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第五章 扉の先で待ち受けるものは
42.春ランマン(1)
しおりを挟む待ちに待った四月、春爛漫だ。
「そろそろ退院の許可を出そうかな」
主治医のこんなセリフに、私達は声を揃える。「待ってました!」
嬉しさいっぱいで新堂さんを見る。彼も私を見て微笑んだ。
「朝霧、こいつが無理しないように、よぉ~く見張ってろよ?」新堂さんの方を向いて目をすがめる貴島さん。
「了解です!」私も彼を見て、こちらはニッコリ笑顔で力強く答える。
「見張られるなんて、嫌な感じだなぁ」
ボソリと呟いた彼だが、私達の強力な視線には勝てなかったらしい。
「もちろん無理はしないよ」すぐにこう訂正した。
「よろしい。定期的に検診に来るように」
「それも責任持って私が連れて来ます!」
私の言葉に頷く貴島さん。「取りあえずはまあ、三ヶ月ごとだな」
「あら。何なら毎月来てもいいけど?」と彼を見やれば、頭を掻きながら苦笑している。
「あんまりイジメないでくれよ……」
「あ、ねえ貴島さん。これまでの入院費や治療費諸々、清算して。払うから」
「おお、そうだった。貴島、教えてくれ」彼が同調する。
しばし無言の貴島さんだったが、おもむろに立ち上がると電卓を手に戻ってきた。
「そうだな……まず、使った薬剤だろ、部屋代はいいとして光熱費と……」
しばらく電卓と格闘した後、「ざっと七、八十万ってとこか」と言ってきた。
私には相場が分からない。
新堂さんを見ると、彼は首を横に振っている。「それはおかしい」
「あ?高かったか」心配そうに貴島さんが聞いてくる。
「そうじゃない、安すぎるって言ってるんだ。気なんか遣うなよ。ユイだって世話になったんだし、今まで仕事もできてなかっただろ?」
「ちなみに俺のオペの相場はいくらだったか……なあユイ?」突然話を振られる。
「え?あなたの?昔よりは良心的価格になってたよね、三千万とか」
「よし。それで行こう」
貴島さんはギョッとした顔で私達の会話を聞いている。
「親しき中にも礼儀あり、だろ?」と新堂さんがいつぞやの私のセリフを口にした。
「異議なしだけど、それ私が払うわ。そもそも私が依頼したんだもの」
「な、なあ……、俺はお前らと違ってごく一般的な医療をだな……」
こんな訴えを手で制した彼が、私に向かって言い始める。
「おまえのパート代で払えると思ってるのか?車を買って貰っただけで十分だよ」
「まだイーグルのドルが残ってる!」
私達の睨み合いが続く中、ついに貴島さんが言い放った。
「なあって!ケンカするなよ、そんな事で!どっちからもそんなには貰えない。なら一般的相場の百五十万で頼むよ。そんでもって、金は新堂から貰う事にする」
「……何よ。やけに一方的じゃない」私としては不満が残る結論だ。
それに対し彼はあっさりと受け入れた。「分かった。俺が払う。ただし、それプラス、ユイの宿泊費と迷惑料もな」
「だったら三千万じゃなくて三百万でどうだ!」
最後は年の功、という事で(?)、貴島さんが丸く収めた形となった。私も新堂さんも納得の行かない終わり方ではあったが、主治医がそう言うのならと受け入れた。
何はともあれ、ついに自宅へと帰れる事になる。念願の念願の退院だ!
一方悲しんだのはまなみだ。すっかり私達との共同生活に馴染んでいた彼女は、なかなか承諾してくれなかった。むしろこちらの説得の方が難航している。
「イヤイヤっ!もう二人ともこっちに引っ越したら?ねえユイ、新堂センセイも!」
「まなみ、いい加減にしろ。もう中学生なんだから我がまま言うな。二人が困ってるじゃないか」
愛しのソウ先生の説得にも応じず、目に涙を溜めたまなみは切ない訴えを続ける。
「まなみ、私も寂しいよ。けど、三ヶ月に一度は必ず来るんだし、その前にだって時間があれば遊びに来れる。そうだ!今度は二人で泊まりにおいでよ、ね?」
新堂さんを見て同意を求める。
「ああ、それがいい。そうだまなみ、ピアノ弾きに来い。教えてやるよ」
「新堂さんのピアノ、プロ並みなんだから」とまなみに耳打ちする。
「ん?新堂、ピアノなんか弾けるのか!何だよ、やっぱその習い事は金持ちの特権か」
「ちょっと貴島さん、そういう僻み根性みたいなの晒すのやめてくれる?」
「何だと?」と貴島さんが目の色を変えて私を睨む。
「何よ」
ここで割って入ったのはまなみだった。
「あ~っ、ソウ先生もユイも!抑えて抑えて!ケンカしないの!分かった、分かったから。……二人とも約束よ?私、絶~っ対に遊びに行くからねっ」
まなみは本当に大人になった。ちゃんと空気を読める子だ。
私は彼女の髪をそっと撫でた。「ありがと、まなみ。大好きよ!二人とも、お世話になりました」
こうして約三ヶ月ぶりの我が家にて。
「今日はお祝いね!何か美味しいもの作るわ」
「そうだな。ありがとう。……なあユイ?」
「何?」
「あれから、腰の具合はどうなんだ」
「腰?何で?例の骨髄採取の場所ならもう全然平気よ」
「いや、そうじゃなく……」口籠もる彼にピンと来る。
「ほら、高熱が出ると体中が痛くなるでしょ。前にもあった。それで痛くなっただけよ」
「そうじゃない時だって、時々痛みを訴えてただろ。一度、精密検査をしよう」
「何も異常がなければ、しなくていいって言ってたじゃない」
「異常は、あっただろ」
彼の言うそれが、ドナー体験の直後に立てなくなった事だと理解する。
「だってあれは……!」ただの精神的なもの。そういう意味を込めて見つめる。
けれど彼の強い視線に耐えられず、ついに下を向いた。
「おまえを責めてる訳じゃない。顔を上げてくれ」小さくため息をついてから、私の肩に手を置く。「検査、受けてくれるよな?俺のためにだ」
「ずるいよ、そんなふうに言われたら断れないじゃない……」
「決まりだ!それじゃ、明日な」
「ええっ!明日?そんなに急がなくても……」
「予定でも入ってるのか?」
「そろそろパート先に顔出さないと、さすがにクビになっちゃうよぉ!」
体調が戻ったのは嬉しいが、この行動力の早さにはやはりついて行けない。
「ねえ?退院したからって、無理しないでよね……?」
貴島さんとの約束は果たせるのだろうか。この人に無理をさせないよう監視など!
「無理なんてしない。オペをする訳じゃないんだ。看護師にも手を借りる。心配ない」
「そうだ!レントゲンだけなら一人で行ってくるよ?」写真持って帰ればいいでしょ!と続けるも、彼が驚いたように見てくる。
「……何よ」
「いや。ユイの発言とは思えないな、と」
「だって……。もうっ!それ以上イジメないでっ」
進んで病院に行くなど、私だって好き好んで言ってはいない。あなたのためだから言ったんじゃないか。
「悪い悪い、そんなつもりじゃなかった」
気分を害した事を伝えるべく、彼から勢い良く顔を背ける。
「ユイの主治医はこの俺だ。レントゲンだって立派な診察。一人でなんて行かせない」
何という責任感の強さだろう。参りました!口には出さずに肩を竦めた。
「心配するなって」彼が私の背を優しく叩いた。
翌早朝に行きつけの病院で機材を借りる手筈が整い、新堂さんは退院早々、めでたくドライバーと主治医の復活を果たせる事になった。
そして翌朝。まだ薄暗い時間帯だ。
「ユイ、起きろ。行くぞ」
「う~ん……、もう?」まだ半分眠ったままで答える。
「そのままでいいから。さあ起きて」
「えぇ~、このままって、パジャマだよ……?」
ベッドの布団を剥がし、私を見下ろしてあっさり一言。「構わんだろ」
「嫌だぁ……、恥かしい」入院患者じゃあるまいし?
「時間がないんだ、すぐに行く」
寝ぼけ眼の私を無理やりベッドから抱き起こし、パジャマの上からコートを着せられ、車の後部席に放り込まれる。
「ねえってばぁ……、ブラもしてないんですけど」寝る時は着けない主義だ。
「必要ない。どうせ外すんだから」
「んもう……」言いながらも、眠気が勝っていて内心どうでもいい。一体今何時だ?
「着いたら起こすから寝てろ」
こうしてやって来た早朝の病院はガラガラだ。
「ユイ、着いたよ」
「う~ん……。イタタ……」無意識に口から出てしまった。
すぐに反応する優秀な我が主治医。「どこが痛い?」
「腰が……」実はあれからずっと腰は痛い。
彼が顔をしかめているのに気づき、ようやく意識がはっきりしてきた。
「あ!違うよ?ほら、今変な体勢で寝てたからだよ?」
「とにかく行こう。八時までには済まさないと。外来患者が来る前に」
隅に車を停めて裏口から入る。すでにこの病院は何度も使っているので、彼はほぼ顔パス同然だ。
あら先生、お久しぶりです~!などとナースが親しげに声をかけてくる。なぜかナースだけが!
「ねえ?女性陣だけ、やけに馴れ馴れしくない?」
「そうか?ただの挨拶だろ」
口を尖らせながらナース達の後ろ姿を睨んだ。
「いいから、ほら、早くしろ」
「ああ、ごめん……」
「で、いつから痛むんだ?」
「え?」
「腰、痛むんだろ」
検査室にて、手を貸してもらいつつ検査着に着替える。
さり気なく彼が問題の箇所に直に触れてくる。
「腰痛なんて皆持ってるでしょ。人間二足歩行になってからは悩みの種!ってね?」
無言の彼に訴える。「ねえってば……何か言ってよ」
「痺れや違和感は?今じゃなくても感じた事はあるか?」
「ない、と思う。すぐに疲れて痛くなるだけ」
さり気なく触れていた彼の手に力が入って、強く一部分を指圧された。
反射的に体がビクリと反応して、小さく悲鳴を上げてよろめいた。
「そこに座れ」
「今の何したの?ツボか何か?……ビックリした。一瞬力が抜けたんだけど」
彼の誘導でゆっくりとベッドに腰を下ろす。
「複雑な神経回路なんだ、おまえのはな」
「何よそれ。あ~あ!」すでに嫌気が差している。
その後だんまりを貫いた私のお陰で(?)スムーズに検査を終えた。
彼が真剣な様子で出来上がった画像を見ている。
「どう?どこか変?」
「う~ん……、そうだな……」言葉少なで考え込んでいる。
そんな姿が気になって、しつこく聞かずにはいられない。「変なの!?」
「少し黙っててくれ!」彼がピシャリと言った。
「スイマセン……」
言われると思った。彼に見えないように軽く舌を出してため息をつく。こうなるから検査中はだんまりを貫いたのだ。
ベッドに腰掛けたまま、腰を左右に捻って軽くストレッチを始めた。
「何て言うかさ~、すぐに凝るのよね。この辺が!」腰に手を当てて訴える。
彼が画像から目を離して私を見た。「もう一度オペをやり直すか……」
「っ!今なんて?!冗談……でしょ?」
「満更、冗談でもない」実際その顔は真剣そのものだ。「ウソ……」言葉を失う私。
そうなったらもはや、パートの継続は絶望的ではないか!
「まあ、もちろん今すぐじゃない。俺も今は本調子ではないし。そのうち考えよう」
「考えなくていい……。むしろ考えないで!何なら忘れてくださいっ」
ブツブツ言う私を無視して、彼は難しい顔を続けていた。
そんなこんなで、またも問題勃発の予感にうんざりしながらも帰宅。
直後に嘆く。「やっぱり着替えてけば良かった!」
「なぜ?」
「結局待合で待ってる時、外来の患者さん結構来てたじゃない」
「それが?」
「パジャマの人なんていなかった!」
「そんなの誰も気にしてない」
「何よ、新堂さんだって、寝巻のまま病院に行きたくはないでしょ?」
「俺は着替えて行くな」
「ほら!ズルい~!」
「おまえが早く起きないからだろ」
「あ~、ヤダヤダ!」相変わらず膨れっ面の私なのだった。
とはいえ、こんな言い合いをしつつも嬉しかった。彼が書斎に行ってしまった後、一人でしばらくニヤついていたくらいだ。
やっぱり私の主治医は新堂和矢がいい!
しばらくして彼がリビングに現れた。
「新堂さん、お茶飲む?」
「ああ。ありがとう」
二人分の湯のみを運んでリビングテーブルに並べ、横に腰掛ける。
今日病院でナースの姿を見ていて、思い出した事がある。
「あなたが貴島さんの所にいる間に、奈緒ちゃんに会ったの」兄の方にも会ったが、そちらの件は言わないでおく。
「奈緒って、西沢の妹のか?」驚いた顔で聞き返される。
「そう。立派にナースしてたわ~。ホント良い子よね、あの子!」同年代だが。
「ああ。兄に似なくて良かったよ」
「同~感!」
お茶を啜りながら頷いていると、彼が顔を私の方に向けた。
「で、何しに行ったんだ?」
「ああ、それは決まってるでしょ……っと、いけない!」
言いかけて思い留まるも、すぐさま催促が飛ぶ。「何が決まってるんだ」
これを言ってはいけないのだ。つい口が滑るところだった。
返答に困っていると、容赦なく畳みかけられる。「まさか、俺の過去を暴き立てるつもりじゃないだろうな?」
「な!何の事?暴き立てるだなんて人聞きの悪いっ」紺野さんとの会話を思い出して慌てる。予感的中です、紺野さん!
「どうせ、俺がどんな子供だったのか知りたくて、探りにでも行ったんだろ」
「そうか、その手があった!新堂さんの弱みが握れるかも?」今思いついたとばかりに言ってみる。
「何だ、違うのか。なら一体……」
「もう新堂さんたら、そんなに怪しまないでよ。何も企んでないって。彼女ね、今被災地の病院で働いてるの。あの震災のせいで色々大変みたい。今どうなってるかな~って、見に行っただけ。それでたまたま会って話したの、近況とかをね」
こんなベタな言い訳を、彼はすんなり受け入れた。
「そうか。……それで、奈緒には俺の病気の事は話したのか?」
「いいえ。心配させちゃマズいでしょ?」
私の言葉に、新堂さんは頭を下げてきた。「感謝する」
「え~え~、大~いにしてちょうだい!」こう言い放つと、彼はすぐさま顔を上げて口をへの字に曲げる。案の定、「調子に乗るなよ?」と返された。
「あの地震はこっちも大変だったからな、思い出すよ。奈緒は偉いな」
「うん、そう思う。今も大変な生活を強いられてる人達が大勢いて。行方不明者は今も見つからないみたいだし……」
「疑って悪かった」
あまりに素直な謝罪に慌てる。「そんな、いいよ、別に!」こちらこそ嘘をついたみたいで居心地が悪い。
私は本題に入るべく話を進める。「奈緒ちゃん、あなたに会いたがってたよ。カズ兄ちゃんに!いいなぁ、私もそう呼ぼっかな~!」
「俺はおまえの兄貴じゃない。それに、神崎社長に何て言われるか……やめてくれ!」
「何よ、奈緒の兄貴でもないじゃない!それに、神崎さんはこんな事で何も言わない」
「分からんぞ?あいつは、ああ見えて嫉妬深いから……」
「そんなのお互い様でしょ」つい本音が出てしまう。あなたも相当のものよ!と。
「何だって?」
雲行きが怪しくなってきたので、話題を変えよう。
「まあまあ!それでね、そのカズお兄様と一緒に遊びに来てってさ。頑張ってる姿、あなたに見てほしいのよ」
両手を顎の下で組んで頬杖をつき、彼に視線を向ける。
「……そうだな。そのうち、会いに行くか」
「うん、そうしよ!」
良かった、これで奈緒との約束が果たせる。元気になった彼を会わせる事ができる!
私は大いに胸を撫で下ろしたのだった。
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