清々しい思い出が。
魂が抜けたように項垂れる栴檀を前に、零は短刀を抜き放つ。
月を切り抜いたような一閃は、栴檀の体を、そして屏風の鯉若を両断して、再び鞘に収まった。
畳に血が広がる。
屏風を濡らす血飛沫は、まるで彼女自身のものように流れ落ち、やがてゆっくりと弟の上に倒れた。
その下に横たわる、仮面が外れ顕となった栴檀の顔に、深い懺悔の色が浮かんでいるように見えるのは、零がそう思いたいだけだろうか。
居間からパチパチと火が爆ぜる音がした。倒れた火鉢の火が座布団に引火したようだ。
零はそのままそれに背を向け、屋敷を後にした。
◇
「――おはようございます!」
桜子の元気な声が事務所に響く。
対してハルアキは、ゲッソリと青白い顔をしていた。
翌日の犬神怪異探偵社。
いつものように紅茶を飲みながら新聞を眺めていた零は、ハルアキの様子に目を細めた。
「どうかしたんですか?」
ハルアキはのそのそと応接椅子に座り込むと、背を丸めて膝を抱えた。
「ものすごく接待をされた」
「…………」
「シゲ乃と申す大家、それに住人の女共に、浅草じゅうを連れ回された。十二階に浅草オペラ、浅草寺に不忍池……」
ハハハと零はカップを置き、椅子に身を預け腕組みをした。
前の晩が遅かったため、昨日は休みとしたのだ。桜子が下宿に連れ帰った時はどうする気かと思ったが、休日を満喫してきたようだ。
「それは良かったではありませんか」
「良くなどない! 女物の着物を着せられたのじゃぞ!」
「濡れた服を洗濯しなきゃならなかったもの。着替えに、大家さんのお孫さんのお古を借りられただけ、感謝なさいよ」
桜子の言葉に、ハルアキは頭を抱える。
「その上、そなたの寝言が酷くて眠れなんだわ……余は疲れたぞ……」
長椅子にゴロンと寝そべるハルアキに、桜子が呆れた目を向けた。
「その割には、随分と楽しんでたじゃない。人形焼きとか雷おこしとか、いっぱいご馳走になって」
「断ってはならぬと無理をしたのじゃ! ……うう、気持ち悪い……」
そんなハルアキを横目に、桜子は零の机へとやって来て、ポンと菓子箱を置いた。
「大家さんからお土産よ。……何かね、知り合いの娘さんが絵の勉強をしてるらしくて、適当なモデルがいないか、探してるそうなの」
と言って、桜子は零に顔を寄せた。
「――ヌードモデルを」
「いや、それは……」
「勿論、断っておいたわよ。こんな貧相な人より、もう少しマシな人、探せばいくらでもいるわよって」
「…………」
それから桜子は、机に広げられた新聞記事に目を止めた。
「そういえば、篠山栴檀って人、亡くなったそうね、火事で」
「そのようですね……」
零は桜子の目から隠すように、新聞を畳んで引き出しに入れた。
その様子に細めた目を向け、桜子は声を低める。
「小間使いの男の子の話じゃ、その直前に、来客があったそうね。背の高い男。警察は、そいつが事情を知ってるんじゃないかって、探してるみたいよ」
「そうですか」
「一応、遠回しに関係者なんだし、あなたも調べたら?」
「私は探偵ですからね。お金にならない仕事はしませんよ」
そう言いながら、零は菓子箱から人形焼きを取り出し、パクリと頬張った。
「……それと、今回の依頼人のお榮さんには、何て報告するの?」
「竜睡楼の瑪瑙の間から発見された骸骨の中に、失踪した鱒三さんのものがあるか、警察が調べています。その結果が出たら、警察から、彼女に連絡が行くでしょう」
「それじゃあ、依頼料が貰えないじゃないの? 言ってる事が矛盾してるわよ」
……さすがに桜子は鋭い。零は溜息混じりに頭を掻いた。
警察は、瑪瑙の間の骸骨について、篠山栴檀が何らかの方法で殺害し、その場へ遺棄していた、としたようだ。――桜子にも、そう伝えるつもりである。
その篠山栴檀の死によって、真相は闇に葬られた。
これ以上、捜査が進展する事はないだろう――篠山邸から立ち去った、謎の男の正体を含め。
桜子も人形焼きに手を伸ばす。
「それにしても、変な夢を見た気がするのよね。……なぜか、巨大な甲虫になってね、街を壊して回るのよ」
零はハルアキに目を向けた。桜子、そしてシゲ乃にも、彼によって忘却の術を掛けられているのだが、今の彼が使う術は、あまり頼りにならないようだ。
「凄く馬鹿馬鹿しいんだけどね、なかなか爽快だったわ」
「活動写真なんかにしたら、面白いかもしれませんよ」
零がそう返すと、桜子がパチンと手を打った。
「そうだわ、今度活動写真を観に行かない? 浅草電気館に」
零は目を丸くした。……まさか、桜子にそんな誘いを受けるとは思わなかった。
こんな風にごく普通に、『人間』として生きていて、果たして許されるのだろうか?
だがすぐに桜子は、そんな零の視線からプイと目を逸らした。
「ガキンチョがどうしても行きたいって駄々をこねてたんだけど、昨日一日じゃ時間がなくて。保護者として付き合ってよね」
ハルアキは先程から反応しない。眠ってしまったようだ。
桜子がハルアキに上着を掛ける。
普段は見せない優しい横顔を見て、零は思った。
――この穏やかな日常も、きっと、運命なのだ。
零は微笑んだ。
「そうですね、行きましょう」
──第参話 完──
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