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第四章 受け入れられたオモイ

33 好奇の的(1)

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 緊張の一日が始まろうとしていた。

「では行こうか」
「…ねえ、本当に変じゃない?私大丈夫?」
「全く問題ない。私の言葉が信用できないか?」
「そうじゃないけど…」
 ラウルの見立ては大正解。本日のユイは華やかで品があり申し分がない。だというのに、本人は不安で堪らない様子だ。

 見送りに出ていたユイ付のメイドがそっと近づく。
「ユイ様は完璧です!自信を持ってください、せっかくの気品が台無しですよ?足りないのは、ユイ様の堂々とした態度だけです」
「気品が、台無し…か」

 自分にないものを衣裳が補う。それを自分のものにできるかは、着る者の振る舞いに懸かっている。
 演じろ!それを暗に伝えたメイドは何と賢い事か。

「よぉし、やってやろうじゃない!行って来ます!」
「行ってらっしゃいませ」

 こうしてユイはやる気を取り戻した。本日の衣装、日本円にして80万。その他諸々合わせて150万円超。最後までその金額に怖気づいていたユイだが、見事乗り越えた。
――人生ハッタリよ!任務と思え、朝霧ユイ!――

 開き直ったユイを乗せて、黒塗りの車は列をなして屋敷前の一本道を下って行った。


 車内にて、後ろに続く何台もの車に目を向けてユイが尋ねる。
「親戚回りに、何人で行く訳?」
「ただの護衛だ」
「この程度の人数は普通です」
「そうなの?!」
――まるで敵地に向かうみたいな物々しさ…ああ、ある意味敵地か――

 ユイが後方を見るのをやめて体勢を戻すと、ダンが予定を伝える。
「最初に母方の叔父御の家に向かいます。ユイ様、再三申し上げておりますが…」
「分かってる、ルアナさんとケンカするなでしょ」
「もっとも、あちらは英語が堪能でいらっしゃらないので、会話も成立しないですね」
「ああ」
 ダンの言葉にラウルが頷く。だからこそ、こちらは全く心配していない。

――そういう事もあろうかと、ちゃんとルーマニア語で自己紹介できるようにして来たもんね!――
 ユイは一人ほくそ笑む。密かに覚えたルーマニア語は、果たして通じるのか。


 到着したのは、ラウルの屋敷よりも一回り小振りな邸宅だ。小振りと言ってもユイの目には変わらず豪邸に映る。
「ここもスッゴイお屋敷!ルーマニアの人って皆お金持ちなのかしら?」
 ユイの日本語の呟きに、ダンだけが心で罵る。
――そんな訳がなかろう、バカめ!――

「ユイ、行こう」
「は~い」
 ラウルの差し出した手を取り、ユイは前に進む。ハイヒールの靴底が舗装されたエントランスを叩く音が響く。

 改めてユイを見やり、ラウルは微笑む。
「とても美しい。私の自慢のフィアンセだ、もっと胸を張れ」
「はい…」
 気恥ずかしさはまだ消えず、手にした小振りのハンドバッグを握りしめる。そこにユイの力の源が収められているのだ。

――結局持って来ちゃった、コルト。だって私のお守りだもん、いいよね?――
 ラウルには伝えていないが、勘のいい彼は恐らく察しているだろうとユイは考える。指摘されないならば問題ないという事だと。

 荘厳な玄関扉が開くと、これまた豪勢な室内が広がっていた。

「ようこそ。ラウル君、そちらがフィアンセだね。初めまして。娘のルアナには会っているそうだね」
 現れたのは言われなければマフィアとは思えない、気さくそうな初老の男性だ。
「初めまして、ユイです。どうぞよろしくお願いいたします」
 英語で声を掛けられ、ほっとしながらユイは英語で答える。

 そのまま客間へと通され、茶など振る舞われながら雑談を交わす。

「おい、ルアナはどうした?ご挨拶しないとダメだろう、呼んで来い」
 妻に呼びに行かせるのを見て、ラウルが告げる。
「無理に来させなくていい。すぐに失礼する」
「まあ、そう言わず!久しぶりに会ったんだ、ゆっくりして行ってくれたまえ。なあユイさん?」
「え、ええ…、そう、ですねっ」

――何て答えればいいの?私に振らないで!――

 横に座るラウルを見やるも、何も答える素振りはない。ゆっくりする気はないという事だ。
――どうしよう、断った方が良かった?でもルアナさんに会ってみたいし。ええいっ、なるようになれ!――
「以前ルアナさんにお会いした時は、まともにご挨拶もできなかったので、私も是非お会いしたいです」

 ユイの発言にダンが驚く。ダンも付き人兼護衛として付き添っている。
――また余計な事を…黙っていろと言っただろうが?――
 対してラウルはさほど驚いてはいない。
――私にそっくりの従妹に興味を持っていたから当然だな――
 どこまでも良い意味で解釈する。

 それならばとラウルは考えを改める。
「良ければ私が呼んで来よう。おまえはここで待っていなさい」
「ラウル…ありがとう」

 ラウルは一人立ち上がり、叔父に断って客間を出る。幼少期に度々訪れていた家だけあって、ラウルも邸内を把握済みだ。

 先にルアナの部屋の前にいた叔母に声を掛けてポジションを替わる。
「ルアナ。ラウルだ。少し時間をもらえるか?」

 ラウルが声を掛けると、すぐに返事が返って来た。
「もちろんよ。支度に手間取ってたの、ごめんなさいね。どうせなら自慢のお庭でお会いしたいわ。ユイさんに外で待つように言ってくれる?」
「外?分かった、では私達は外で…」
「ラウルは来ないで。二人でお話したいの。いいでしょ?」

 ラウルは申し出にしばし沈黙する。

「何を企んでいる?私を悲しませるような事はしてくれるな」
「何も企んでないわよ、やぁね!女同士で語りたいだけだったら」
「ユイはルーマニア語は話さないが」
「バカにしないで?私だって少しくらいは英語できるんだから。それじゃ後でね」
 それきり声は聞こえなくなった。

「ごめんなさいね、我がままな娘で…さっきまでは絶対に会わないって言ってたのよ。どういう事かしら」
 叔母が戸惑った様子でラウルを見上げている。
 確実に何か企んでいると踏んだラウルは、不安そうにする叔母の背に手を当てて言う。
「心配するな、ルアナは私を困らせるような事はしない。信じよう」わざと室内に聞こえるように声を張る。

 そして叔母と共に階下に戻った。

 ラウルがルアナの要望を伝えると、ユイは笑顔で応じた。
「私は全然構わないわ」
「済まんね、ユイさん。娘は恥ずかしがり屋なところがあって。東屋に飲み物を持って行かせるから、そっちで待っててくれ」
「分かりました、行って来ます」

 ラウルは立ち上がったユイと入れ替わってソファに座る瞬間、さり気なくダンに目配せする。
 一礼の後、ダンは出て行ったユイを追って静かに外へと向かった。


「ユイ様」
 スタスタと裏の東屋の方へ向かうユイの背に声を掛けるが、返事がもらえない。
「ユイ様!無視しないでください、聞こえてますよね?!」

 語気を強めて問いかけられ、ユイは渋々答えた。
「何で付いて来るのよ。向こうは女同士で話したいと言って来てるのよ?」
「鵜呑みにするのは危険です、これは罠です」
「ワナだなんて大袈裟!ただのお遊びでしょ。何が襲って来たって平気よ。あなたはラウルの所に戻ってて」

「自分はラウル様の命令にしか従いません」
「ま~たそんな事言ってる!ムカつくんですけど!」

「ユイ様!本気で心配しているのです、ラウル様が!」
「ラウルを強調するけど、本当はあなたも心配してくれてるんでしょ。でも大丈夫だから。私を誰だと思ってるの?その辺の小娘に負ける訳ないでしょ」
「そうですが!それが困るのです、どちらかにケガでもされては…」
「だからぁ。信用ないな、私って」

 ようやくユイが立ち止まる。
「良く見て。今日の私、どう?気品、漂ってるでしょ。この姿で暴れたりしないわよ。80万よ?80万!」
「は?」
「…何でもない。とにかく!邪魔しないで。いい?」

 角を曲がってユイの姿が消えた。ダンの足は止まったままだ。
「俺が心配しているのは衣裳ではない!」


 メイドが運んで来たティーカップから、爽やかなハーブの香りが漂う。
 一人ベンチに腰を下ろしたユイは、周囲に咲き乱れる花々を眺めていた。

「自慢したくなるのも分かるわ~、凄くキレイ」
――どうせならラウルと見たかった。ダンじゃなく!――
 背後にダンの気配を感じて顔をしかめる。まだ近くにいるようだが、姿は見えない。

 しばらく待ってもルアナは来ず。気取ってポージングして待ち構えていたのだが、次第に飽きて来る。
「あ~疲れた!もういいや。こうやって気取っててもどうせすぐにボロ出るし?」
 あっさり気品を手放したユイは、ベンチの背に仰け反って背伸びを始めた。

――やはりこうなるか…。根っから令嬢向きじゃないな、あの女は!――
 こんなダンの嘆きは誰にも知られる事はない。

「ん~伸びる伸びる~っ、慣れない服だし肩凝っちゃったわ」
 そのまま極限まで仰け反ったユイの目に、反転した庭が映る。咲き乱れる花達の間に、黒々とした動くものが数頭現れた。
「ん?何?あれ」
 体勢を戻して振り返ると、勢い良く向かって来るのはどうやら動物のようだ。
「黒ヒョウ?!…な訳ないか、ドーベルマンね」

 ギョッとしたダンとは裏腹に、ユイは動揺の色も見せない。

「っ!ユイさ…」
 身を隠していたダンが、危機を感じて木陰から飛び出そうとした時、ユイに飛びかかったように見えたドーベルマン達の尾が、嬉しさを表す動きをし始めたのに気づく。
 目を瞬かせ、動きを止めるダン。
――あの狂犬共を一瞬で手懐けた?…そんな特技もあったとは!――

「ちょうど暇してたのよ、嬉しいわ。君達、一緒に遊びましょ!あっ、ダメよ、服は汚さないでね?」

 引き続き様子を見守る事にしたダンが素早く木陰へと舞い戻った直後、ようやくルアナが現れた。
「ごめんなさい、お待たせし、…。え?」
 甲高い声に反応して、ドーベルマン達が一斉にルアナの方に意識を向ける。その瞬間、先程までとは別物の狂暴な顔となった犬達が、揃って唸り声を出す。

「ひっ…。何で?どういう事よっ、これは!」
 逃げ腰になったルアナは、あっという間にドーベルマン達の標的となった。
 けたたましく吠え立ててルアナに向かって行こうとしている。

「ルアナさん家の犬でしょ?」
「ひいっ、助けて!」
「あ!ダメよ、背を向けて走っては!」
 忠告も耳に入らない。ユイの存在も忘れて恐怖のあまりルアナが走り出す。
「いけない、このままじゃルアナさんが…」

「ユイ様、ここは自分にお任せください」
「ダンさん!」
 姿を現したダンは、言うなり犬を追い駆ける。
「おい犬ども!こっちだ、こっちに来い!」
 だがダンの叫び声など無視して、犬達はひたすらルアナを追い立てる。

「これじゃ埒が明かないわ…」
 ユイはハンドバッグからコルトを抜き取ると、空に向けて一発撃ち放った。
 気持ちがいいくらいに銃声が響き渡り、一瞬にして犬達が動きを止め振り返る。

「カムバック・ヒア、イミディエトリー!」
 ユイの命令に犬達はすんなり従い全員集合、お座りをして待機状態となった。
「いい子ね」

 銃声を聞きつけて、ラウルを筆頭に叔父夫妻やら黒服やらがワラワラとやって来た。
「ユイ!無事か?」

「ラウル、ええ。お騒がせしてごめんなさい、皆さん、何でもありませんので」
 ユイは素知らぬ振りでコルトをバッグにしまい、犬にルアナが襲われそうになった事を説明する。
「なぜ犬達が?小屋に入れてあったはずだぞ!」
 叔父の叫びに続きルアナが罵る。「何であの女の命令を聞いてるのよ!このバカ犬達!使えないわね」

 ルーマニア語のためユイには理解できない。
「ねえラウル、お二人は何て言ってるの?」
 聞かれたラウルは包み隠さず通訳する。
「犬は小屋に入れてあったはずだ、ユイの命令を聞いたバカ犬、と」
「ふうん、そういう事ね。何て可愛らしい悪戯!」
 事の顛末を知ったユイは、嫌味ではなく本気でそう思った。そしてルアナに近づく。

「ブナ・ズィア、マ・ヌメスク、ユイ。ウンクンタ・デ、クヌスツィーツァ」
「え…ルーマニア語、覚えたの?」
「アン、ストゥディアト、プチーン、で、合ってる?」
「少し、勉強したのね」
「アン、ブルーッサ、ヴォルベスク、クッティーネ」
「私と、話がしたかった?」
 ユイは笑顔で頷いた。

「ユイ、いつの間に勉強を?」
「これくらい話せないとね。これからもっと覚えるわよ~!」
「アリガトウ、ユイ…」ラウルはこう日本語で返し、ユイを抱き寄せる。
「えっラウル、日本語上手!って、皆見てるってば…離れてっ」

「…」
 ユイに抱擁を拒絶され、あからさまに肩を落としたラウルだが、ルアナの視線を感じて目を向ける。
「ルアナ」

「っ!ラウル、これはね、その…ちょっとした手違いなのよ?」
「どうかユイと、仲良くしてやってくれ」
「…え?」
「きっとお前達は気が合うと思う」
 この言葉にダンは心の中で同意する。この自由奔放さは間違いなく、と。

 罵声を浴びるものと思っていたルアナは、ラウルの穏やかなコメントに拍子抜けだ。
 そして寄り添うユイも全く怒っている様子もない。
――私、何をやってるのよ…一人でバカみたいじゃない!――
 屈辱を味わっているのが自分だけである事が堪らなく悔しい。その反面、自分の未熟さを大いに思い知った。

「ルアナさん。一つだけ言わせて?あの犬達は決してバカじゃない、とってもお利口よ。怖がらないでちゃんと向き合ってあげて。そうすれば、きっとルアナさんにも心を開いてくれるわ」ユイはあえて分かりやすい英語を使ってこう伝える。
 単語を拾って何となく解釈したルアナは、ルーマニア語で早口に言った。
「あなた、思ってたのと違った。犬好きだったとは想定外!なかなかやるじゃない?ラウルがあそこまでした相手なんだから…当然よね」

 仕事を投げ打って、人形のようなユイの側に居続けたラウルを思い起こすルアナ。ラウルがどのような性格かを知るからこそ、そう強く思う。
 これまでこんなにもこの男を夢中にさせるものがあっただろうか。少なくとも自分はできていない、と。

「何?ルアナさん、何て言ったの?」
 ユイの問いには答えず、ラウルがルアナに向けて言う。
「それは、認めてくれたという事でいいか?」
「仕方ないじゃない。まさか助けられるとは思ってなかったし。だって本気で怖かったのよ、ラウルっ!」
 そう言ってルアナは、ユイを押し退けてラウルに抱きつく。

 その巻き付いた腕をやんわりと解くラウル。どんな女性にも優しさを忘れない紳士な態度で。

「ではそろそろ失礼しようか」ルアナには目もくれずユイに向き直る。
「はい、ラウル」

 ラウルは何事もなくユイの腰に腕を回してエスコートした。

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