この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第五章 扉の先で待ち受けるものは

  春ランマン(2)

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 突発的検査を決行したその日の夜、早めに床に就いた私達は、明かりを消した寝室にいる。

「ユイ。まだ寝てないよな」不意に新堂さんが声をかけてきた。
「うん」彼の方を向いて声を出す。
 布団の衣擦れの音が聞こえて、彼が体ごと私の方を向いた事が分かる。
「ちょっと話をしないか」
「いいよ。なぁに?」

「その前に。今朝は悪かったな」具体的に何がとは言ってこない。
 何について謝っているのか定かではなかったが、いずれにせよ過去の事。「……もういいよ」とだけ返した。
「腰、そんなに痛かったなんて知らなかった。言ってくれよ」

「そんなにじゃないってば。それに痛いのは昔からだし。仕事でよく中腰で移動するから。腰に負担かかってるんでしょ」
「まあ、一概には言えないが……」彼はあまり納得していない様子。
 なのでこう付け加える。「確かに長時間立ったり歩いたりが辛いのは、あれの影響なんだろうけど」
「ああ」彼が小さな声で答えた。

「だから、無理はしないようにして来た。逆にそれを言い訳に、運動不足もいいところ。嫌になっちゃう!」両腕を布団から出して頭の上で組む。
「運動か……。それ言うなら、俺こそ危険なレベルだろうな」
 今や入院中だって何かしら運動させられる。けれどこの人は何もしていなかった!
「一緒にランニング……はダメよね、ウォーキングしましょ、新堂さん!」
「考えておくよ」即決は控える慎重派の新堂和矢。

 しばしの沈黙となり、今度は私から口を開いた。まだ言っていなかったこの事を言うために。

「新堂さん、今日はありがとね。退院したばかりだっていうのに早速私の事で……」
 彼は謝ってきたけれど、私は感謝したい。
「何を言う。主治医として今までサボってた分を取り返してるだけだ」
「サボってただなんて……不可抗力じゃない」

 暗闇に目が慣れたのか、彼の微笑んだ顔が見えた。
 そしてその顔は真剣な表情になる。

「そうだな。この病は厄介でな。どこまで知ってるか分からんが、これから一ヶ月の間にも急変する可能性がある」
 この事は貴島さんから説明があった。移植後百日以内に三割が死ぬというものだ。この百日まではあと三週間ちょっとだ。
 私はあえて何も答えずに続きを待つ。

「そして、五年生存率は五分五分だ」
「……やめてよっ、そんな話!」
 今のところ良好とはいえ、彼の容態はまだまだ安心できない。そんな現実を突きつけられた気がした。
 私が眠れないのはこれのせいだ。心配事はまだ完全に消えた訳じゃない。

 新堂さんがベッドから抜け出して明かりを点けた。
 すでに起き上がってしまっていた私は、戸惑いを隠せなくて身を竦める。
 彼が私のベッドに座った。すぐ隣りから伝わる温もりに縋りたくて、自分から体を寄せて彼に密着してもたれ掛かる。

「……もし、五年後に再発していなかったら」
 囁くような小さな声に、預けた体を離して彼を見上げる。
 私と目を合わせ、新堂さんは静かに言った。「俺と、結婚してくれないか?」

 首を傾げたまま動く事ができない。息もできない。今聞いた言葉が信じられなくて!

「いっ、今、何て?」ようやく言葉が出てくれた。
「こんな事、今さら俺が頼むのも変だよな。拒絶してきたのはこっちなんだし……」
「あ、あの……」それでどうなるの?さっきの話は!
「唐突すぎたかな」
「それはもう!じゃなくて、そんな事は……」自分が何を言っているのか分からない。

 私達は向き合ってベッドに腰かけている。彼の視線は真っ直ぐに私に向かい、その隅々まで見尽くそうとしている。けれど私はパニックで頭が真っ白だ。

 再度言葉を変えて彼が尋ねた。「俺は後悔したくない。だからもう一度言う。もし五年後も生き延びる事ができたなら、朝霧ユイ、俺と結婚してほしい」
 そして今度は私の手を取り、軽く頭を下げて。これは正真正銘のプロポーズというヤツではないか!

 生き延びていたら……彼のこの現実的な言葉に顔をしかめる。

「……やっぱり、嫌だよな」
「違う!そうじゃない。あなたはきっと生きてるわ、五年後も、十年後だって……!」
 涙が止められず次に発した声は涙声だったけれど、彼にしがみついてはっきりと答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ありがとう、ユイ」

 私達は抱きしめ合う。新堂さんが私の涙を指で拭ってくれる。
「そんなに泣くなよ……」
「グスっ、だ……、だってっ」嗚咽が止まらない。
「冷たい言い方で悪いが、これが現実なんだ」
「そうよ、自分の事なのにこんな言い方して!あなたが患者とは、誰も思わないでしょうね」

「済まん……」
「別に責めてない。だって新堂和矢はスーパードクターだし?」
「ただの医者じゃないって事だな」
 この言葉に、泣きながらも笑顔で頷く。「当然です!」
 そして彼は再び申し訳なさそうに口を開く。「五年も待たせて申し訳ないが……」

「ううん」これには首を大きく振って否定した。「新堂さんは、無責任な事はできない人だもん。そのくらいは余裕でするでしょ」
「さすがユイ。そこまで理解があるとは?」
「あなたの奥さんになる権利、誰よりもあると思うわ」彼の目を見て告げる。
「ああ。俺の妻が務まるのはおまえしかいないな」

 当然とばかりに胸を張って見せた。

「あともう一つ確認したい事がある。ユイ、動悸はまだ感じてるのか?」
「まだって?貴島さんね!……また余計な事を」告げ口したのだろう。
「貴島がどうした?何の事だ」
「え?あの人から聞いたんじゃないの、動悸の事」違うとすれば、墓穴を堀ったか。
 案の定その予想は当たる。「……もしや再発したのか?ああ!やはりおまえに負担をかけすぎたな、しくじった……」

 その後も一人ブツブツと言い続ける。近頃イラ立っている事が多かったとか、見た目にも大いに痩せたとか、不眠を訴えていたとか……。

「今日、ついでに血液検査をしとくんだったよ」真剣な眼差しが向けられる。
「待って待って!再発しかけたのかもしれないけど、もう平気よ。動悸は感じないし、体重も減ってないってば」先走る彼を慌てて制止する。
「……。それを信用しろと?」まだ疑っている。
「分かった。だったら検査していいよ、今すぐ。病院じゃなくてもできるでしょ」

 自ら検査を申し出た私に、彼がようやく納得してくれた。
「……いや、いいよ。それにしても、血液検査って嫌なもんだな」ため息交じりに軽く笑いを添えて言う。
「そんな感想初めて聞いた!ようやく私の気持ちが分かったのかしら?」
「どうかな。恐らく、おまえの考えてる理由とは別だからな」
「何よぉ、それ!」

 数値に一喜一憂する気持ちは、病に罹った者にしか分からない。そのくらい私にだって分かるんですけど?

「まだしばらくは俺も、そんな毎日さ」
「一緒に乗り越えて行きましょ」
「って事は、ユイも一緒にしてくれるんだな?血液検査を」
 えっ……。しばし固まり苦笑いして誤魔化す。そういう意味で言ったのではない!

 そんな私を見ておかしそうにしていた彼だが、柔らかな表情に戻って言う。
「しばらくゆっくりするといい。色々と忙しかっただろ。体を休めてくれ」
「ええ。あなたと一緒に、ゆっくりするわ」

 見つめ合って微笑む。

「……嬉しい、新堂さん。本当に嬉しいわ。元気になってくれて、その上こんなサプライズまで!生きて来た中で今、一番幸せかも」
「俺の方こそ。プロポーズ、受けてもらえて良かった。それで、済まん……こういう時に渡す例の物なんだが……」
 彼の言っているのがエンゲージリングだと気づき「いいよ、そんなの。気にしないで」とすぐに伝える。

「本当はちゃんと準備して、カッコ良く決めたかったんだが」本当に残念そうだ。
 この人は案外体裁を気にする。
「いいってば!」笑って彼の肩をポンポンと二度叩く。

「ここに帰れたら、一番に伝えたかった」
 私を真っ直ぐに見て言うこの姿があまりにも素敵すぎて、彼の胸に顔を埋める。
「あなたがここにいてくれるだけで、十分」

「済まんが、リングは後日改めてという事で頼むよ」
「必要ない。だってほら、前に貰ったし」あのサファイアリングはお気に入りだ。
「あれはそういう意味のじゃないって言ったろ。サイズも合ってないみたいだし」
 こう言われて考える。エンゲージリングを貰ったら左手に着けないといけないと。

 黙り込んでいると、彼に顔を覗き込まれる。
「ユイ?眠くなったか。ごめん、もうこんな時間だ。そろそろ寝かせてやらないとな」
「……あ、うん、そうだよ。もう寝よう」この問題は、また今度考えるとしよう。
「こんな話はやっぱり昼間に言うべきだった。悪いな、変な時間に」
「ううん。とってもロマンチックじゃない?夜の寝室なんて!私は良かったわよ」

 どうせならばこのまま飲み明かそう、と言いたいところだが……まだ彼に飲酒は勧められない。

「さあ、それじゃ寝るぞ。お休み、ユイ」
「って展開早いっ、ああん待って!置いてかないで……」
「置いてく?」
「私も、あなたの夢の世界に連れてってほしい」夢の中でも会いたい。

「すでに寝言を言っているらしい!」呆れた口調で言い放ち、いつの間にかベッドに収まっている彼。
 私はそれを確認してから、部屋の照明を落とす。
「……いい夢、見てね。新堂さん」目を閉じた彼に向かって囁いた。


 翌朝。隣りのベッドは空だ。不安になってリビングに行くと、新堂さんはすでにダイニングでコーヒーを啜りながら朝刊を捲っていた。
 ようやくいつもの日常が戻ってきた。小さく安堵の息を漏らして彼を見る。

「ユイ?おはよう。どうした、そんなとこに突っ立って」
「ううん!何でも。おはよ、新堂さん」
 キッチンで朝食を手早く用意して、自分もダイニングに移動する。
 こんな何気ないひと時が嬉しくて堪らない。彼の復帰もそうだが、何しろ昨夜私はこの人にプロポーズされたのだ!

 こんな気持ちになった朝が、過去に一度だけある。あれは新堂さんと初めて結ばれた次の日の朝だ。
 けれど彼があまりにも素っ気なくて、全ては夢の中の出来事だったのかもと不安になる訳だ。

「ねえ新堂さん、あの後すぐに寝れた?」早速探りを入れてみよう。
「ああ。記憶がないから寝たと思うよ。いい夢見てね、の後すぐにね」
「それっ、聞こえてたの!」
 おどけ顔で頷かれた挙句にこう続く。「俺の夢の世界に連れてってやれなくて悪かったな」

 あの言葉が夢じゃないなら、あれは現実だ。ついに確信に至った。

「それで?どんな夢見た?って、覚えてないよね、どうせあなたは」
「ご名答」
 無意識に見つめていたらしく、彼が新聞から顔を上げて私を見た。
「何してる、早く食べろ。仕事、行くんだろ?」
「あっ、そうだった!のんびりしてる暇ないのよ、ユイさんは!」

 幸せに浸り過ぎてミスしないようにしよう。今日は久々の仕事復帰なのだから?


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