この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第三章 適材適所が成功のカギ

  リングの真相(2)

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 薄暗いエントランスを抜けると、広々とした寛ぎスペースになっていた。ここにもヤクザ風の男達が数名いるが、女性の姿はない。
 室内を見回すと、壁際に二階へと続く階段が見えた。

「さあ、客人が二階でお待ちだ」
 予想通り上に案内されて階段を上がるも、時折ギシギシと軋む音が鳴る。
「ねえ?ここ、改装とかしないの?」思わず言ってしまった。
「古くて悪いな。改装はしない。もう時期取り壊す予定なんだ」

 ふうん、と頷きながら階段を上り切る。
 二階は奥が全面大きなバルコニーに面していて、一階よりも明るく開放感がある。そんな開放感の中で、椅子に縛られた外国人の女。タブレットの画像の女だ。その左右に二名ずつ監視役の男達が付いている。

「待たせたな。大人しくしていたようで何よりだ!」
 神崎さんが言った日本語を、大垣がタブレットで翻訳して音声にする。
 静かな室内に、機械的な女性の声でスペイン語が流れた。
「便利になったものだ!通訳入らずだよ」私に向かって軽くウインクを飛ばす神崎さん。
「ふふっ、それは良かったわ」

 こんな会話の中、女は新堂さんを見て硬直している。

「新堂先生。最初に何か、おっしゃりたい事があればどうぞ」
「では。一言だけ」新堂さんが女を見据えた。
「どんな事情か知らないが、気安くウラの世界に手を出さない事だ。今回の事ですでに分かったと思うが?」言い終えると、大垣に目を向けて翻訳を依頼する。

 再び室内に機械音が響く。
 その音を遮るように、女が切羽詰まった声でしゃべり始めた。その音を聞き取ってタブレットが翻訳する。
『どうしても!……どうしても今あれが必要になったんです。そんな事を言えた義理でないのは百も承知。先生にお渡ししたあの時は、こんな事になるとは夢にも……!』

「なら、そう言って彼に交渉するって選択肢はなかった訳?」私は問いただす。
『そもそもまだ先生が持っているか定かではなかった。それに、とてもクセのある闇医者。簡単に返してもらえるとは思えない。それで……』
 タブレットを通した会話は続く。
「失敬な言い様だな!大体君が金の代わりにと自分で申し出たんじゃないか。こちらは渋々承諾したんだ。金が用意できたならいつでも返したぞ!」思わずといった様子で彼が反論した。その声音には怒りが滲んでいる。

 クセのある、は間違っていないけれど?と思いながらも、ようやく見られた女への怒りに内心ほっとする。

 続いて神崎さんのドスの利いた声が響く。「お前の勝手な振る舞いのせいで、我々がどれだけ迷惑を被ったか分かるか?この落とし前はつけてくれるんだろうな?」
 震え上がる女に同情したとは思いたくないが、彼は言った。
「神崎社長、もう結構ですよ。私の方は相応の金さえいただければ返却してくださって」

 しかし女はか細い声で呟いたのだ。『お金は、ありません……』
 新堂さんの視線が女に向く。その顔にはもう何の感情も表れていない。

「だそうだ。どうします?先生!」神崎さんが楽し気に叫ぶ。
「彼女の拘束を解いてください」新堂さんが静かに言った。
「逃げ惑う獲物を背後から仕留めるか。なかなかに残酷だな、先生は?」さらに楽し気な神崎さんに彼は即座に返した。「そんな事はしない!」

「縄を解いてやれ」
「ボス、本当にいいんですか?」女の左右を固める部下が確認してくる。
 神崎さんは手振りだけで再度やるよう合図した。

 一体どうする気だろう?この状況で、この素人の女に逃げ道はないだろうが。

 成り行きを見守っていると、自由を取り戻した女は椅子から立ち上がって私の方を見ている。そして神崎さんに向かって訴えた。
『彼女に謝りたい、もう少し近くに行かせて』
「構わんが、手など出してみろ。もう二度と国には帰れなくなるぞ!」
 神崎さんはこう言い放つと、女を取り押さえていた部下達を下がらせた。

 女は一歩一歩足を進め、私の目の前で止まった。
 何かされるのではと身構えたが、そんな気も吹き飛ぶくらい女は震えていた。

『あなたを襲わせた事は謝ります。こんな……あなたのような方とは思いませんでしたので……っ』そう言って頭を下げる。
「それって、チビで子供みたいでいかにも弱そうって?」ムッとして思わず言い返す。
『そんなんじゃ!私の事、好きにしてください。こっ、殺されても仕方なっ……』

 後半、涙声になって訴えてくる様子に、ため息が漏れた。

「ユイ、好きにしていいって言ってるぞ!」
「神崎さん、やけに楽しんでない?」半ば呆れて兄を見る。どこからそのテンションが湧いて出るのか!
「楽しむ?俺は怒ってるんだ。可愛い妹を何度も危険な目に遭わせた。当然だろう」
「好きにって言われてもねぇ」コルトで脅そうにも、車に置いて来たし?

 手を出さない私を前に、突然女の平手打ちが飛んできて私の左頬にパチンと当たる。

「……いった。何するのよ!」
 条件反射的に女に平手打ちを返す。思わず力が入ってしまい、女は横に倒れ込んだ。「あっ、やりすぎた、ゴメンなさい……」
『……いいの。こうでもしないと、あなたは手を出してくれそうになかったから』
 女は打たれた頬を押さえながら、上体を起こし力なく笑った。

「全く!ホンット何なの?あなたは……。それだけ度胸あるなら、初めから正々堂々交渉に来なさいよね」掴みどころのない女だ。人の事は言えないが?

「甘いな、お前達は……。その程度で許すのか?」
 この場で神崎さんだけが怒りに満ちた顔をしていた。
「もういい。俺がやる。お前達の代わりに!大垣」横に控える大垣の方に手を伸ばす。
「はっ」大垣は懐から黒い鉄の塊を取り出して差し出した。

 兄が要求したものは、あろう事か拳銃だった。

「神崎さん!やめて、何も殺さなくても……」
 私の制止は効果なしだった。
 右手にはいつのまにか例のリングが掲げられている。
「これが欲しいなら、俺から奪ってみるがいい。安心しろ、俺の利き手は右だ」
 拳銃を握る手が利き手でないと暗に示す。

 この時不意にどこからか、聞き覚えのある声が私の中で響いた。
〝できるものならやってみるがいい!この俺から、奪えるかな?新堂先生よ!〟
 それは師匠キハラの声なのだが、何を奪えと言っているのか分からない。

 思案している間にも現実の世界は展開して行く。

『どうぞ殺してくださいっ!こうなる事は覚悟の上で、ここに来ました。その代わり、リングは必ず私の家に送り届けてください』

 女が泣き叫ぶ声で我に返る。

「そうか。のこのこ付いて来たが、覚悟があったとはな!ところでお前を殺したら、金は手に入るのか?」神崎さんが銃口を女に向けて言った。
「やめろ!」すぐさま新堂さんが叫ぶ。

 神崎さんの姿がキハラと重なる。余裕の表情で笑みさえ浮かべながら、左手で銃を向けるその姿。なぜか私の胸が悲鳴を上げる。
「っ……。胸が、痛い」この痛みは久しぶりだ。
 これには間違いなくキハラが関係しているのだろう。
 二人は何かを奪い合っている。それも拳銃を向けて、つまり命懸けで!

 新堂さんは目の前で繰り広げられている殺人劇に気を取られ、私の異変には気づいていないようだ。

「まあどうでもいい。金は俺が立て替えてやる。お前の命と引き換えだ!」神崎さんはこう言い放つや、トリガーを引いた。
「ダメーーっ!」
 私は無意識に神崎さんの正面に飛び出していた。

 こんなのは自殺行為だ。そこまでこの女が大事なのか?違う。この時私は、とても取り乱していた。
「……キハラ、お願いよ……」私の口からこんな言葉が零れる。
 自分はこの場にいない人物になぜ懇願しているのか。それとも、もうここは現実世界ではないのか。
 そうか、私は今撃たれて死んだのかもしれない。

 私が目にしているのは、初めて見る膝を折った痛々しい師匠の姿。
〝お前と共に、もう一度生きたかった……。あの世で、待ってるぜ……!ユ、イ〟
 悲痛な最後の言葉が頭の中を駆け巡る。
 その声の後ろで騒がしく何人かが叫んでいる。

『……、しっかりしろ!』
 抱き起こされ、耳元で誰かが言う。
『外傷は……』
 胸が、とても苦しい。撃たれたのは胸なのか?やっぱり私は……。

『女、お前が巻き起こした現実をよく見ておけ!……ユイの行為に免じて命は取らない。その代わり金は払ってもらう。一生かかってもな!支払いが滞った時は……分かっているな?』
 これは兄の声だ。とても怒っている声。
『私は、私は……何て事をしたのでしょう……!お金は、きちんと払います』

 女はまた泣いているようだ。これなら十分反省していると言える?ねえ新堂さん。

「しん、どう、さ……」苦しみの中で何とか訴えようと力を振り絞る。
「ユイ!分かるか?きちんと呼吸するんだ!おまえの心機能は正常なはずだ。聞こえてるか?おい、返事をしろ!」
 私の体を抱き起こしていた彼の声が、さっきよりもはっきり聞こえた。
「私は、キ、ハラ……を」

 違う。撃たれたのは私じゃない。私は撃ったのだ。そして……。
「殺、した……」
 モヤモヤしていたものが一気に晴れた。その瞬間、私の意識はプツリと途切れた。

 そのまま自分は、きっと夢を見ていたのだと思う。
 登場するのは私を想ってくれる人達だ。敬愛する我がキハラ師匠、愛する新堂さん、大好きな兄、そして同志のような大垣。

 ここは、どこかとても明るい雲の上のような空間。

 そこでキハラ師匠が私に告げる。〝これからも、ちゃんとお前の事見てるからな。下らん事でしくじりやがったら、ただじゃおかんぞ?〟
「ああキハラ……。私は!」
 私の声が届く前に、キハラは声と共に消えていなくなった。

 場面が変わり、どんよりした空が少しずつオレンジ色に染まり始めた屋外。そこで兄と新堂さんが話している。

『申し訳ないが、急用が入って社に戻らねばならない』
『問題ありません。行ってください、後は私が対処しますので』
『しかしユイの事が心配だ……後で様子を見に行くよ』
 新堂さんが恭しく頭を下げていた。

 彼は兄をどう思っているのだろう。もはや兄もキハラ同様に、彼の嫌うウラの世界の人間だ。
 そんな事を思う間にも、次々とステージが切り替わって行く。今度は自宅だ。私はベッドに寝かされている。そのベッドサイドに集う三人。

『……。ユイをまた苦しめる事になる。そう思うと、思い出させたくなかった』
『俺の妹を見くびらないでくれ?一度乗り越えた事ならば、必ずまた乗り越える』
『恐れながら自分も同意見です。ユイさんは先生を一番に愛していらっしゃるのです』
 この静かに低く響く声はさらに続ける。朝霧ユイは色々な意味で強い、自分が唯一強いと認めた女性だと。

「ああ、大垣さん……ありがとう!」


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