この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの

7.アムネジア(1)

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 季節は夏真っ盛り。あちこちからセミが元気良く鳴く声が聞こえてくる。これだけ季節が巡って、ようやく寝室を共にする許可が下りた。

「もう最っ高!このベッド、何て寝心地がいいの?もっと早く使いたかったなぁ」
「そう言うなよ。あのリクライニングだって一級品なんだぞ?」
 それは分かっている。この人がそういうところで出費を惜しむはずがないと。
「ずっとここで寝たいなら、無理はしない事だ。あと、暑かったらちゃんとエアコン使えよ?」
「分かってるって!」

 私も彼も冬生まれとあってか暑いのが苦手だ。それでも私は、なるべく冷房三昧は控えたいと思っている。人間、多少の不便はあった方がいい。震災の時にも実感した。
 大事なのは、どんな事でも受け入れる寛容さ?暑さも寒さも、そして危険も。

 私の左手薬指には未だ例のリングが光っているが、最初の一回以来お客は現れず。
 平凡な毎日にちょっとしたスパイスが加わると期待したのに、何もない。
「すぐに次が来るだなんて。何よアイツ、嘘つき!ユイさんが何でも受け入れるって言ってるの、早くかかって来なさ~い!」



 とある昼下がり、私は部屋の掃除機がけに精を出していた。

 新堂さんが朝からの依頼で一日外出するというので、気合を入れてやり始めた。
 窓を開け放ち、室内の空気も総入れ替えだ。彼がいると常に全館冷房(!)のためそれができない。
「今日も暑っつ~い……もう汗だく!この辺にして、部屋を冷やしておかないと」
 帰宅した彼に何を言われるか分からない。

 そんな事を考えた時、部屋の空気の流れが僅かに変化した事に気づいた。音はしなかったが、玄関ドアが開いたようだ。鍵は掛けていたはずだが……。
「新堂さん、帰って来たのかな?」
 だが車のエンジン音は聞こえなかった。彼ではない。

 気づかぬふりで、仕舞いかけた掃除機を再び動かし始めた。気を逸らして侵入者の動きを探るために。

 そしてすぐに人の気配が背後に迫るのを感じた。
「何者!」振り返りざま右足を振り上げ、侵入者に蹴りを入れた。
 それが見事命中し、真後ろまで接近していた男が倒れ込んだ。透かさず腕を取って動きを封じる。
 顔を覗けば、中南米を匂わせる顔立ちの男。とうとう来たか、第二弾!

「(目的は?言わないと、この腕、折るわよ)」今回は初めから英語を使う。
「(ウウッ!やっ、やめてくれぇ!)」
 先日の男と似たような調子の英語が返ってくる。

 目の前の男にばかり意識が向いていて、背後に迫ったもう一人に気づくのが遅すぎた。まだまだ体が鈍っている証拠だ。
 気づいた時には私の右側頭部に空の花瓶が迫っていた。
 この花瓶に花を活けていたなら、武器として採用されただろうか?などと、どうでもいい事を思いながら右手でガードしたが、遅かった。

「くっ……!」
 花瓶が右手首と右側頭部に直撃した鈍い音が部屋に響いた。私の右頬に血が一筋流れ落ちる。

「(探す手間が省けたぜ。狙われてるのを分かってて身に着けるとは!これのどこが手強い女だって?面倒だ、左手ごといただいて行くとしよう」
 男は私の左手に大型ナイフを当てがった。
 朦朧としながらも、すぐさまそのナイフを持った手を逆手に取って捻り上げる。
「(うわっ!イテテテ……離せっ!)」

 ナイフが手から落ちたのを確認後、そのまま男を投げ飛ばした。天井の高い家はこういう時に便利だ。
 すぐに最初の男が立て続けに左手を狙って来る。私は床からナイフを拾って構えた。怯む男に無言で近づきながら追い詰める。

「(まさかお前はやっぱり……。クソっ、こんなに手こずるとは。これ以上はマズい、引け!)」
 侵入者は目的を達する事なく退却した。

「うっ……」
 私は力尽きてうつ伏せに倒れ、そのまま意識を失ったのだった。


・・・・・


 バイクのエンジン音によって、ぼんやりと意識が浮上する。それに続くコトンという小振りな音から、どうやら郵便が届いたらしいと推測するも……。

「……いった、頭が割れそうに痛いっ!一体何が起こったの?」
 ゆっくりと上体を起こす。ここがどこなのか分からない。
「私、何してたんだっけ?」

 右手を床に付いた瞬間に激痛が走った。痛めた右手首を気にしつつ、痛む頭部に手を当てて思案する。その手には血が付いているではないか!「これ、……私の血?」

「ここは一体誰の家?……!何よ!?この指輪は!」

 左手薬指には見た事もないリングが嵌っている。しかも、見下ろせば自分はエプロン姿だ。それはつまりこの家の住人という事だが……。
 またどこからかの依頼で偽装結婚でもしたのか?そうだとすれば、自分は今潜入捜査中という事になる。まさか、ヘマでもしてしまったか。

「まずは落ち着こう」

 辺りを見回してみると、側に血の付いた重厚な花瓶が転がっていた。よく見ると縁が欠けてヒビが入っている。これで殴られたか……。
 さらに床には色々と散乱しており、まるで突風が吹き荒れた後のよう。
 考えようとすればするほど頭が痛む。

「とにかく、片付けた方が良さそうね……」
 手始めに花瓶に手を伸ばす。これの置き場所を探し、取りあえず棚の上に置く。
 散らかった物を一通り纏め、床に付いた血痕や靴跡を拭いて回った。

 一段落して顔を上げると、テラス側に置かれた白いグランドピアノが目に入った。私の部屋にあるものにとても良く似ている。
「確かあれ、一点ものだったはずだけど?……ああ……疲れたっ」
 考えも纏まらないうちに頭がクラクラして、堪らずソファに腰掛けた。

 しばらくすると、再び庭の方で音がした。今度は車のエンジン音だ。誰かが来た。この家の住人か来客か……。何しろ敵なのか仲間なのか分からない。
 朦朧とする頭を抱え込み、必死に意識を集中させた。

「ただいま。ドアの鍵、開いてたぞ?」

 私は玄関に背を向けて平静を装って腰掛けたまま、動かずに様子を窺う事にした。
 入って来た男をチラリと見ると、その手に先ほど届いたと思われる郵便物。どうやらここの住人のようだ。

「おい、ユイ?どうした」
 その男は、後ろから私の肩に手を掛けた。驚きと焦りのあまり、その男の手首を捻り上げる。
「おっと……その手には掛からないぞ!」
 だが男は簡単に私の手からすり抜けると、逆に私の肩関節を固めてきたではないか!
 この男、強い。

「ん?……おい、ケガしてるのか?血が……」男は私の顔を覗いて言った。
 力が弱まる。その一瞬を突いて襟元を掴み、男を投げ飛ばした。
「うわっ!」

 床に尻餅を付いた男が私を睨みつける。

「……イタタ。こらユイ!やり過ぎだぞ。冗談もほどほどにしてくれ!暑さでどうにかなったか。また冷房も入れないで……」
 男の言い分を遮って問いかける。「あなた何者?かなりの腕ね。なぜ私の名前を知っているの?」

 男が中腰のまま動きを止めて私を見つめる。
「その感じだと、冗談、ではなさそうだな……話は後だ。とにかく、その傷の手当をしないと」そう言って再び私の方へ手を伸ばした。
「触らないで!」
 額に触れかけた手を振り払うも、男は負けずにその手を掴んで引っ張る。

「ああっ……うっ!」あまりの痛みに、反射的に声を上げてしまった。
「右手首も痛めているようだな」
「離して!また投げるわよ?」
「おっと。それは勘弁してもらうよ」そう言うと男は手を放した。

 一頻り室内を見渡し、欠けた花瓶を見つけた模様。眉間にしわを寄せながらそれに近づき、付着した血痕にも気づいた。

 ため息をついた後、その視線は再び私に降り注ぐ。
「まあ座れ。もう手は出さない」
 静かな声で言われ、今しがた腰を下ろしていた場所に取りあえず座る。
「朝霧ユイ。俺が誰か、本当に分からないのか?長らくおまえの主治医なんだが」

 私は痛む右手首を押さえながら、沈黙を貫いた。
 男が私の手元に目を向ける。この左手のリングを見ているらしい。
「……間違いなく原因はそれ、だな。柄にもない事はするもんじゃない!」
「どういう事?っ!ああっ……、頭が!」
 またも激しい頭痛が私を襲う。堪らず頭を抱え目を閉じる。

 その隙を狙って男が動いた。湿ったハンカチが私の口元に押し付けられる。
「んんっ?!」
「済まない。手荒な事はしたくなかったが……緊急事態なんでね」

 言い返す事もままならず、私の意識は闇に沈んで行った。


 目を覚ますと、私は病院のベッドに寝かされていた。
 先ほどの男は白衣を着て立っていた。本当に医者だったのか。だが全く見覚えはない。

「気がついたか」
「あなたはさっきの……!」
「頭の傷は大した事ない。数針縫ったが、すぐに良くなる。それと右手首だが、骨にひびが入ってる。当分安静だな」

「あ、あの……」
「他に何か?」
「いえ……ありがとうございました」
「ようやくまともに会話ができたな。これのお陰か?」白衣をひらつかせて男は言った。
 私の最も苦手な医者!

「今日はもう遅いから、一晩泊めてもらおう。明日帰るぞ、いいだろ?」
「泊めてもらう?ここ、あなたの病院じゃないの」
「まさか!俺は勤務医なんて金にならない仕事はしない主義でね」
 こんな言い草には呆気に取られた。
 さらに男は白衣を脱ぎ捨てると、枕元で言う。「おまえのそんな反応、久しぶりで新鮮だな!」

 あまりの至近距離に慌てて断る。「あ、あの!私まだ、あなたの事信用した訳じゃないから!」
 私の反応を受けて男が立ち上がった。「……明日、帰ってからゆっくり話そう」
「帰るって、どこに?」
「俺達のマイホームに決まってるだろ?」

「私は、自分のマンションに戻るわ」
 こう答えると、男の表情が心持ち暗くなったように見えた。
「とにかく、今は休むんだ。話は後だ。痛むようなら鎮痛剤を追加するが……」
「大丈夫です、お構いなく」
「何かあったら、そのベルで呼んで。すぐ来るから。じゃ、お休み」

 こうして、何が何だか分からない一日が過ぎて行った。
 それにしてもあの男、主治医という割に妙に馴れ馴れしい。俺達のマイホームだなどと!それにこの……。目を向けた私の左手に、そのリングはなかった。


 翌朝、私は黒のアウディに乗せられ男と共に病院を後にした。

「私のマンションに行って。場所は分かるんでしょ」
「分かるがそこには行かない」
「なぜ!」
「今は主治医の指示に従ってもらう」

 威厳を込めてこう宣言され、なぜか逆らえない。おかしい。自分はこの男を認めてはいないのに!戸惑う私を、一転して男が優しく見つめてくる。

「分かってもらえて嬉しいよ」
 反論しない私に満足したように言うのだった。


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