この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの

10.仮想世界(1)

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 車のテールランプを撃ち抜かれてから一週間が過ぎた。修理も終わり、今は元通りの姿だ。あれ以来そんな事件もなく、平穏な日々が続いている。

 暑い蒸した午後が過ぎ熱気がやや鎮まった頃、彼がこんな事を言い出した。
「なあユイ。今度、マキ教授に会ってみないか」
 庭で洗濯物を取り込んでいた私は、テラスで寛いでいる彼を振り返る。
「マキって、あの死神のマキの事なの?」貴島との会話にも登場していた人物だ。

「死神……酷い言われようだな」
「だってやってる事は一緒でしょ」
「まあ、死に導く事もあるようだが。彼はきちんとした信念の下にやっている。そして俺は助けられた。能力は確か、それで十分じゃないか?」

 何と言われようと私にとっては、憎き父をあっさり安楽死させた腹立たしいヤツだ!
 私だけでなく、散々周囲の人間を苦しめたのだから、もっと苦しんで死んでほしかったのに。

「いいんだ、無理には勧めない。忘れてくれ」
「待って!先生がそうした方がいいって言うなら、まあ、会うだけなら……」
 自分の事は思い出さなくてもいいなどと言っていた彼が、行動を起こそうとしている。安易に断る訳には行かない。

「会うだけで終わるか、約束できないぞ?」
「いいの。もし何か思い出すきっかけになるなら、私は何でもトライしたいわ」
「そう言ってくれると思ったよ」
 この時の笑顔がとても素敵で、洗濯物を抱えながらまたしても見惚れてしまった。


 善は急げという事で、次のパートタイムの仕事が休みの日に、早速マキ教授を呼ぶ事になった。

「お久しぶりです、朝霧ユイさん。まあ、そんなに身構えないでください」
 現れたマキを前に、大人しくしていられる自信がない。
「別に構えてません!」どうもこの男を前にすると突っかかってしまう。

「ユイ、そうイライラするな。済みません、教授」
「お構いなく。事情を伺えばこそ納得の態度ですよ」
 記憶を失くした事を言っているだけなのだろうが、なぜかムッとする。
「はぁ?」
「ユイ!」彼にたしなめられ、浮いた腰をソファに収めた。
「はいはい、私はもう黙ってます!」

「脳はとても繊細で複雑な組織です。精神面にも影響が大きい。少しでも思い出していただけるよう、できる限りお力になりましょう」
 それはまるで、このイライラが記憶喪失のせいと言わんばかりだ。
 我慢できずに立ち上がる。
「おい、どこへ行く?」彼が立ち上がった私を見上げる。「ちょっと一服!」
「こらユイ!煙草はダメだって言ってるだろ」

 彼を振り切って部屋を飛び出した。

 少しして、個室の方にマキだけがやって来た。

「お邪魔してもよろしいですか?」
「……あなただけ?先生は?」窓辺で煙草を吹かしながら答える。
「少し、二人だけでお話をと思いまして」
「タバコの煙がイヤじゃなければどうぞ!」

 マキは微笑んでから部屋に入って来た。

「それで。診察、するの?」手ぶらで現れたマキにそれとなく問いかける。
「いえ。ご要望がおありでしたら考えますが?」そう言ってベッド横の椅子に腰を下ろした。
「ないです!なら……ホントに話すだけ?」死神と話す事などないのだが。

 マキは私から視線を外して、窓の外に目を向けた。
「今日も暑いですねぇ。あなたに初めてお会いした日も、こんな蒸した日でしたね」
「そうね。あなたに会って不快指数が倍増した事、良く覚えてるわ!」

 マキが喉の奥で小さく笑った。「実はその後も二度ほどお会いしているんですよ?」
「先生が、助けられたって言ってた事と関係あるの?」
「そんなふうに言っていただけるのは、嬉しい事です」
「死神が一体、何をして助けたっていうのよ」

 一瞬マキから表情が消える。こんな顔を前にも見たような気がする。

「その辺の話は後にしましょう。まずは新堂先生について、少しでも思い出してもらわねばなりませんので」
 再び穏やかな表情に戻ったマキは、椅子ごと私の真正面に移動した。
「さて。それでは、覚えているところから行きましょうか。朝霧さんのお母様は今どちらに?」

「イタリアよ。再婚したの」
「そうですか!それは何より。一人は寂しいですからね」
「あら。一人が寂しいなんて、誰の意見?」
「寂しくはないと?あなたにはいつだって新堂先生がおりますからね。きっと分からないだけです」
「いいえ。例え彼がいなくても、私は寂しくなんてないわ」

 現にこれまで一人で生きて来たのだから。
 それにしてもこの死神の口から、一人が寂しいなどという言葉が飛び出すとは思わなかった。
 ふとマキの私を見る視線が変化したように感じた。

「ユイ。この名を口にすると、複雑な気持ちになります」
 唐突に呼び捨てで呼ばれてドキリとした。「え?……何でよ」
「私の亡くなった妻も、由衣という名だったんです。難病でどうする事もできず、彼女は死を選びました」
「まさか、あなたが……?」
 マキは静かに頷く。「それが、私が安楽死を手掛けるきっかけになりました」

「彼女の願いは、苦しみから解放されたいという至極単純な事でした。だがそれさえ法律が許さない」
 私は口を挟まずに聞き役に徹する。
「現在は法律も緩和され、肉体的苦痛を取り除く術がない場合に限っては、安楽死の対象になるようです。だが苦しみは、肉体的な痛みだけが引き起こす訳ではない。あなたもご存じのように……」

「私、?」死を望むほどの精神的苦痛について、私が知っていると?

「ああ、失礼しました。覚えていらっしゃらないんでしたね。とにかく、同じように苦しむ多くの人々がいる。妻は根本的改革を望みました」
「自分が苦しい時に他人を思いやれる。強い人だったのね、奥さん」ようやく皮肉ではない言葉が出てくれた。

「ありがとうございます。ですから、ユイさんと新堂先生の苦しみも取り除いてあげたいんです。その方法は何も、死に導く事だけではありません」
 マキの視線が若干痛かった。散々死神呼ばわりしたせいだろう。
「まあ……確かにその通りね」ここは同意しておく。
「お分かりいただけたようで、良かったです」

 実はこの人は、私が死神と呼ぶ度に心を痛めていたのかもしれない。そう思って少し申し訳ない気持ちになった。
 心を入れ替えて、ここは自分から問診の続きを促そう。

「あの、お母さんの話に戻るけど、」
「そうでしたね。済みません、話が反れてしまいました。どうぞ」
「ええと、その母からの手紙で気になる事が……」

 私は内容を手短に話した。新堂先生と母がどこか親密な関係に思えると。

「ユイさんは高校まで、ご両親とご実家におられたんですよね?」
「いいえ。途中から母と家を出て、アパートで暮らしたわ」
「なぜお母様と?」
「両親が不仲で、要は追い出されたのよ。母は心臓が丈夫じゃなかったから……」
「現在イタリアにいらっしゃるという事は、ご病気は治られたんですね」

 ここで母の主治医片岡先生の言葉が甦る。〝僕には治せない病気なんだよ〟
 そう言われて、私はタンカを切ったのだ。治せる医者を連れてくると。
「医者を、連れてくる……」それがあの新堂だというのか。
「ユイさん?」

「分からない、どうしてもそうは思えない。あの時あの場所に彼がいたなんて……」
 知らずに頭を抱える私の背中をマキが擦ってくれる。
「大丈夫です、それ以上は考えないで。とにかくその辺りの記憶はあやふやなのですね」
「……ええ」
「恐らくそこに、彼が関わっているという事でしょう」

「どうしたらいいの!早く思い出さないと……。あの人と関係を保つ自信がないの」
 私の目から涙が溢れていた。
「落ち着いてください。ここまで分かればもう、思い出したも同然。きっかけさえあれば、一気に思い出しますよ」

 イラ立ちしかもたらさなかったマキの言葉が、私に安らぎを与えている。
 背中を擦られ続けながら、この妙な安らぎの心地良さに浸った。


 どのくらい経ったのだろう。先生に呼ばれて目が覚めた。外はすっかり夕焼けに染まっていた。

「新堂先生……。あれ、マキさんは?」
「もう帰ったよ。気分は?頭痛はしないか」ベッド横に屈んで私の様子を窺ってくる。
「平気。むしろぐっすり眠れた感じ。マキさんに催眠術でも掛けられたのかしら?」

 こんなコメントに彼は肩を竦めただけだった。

「ねえ?あの人、私の思ってたのと違ったみたい。きっと、先生が言ってた方の人物ね。信念に基づいてって方」
「誤解は解けたようだな」彼が嬉しそうに言った。
「でも記憶の方は進展なしよ。ごめんなさい」
「なぜ謝る?今回は治療を頼んだ訳じゃないんだ。これでいいんだよ」

 彼に優しく抱きしめられて、目を閉じて身を委ねる。懐かしい香りがして、一瞬何かが見えた気がした。陽だまりの中で、この香りを嗅いだ事がある。
 この心地良さを、私は一体どこで感じたのか?自宅マンションか、病院?車の中?

 目の前の端正な顔を見つめながら、頭を悩ませるのだった。


 そしてまたいつもの日常が始まる。いつもの日常とはつまり、ほぼ口論だ。
 朝、出がけの私の手を唐突に掴んだ彼。爪に塗られたピンクのマニキュアを見つけたのだ。

「覚えてないだろうから再度言う。こういうのを塗るのは禁止だ。診断に支障を来たすからな」
「いいじゃない、このくらい!」ゴテゴテのネイルアートより何倍もマシだろうが?
「ダ、メ、だ!」

 膨れっ面をしても彼が意思を曲げない事は、短期間ながらも見てきて学んだ。
 諦めモードになった私の顔に視線が移り、彼が無表情で何かを考えている様子。

「先生?」
「……ああ。今は時間がないだろうから、帰ってからでいい」
「当然です!」
 今何を考えていたのだろう。きっと記憶を失くす前の私の事だろうが!前の自分は素直に従っていたという事か。

 こう朝から出ばなを挫かれては、仕事に身が入らない。マキとの会話以来、ある事が気になるせいもある。私達の出会い方だ。
 おまけに示し合わせたように、会社の昼休憩時間に恋愛話となる。女性メインの職場なので、年代を越えて盛り上がれる貴重な話題ではある。
 経験豊富なオバサマ達が多く、中には素敵なストーリーもあって勝手な妄想は膨らむ一方だ。

 そんな日の会社帰り、私の脳はついにこんな展開を完成させた。これが現実か仮想現実かは不明だが。

―――「くそっ!逃げ切れん。俺の運転技術ではここまでか」

 深夜の中華街。追われる車内で男が呟く。
 手強い追っ手に根を上げかけた時、私が颯爽と登場する。

「ちょっと、そこのお兄さん!こっちよ!」
 赤のBMWコンバーチブルが男の走らせる車の横にピタリと付く。
「こっちに飛び乗って!ガス欠なんでしょ?」
「……君は?」
「いいから早く!追いつかれちゃうわ!」

 オイル切れでランプが点灯し、すでに速度が落ち始めている。後ろには追っ手が迫っており時間の猶予はない。
 仕方なくという様子で、助手席の鞄を掴み移動を始める男。私はその鞄を掴んで後部席へ投げ、彼の腕を引っ張ってこちらへ引き入れた。

「シートベルト締めてね。振り落とされたくなければ?」
 私の運転はいつにも増して凄まじかったが、お陰で見る見る追っ手を引き離した。

「なぜ俺を助けた?君は何者だ」
「困ってたみたいだったから」
「それだけか?」
「だってあなた、私のタイプなんだもの!どんな理由であれ、イイ男がこの世から消えるのは悲しいわ」

 そこまで話した後、前方に突如現れた二台目の追跡車に気づく。急ハンドルを切り進路を変更する。
「何なに、そう来るワケ!」
 今の私にあるのは純粋な好奇心のみ。何しろ二台目の連中は拳銃を所持していたのだから!

 コーナーに差し掛かり、予想通り発砲が始まる。

「もういい!君まで巻き込む訳には行かない!」
「こんな中途半端でやめられないわ。ちょっと本気出しちゃおっかな。ねえ、ハンドルお願いできる?」
「おっ、おい!嘘だろ?!」

 言うと同時に身を乗り出し、腰元に差し込んだコルトを抜くと、接近中の拳銃を持った黒服のサングラス二名に的を絞った。
 直後、乾いた銃声が二度響く。もちろん私が撃った射撃音だ。

「ありがとう、もういいわ」元の位置に収まり再びハンドルを操作する。
 彼が身を乗り出して後方を見た。当然追っ手はもういない。
「逃げたみたいよ。追いかけて、止め刺した方がいい?」

「……いや、もういい。お陰で助かった」
「あいつらプロよ。お兄さん、一体何やったの?」
「俺は新堂和矢。闇医者ってヤツさ」
「それってもしかして、免許持ってないとか!」
「ご名答」

 この回答を聞いて表情が固まる。何しろ私は大の医者嫌いだから!

「初対面の人間にそんな事話していいの?」
「ん?」
「私が刑事だったら、とか思わないのかな~って」
「ははっ、君が?刑事!……まあ、この国でなければアリかもな」
「やっぱりかぁ。つ~まんない!」どうあっても私は刑事には見えないようだ。

「お互い様だろ?君だって初対面の俺の前で拳銃を撃った。それ、無免許じゃないのか?」新堂が私の腰の辺りを見て言う。
「まあね~」
「だけど驚いたよ。大した腕だ、運転も射撃も……。刑事じゃなければ、君は一体何者だ?」

 私は静かに微笑むと、彼の方を向いて言った。「何者だなんて失礼ね。私は朝霧ユイ。善良かどうかはさておき、ただの一般市民よ。困ってる人を黙って見ていられないタチで、ちょっとした手助けをする仕事をしてるの」
「仕事であれば、今日の報酬を支払わなくては」
「いいわよ。依頼された訳じゃないし」
「しかし……」

「そうだ、じゃあこうしない?あなた医者なんでしょ?今度私がケガしたら、ただで治してもらうってどう?」
「それはもちろん構わないが、それじゃ気が済まない。君は命の恩人だからな」
「なら、あなたの気の済むようにして?新堂和矢さん」

 車は街灯の下の路肩に停められている。ガードレールに寄りかかる私を、新堂は頭の天辺から足の先まで見渡した。

「顔の整形でも、脂肪の吸引でも……」言いかけて苦笑した後に首を振る。「どれも君には必要ないな」
「ふふっ。今のところドクターのお世話は不要よ。必要な時はお願いに伺うわ。それと、今度は是非依頼してね!言っておくけと私の依頼料は高いから覚悟して?」ウインクしながら言った。

 彼が懐を探り、メモを差し出してくる。「俺の番号だ。何かあったら連絡を」
「ご親切にどうも」
「君の事、覚えておくよ、朝霧ユイ」

 受け取ったメモをクシャリと丸めてポケットに押し込み、私はその場を後にした。

 颯爽と去って行くBMを見つめながら、新堂は呟く。
「朝霧ユイ、気に入ったよ!」―――

 こんな展開も満更あり得なくはない。真偽はこれから直接確かめるとしよう。


「ただいま」
「お帰り。今日は早かったな」
「うん。ねえ先生?私達ってどういうふうに出会ったの?」帰宅後、早速こう切り出してみる。
「どうした、急に」どこか慌てた様子だ。

「会社でね、恋愛の話になって聞かれたの。でも私、覚えてないから……」
「それでどう答えたんだ?」
「私がナンパしたって」こんなイイ男を前にしたら、どうしたって一目惚れするに決まっている!こんなノリで言ってしまっただけなのだが。

 そして帰り道に閃いたストーリーを話して聞かせた。

「皆にはカーチェイスの事なんて言えないし。でもナンパはイメージ悪かったよね、失敗だった!」
「それはともかく、どこからそんな話が出てきた?」
「さあ……何となく。もしかして!私、思い出せた?これは現実?」

 彼は答えに困っているようだ。なぜ困るのか。
「ねえ、先生?」
 再度聞き返すと、ようやく答えが返ってきた。「その話なら俺も知ってるよ」
 自分としては仮想現実の線を推していたので、彼の答えには驚いた。
「じゃあ、やっぱり思い出せたのね!」

 一人はしゃぐ私に対し、彼は優しく微笑むだけだった。


 その晩ワインを飲みながら、例の過去について再び意見を交わす。

「あの時おまえが言ったセリフ、覚えてるか?なぜ俺を助けたのかと聞いた時だ」
「あなたがいい男だったから!でしょ?」
「その後だ」
「その後?何て言ったっけ」
「いい男がこの世から消えるのは辛いって言ったんだ」
「ええ、言ったかも。それが?」

 空になったワイングラスをテーブルに置いた時、彼が唐突に私の肩を引き寄せた。

「先生?どうしたの」尋ねると、やや小さな声で言った。「俺が死んで、悲しんでくれるヤツなどいないと思ってたから。嬉しかったよ」
「人が死ぬのは悲しいわ。それが誰であれ」

 彼が引き寄せた肩を離し、私と向かい合った。
「見ず知らずの女に言われた言葉を、俺が信じると思うか?」
「実際、信じたんでしょ?」
「嘘でも良かったんだ、あの時は。その場限りの言葉でもね。それだけ、人の温もりに飢えていたのかもな」

 私は何も答えずに、彼の胸に顔を埋めた。そんな私の背に腕を回す彼。
 私達はしばらく無言でそうしていた。

「新堂先生、好きよ。あなたを愛してる」口が心とは裏腹にこんな事を言う。
「……ああ、愛しいユイ。記憶から消え去った出会って間もない男を……再び受け入れると言うのか?」
 苦しそうな表情でそう語る彼が、心から愛おしく思えた。
「もちろん。例えこの先、何度記憶が奪われようと、私は必ず新堂先生を好きになる」

「ユイ……」
「だって、私が本気で惚れた男なんでしょ?だったら、何度出会っても同じ結果になるのは当然よ」
「おまえは、本当に強いんだな」

 この人に強いと認められた事がこの上なく嬉しかった。そして記憶云々は別として確信した。新堂和矢は、私が本気で愛する男なのだと。


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