この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第二章 人生は万事、塞翁がウマ!

  長湯効果(2)

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 目を覚ました時は車の中だった。

「あれっ?私……どうして」緩やかに倒された助手席のシートから身を起こす。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」運転中の彼が尋ねた。
「何ともない。ねえ、私いつの間に……温泉は?」
「脱衣所で倒れたんだ。時間を過ぎても来ないから、心配したよ」

 何でも、彼が女湯の前で待ち構えていたら、いきなり女性がバスタオルを巻きつけたままの姿で飛び出して来たそうだ。それは間違いなく彼女だろう。

「……ごめんなさい、長湯しすぎたなって思ってたけど、まさか倒れるとは」
 本当はそれだけが理由ではないが、心配させたくないのであえて言わない。
 彼は軽く首を横に振ってから言った。「楽しい時間を過ごせたみたいで良かったよ」
「どうして知ってるの?」

「彼女に状況を聞いた。長湯させたのは自分だって何度も謝ってたよ。着替えも手伝ってくれてね」
「そうだったの……。そう言えば、あの子の名前聞いてなかった」
「何だ、そうなのか?俺も聞いてないぞ。てっきりユイが知ってると思ったから」
「お礼も言えてないのに!」大失敗だ。あんなに長時間話していたのに?
「そこは代わりに言っておいたよ。ところで、何があったんだ?」

 この質問から、どうやら倒れた理由が長湯だけではないと気づいているらしい。
 それでもこう言い返す。「だから、おしゃべりに夢中で時間を忘れたって……」
「とぼけるな。最後に話していた内容もちゃんと聞き出したぞ?」
「ええっ?女子トークの内容を?!ヤっダぁ~っ、先生ったらエッチ!」両手で口元を覆って騒いでみる。
「無粋だとは思ったが……重要な事だ。倒れる直前に胸を押さえていたらしいしな」

 そこまで把握しているとは驚いた。この人に隠し事は無理のようだ。

「考え事……してただけよ」
「まだ記憶があやふやな部分があるんだろ。その事が関係してるんだよな?なぜ隠す」
「だって新堂さん、その話、あんまりしたくないみたいじゃない?」

 無言で前方だけを凝視しハンドルを操作し続ける彼だが、急に口角が上がったのが分かった。この状況で笑った?
 そして彼は言った。「自分を二人の男が奪い合う、って話だったか」
「そう、だけど……」そこでなぜその表情をするのか。
 理由が分からず、彼の横顔をひたすら見つめる。

「ユイも女だな、と思って?そういうのがお望みか。奪い合ってほしいとは!」
「なっ!何言ってんの?別にそんな事言ってないし!」恥ずかしさでカッと熱くなる。それではただの自惚れ女ではないか?
 人の気も知らずに、彼はしばらくの間笑っていた。

 冷静に考えてみれば、キハラと新堂さんが私を奪い合ったとして、彼が勝利を収める事はほぼない。相手が悪すぎる!キハラは絶対に負けないから。
 けれど今、私の横には新堂さんがいる。それはつまり、そんな対決などしていないという事だ。

「あ~あ!それならそうと言ってよ。意味深に隠すから、こっちも身構えちゃったじゃない?」
「それよりユイ、胸、苦しかったのか?診察した時は特に異常はなかったんだが」
「うん。急にこう、グッと締め付けられたようになって」
「それは前にも?」
 この問いに、すぐには答えられなかった。

 動悸が激しくて辛いあの症状とは違う。けれど、私はどこかでこの苦しさを味わった事がある。それは病的なものではなく……精神的なもの?

 答えない私に再び彼が口を開いた。「当分、ユイを一人で湯に入れるのはやめだな」
「ええ?それ関係ないと思うけど!なら、毎回あなたが一緒に入ってくれるとでも?」
「他に誰がいる」
「いません!いたら困るでしょ!」まあ、それもいいか。想像して一人ニヤつく。

「あの彼女に、また会いたいな……」
「保険の外交員って言ってたな。その線から探してみたらどうだ」
「冗談でしょ!全国に何万人いると思ってるの」
「またあそこに行けば、いつかは会えるかもな」
「私、あそこ行きずらいわ……迷惑かけてるし」
「そんなの気にする事はない。とても親切だったぞ、あそこのスタッフ」

 彼が温泉施設から出る時の事を教えてくれた。
 迷惑をかけた事を詫びると、私の無事を心から喜んでくれたとの事。そして貸切を願い出た件についても、事情を知り納得してくれたそうだ。
 ただあそこが人気のスポットという事もあり、ご要望にお答えできず、と頭を下げられたとか。

「またご一緒に是非いらしてください。万全の態勢で対応させていただきます、とまで言われて断れるか?」
「そうだけど……。あ、ねえ?新堂さん、女湯ゾーンに入って来たって事よね?」
「それも、彼女のお陰で痴漢扱いは免れたよ」

 男性を入れる事に難色を示す客がいた中、この子が死んだら責任を取れるのかと彼女がタンカを切ったそうだ。目に浮かぶような話ではないか!

「近年、心疾患の患者は増加傾向にある。そんな話まで持ち出して説得してくれた」
「さすが保険会社勤務ね」
「欲を言えば、ロッカーを開けてから倒れてほしかったな」
 その場所も彼女が教えてくれたらしい。本当にあの子と一緒で良かった。
 その後、施設のスタッフが従業員用の仮眠室に案内してくれたそうだ。

「……本当に、みんな親切でいい人達。今度行ったら、ちゃんと自分でお礼言うわ」
「ああ。そうしろ」
 私は彼に向かって微笑んだ。

「それにしても。今の女性は大胆だな!」唐突に何かを思い出した様子で彼が言う。
「何?それ、どういう事?」
「言っておくが、見たのはおまえの裸だけだぞ?」
「……なら、何が大胆なのよ」

 彼がくくっと短く笑い声を発する。どうやら何か思い浮かべているらしい。

「何よぉ~、怪しい。教えなさい!」
「それよりユイ、彼女に、俺に叱られるからって言ったんだって?」上手く話をすり替えられた。「だって、本当の事でしょ!」
「確かに。つい倒れたおまえを、第一声で叱ってしまったしなぁ」
「ほらやっぱり!」

「けど、叱られるのも満更じゃないんだろ?」彼女に何を入れ知恵されたのか、こんな事を言ってくる。
「それは……そうみたい」聞こえませんようにと祈りながら、究極の小声で本音を答えたがムダだった。
 新堂さんはついに声を出して盛大に笑った。

「私に指図できるのは、あなただけよ、新堂和矢」ため息をつきながら呟いた。


 一向に思い出せないキハラと彼の関わるある出来事。長湯効果とでも言おうか、あのフラッシュバックで一歩前進した気がする。これを踏み台にどうしても思い出したい。
 あくる日の昼下がり。書斎から現れた彼にコーヒーを淹れながら、どこまでもさり気なく話を切り出した。

「ねえ。新堂さんて、キハラに会った事あるよね?」
「ああ、あるよ。なぜだ?」
「別に。仲は……いい訳ないよなぁって思っただけ」

 キッチンからコーヒーを運ぶ私に目を向けて、彼が首を傾げた。
「逆に聞くが、なぜ俺とキハラは対立する必要がある?」
「なぜって……あれ、何でだろう?」
 どうしてか私は、二人は仲が悪いと決めつけていた。別にキハラが私に想いを寄せていた訳でもない。弟子の私に恋人ができても何とも思わないはずだ。

 テーブルにカップを二つ並べて彼の横に腰掛ける。

「性格的に対立しそうだなって思ったのかな!」
「何だそれは」彼は鼻で笑って、コーヒーを一口啜った。そして続ける。「俺は争い事は好きじゃない。好んで競い合うのはお前達の嗜好だろ」
「そうでした」
 そう、新堂さんはいつだって受け身だ。自分から向かって行く事はほとんどない。ケンカは売られないとしないタイプ!

「二人は正反対だよね、それ考えると。私、何であなたの事好きになったんだろ?」
「それはキハラの事が好きだったのに、と言ってるのと一緒だが?」
 新堂さんが私の方に体を向けて抗議するも、私は否定しなかった。
「そうだよ」だって本当の事だから。私の初恋の人はキハラ・アツシだ。

 彼が私を見つめたまま沈黙した。何を考えているのだろう?何の感情も読み取れない。
 しばらくして視線を外し、立ち上がった。

「そうだユイ、今度いつ射撃の練習するんだ?こんなに腕のいい教官が近くにいるのに、習わないのは損だよな」
 あまりに予想外の話題に、私も思わず立ち上がってしまった。
「えっ!それ本気で言ってる?」夢でも見ているのでは?
「まあ冗談では……ないかな」曖昧な言い方だが、やる気は確かのようだ。
「ステキっ!!正しい判断よ、新堂先生。技術は身に付けておいて損はないわ。すぐやろう、今すぐ!」

 そそくさと部屋を出て必要な物をバッグに詰め込み、再びリビングに向かう。
 彼はまだソファにぼんやりと座ったままだ。

「行動に移すのが相変わらず早いな」どこか呆れているようにも聞こえる。
「あら。先生には負けるわ」
 この言葉には、緊急でもないのに会社を休ませてまで検査に行くあなたには!という嫌味が込められている事を、彼は気づいているだろうか?

「ほら、早く行こうよ。早くしないと暗くなっちゃうわ」何せ舞台は山の中だ。
 そこでふと思いつく。「ああ、夜間射撃の方がお望みっていうなら、それでも構わないけど?」
「最初から夜間はありか?」そう言いながら、ようやく彼が立ち上がった。
「自信があるならいいんじゃない?」

 彼が肩を竦めた。

「あれも持ったか」私の手にしたバッグを見下ろして言う。
「あれって?」
「実弾は気が引ける。初心者の俺はあっちでいい」
 彼が顎で示したのは、モデルガンが収められている引き出しだった。

「ええ?ダメよ、そんなオモチャじゃ!重量も発射時の反動も全然違うのよ?」
「的を狙うセンスを訓練するくらいなら、十分だろ」
 不満いっぱいの私を他所に、彼は引き出しからモデルガンを取り出して私のバッグに入れてしまった。
「んもう、しょうがないなぁ。とにかく行きましょ!」


 裏山の射撃スペースにて、木の幹に的の紙を張り付け終えて彼を振り返る。
 モデルガンを弄びながら木に寄りかかっている。その姿はどう見てもやる気を感じられない。

「ちょっと新堂さん?緊張感がなさすぎよ!」
 私の声を受けて、彼がようやくこちらを向いた。
「さあ、イーグルに突き付けた時みたいに構えてみて」

「やれやれ」
 彼はなぜか左手にガンを持って、銃口を的の方に向けた。
 一瞬、その姿にキハラが重なる。朝霧家を抜ける時に父義男に右腕を切り落とされたキハラは、左手一本でコルト・パイソンを構えるのだ。

「うっ……何?」唐突に息苦しさを感じて俯く。
 当然彼が透かさず反応した。「おい、どうした、大丈夫か?」

「何でもない!新堂さんたら、どうして利き手で持たないの?」
 お陰でキハラの事を考えてしまったじゃない!腑抜けた今の自分を見たら、さぞや嘆くだろうなどと?
「右手は大事な商売道具だ。ケガしたら困ると思ってな」
「モデルガンでケガは心配ないと思うけど!まあいいわ。利き手じゃない左なんかで狙いが定まると思ってるの?試しにこの的を狙って撃ってみて」

 どこまでも本気度の感じられない彼にイラ立ちが募って、もはやケンカ腰だ。

「気を逸らすためとは言え、俺の意に反する……こんな行為は!」
 彼が何やらぶつくさと言っているが、よく聞こえず。「何か言った?」
「何でもない!行くぞ」

 念のため的からもう一歩離れて見守るも、案の定、弾はあらぬ方向へ飛んで行った。

「だから言ったじゃない。真面目にやって!」
「……参ったね」
「いい?これは敵よ、撃ち損じたらやられるの、しっかり狙って!」
 自分のこんな言葉に戸惑う。撃ち損じたら、やられる。大切なものを失う……。

 またも胸が苦しくなる。けれど今は堪える。彼のBB弾の行方を見届けるために。

「クソッ……!」珍しく彼が口汚い言葉を吐き出した。
 その目の色が一瞬変化する。何か屈辱的瞬間を思い浮かべたか。ガンを両手で握り直すと、躊躇なく引き金を引いた。
 彼の弾は見事、的のど真ん中を撃ち抜いていた。

「やったぁ~!命中よ!」手を叩いて大喜びする。自分の事でもここまで喜ばない。
 だって私には命中が当たり前だから?
「どうだ、俺だってやればできるんだ」彼が的の方に歩み寄りながら言った。
「うんうんっ、ステキ、新堂センセ!」
 やって来た彼に抱きつく。

「ユイ、さっきからまたここ、苦しいんだろ。もう帰ろう。ちゃんと診せろ」
 密着した体をやや離して、彼が私の左胸に手を当てた。
「ホント、目敏いんだから……。お願いします」素直に受け入れた。

 私に休んでろ、と言い残して手際良く片づけをしてくれる。やがて荷物を持つと、私の背に手を当てて家に向かう。

「大丈夫か?」
「うん。もう収まってるし。何だったんだろ」
 彼は難しい顔で黙っている。「新堂先生……」心配になって呼びかける。
「ん?ああ、大丈夫だ、大した事はないと思うよ。それよりやけに重いな、これ?」手にしたバッグを持ち上げて言う。
「つい嬉しくて、弾を入れすぎちゃった!」

 重いはずだ。バッグの中には、コルトを筆頭に弾丸の詰まった箱が二箱も入っているのだから!
 それを見て、彼が青い顔をしたのは言うまでもない。


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