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第六章 見えないところで誰かがきっと
クルマ酔い(2)
しおりを挟む気がつくと、どこかの古びた一室の布団に寝かされていた。まだ腕には点滴がされている。
部屋に彼はいなかったが、ドクターズバッグを見つけて安心する。
起き上がると、まだ気持ち悪さは残っていたが、眩暈は治まっている。
「どこ行ったんだろう……」布団の上で上体を起こす。
振り返って後ろの障子をそっと開けると、美しい竹林が見えた。遠くからはお寺の鐘の音が聞こえて来る。
少ししてドアが開いた。
「おおユイ、起きたか。どうだ?」新堂さんが部屋に入って来て言った。
布団に入ったまま答える。「かなり良くなったわ。どこ行ってたの?」
「夕食の時間とか、施設の案内を受けてきた」
「知らない間に旅館に着いてた。ここまで運んでくれたのね」
「先に連絡入れて寝床を用意してもらったんだ。夕食は六時半にしたが、もっと遅くしようか?」
「大丈夫よ。だって今日、朝しかまともに食べてない。新堂さん、お腹空いてるんじゃない?」
「実はペコペコだ」と軽く笑う彼。
「やっぱり!ごめんね、私が気分悪かったせいで……」
「気にするな。食事を抜くのなんて昔はザラだったし。珍しい事じゃない」もっぱら健康的な生活になったものだ、とさらに笑った。
「そろそろ終わるな」点滴を確認して呟く。
さりげなく彼が私の頬に触れた。「冷たいな。体、冷えてるんじゃないか?」
「ホントだ、冷たいね」自分でも腕や脚に触れてみて思う。
「食事前に、温泉にでも浸かりに行くか」
「うん!行きたい!」
こうして私達はまだ明るいうちに、早速露天風呂で寛いだ。本日の宿泊客が少なかったのか、空いていればいつでも貸切で使えるとの事。
「気持ちいい~!最高っ!」
「それは良かった。顔色、良くなったな」
「あなたのお陰。新堂さん、ありがとね」隣りで湯に浸かる彼に体を寄せて告げる。
彼が私の肩を抱き寄せて手首を掴む。さりげなく脈を取られている。あえて何も言わず待つ。
少しすると、彼が私の手を握って言った。「良くなって良かった」
顔を見合わせて微笑む。そしてそっと唇が合わさる。
ふと、今日自分が吐いた事を思い出し、慌てて離れた。
「……ユイ?どうした」
「ゴメン、良く考えたら、あの後……うがいもしてないなぁと」
「吐いた後か?そんな事気にしてるのか。可愛いヤツめ!」
新堂さんが私をガシリと掴んでキスを再開。さらに今度は濃厚に舌を絡めてくる。
「んっ!ち……ちょっとっ!ダメだったら、んんっ!」
「吐しゃ物でも汚物でも、おまえのなら大丈夫だよ」
「ああ……何言ってるの!?私は全然大丈夫じゃな~いっ!」
医者はそういう事を気にしないのか。それとも、深い深い愛の為せるワザ?
広めの貸切風呂を一時間ほど堪能し、浴衣に着替える。
別棟の食事処へ向かう頃には、いい時間になっていた。
「新堂様。この度は当館をご利用いただき、誠にありがとうございます。奥様、その後お加減いかがですか?」旅館の女将が挨拶にやって来た。
清楚で和服が良く似合っている綺麗な人だ。とても若そうに見える。
「はい、お陰様で良くなりました、ご心配をおかけしました……」恥ずかしさを堪えて答える。
「早速温泉をいただいて来たところです」新堂さんがそう言って女将に微笑んだ。
「そうでしたか!この辺りの温泉は、山からの石灰の影響でアルカリ質となっています。血行が良くなり、とてもリラックスいただけたかと」
「はい、とっても!」新堂さんと視線を交わしながら笑顔で答えた。
「お元気になられたようで、良かったです」品の良い笑みが向けられる。
「着いて早々、ご迷惑をおかけして申し訳ない」
「いいえ!旦那様が主治医でいらっしゃるなんて、安心ですわね」
「はあ……」
今回も私達は夫婦の設定か。出先などではいつもこうだが、やはり慣れない。
その後新堂さんと楽しげに談笑した後、女将は次のお客の元へと移った。
私が女将を目で追っている間にも、彼が箸を進めている。
「この山菜、珍しいヤツだな。ほら、ユイも食べてみろ。これ、何て言った?」
「コシアブラ。こっちのキノコは山伏茸」つい今しがた女将が説明していたではないか?そう思ったが、私は説明されずとも知っていた。
「物知りだな!」との問いには、「父親が山好きだったから。山菜とか、昔良く食卓に並んでたの」と答えた。
「それは意外だ」
「そう?まあ……あの人の山での主な目的は狩猟だけどね!今じゃジビエ、とか洒落た呼び方あるけど」あの系統の肉は、私はどうも好きになれない。
「確かライフル射撃が得意だったとか」
「殺めたのが獣だけなら良かったんだけど!」つい口が滑る。
彼の箸が止まった事でハッとする。「とにかく!山菜、懐かしいわ~!」
慌てて目の前のコゴミの和え物を口に入れたのだった。
しばし黙々と食事を続ける私達。
私が半分くらい食べ進めた辺りで、新堂さんは完食。
箸を置いた私に尋ねてくる。「どうした?まだ残ってるぞ」
「うん……少し気分がね。お腹いっぱいだし、申し訳ないけど残していいかな……」
「無理しなくていい。そうしろ」
「新堂さん、好きなの食べていいよ」
「そうか?じゃ、遠慮なくもらうぞ」
珍しく彼が私の残りを食べている。彼は大食らいな方ではないので、こういう事はあまりしないので新鮮だった。
食事を終えて外に出る。滞在する本館と別館は繋がっていないので、こうして一旦外に出る必要があるのだ。
外はすっかり暗くなっていた。生憎曇っていて星は見えず。
「外の風、気持ちいいね」
「そうだな。日中はともかく、ちょうどいい季節だ」
手を繋いで風に当たる。このまま散策にでも行きたいところだが、気分はまだ優れず。
私の顔を見た彼が言う。「……部屋に戻ろうか」
「そうだね」
この人は何も言わなくても私の心が読めるのか。素直に戻る事にした。
「あ、ねえ新堂さん。部屋の窓からキレイな竹林が見えるの知ってる?あ……でももう、夜だから真っ暗かぁ」
「障子が閉まってたから気づかなかったな」
入り口の明かりだけをつけて部屋に入り、障子を開けてみる。見事な竹林が幻想的に浮かび上がっていた。
「おお!これは見事だ」
「ライトアップされてるとは……」
「この宿は古民家を改修して始めたそうだ。昔ながらの日本を知ってもらおうとね」
その話を聞きながら思う。本音は外国人向けだろう。
「女将が言ってたんでしょ!」
食前に楽しげに語っていた二人を思い出して、ちょっぴりヤキモチを妬いて膨れっ面になる。
「うちに畳部屋がないから、こういうのは新鮮だな」
素っ気なくそうね、とだけ返すと、「ユイ、それで気分はどうだ?」と彼が急に振り返った。慌てて作り笑いで答える。「うん、思ったほど悪くないよ」
「念のため、もう一度点滴しておくか」
「主治医の判断に任せるわ」
彼はしばし私を診察した後、布団に寝かせて再び点滴を装着した。
「ここの枕、硬くて高いのよね」
「枕まで古民家仕様って訳か!髪を結ったまま寝れるな」
「必要ないから!」
新堂さんが笑っている。浴衣姿の彼は何とも言えずセクシーだ。女将の目が向いてしまうのも仕方がない。で、も!この人は私のよ?
「新堂さん、私のバッグからお守り出してくれる?」点滴を装着していない方の右腕を伸ばして要求する。
彼がバッグを探って目的の物を見つける。手に取ると、チリンと小さな音がした。
このお守りには小さな鈴が付いている。
「はい、どうぞ」
「ありがと!ちゃんと見てなかったからさ」
「大したものじゃないだろ。ユリの花が書いてあったから目に留まったんだ」
「ユリ?ここに、節分草って書いてあるけど」
彼が私の手元を見て、パッケージの表記を読み始める。「何だって?二月の花のお守り……セツブンソウ」
「ね?」視線を向けると、すぐ近くにある整った顔が少しだけ歪んだ。
「何だ、ユリの花じゃないのか」
私が過去にユリの花が好きだと言った事を覚えていたのだろう。
「ふふっ!早とちりってヤツ?」そう言いつつも本心は喜びでいっぱいだ。
「何とでも言え。いらないなら返せ」
「イヤ!」奪われそうになり、慌てて布団の中に引き入れる。「いいの、ユリの花じゃなくても問題ないから」
だって、新堂さんが選んでくれた物だから。何だっていい!それに十分素敵だ。
私は笑顔で目を閉じた。
少しして、彼に提案する。「ねえ、まだ八時過ぎでしょ?」
「そうだな」
「新堂さん退屈じゃない?さっきのお風呂の他に、別棟にあと二つあるのよね」
そうみたいだな、と彼が答える。
「探索して来て!良かったら私も入りに行くから」
「探索ってなぁ。誰か使ってるんじゃないか?」
「空いてたらでいいよ。あなただけでも満喫して来て。ね?」
「おまえは一人で大丈夫なのか?」
「平気よ。それに、これじゃ動けないし?」点滴を見上げて言う。
この点滴バッグを持って外に出る気にはなれない。つまり私は部屋で大人しくしているしかないという事。
「なら行ってみようか。何かあったら、すぐに携帯に電話しろよ?」
「もちろん」
何度も私の事を気にかけながらも、彼は部屋の鍵と携帯を持って出て行った。
今日一日散々だったのだ。私のせいで部屋に缶詰だなんてつまらない。彼だけでも楽しんでほしい。
もう一度お守りを眺め、枕元に置いて目を閉じた。
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