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第三章 試されるキズナ

22 敵か味方か(2)

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 この日の夜、ユイと共にベッドに入ったラウルは、珍しく深い眠りに落ちていた。

 ユイの暴走は制御できるものではなく、振り回され続ける身にあっては当然の事だ。そんな中、昼に突然の来訪を果たした従妹の一件が止めを刺した。
 ルアナに告げた言葉は心からのものだ。静かに二人で過ごしたい。ユイへの深い愛あればこそずっと側に居続けているラウルである。

 こんなラウルに、あまりにも惨い仕打ちが待っていた。

 深夜の寝室。カーテンの隙間から月明かりが漏れて、ユイの顔に差し込む。
 不意に目を覚ましたユイはむくりと起き上がり、横に眠る男に目を向ける。
 青白い月明かりが、静かに寝息を立てて眠る均整の取れたラウルの顔を、ぼんやりと照らす。

 その顔が、昼に見た敵意剥き出しの女の顔と重なる。
 ユイは無表情でベッドから抜け出し、裸足のままある場所に一直線に向かった。

 ユイがベッドから出ても、ラウルは気づけなかった。
 その眠りから目覚めさせたのは、限りなく小さな一つの音だ。マフィアの世界に身を置く者にとっては、聞き慣れた音でもある。

 カチリ。

 回転式拳銃のハンマーのコッキング音である。反応した理由はもちろん、命の危機を感じたからに他ならない。
 常に狙われる立場にあるラウルは、いつでも緊張感を保っている。
 だがここまで深い眠りから目覚める事ができたのは、超能力者であるからこそだろう。

「…!」
 瞬時に目を開いたラウルは、自分の額にピタリと付けられている銃口に気づく。

 ベッドに身を乗り上げ、自分に覆い被さる形でコルトを握るユイが目の前にいる。仰向けの体勢で横たわったまま、色を失ったユイの瞳をただ見つめるラウル。
――ユイ…なぜ…――
 疑問が湧き上がるも言葉にする事はない。

 薄暗い部屋でも、何の感情も持たないユイの顔がはっきり見える。ユイにもラウルの顔がしっかりと見えているはずだ。
 つまり今自分は、ユイにとって敵でしかないという事になる。

 そして無情にもトリガーが引かれた。
 再びカチリ、と間の抜けた音だけが響く。弾は発射されなかった。

「残念だったな、弾は抜いてある。おまえは私を殺したいのか?」内心穏やかでないラウルだが、平静を装ってサラリと尋ねる。
 ユイは当然何も答えない。表情筋は元より全身ピクリとも動かさず、人形のようになっているばかりだ。
 そんな固まったままのユイから、コルトをそっと取り上げる。抵抗はなかった。

 二人はそのまま見つめ合う。そこだけ時が止まったように。
――ユイ…おまえは今何を望んでいる?それでも私は…――

 つい今しがた命を狙われたというのに、ラウルの想いは何も変わらない。愛しさが募ったラウルは、ユイの唇にキスをした。
 ユイが事故から目覚めて以来、初めてされた唇へのキスだ。

 すると、ユイの瞳から涙が一筋流れ落ちた。月明かりに反射して、その涙がキラリと光る。
「…ユイ、今、何かを感じたのだな!…それは何の涙だ?教えてくれ…」
――私への愛か?…それとも殺し損ねた悔しさか――

 どんなに尋ねても答えは返って来ない。
 本人にも知り得ない事を、ラウルには知りようもなかった。


 翌朝。いつもの時刻に新堂がやって来た。

「おはようございます。フォルディスさん、増々お疲れのご様子ですね…。昨夜何かありましたか?」
 ここ最近の疲労具合とはまた別の何かを察した新堂。対してユイの様子はいつもと変わりない。
――もしやユイがフォルディスを襲ったのか?――
 こんな予想は満更ハズレとも言えない。

「私の事はいい。ユイの診察を頼む。私は席を外す」
「分かりました」

 寝間着にガウン姿のまま出て行ったラウルから、ベッドに入ったままのユイに視線を戻す。
「いつもは立ち会うのにな。やっぱり何かあったんだろ?なあユイ」
 いつもよりも乱れたシーツを見るに、昨夜ここで何かしらが起きた事は想像がつく。
 とはいえ、ラウルの様子は情事の後とは思えない。男女が眠るベッドで、他に何が起きると言うのか?

「おまえ、夜までフォルディスさんを困らせてるのか?いい加減休ませてやれよ、可哀そうに!」他人事の新堂はこんな冷やかしを入れた。

 一方、ラウルが向かったのは書斎だ。
 ユイの世話を初めて以来、ここへの入室は初となる。そこにはすでにダンがおり、デスクに山積みになった書類の仕分けをしていた。

「ラウル様っ、おはようございます!…そのような格好で珍しいですね…」
 寝間着のまま書斎に入った事など未だかつてない。そんなラウルの姿にダンはすぐに何かあったと察する。

「朝からご苦労。ここへ来るのは久方ぶりに感じる。自分の書斎なのにおかしなものだ」
「お仕事に復帰していただけるのですか!」
 ダンに目を輝かせて尋ねられ、煩わしくなりすぐに目を逸らす。
「…まだ無理だ。だが少しだけ、一人になりたくてな」
 ラウルの答えにガッカリしつつも、しっかりとフォローを入れるダン。
「そういう時間を欲するのは当然です。ラウル様は十分お役目を果たしておられるのですから」

「役目、か…。私の役目とは何なのだろうな」
 珍しく弱気な発言に、ダンは気が気ではない。
「ラウル様はお疲れなのです、ここで少しお休みください!自分は席を外しますので」

「待て」
「はっ!」
 出て行こうとしたところを呼び止められた事が嬉しくて、ダンの声が弾む。
「話を聞いてくれるか」
「もちろんでございます!」

 しばしの沈黙の後、ラウルは力なく話し始めた。
「昨夜、ユイにコルトを向けられた。躊躇いもなくトリガーを引かれたよ」
 肩を落として語るラウルに対し、ダンは急展開で興奮マックスとなる。
「んなっ、何ですと!?なぜユイ様がコルトを?」
「在り処を知っていたようだ。持ち出して寝室に…」

「…もし、弾を抜いていなければ…」
「私は死んでいたな」

 ダンの顔がたちまち蒼白になる。口を大きく開いたまま固まっている。それはまさにムンクの叫びだ。
――やはりか!ユイ・アサギリ、お前の当初の目的はやはりラウル様暗殺…これで証明できたではないか?――

「今のユイは誰の事も認識していない。悪意を持って近づく者は全て敵なのだ。…私も、例外ではないという事だ」
「しかし!ラウル様はユイ様に悪意など抱いていないでしょう?なのになぜ…」
「私には敵が多い。夢にそんな敵が現れて対峙していたのだろう」
「昨日、ルアナ様が突然押しかけて来た事も関係があるのでは?」
「ああ…顔が良く似ているからな」一理ある、とラウルも思う。

 何しろ昨日のルアナとは一触即発の状況だったのだ。
 そんなルアナに怒りを向ける訳にも行かず、言葉に行き詰まったダン。行き着く先はここしかない。

「…。おのれユイ・アサギリ!こんなにも誠心誠意尽くしてくださっているお方に向かって、そのような恩知らずな行為を!許せんぞっ!」
 ダンが怒りの形相でドアノブに手を掛けた時、再びラウルが呼び止めた。
「待て!」
「はっ…」

「何度言えば分かる?短絡的にものを考えるな、ユイの意思ではないのだ。私は…分かっているつもりだ」
 ラウルの語気は次第に弱まり、最後には気落ちした様子で呟いた。
 ダンもうな垂れる。「ラウル様…」
――ラウル様が一番おつらい状況なのに、俺は何という態度を…っ――

「仕事はしないが、しばらくここにいさせてくれ」
「もちろんです!ここはラウル様の書斎なのですから」
 書類が山積みになったデスクではなく、書棚横のソファに深く腰を下ろすと、片手で顔を覆って、ラウルは目を閉じた。

――ああラウル様…お労しや…このダン、どんな事でも力になりたく!…どうして差し上げたら良いのだ!――


 夜の一件を境に、ユイの行動は少しだけ落ち着きを取り戻した。理由は全くもって謎だ。対して落ち込むラウル。

「色男は落ち込んでいてもサマになりますね!」
 事の経緯を知らされた新堂が、ダンと共に遠巻きに二人を観察しているところだ。
「ドクター新堂、それは冒涜だぞ、口を慎め」
「なぜそう取る?俺は褒めてるんだが?」

 疲れた様子でユイを見つめるラウル。ユイは変わらず人形のように椅子に腰かけ外を眺めている。
「また動きが減りましたね」
「ラウル様を悩ませるくらいならば、ああして大人しくしてくれた方がいい」ダンが鼻息を荒くしながら言い捨てる。

 ユイと目が合って、慌てて深呼吸を始めるダン。
「ああ…このままでは息が詰まる!何か策を考えねば…」

「ありますよ」あっさりと新堂が言う。
「何だ!言え!」
 不意に返って来た答えに、ダンが食らいつく。前のめりになって新堂に迫る。
「おっ、落ち着いてください…?」
「ああ…済まん。それで、策とは?」

「フォルディスさんもかなりお疲れのようですし、この辺で少々距離を置いてはと思いまして。お仕事にも支障が出て来ているのでしょう?」
「距離を置く?」
「イタリアにユイの母親がいるのはご存知ですよね」
「ミサコ様の所へ!ああ、いいじゃないか、なぜ今まで考え付かなかった?すぐにラウル様にご提案する!」
 ダンは一方的にまくし立てて、あっという間にいなくなった。

「気がつかなかっただと?一番に思いつくだろうが!バカか?」
 新堂がこう突っ込んだのは言うまでもない。


 そしてラウルに提案しに行った先で、ダンはまたも反省の渦に飲まれる事になる。

「ラウル様、ユイ様を母君に預けられてはどうですか?」
「ダメだ。今のユイは半ば殺し屋。何をするか分からない。その上ミサコの夫は引退したとはいえ、大物イタリアンマフィアだぞ」
「そうは言っても、状況を説明すれば分かってもらえるはず!実の母親なのですし」
「ダメだ。そもそも…ユイはそれを望んではいないだろう」

 ユイがかつて言っていた言葉が甦る。自分に何かあっても母親には言うな。心配性の母親を気遣っての事だった。

 ラウルのつらそうな顔を前に、ダンは何も言えなくなった。
――ラウル様がそうおっしゃるならば、そうなのだ――

 肩を落として去って行くダンを眺めて、ラウルは思う。
――私だって考えた。親元で静養するのが一番だと。…何を言ってもいい訳だ、全ては私がユイを手放したくないだけなのだから…――

 だが、そんな言い訳がいつまでも通用する程、現実は甘くはなかった。
 次なる試練がラウルを襲う。

・・・

「ダンが一人で乗り込んだだと?それは本当か!」
「最近妙に張り切ってると思ったら、まさかこの前の取引の失態を一人で挽回する気か!」
「律義なアイツならやり兼ねん。さすがにボスに知らせるべきでは?」


 この日の夕暮れ時。いつもは静かな屋敷の外が妙に騒がしい。ラウルは眉間にシワを寄せて椅子から立ち上がる。

 テラスから庭に出て、部下達の集まる方へ足を運ぶ。
「何事だ?」
 ボスの姿に気づき、一同が瞬時に姿勢を正した。
「ボ、ボスっ!お疲れ様です!」
「何を騒いでいるのかと聞いている」
「そ、それが、ダンが…」
「そういえば姿が見えないな。ダンは何をしている?」

 部下が口々に語る脈絡のない話を繋ぎ合わせ、瞬時に状況を理解したラウル。

「なぜ今まで黙っていた?そんな報告は誰からも受けていない!」
 ラウルの声が次第に大きくなり、眉間のシワはさらに深くなる。
「も、申し訳ございません!ダンから固く口止めをされていまして…」
「お?お前、知ってたのか?俺は初耳だぞ!」
「俺もだ!」
 知っていたのがごく少数だった事から、部下達の不満が止まらない。

「静まれ!」
 ラウルの鋭い一喝が響き渡ると、辺りは一瞬にして静まり返る。鳥さえも鳴くのをやめたようだ。
 ここは屋外。周囲に壊れ物がなかったため、幸い今回の被害はない。

 事の発端は、元々流れていたラウル・フォルディス死亡説。本人はそれすら知らずにいたのだから、怒り狂うのも当然だ。
 定例の幹部会合の場に、長らく姿を見せていないラウル。少し前に開かれた会合にもナンバー・ツーのダンのみが出席した事から、死亡説に信憑性を与えてしまっていた。

――少し考えれば分かる事…。それさえ私は考えていなかった――
 ラウルが自分の浅はかさをここまで痛烈に感じるのは初めての事だ。

 さらには、手薄だったある分野の事業を別のファミリーに乗っ取られかけている事が分かり、自分の責任と考えたダンが巻き返しを図って単独で動いていた。
――ダンが単身で動けば動くほど、私の死亡説を裏付ける結果となる――
 そして恐怖の対象だったラウル亡き今、このダンさえ消せればフォルディスファミリーは終わり、周囲がそう考えても不思議はない。

――フォルディス家存続の危機を回避するためにユイを招いたというのに、今の私の行為は逆にフォルディス家を追い詰めている…――

 ユイだけに心血を注ぎ過ごして来た日々を、ラウルは思い返す。
 こんな生活がいつまで続けられるのかなど、考えた事もなかった。いつまででも、自分が望む限り続けられると信じて疑わなかったからだ。

 だが、そうではないのだ。

 ラウルの顔つきが変わった。
「ダンの居場所を特定しろ。今すぐに援護に向かう」
「イエッサー、ボス!」
 部下達は数か月ぶりのボスの命令を受けて、たちまちいきり立った。

「新堂。少し留守にする。その間だけユイを頼めるか」
「もちろんです。お気をつけて」
 マフィアの仕事に深入りしたくない新堂は、何も聞かずにラウルを送り出した。

「こんな騒がしい家にいたら、静養なんてできやしない。なあユイ?」
 新堂は慌ただしく出て行った車列を目で追いながら、横にいるユイに言う。
 ユイは無言で、消えゆくテールランプをぼんやりと見つめている。

 その瞳に輝きが戻るのはいつなのか。

「もしこのまま戻らないのなら…朝霧ユイ、俺と生きないか?…なんてな、どうせ聞いてないよなぁ」
 ポツリと呟いた新堂の言葉は、受け止める相手もなく夕闇の中に消えた。

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