この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第五章 扉の先で待ち受けるものは

  知られざる欲求(2)

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 休日の朝。今日も新堂さんはいそいそと出かけて行った。
「誰よ、せっかくのお休みに彼を呼び出すのは!久しぶりに、一緒にどこか行こうと思ってたのに……」

 ここのところ例の依頼でかかりっきりの様子。だが彼が不在がちという事は、例の調査をするのには絶好の機会でもある。
 帰りがほんの少し遅いだけで問い詰められる。どこで何をしていたのかと!
 こんな調子だから、これまでほとんど身動きが取れずにいた。私のやるべき事、彼の両親探し。もちろんまだ諦めていない。

「斎木さんにでも会って来ようかなぁ。あの人に会ったなんてバレたら、新堂さんのご機嫌がさらに悪くなるだろうけど!」
 当時を知る人間なら誰でも拒絶するのだろう。先日の谷口さんの結婚式に出て、改めてそれを実感した。
「まあ、学生時代の知人に会ったところで、彼の両親の情報なんて得られないけど」

 自分の過去など進んで語る人間などそうはいない。そんなプライベートを語るとしたら、親友か恋人だろうか。
 ここである人物を思い出す。遠い昔に早とちりで(!)私のマンションを爆破した新堂さんの元恋人、祥子・フォード。けれど彼女はとうに死んでいる。

「生きてたとしても、あいつとだけは話したくないけど!」
 何しろイケ好かない女で、散々子供扱いされて小バカにされた。実際あの頃の自分は小娘だった訳だから仕方がないが。
 新堂さんがあの女に……語っているはずがない!と信じたい。

「けど、体の関係は、あったんだろうなぁ……」
 ナイスなプロポーションだったブロンド美女を思い起こす。会ったのはたった一度きりのため、顔ははっきり覚えていない。そこがせめてもの救いか。
「やめやめっ!何考えてんの、私!」

 彼との甘いひと時を思い返しては、ため息をつくのだった。

 こんな事を考えたせいに違いない、彼の事を疑い出したのは。女に会いに行っているなどと!そんな疑惑が日に日に強くなる。
 その後、書斎から聞こえてくる会話を何度か耳にして、相手が女だとの確信に至った。


「君をひとりにはしない。泣かないでくれ。……もうすぐだ、もうすぐ片がつく。それから、二人の時間を取り戻せばいいじゃないか」

 時刻は二十三時を回っている。
 こんな会話をしながらも、無防備に扉は半開き。それはまるで私に聞かせるためかのように。
「何よ、何の片がつくっていうの?二人の時間って……誰と誰のよっ」
 何だか急に、新堂さんが遠くに行ってしまう気がした。

 ショックを受けたまま、一人肩を落として寝室へ向かう。

「ユイ。しばらく留守にする」いつの間にいたのか、ドア横で彼が言った。
 こんなセリフにはもう慣れた。「……そう」
「どうかしたか?どこか体調が悪いとか」反応の薄い私に心配する素振りか。
「別に」

 問い詰めたい気持ちでいっぱいだったがやめた。それではあまりに大人げない。きっと祥子が地獄で笑っている。ほら見ろ、お前は今でも子供だと!

「家の事は心配しないで。ちゃんと留守番しとくから!気をつけて。お仕事、成功を祈ってるわ」気持ちを押し殺して元気に返した。お仕事、と強調して。
「ああ。ありがとう」
 彼の手には、ドクターズバッグの他に旅行用のボストンバッグが握られている。
 数日分の着替えだろう。泊りがけの仕事なら当然持って行くものだ。分かっているのに、なぜかどんどん悲しくなる。

「ユイ?本当に大丈夫か」
「え、何が?!」涙ぐんでいる顔を見せまいと、後ろを向いて声を張り上げる。
「何だか声が変だぞ、鼻声だ。風邪でも引いたか」
「変じゃない!急いでるんでしょ、早く行って」

 彼はしばし何かを考えている様子だったが、それ以上は踏み込んで来なかった。
 いつもは玄関まで見送るけれど、今はそんな元気もない。車のエンジン音が響き、そしてすぐに聞こえなくなった。

「ウソよ!あの新堂さんがそんな……」

 もう彼の両親を探すどころではなくなっていた。居ても立ってもいられず、彼の向かった先を追及しにかかる。
 私達はお互い携帯電話のGPS機能をオンにしておくという決まり事を作っている。
 それなのに……。「切ってるし!」彼の携帯から、その信号は出ていなかった。

「ユイさんを舐めないで?車を使ったのはしくじったわね、新堂和矢!」
 車にだって追跡のための発信機は付けられる。盗難防止のためだったが、まさかこんな事で役立つとは思わなかった。

 もうじき日付が変わろうとしている。
 こんな時間に誰に会うというのか?そんなのはもちろん決まっている。愛人に!

「う……っ。こんな時に眩暈が」
 興奮しすぎたせいだろうか。久々に眩暈を感じて動きを止める。
 こうなると、しばらくは安静にしないとならない。
「行き先は分かるんだし。今晩のところは、大人しく寝よう……」


 そして翌朝。リビングに行くと、どういう訳か彼がいた。

「おはようユイ。体調、大丈夫か?」
「あ、あれっ?新堂さん、数日留守にするんじゃ……?」
「おまえの様子が変だったから、気になって戻って来た」
「でも、お仕事の方は……」あえて仕事と言っておく。
「ん?ああ……取りあえず収めてある」

 収めてあるとはどういう意味か?どうせ、引き留める女を宥めて来たといったところだろう。
 気持ちはもう別の女にあるというのに、私の体調がそんなに心配なのか!

「私は何でもないって言ったじゃない。戻って来る必要なかったのに」
 自分の分の朝食を用意してダイニングに運ぶ。
「しかし、最近診察もしてなかったから、一度確認したかっ……」彼の言葉を遮って言い放つ。「必要ないって言ったでしょ!」ついイラついて大声を出してしまった。

 ソファに腰掛ける新堂さんが、私を見つめている。

 どうにか気を鎮めて穏やかに質問する。「なぜGPS切ってるの?」
「何、切れてたか?」
 白々しい……!と思いつつ頷くだけに留める。
「なあ。これっておまえ以外にだって俺の居場所が特定されるって事だよな?例えば、狙われてたとしたら」
「狙われてるの!?」驚いて反射的に立ち上がった。
 その拍子に波打ったコーヒーがカップから零れて、テーブルに歪な茶色の水溜まりができる。

「例えば、って言ったからな」零れたコーヒーに目を向けて呆れたように返される。
 こんな冷静すぎる彼を前に、湧き立っていた血はたちまち冷めて行く。居た堪れずに小さく咳払いを一つしてから、大人しく腰を下ろした。

 彼が我慢強く私の答えを待っている。ここはボディガードとしての威厳を見せねば。
 私は姿勢を正してから口を開いた。
「確かに。そういう事になるわね。でも、私はあなたのボディガードよ?居所を把握できなければ、ガードができないわ」
「狙われてなどいない。ガードは必要ない」
「なら、誰に居所が知れると困るワケ?」私なんでしょ!と心の中で訴える。

 質問に答えずに彼は言った。「なあユイ。久々にドライブでもしないか」
「え?」話はまだ済んでいないのだが?意表を突かれて思考が止まる。
「今日、休みだろ?」
 私の休みはしっかり把握している。こういうところは抜かりない。それはつまり愛人に会いに行くのに知っておく必要があるからか。

「悪いけど断るわ。そんな気分じゃないので」
「そうか。残念だ」彼はあっさり引き下がった。

 それはあまりにもあっさりと!もう彼の心は私にないのかもと思ってしまうほどに。
 怒りに任せて彼を恨んでやりたいのに、どうしても悲しくなる。つらい、つらくて胸が苦しい。心なしか動悸まで感じる……。

 胸を押さえて下を向いた時、透かさず彼が近寄って来た。
「おい、本当に大丈夫なのか?」
「何でもない!何でもないから来ないで」悲しいやら悔しいやらでどうしようもない。

「やっぱりドライブ、行こうかな。気晴らしに!」
「しかし……」提案しておきながら難色を示し出す。それを無視して宣言する。「ただし。私が運転する」
「体調、良くないんだろう?」
「違うの。気分的なものなの」
 わざとこんな言い方をしてみたが、伝わったかどうかは不明だ。


 そして私は強引に運転席に乗り込み、久々のドライブが始まった。

「辛くなったらすぐに言えよ?運転代わるから」
「お構いなく」
 素っ気なく答えると、彼のため息が聞こえた。ため息をつきたいのは私なのだが?
 いつもの優しさが嫌味な言い訳に聞こえる。何を信じればいいか分からない。

 しばらく無言で走る。レーダーの反応を避けては法定外のスピードを出して。
「おい、スピード出し過ぎじゃないか?」
「このくらい、みんな出してるわ」

 周囲の車両が私達のベンツを避けて走る中、ふと近づいて来る外車を確認。

「ほら見ろ、警察が来たぞ」
「バカね、日本の警察は外車には乗らない……」思考に集中したため言葉が途切れた。
 それは私達の車を抜き、逃げるように先を行く。
 二重に貼り付けられたナンバープレートは海外からのお客の証。一見何の変哲もなさそうだが……あれは偽造だ。
「真に受けるなよ!あんなのが警察だなんて?冗談に決まってるだろ。しかもあいつ、一体何キロ出してるんだ!……ユイ?」

 反応がない私に視線が向けられるも、脳内では敵の正体を探るべく分析が続く。
 彼は狙われてなどいないと言ったけれど、あれが彼のお客だとしたら?何しろこのベンツは彼の主な移動手段。これを見て新堂和矢だと判断したとも十分考えられる。
 さり気なく抜き去って前方で待ち伏せする気かもしれない。

 でも、もし違ったら?無関係な事件にこの人を巻き込む事になる。

「なあ。あの車、何だかおかしいよな。どうする?」彼も怪しさに気づいたようだ。
「少し黙ってて!」新堂大先生(!)に向かって怒鳴りつける。

 ここ最近色々あって気が立っている。ここは何も考えず、あの不審車両をぶっ潰してやろう。いい気分転換になりそうだ!
 左手のリングが少々邪魔だが、この際どうでもいい。

 アクセルを踏み込んで一気に距離を詰める。そして追い越した先で、あるモノが目に飛び込んだ。「ライフル……!」
 スモークガラスのためサイドからは見えなかったが、正面に回ったお陰でフロントから中が見えたのだ。
 お陰で連中のターゲットは私達でない事が判明した。至近距離から狙うのにあの武器は使わない。

 私の呟きを耳にしたのか、彼が窓から確認しようとしている。

「ダメ!振り向かないで!」透かさず彼を制止する。
 驚いた彼が私の方を向き直った。
「相手に顔を見られてはダメ。下を向いてて」
 今後の事を考えても、敵になる可能性のある奴等に顔が割れるのは防ぎたい。特に新堂さんのだけは。

 乗員は全て黒尽くめの服装の外国人。後部席に乗った男女二名はライフル銃を所持している。運転席の小太りはさて置き、助手席の帽子を被った銀髪の男も恐らく……。

「何なの、あいつ等!堂々とあんな物見せつけて」
 連中は左車線から、再び私達のベンツを追い越そうとする。
「左から追い越すなんて、ルール知らないんだな。免許持ってないんじゃないか?」
「頭!上げないでったら」

 車両同士が横に並んだ瞬間、銀髪の男が私をチラリと覗き見た。心なしか微笑んだような気がするが、見た事のない人物だ。
 私はスピードを落とした。

「追わなくていいのか?」
 ようやくまともに顔を上げた彼が、遠ざかった不審車両を目で追いながら言う。
「ええ」
「珍しいな。俺はてっきり……」言葉を濁す彼に「何?」と突っ込む。
「いいや、何でも」

 あれだけ堂々と武器を携行し、挑発的な視線を送ってきた。半端な連中ではない。
 しかしながら、彼等はここで私とドンパチする気もないらしい。何をするつもりか知らないが、相当お急ぎだったようだから?
 であれば、こちらもあえて首は突っ込まないでおく。この人を乗せている今は……。

「良かった」
「何が?」
「銃撃戦もカーチェイスも始まらずに済んで」
「向こうが仕掛けて来なかったから」
「それでも、いつもは行くだろ?」
「さあ、どうかしらね」

 素っ気ない私の回答を受けても、彼は満足そうだった。かく言う私も、いつの間にか穏やかな気持ちになっていた。彼を危険に晒さずに済んだのだから。

 ここでふと思う。なぜだ?あんなに恨んでいたのに。もう何が起きても助けないと本気で思ったくらいに!
 だが今、どうしてもこの人を守りたいと思った。例え彼の心が私になくても、私は新堂和矢のボディガードだ。その事実は変わらない。

 そしてきっと、彼も同じ事を思っているのだ。心がここになくても、自分は朝霧ユイの主治医だと。

 この考えに行き着いて、私は口を開いた。
「新堂さん。私は、あなたの事を縛るつもり……ないからね」
「どうした、いきなり」
「あなたは自由って事。だってほら、私達結婚はまだしてないでしょ。婚約だけだし」いつだって解消できると言おうとしたけれど、涙で声が出ない。
「おい、どうしたんだよ、泣いてるのか?」

 私はついに路肩に車を停めて、ハンドルから手を離して顔を覆った。


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