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第二章 人生は万事、塞翁がウマ!
15.ダーク・フォックス(1)
しおりを挟むイラクに入ってすぐ、私が以前お世話になった村長の所へ向かった。
「(本当にミス・アサギリなのですね!また、この国にお越しくださるとは……。あの事故については、何とお詫びをすればよいやら……)」
ひたすら平謝りの村長に、逆に恐縮してしまう。
「(もういいんです。ご覧の通りすっかり全快しましたので。頭を上げてください、村長さん!)」
「(ああ……あなたはやはり、私共の女神だ!)」
村長はその後、一人の少年を引き会わせた。その子は三年前、私が紛争の真っ只中から救出した妊婦が生んだ子だとか。
「(ミス・アサギリが救ってくださらなかったら、今ここに彼は存在しておりません」
「(私が助けた……のですか)」テロに遭う前のここでの活動についての記憶はまだあやふやなため、覚えがない。
新堂さんが私の背に手を当ててくる。あまり深く考えるなという合図だ。
私の声を聞いて、少年がアラビア語で叫んだ。
「あの声とおんなじだ!ボク覚えてるんだ。ママのお腹の中でこの声を聞いたよ!」
村長が少年の言葉を英語に訳してくれる。
少年は私の足元に抱きついてきた。何も分からなくても拒絶する気にはなれなかった。
「(村長、彼女はここでの事をあまり覚えていないんです。ですのでこれ以上は……)」
こんな新堂さんの言葉に、村長は驚きのあまりアラビア語で叫んだ。「そうなのですね。ああ、何という事か、……おお神よ!」
「新堂さん、私は大丈夫。もっと知りたいわ」
「(おおユイ……。本当に、申し訳ない……)」村長の声は震えていた。
「(村長さん、気にしないでください)」
その後一時間ほどの滞在を終えて、私達は役場を後にした。もう外は夕方だ。
村長が手配してくれた車で、イーグルの指定したホテルへと向かった。
「あの村長、とても気さくでしょ。いつだってあんな調子だから、皆にとても愛されてるの」こんな事を彼に教えながら、自然に笑顔になっている自分がいた。
「あの人の事は覚えてるのか?」
「話すうちに何となくね……」
「そうか」そう言って手を握ってくれる。
一転して明るい口調でこんな言葉が放たれた。「しかし!ユイの活躍を聞いていたら、俺もユイが女神に見えてきたよ」隣りの私を見下ろして、片方の口角を上げる。
「ヤダ、新堂さんったら!私はそんなんじゃない。神だなんて……そんなんじゃ」
「いいじゃないか、この国では女神様で?」
運転手の目も憚らずに、彼は私を抱きしめてきた。
まるでタイミングを見計らったようにイーグルに渡された携帯電話が鳴り出す。
「出るわ。……ハロー?」
『(二十二時にホテルのロビーで)』
「オーケー」
ホテルへ到着して一休みする。
ソファに腰掛け、バッグから煙草を取り出して火を点けた。自分の指先を見下ろしてマニキュアの上出来な塗り具合に誇らしくなった時、視線を感じて顔を上げた。
「何?」
「いや」
「楽しいバカンスの最中に、禁煙しろとかマニキュア落とせとか、野暮な事言わないわよね?センセ!」
「今さらそんな事を言うつもりはない。……ただ気のせいか、記憶が戻ったはずなのにまだおまえが知らない女に見えてしまってね」
「何それ。私は私よ?」
知らない女とは!どの辺を見て思うのか、もっと突っ込んで聞くべきだっただろうか。
「それより先生、待ち合わせにはまだ時間があるし、作戦会議しない?」
今まで先生と呼んでいた癖が抜けず、時々こう呼んでしまうのは目を瞑ってもらいたい。
「賛成だ。俺もユイに言っておきたい事がある」言ったところでムダだろうが、と呟いているので、「まさかこの期に及んで、銃は使うなとか言ったりする?」と先手を打つ。
「まさか!きちんと身を守ってもらわないと困る」
「なら良かった」
私はおもむろに身に着けていたコルトをテーブルに置いた。
「単独行動はしてほしくない」
「それはもちろんよ。私もあなたを一人にしたくないし」
「なら、交渉成立だな」
「で。何にせよ、私が例の記憶を取り戻すのか先決なんだけど……」
一旦発言を中断して、煙草の火を揉み消す。
「私達が生き残るためには、ヤツの要求する情報を渡すか、ヤツを殺るかよ」
確認するように彼を見やるも、無表情のままだ。
「例えあれだけの悪党でも、あなたは殺すなと言うんでしょうけど!」
「その選択肢はまだ必要ない」
「まだ、つまり場合によってはアリって事ね?先生」挑むような視線を送る。
彼は私を睨みつけただけで、何も言わなかった。
やがて腕時計をチラリと見て言う。「そろそろ時間だ、行こうか」
「無理難題を言って来ないといいけど!」
二十二時のロビーは人も疎らだ。
入り口付近で老夫婦が何やら揉めている。それを横目に、応接用のソファーに座るブロンドの男の元へと足を向ける。
「(やあ。思い出の地へようこそ。再訪の感想をお聞かせ願おうか!ミス・アサギリ)」
「(お構いなく)」
イーグルの嫌味にイラついたのか先生も口を挟む。「ムダ口はそのくらいにして、本題に入ったらどうだ?」
「(気が短いな、ドクター・シンドウは!)」
イーグルはどこから見ても非の打ち所のない英国紳士だ。この男が英国人かは定かではないが。そして私達は軽口を叩き合える友人程度にしか見えないだろう。もちろんそう装っているのだ。
フロントをチラリと確認すると、こちらを見ていたホテルマンが微笑みながら会釈を返して来た。
「(では早速。まず、あんた等からのコンタクトは受け付けない)」言い分とは裏腹な人の好い笑顔でイーグルが言う。
ホテルマンがチラチラとこちらを見ている事に、ヤツも気づいたのだろう。
「(自分の居場所は明かさないって訳ね。いいでしょう。で、連絡方法は?)」
私も笑顔で応対するよう心がける。
「(基本は日に一度、俺がこの時間にここへ来る)」
「(期限は?)」畳みかけるように先生が尋ねる。
「(明日から三日間だ)」
「(短くない?!)」たったの三日でどうしろというのか?
「(こんな紛争地帯に長期滞在したいとでも?ミス・アサギリはタフだな!)」
常に上を行く嫌味の数々に、ここでもうすでに負けた感が……。
「(どうせ、こちらに拒否権はないんでしょ)」私はもはや投げやりだ。
「(物分かりのいい相手との交渉は好きだよ!では三日目のこの時間がタイムリミットだ。その時までに情報の提示がなければ、二人纏めて殺す。いいな?)」
こんな交渉に首を縦に振る訳には行かない。けれど他に選択の余地はなさそうだ。
不意に新堂さんの手が私の肩に添えられた。気を張り詰めていたせいで、ビクリと反応してしまう。
「とにかく、やれるだけの事はやってみよう。その後の事はそれから考えるさ」
彼はそう日本語で私に囁いてから、ヤツに向かって頷いた。
イーグルはニヤリと笑った後、胸ポケットからサングラスを抜き器用に片手で掛けると、そのまま席を立ち、いかにも親しい間柄であるかのように手を上げて去って行った。
「ユイ、部屋へ戻ろう」再び彼の手が肩に乗る。
硬直したまま動かない私に、今度は不安そうな声がかかる。「大丈夫か?」
「……新堂さん。巻き込んで、ゴメンね……」私は声を振り絞ってこう伝えた。
ミスター・イーグルなどという厄介な悪党に、何の関係もないこの人が目を付けられてしまった事が悔しくてならない。私と関わらなければと、どうしても考えてしまう。
「またそれを言うのか?怒るぞ」
「ゴメン、ごめんなさい……」謝る事しかできない。ついには涙が零れる。
「心配するな、何とかなる」
「……そうね」
こうして滞在初日が過ぎて行った。
翌朝。
「ねえ、街へ出かけてみない?」
「しかし……ここのところまたテロが頻発してるみたいだ。危険じゃないか?」
「平気よ、本当に危険な時は外出制限令が出るから」
「そんなもの当てにできるか!ヤツじゃないが、ホントにおまえはタフだな」
何のトラウマも感じていないと言いたいのか。実際、テロに遭った記憶が戻ってみても不思議とそういう恐怖はない。
「だってここでこうしてても、何の解決にもならないでしょ?」
しばし私を凝視した後に彼が同意した。「そうだよな、なら行ってみるか」
「そう来なくっちゃ!」
こうして私達は、これといった目的もないままに市場の方へと足を運んだ。日本ではもう秋だが、中東の砂漠地帯はまだまだ暑い。
イスラム圏の国は女性への制約が多く、外出するにも気を遣う。外国人とはいえ悪目立ちしないよう、黒のスカーフをしっかりと頭から被る。
「住民は意外に出歩いてるんだな」
市場は案外賑わっている。
「そうよ。日常のお買い物なんかは必要だもの。それより新堂さん、カバン気をつけてね。スリが多いから!」
彼は商売道具を持ち歩いている。かく言う私もコルトを肌身離さず持っているけれど。
「おお、薬局があるな。ちょっと覗いてくる。ユイ、少し待っててくれ」
彼が商店街の並びの一番奥を指さした。
「オーケー!じゃあ、そこの角のカフェにいるね」
少しの間、私達は別行動となる。
「そういえば、単独行動するなって言ったの誰だっけ?」
そんな事を思いながら店に入りコーヒーを注文して、外のテラス席で彼の姿を目で追っていた。
「それにしても。なんだか男ばっか……!私、すでに目立ってる?もういっそ、こんなもの外しちゃえ」
煩わしさに負けて、頭に巻いていたスカーフを取り払い、長い髪を振り下ろした。
「ああ、さっぱりした!暑かったのよね~」
そんな私の姿に数人の現地人が声をかけてくる。
「ごめんなさい、アラビア語はあまり分からないの」わざと日本語で言う。
そのうち、一人の男が私の肩に手を置いた。その手が私の髪に触れる。
その瞬間、座ったままそいつの手首を取り捻り上げた。
「気安く触ってくるのが悪いのよ?」
男が声を上げた時、次の男が掴みかかって来た。
「何を、するの、よっ!」
私は立ち上がってその大男を投げ飛ばした。
その時ちょうど店の前まで来ていた新堂さんが、目を丸くして私を見ている。
「あら先生。随分早かったのね!ただのナンパよ。お断りしてただけ」
「とにかく、この店は出た方がいい。早く来い!」
彼は店内に入り床に落ちたスカーフを拾うと、私の手を取って外へ出た。
「それで、薬局でお目当ての物は手に入ったの?」
「ああ。おまえを一人にした俺の責任だな。済まなかった」
「全然平気よ!ちょっとあの店、パニックにしちゃったけど?」そう返して肩を竦めておどけて見せる。
「出て来て正解だ。何やらご到着だよ」
店にパトカーが数台やって来ていた。
「ユイ、スカーフは巻いとけ」
「邪魔なんだもん」
無言でプレッシャーを掛けてくる彼に負けて頷く。
新堂さんが私の頭にスカーフを被せるために、カバンを通りに置いた一瞬の隙にそれは起きた。誰かがカバンを持ち去ったのだ!
「新堂さんっ!大変っ!」彼は気づいていなかった。
私は持ち去った人物から一時も目を離さず、そのまま人混みを掻き分けて追いかけた。
「あっ、おい待て、ユイ!」
後ろからかかるこんな言葉を耳にしつつも、彼をその場に残して走る。すでにスカーフはどこかへ飛んでしまっていて、またしても私は注目を集めていた。お陰で人々が道を開けてくれて好都合だ。
しかし少し走っただけで、私の下半身の動きは鈍くなった。この全力疾走は間違いなく日常生活以上の動き。我が主治医の例の言葉がまたしても過ぎる。
「負けるもんか。逃がさないんだからねっ!」
たまたま路肩に停まっていた無人のバイクを拝借して跨ると、壊れそうなエンジンを吹かしてさらに追う。
私にはなぜか、この街の入り組んだ道に覚えがあった。路地に入って行った盗人を一時見失ったものの、再び発見する事は容易かった。
「(そんな重いカバンを持ってたら、私からは逃げきれないぞ?少年!)」
小さいとは思っていたが、その盗人は子供だった。しかもよくよく見ればどこかで見覚えがある。
「(あなた、どこかで……)」
「ユイ!ユイだったの?……ごめんなさい、僕知らずに……」
アラビア語だったが、私の名前が聞き取れた。こう言ったその子は、あの日村長室で会ったあの少年だった。
「(……ねえ。いつもこんな事してるの?)」
問いかけに少年は何も言わない。英語が分からないのか。
私はため息が出た。これがこの国の現状なのだ。働き口のない子供が生きて行くためには、盗みという手段も必要になる。
私はしゃがんで少年に目線を合わせた。
「(きっと、あなた達が辛い思いをしないで済む国に、少しでも良くなるように、私達大人が頑張る。だから、もう少し耐えてくれるかな……)」
「ユイ、ごめんなさい。本当に、本当に!」
小さな瞳から大粒の涙を流す少年に寄り添い、頭を撫でる。
「(泣くな、少年!これでお母さんと、美味しい物でも食べて)」
私は持ち合わせの硬貨を少年の小さな手に握らせた。少年はカバンを下に置いて硬貨を受け取ると、逃げるように去って行った。
しばらくの間、疲れと落胆によって路地にしゃがんだまま動けなくなる。
「って、のんびりしてる場合じゃない!新堂先生を置き去りにして来ちゃった」
慌てて大通りに出ると、さっきよりも人が疎らになった気がする。
するとその時、二ブロック先の辺りから、大きな爆発音が悲鳴と共に聞こえてきた。
「ウソでしょ、爆弾テロ!?……ヤダ、向こうに新堂さんがいるのに!」
奪還したカバンをバイクの前かごに放り投げ、急いで音の方へ向かった。
その後、彼の姿はすぐに見つける事ができた。
バイクを乗り捨てて彼に駆け寄る。「新堂さん!」
「ユイ!無事か?!」
「はい、これ。スリに気をつけてって言ったじゃない?」奪い返した戦利品を彼に渡す。
「見事に取り返してくれたな。俺の不注意だ、悪かった。そのバイクどうしたんだ?」
「ちょっと借りたの。それより何があったの?」
「車から炎が上がったらしい」
「車載爆弾ね。あっ先生、あそこにケガ人が!」
埃が舞い上がった先に目を凝らすと、幼い少女が倒れていた。その側には母親らしき女性がうずくまって泣き叫んでいる。
「あそこにいたら危険だわ……!」
「あっ、おい、ユイ!行くんじゃない!爆弾がまだどこかにあるかもしれないっ……」
私は彼の声を尻目に再び駆け出した。
「先生!早く手当てを!」後ろを振り返りながら叫ぶ。
母親が私に縋りつき助けを求めて来る。「アイエ・テル・トゥベーブ!」
どうやら母親は医者を呼んでいるようだ。
私は彼の方を指して、片言のアラビア語と英語で必死に伝える。「マーケインムシュキル!ノー・プロブレム、ヒーイズ・ア・ドクター!」
渋々という様子だったが、彼が私達の方へ駆けつけてくれた。
「しょうがないヤツだ……全く!どれ、見せてみろ」
「この人達、お願いね!」
彼女達を託して立ち上がると、彼に引き留められる。
「ユイ、どこへ行く?ここにいろ!」
「向こうにも人がいるのよ!」
次の場所へと走ろうとしたが、思った以上に私の腕を掴む力は強かった。
「お願い、行かせて」
「ダメだ!ここの全員を救えるとでも思ってるのか?おまえが行くなら、俺は誰の手当ても拒否する」
「新堂先生!そんな事言わないでよ……っ」
彼は私の目を真っ直ぐに見て諭すように言った。「いいか。俺が一番大切なのはおまえだ。ユイの命を守らずに、他の命を救う事はできない」
「私は平気よ!こういう時のために、そのカバンを持って来たんじゃないの?」
「違う」即答する彼。
そして彼の手の力は弱まる事はなかった。
その真剣な瞳に、私は負けた。「……分かった。でも、この子だけは助けてあげて」
「よし、任せろ!」
「全く、頑固な人ね!こんな人だった?新堂和矢って人は」
「ああ。大抵はユイに負けるけどな」
「なら今回はあなたの勝ちね」
こうしてドクター新堂は宣言通りに重傷の少女を救ったのだった。
「シュクラン・ジャズィーラン!」母親は私達に感謝の言葉を述べる。
「アフワン、いいんですよ」片言のアラビア語で返した。
そしてホテルに戻って一息つく。
「しかしユイ、よくスリを捕まえられたな。半分諦めてたんだ。まあ、金目の物は入ってないし、犯人もすぐに手放すだろうとは思ったがね」
犯人があの少年だった事は黙っていた。
「いいえ、十分価値ありよ。何せ、あなたのは高級チタン製なんだから?」チタンは高く売れる。
軽く笑ってから彼がこんな事を言った。「本当に嬉しいよ。これが、人殺しに使われるのだけは許せないからな」
その理由はいかにも新堂さんらしくて、私はそんな彼の膝の上に乗って抱きつく。
「……ユイ、何だか体が熱いようだ」
「そう?」自分の額に手を当ててみる。「そういえば、ちょっと頭が痛いかも……」
「今日は少し走りすぎたな」
苦笑いで答える。「そうね、久々にあんなに走った。途中で思わずバイクの力を借りちゃったわよ……。疲れただけだと思う。イーグルとの面会が済んだらすぐに休むわ」
面会まであと少し時間がある。
彼に抱きついて大きく息を吸い込み、大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込んで、束の間の安らぎを満喫した。
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