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第五章 扉の先で待ち受けるものは
48.知られざる欲求(1)
しおりを挟むいつものようにパートタイムの仕事を終えて帰宅する。何という事はないデスクワークなのに、最近はこれですら疲れを感じてしまう始末だ。
「ただいまぁ~……」
誰もいない家からは、もちろん返事は返ってこない。庭に車がなかったので、彼が留守である事は分かっていたのだが。
この夏の時期は私よりも在宅率が高い彼だが、今日は珍しく仕事に出かけたようだ。
「人の心配より自分の心配!マズいわ、こんなんじゃ……。いい加減トレーニングにリキ入れないと」
けれどなかなか昔のように張り切れない。それはあらゆる足枷があるから。
「ただいま」
結局何もしないまま新堂さんが帰って来てしまう。あまり彼の前ではトレーニングもしずらい状況で?足枷の一つがこれだ。
「ユイ」
彼がつかつかと私の前までやって来る。何やら怖いお顔で……。
えっと私、何かやった?過激なトレーニングはまだ始めていなかった。やろうとしている事がバレたとか!いやいやまさか。
「どうか、しました?」上目遣いで彼を見上げる。
すると、次に降ってきたセリフは意外なものだった。
「おまえの裸を見せてくれ」
「は?」目が点になる私に、「ダメか?」と迫る。
「何よ、いきなり。診察って事?」それしか思い当たらない。
「違う。来てくれ」
違う?またまた訳が分からず。「あ、ちょっと……っ」
彼に手を掴まれて寝室へと引っ張られる。こんな時は決まって診察が始まるのだが、違うとはどういう事か。
小走りに彼の後を付いて廊下を進みつつ考える。まだ日暮れ前だ。日頃は、例え夜でもこんなセリフは滅多に聞けないというのに!
寝室へ入る。窓を開けていたのでそれほど暑くはないのだが、彼は入るなり窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。
カーテンが引かれて薄暗くなった部屋で言い放つ。「脱いでくれ。全部だ」
照明を点ける気配はなく、本当に診察が目的ではないと確信する。
「ねえ。私まだ、いいって言ってないけど?何も今じゃなくてもいいでしょ。新堂さん、帰って来たばかりなのに」
「いや。今見たい。今すぐに」
もう……っ。何なのよ!と呟きながら、仕方なく着ていたものを順に脱いで行く。
診察の時は手伝ってくれるのに、今回はただただ傍観するばかりの彼。
「そんなに見てられると、恥かしいんだけどっ」
「急がなくていい」
仁王立ちしていた彼は、自分も上着を脱ぐとベッドに腰を下ろした。もちろん視線は私に向けたまま。
ついに下着だけになり目で訴えるも、ジェスチャーのみで脱ぐよう促される。
「生理はまだだろ?問題ない」
「問題があるかないかを決めるのは私よ!」
「なぜだ?見せられない理由でもあるのか」
「っ!ないない、そんなの」これはもう観念するしかなさそうだ。
過去には酷い打撲を隠したりもしたが、今の私は無傷だ!一糸纏わぬ姿で両手を伸ばし、一回転して見せる。「さあ、お気の済むまでご覧になって!」
彼はいつの間にか立ち上がっていた。次の瞬間、強く抱きしめられる。
「ち、ちょっと新堂さん……っ?」
「ああ……、俺はやっぱりおまえの体が好きだ、この締まった肉体が!」
「んな、何言って……、んっ」
続けて濃厚なキスが降ってきて言葉が途中で途切れる。
彼の手は私の頬から首筋を伝って胸元へと降りてくる。その手の動きは、いつもする診察やマッサージとは違う。
「あっ、あん!そんな触り方……くすぐったいよっ、やめ……、んっ」
束の間離された唇で訴えるも、再びすぐに塞がれてしまう。
私をベッドに押し倒し、両手首を掴む。仰向けに倒され両手を拘束された私は成す術無しだ。
「……やめた方がいいか?」私を見下ろして彼が尋ねた。
「イヤ!やめないで……」私は彼に抱きついて訴える。続けて欲しいと。
私の言葉に彼が服を脱ぎ始めた。そして、久しぶりに愛し合った。
「ごめんな。唐突だったよな」
「ホントよ!珍しいじゃない、あなたがこんな事してくるなんて」
ベッドの上で上半身を起こして座る彼を、うつ伏せの状態で見上げる。
「そうだな……」彼が私を見下ろす。
「何かあった?」
「ちょっと……仕事でね」言いにくそうだったが「聞いてもいい?」と畳みかける。
「もちろん。ユイには聞く権利がある」
「ふふ!そうよ?」
剥き出しの私の肩に触れて冷たさを感じたのか、エアコンの設定温度を上げてくれた。
何も言わなくても分かってくれる。こんな気遣いが有り難い。
「今回の患者は女性だった」彼は話し始めた。「あ、そう……」
心の奥にどす黒い感情が芽生えそうになったところで、彼が続ける。「おまえとは正反対の、たるんだ肉のね」
「それはそれは、手厳しいお言葉!」
人を笑っている場合じゃない。そう思ってこっそり自分の内腿の肉を摘まんだその時、「あまりに見苦しい!」と彼が声を上げた。
ドキッとした。私が言われたのかと!今摘まんだ肉を見られた?「って、そんなにないけど!」知らずに口に出ていた。
「何だって?」彼が目を瞬いている。「いいえ、こっちの話……っ」
「新堂先生ったら!いけないわ、患者さんをそんなふうに言ったら」
「悪いが俺は、ああいうやりたい放題の太目がどうにも受け入れられない!自業自得だろ、病に罹っても?」彼が嘆いている。
それならば、私のトレーニングに口を挟むのはやめてほしいものだ。
「でも、ちゃんとお仕事はして来たんでしょ?」
「当然だ。依頼は依頼だからな」
「ならいいじゃない」
「あれじゃ、そのうちまた再発するだろうよ。やってもやってもキリがない!」
「そしたらまた依頼して来るよ。常連患者、ってのも変だけどね~」
「バカバカしい……!」
女の患者だというから慌てたが、これなら問題ないか。良かった良かった!
そんな事があった数日後くらいから、彼が頻繁に依頼を受けるようになった。
今までとは逆転して、私よりも外出する時間が増えている。
「あの人でも自分の腕に不安を持ち始めたのかな?なぁ~んて事はあり得ないか」
軽い筋トレを終えて室内へ戻る。もう夕方だ。晩ご飯に何を作ろうか考えていると、電話が鳴った。
『ああユイ。済まないが夕飯は一人で食べてくれ』
「分かった。仕事、長引きそうなの?」
『……ああ、そうなんだ。まだ作ってないだろ?』
「うん。献立考えてただけよ」
『じゃ、そういう事で。先に寝てていいからな』
「了~解!頑張ってね」
大抵は一緒に食事を摂るけれど、もちろんこういう日だってある。
私が遅番の日は彼も一人になる。週に一度なので、もう彼は慣れているだろうが。
そしてこの日は、彼がいつ帰って来たのか知らない。
「ユイ。リング、して行けよ」
「え?ああ、もちろんいつも着けて……」
朝の出がけの時間帯はいつも忙しない。私の遅刻常習犯は高校時代以来今も継続中。もちろん会社に遅刻する事はないが、到着はいつもギリギリだ。別に意図してやっているつもりはないので念のため!
玄関先まで来て、彼が私の右手からサファイアリングを抜き取った。
「いつも忘れてくんだから」
そう言って、手にしていたエンゲージリングを左に嵌められた。
「あっ!忘れたんじゃなくて、着けたくない……じゃなくて、今日はいいよ!」
「いいや、良くない。婚約期間しか着けられないんだぞ?」
「そうだけど!今日はお天気も悪いし、傷つけたり失くしたりしたらヤダからっ」
「い、い、か、ら!」
こんな時は何を言ってもムダだ。大人しく従うのが賢明。ご大層なエンゲージリングを着けて、長傘を持って家を飛び出す。
「今日も仕事で遅くなるかもしれない。状況が分かったら連絡入れるよ」
振り返って彼を見る。「うん。……ねえ?その患者さんて、ずっと同じ人?」
「ああ。色々と問題があってね」
「で、それって……」
私の言いたい事を察した彼が先に答える。「患者は男だよ」
「別に気にしてないけど!じゃ、行って来ま~す」こんな答え方をしつつも、大いにほっとしたのだった。
けれど、こんな日が一週間も続くと少し不安だ。
そして自分が外出する時は、決まってエンゲージリングの装着を強要してくるようになった彼。今までは何も言わなかったのに?
不審感が募り出す。
とうとうある時、彼を掴まえて詰問する。
「ねえ、これに何か仕込んでるでしょ。発信機とか?」
「そんな物は付けてない」
「……盗聴器とか」しつこく尋ねると、「必要あるか?」呆れ顔で彼が言った。
「ない、よね……」
今どき携帯にはGPSが付いているし、彼が私の会話を逐一知りたい訳もない。
「ほら、くだらない事言ってないで。電車、乗り遅れるぞ?」
「あっ!そうだった、行って来る!」
そして彼はこの日も夜遅かった。
「急にそんなに仕事入れなくてもいいじゃない!……つまんない」
隣りのベッドはもぬけの殻。そして我が家は照明が落とされて真っ暗だ。この大きな家に私だけしかいない夜。
寝付けずに、起き出して一服を始める。「これが習慣になりつつあるわ!」
久しぶりにあんなに熱烈に私を求めてくれた。あれからまだそんなに日も経っていないというのに。ここ最近あまり話もできていない。もちろんスキンシップもない。
「私の体調がいいと、こういう事になるのかぁ」
不謹慎にも、病気になりたいとさえ思ってしまう今日この頃。
具合の良くなかった時期は、毎日のように会社まで送迎してくれたり(煩わしいくらいに!)、仕事中にも連絡をくれたり、とにかく新堂さんをとても身近に感じていた。
「あれが異常だったとも言えるか。これでこそスーパードクターの日常ってね!」
そうであっても彼は病気持ちの身。先月七月の定期検査が問題なかったとはいえ、こんなに忙しい日々が続くのは心配だ。
「あんまり酷いと、主治医に言いつけちゃうんだからね?」
あの人が、新堂さんにガツンと言えるかは不明だが……。
こんな心配事がさらなる問題に発展してしまったのは、この日、書斎から話す声が聞こえてきてからだ。
当然聞き耳を立ててしまった訳だが、それが何とも意味深な内容で困惑するばかり。
「……ああ、分かった。今からすぐに行くから。……大丈夫だ、心配するな、……だからそんな事は気にするな、すぐに向かうよ」
電話はすぐに切られたようで、ドアが勢い良く開いた。
慌てて姿勢を正す。
「そこで何をしてる?」
「あっ!何って、ただ通りかかっただけよ!何、またお仕事なの?」見え透いた嘘だが、ここはこう言うしかない。仕事の電話には聞こえなかったが、あえてこう尋ねた。
「……ああ。今から少し出かけて来る」
無表情で曖昧にそう答え、そのまま玄関に向かう。
「ねえ、今日の晩ご飯は……」聞きながら彼の後を追って玄関までついて行く。
「連絡するよ。たぶん、外で摂って来ると思う」
新堂さんの背中に向かって再び尋ねる。「それって、誰かと?」
「ん?」彼が振り返った。
「あ、だから!病院の食堂とかだったら、味気ないだろうな~って」
本当は、女と?と聞きたかったのだが、そんな大人げない事はしたくない。
何となくだが、電話の相手は女性だったような気がしたのだ。そうだとすると、少し前に彼が言っていた問題を抱えているという患者ではない事になる。
また新たな患者だ。そしてそれは、きっと女だ。
「行き先は病院じゃない」
「あ、そう……」
フリーランスの彼は仕事先が病院とは限らない。この回答は特別驚く事ではない。
ふと彼が、私の左手を見下ろす。
「何か?」自ら手を上げて見せる。
薬指にはエンゲージリングが光っている。言われる前に極力身に着けるようにしているのだ。
その左手を掴むと、今度はクルリと返して手の平を凝視し、銃ダコに触れてきた。
それは別段増えた訳ではない。射撃練習もサボりがちなのだから!
「あら先生、手相占いでも始めた?」とぼけてこんなセリフを投げかけ左手を奪還。
答えもせずに、無表情で背を向けられた。
「行って来る」
「ええ。気をつけて」
最近、彼の笑顔を見ていない気がする。笑顔で見送りながら思う。何だかいつも難しい顔をしている気がする。
「やっと触ってくれたと思ったら、ここって!」
永遠に消えないであろう銃ダコを見て、彼は何を思ったのだろう。
そんなのは今更だろうが?
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