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第六章 見えないところで誰かがきっと
クルマ酔い(3)
しおりを挟むここへ来るまでにたくさん寝たので、さすがにもう眠れない。少しだけウトウトしたが、寝るのは諦めた。
横になったまま、お守りを掲げてわざと鈴を鳴らしてみる。
「新堂さんがお守り買うなんて!」あの神仏に縁遠い彼が?未だに信じがたい。
少しして新堂さんが戻って来た。思いのほか早い。
「起きてたのか」
「うん。少し寝たけど、すぐに目が覚めちゃった」
そうか、と頷いた後「いや~。参ったよ……!」こんな言葉を発する。
「もっとゆっくりして来て良かったのに。どうかしたの?」
何でもここへ戻る途中に、女将から声をかけられたらしい。
旅館内は照明が少なく、古い造りの階段はギシギシと鳴る。そのため背後から突然響いてきた女の声にギョッとしたとか。
「振り向いた先に和服の女だぞ?ホラー映画さながらで背筋が凍ったよ」
「ふうん……」その割には、嬉しそうにする彼が気に入らない。
幽霊かと思った!とおどける彼に、ここは同調しておく。「新堂さんて案外その手のモノ、苦手だモンね~」
そして本題に入る。「それで?女将は何か言ってたの?」
「別に何も。おまえの事を気にかけてたよ」
「どうだか……!」それは口実。目的が新堂さんなのは一目瞭然!
「ん?」私の息巻く様子に首を傾げる彼に、「いいえ、別に」と一旦力を抜いた。
「それより、体調良くなったのか?」
「うん。何だか目が冴えちゃった。私も入って来ようかな。向こう、どうだった?」
「ああ。今ひとつだな。この下のが一番いい」
「こっちの建物の方が新しいしね」
こう答えて、点滴がされているにも関わらず両腕を上げて背伸びする。
「待て待て!腕を動かすな、今外してやるから……」
強引に腕を下ろされて、針が抜かれた。
「痛~い!血、いっぱい出たけど。なんか乱暴じゃない?」
「おまえが動かすからだろ」
「あ~ん!もうっ!」布団を勢い良く捲り上げて起き出す。
どうにもイライラが止まらない。面白くない!
「どうやら元気になったようだ。……なりすぎたか?」
こんな嫌味を無視して言い放つ。「ちょっと出て来る」
貰ったお守りを結んだ浴衣の帯に括りつけて、羽織に袖を通す。
「どこへ行く?」
「その辺よ、あなたは休んでて」
「あっ……おい!」
お守りの鈴をチリンと鳴らし、あっという間に部屋を出た。まさに彼があっ、という間に!
「何よ、美人女将に鼻の下伸ばしちゃって!知らないっ」
私達の部屋は角部屋だ。斜向かいにプライベートと書かれた部屋が一つある。
従業員用だろうか。気に留めず階段を下る。
「確かにギシギシ言うわ。さすがは古民家!」
ふと、廊下の窓から見えた外の様子に目を凝らす。黒服の男が二人、女将を無理やり車に引き込もうとしている。
「何してるの?あれってどう見ても事件よね……助けなきゃ!」
急いで外に出るも、すでに後部席に押し込まれてしまった女将。私と目が合うと、首を激しく左右に振る。
「どういう意味よ……手を出すなって事?」
訝しく思いながらも、袖元から車のキーを取り出す。
彼が部屋を出ていた隙に失敬したのだ。別にこんな事態を予想していた訳ではないのだが。
「何にせよ、ここまで来たら追跡開始よ!」
ベンツに乗り込むと、勢い良くアクセルを踏み込む。車は瞬く間に旅館の前を走り抜け、追跡が始まった。
それほど遅い時間帯でもなかったが、車も人通りも皆無。辺り一帯はどこまでも静まり返っている。すぐに前を走る車のテールランプに追い付いた。
車は寂れた建物の前で停まり、男達が降りてくる。
ここで敵を倒し女将を奪還するのは容易いが、何か事情があるようだ。しばし様子を見守るとしよう。
「あの旅館、もしかして何か問題を抱えてるのかも」
大抵こういう時に問題になるのは資金面だ。
ここ一帯の土地は、ある外資系企業に買収されかけているようだし、例えばあの女将がそれを拒絶して、一人戦っているとか?
突然建物内から激しい音が響いた。
昔のように車で突っ込みたいところだが、この車でやるのは気が引ける。新堂さんの悲しむ顔は見たくない。
「誰か知らないけど、女将に手を出したら殺してやる!」意気込んで車から降りる。
建物に駆け込むと、縛られている訳でもなく、奥の椅子に腰かける女将がいた。
その前のテーブルにはアタッシュケースが二つ並べられ、チラリと見えた中身は札束だ。何かの交渉事か。
「……新堂様の、奥様!?」
酷く驚いたのは敵だけではないようだ。まさか私が追い駆けてくるとは思わなかったのだろう。彼女にとって私は単なる‶気になる男の病弱な妻〟だったのだから。
「何やってるのよ、コソコソと?」ここは黒服の男二人に向かって尋ねよう。だがどうやら彼等は日本人ではないようだ。
私は英語に切り替えた。「(この国でこんな手荒な真似をして、いいと思ってる?)」
「奥様、ご無理をなさらないでください!私は……、私は大丈夫ですから」とてもか細い震える声で女将が訴える。慣れていますから、との言葉がポツリと続く。
「慣れてるって……これが初めてじゃないの?!」
女将が頷く。
「(あんた達、何考えてるの!警察呼ぶわよ?)」
「(部外者が首突っ込みやがって。これは立派な交渉ですよ?そうでなければ、この金は登場しませんよね。欲しいモン横からかっ攫えば済む話だ!)」
男達が女将に目を向ける。
女将は、ぽつりぽつりと事の経緯を語り始めた。
「今や、大手の外資系ホテルに押されて、経営は右肩下がり。多少の人気はあるものの、大口の依頼は受けられず収入には繋がりません」
確かに老朽化は否めない。新館に別館と増築を繰り返してもこれ以上は厳しい。
「宿泊費を値上げしたら?お料理もサービスもいいから、いけるんじゃない?」
多少高くても、それに見合ったサービスを考えればいい。
「そんな事をすれば、客足が遠退きます!……済みません、お客様にこんな話を」
「別に構わないわ。だからってこんな中国人に売るなんてダメよ!」
男達をギロリと睨んで訴える。
私が声を張り上げた時、入り口から靴音が響いた。
「そこまでだ」
驚いた事に、現れたのは彼だった。「新堂さん?!何でここに……っ」
「何で、じゃない。おまえこそ何でこんな交渉事に首を突っ込んでるんだ。女将、ケガはありませんか?」
「ええ、どこも……」品良く腰を下ろした女将が答えた。
「そもそも、女性相手にあんな乱暴な扱い、許せる訳ないでしょ?さらに中国人風情が人の国の土地買収しまくって!言っとくけどね、あんた達にこの国のおもてなし精神なんて、分かりっこないの!」
女将は口は出さないが、頷いて涙を流している。
「(おい女!いい加減にしろよ?こっちが大人しくしてりゃ、いい気になって!)」
「(それはこっちのセリフ!即刻この国から出て行きなさい!)」
「(いいのか?所詮、金が物をいうのさ!これがなかったら、あそこは潰れるぜ?)」
アタッシュケースを見やり、醜い笑みを浮かべて男が言い放つ。
「(潰れやしないわ。私、あの宿気に入ったの。そんな事はさせない!)」勝手に決めつけないでもらいたい。
「(俺達はここを二億で買うって言ってんだよ。まさかそれ以上出すってのか?はは!そんな訳ねえよなぁ)」
「お金お金って、もっと他にだって方法がっ……」今すぐに具体的な策は提示できない。
言葉に詰まってしまった私の肩に手を置き、新堂さんが前に出た。
「新堂さん……?」何を言う気だ。
「(ならばこちらは、倍出そうじゃないか。)四億でどうです?女将」
何が起こったか分からない様子で、女将が彼を見つめている。
「(バカな!そんな金、本当に出せるのか?どうせハッタリだろう!)」
「(失敬な!何ならここで小切手を切ってもいいが。どうする?)」
男達が黙り込んだ。
そんなものは持ち合わせていないはず。彼がこんなハッタリを言うとは驚いた。
「もうこんな埃っぽい場所に用はない。さあ帰りましょう、女将」
彼が静かに手を差し伸べている。白魚のような女将の手が彼のと触れ合う。微笑んで歩き始める二人。
つい後ろから、ジトっとした視線を送ってしまう。
「ユイも、さっさと帰るぞ」
「言われなくても!」横にあった机を蹴りつけた。
「ユイ!何してるんだ」
「ぶつかったの!」
こんな事をしてみても、荒い気性は落ち着いてくれる気配もない。
片や女将の淑やかな姿。明らかに勝ち目はない。新堂さんは私の母が好きだったくらいだ。きっとああいう女性がタイプに決まっている。
それでも私は彼を譲る気はない。
外に出ると、彼を連れて来た旅館の事務長が、軽トラックの前でオロオロしながら待っていた。
「女将さんはこっちに乗って!新堂さんはあっちね!」
女将の手を掴んで彼から引き剥がすと、ベンツに乗せる。そして彼を事務長の軽トラックの方に押し出した。
「あっ、おい待てよ、俺もそっちで……」
「お先っ!」
一緒に乗りたがった彼を置き去りにして運転席に乗り込み、颯爽と走り去った。
「完全に怒らせたな……」
私達の車を見送りながら、彼が重々しいため息を吐いていたとかいないとか。
旅館へと到着して、事務室にて改めて交渉再開だ。
「あの……新堂様、先ほどのお話は、ご冗談ですよね?」女将が控えめに聞いてくる。
「いいえ。ご要望があれば、私がここのオーナーになっても構いません」
「なぜそこまで……!」
「女将さんがキレイだからでしょ。男は皆、あなたみたいな大和撫子に目がないから!」
わざとらしく彼を睨みながら言う。
咳払いの後、彼が白状した。「確かに……女将はとても淑やかでお美しく、魅力的だ」
「ほ~ら。やっぱり!」
「だが……」言葉を濁した彼が、私を真っ直ぐに見てくる。
そして抱き寄せられた。「私を支えられるのは彼女だけです。女将を必要としているのは、私ではなくこの宿でしょう?」
「新堂、さん……」
「昔ながらの雰囲気の残る、こういう場所を失いたくない。私はただ純粋にそう思っただけです。日本人でさえ、こういう日本らしさを忘れてしまっていますからね。かく言う自分もそうですが……」
彼の言葉に、事務長が大粒の涙を流していた。
「ありがとう……ございますっ!これで、亡くなった主人の面子も保てます……」
こう答えた女将を、思わず二度見してしまった。
「ご結婚、されてたの?」
「ええ。三年前に主人を病気で亡くしまして。私が女将になりました。経営が思うように行かず、もう手放してしまおうかと悩んでいたんです」
「そうだったの」この人も大変な人生なのだ。
「新堂先生の奥様……ユイさん、でしたね」女将が私と向かい合う。「あなたには、謝らなければなりません」
「どうして?」
「正直に言います、私は新堂先生に一目惚れいたしました」
「知ってるけど」
「ユイ!」彼が透かさず窘めてくる。
こんな私達を見て羨ましげに微笑む女将だが、すぐに神妙な面持ちに戻る。
「あなたという素晴らしい奥様がいらっしゃるのに、私は先生に一時でも縋ろうとしてしまいました。本当に、ごめんなさい……」
彼が一人で温泉に浸かりに行った時に引き留めた件だろう。どんな会話がなされたのかは知らないが!
それで部屋に戻ってきた彼がああ言ったのか。参ったよ!とそれは嬉しそうに?
「仕方ないわよ、この人、とっても魅力的だから」
パート先の女性達全ての目をハートにさせてしまうくらいには?これのお陰で私にも多少の免疫がついてきた。
「心の拠り所が、欲しかったのです……」
下を向いて呟く女将はとても健気で儚げで、さらに美しく見えた。
「でも、もう大丈夫です。先生の先ほどのお言葉、とても胸に沁みました。これからは、この言葉を心の拠り所にいたします」
「その強い心を持つあなたなら、大丈夫ですよ。なあ、ユイ?」
「ええ。おかしなお客が来たら言って。ヘリでも飛ばして追い払いに駆けつけるから」
「ヘリ、コプターですか?まあ頼もしい!」
その場に起きた笑いが、鬱屈した空気を吹き飛ばした。
こうして彼は、この宿に史上最高額の宿泊費を支払ったのだった。
「今回は高くついたわね。旅行代……」
「何ら問題はない」
「カッコい~!で、あそこのオーナーになって、経営とかやるつもり?」
「まさか。そんなのできるか、俺は忙しいんだ。全部専門家に任せたよ。まあ、多少の要求はして来たがね」
「どんな?」
「まずは二つの浴槽の改修と、階段の軋みを直せと」
「それだけ?本当に気に入ってるのね、あそこ」
「ああ。何にせよ、この連休中に温泉を貸切にさせろと言う要望を受け入れてくれた寛容さが、一番のポイントだった」
「はあ?!」お客が少なかったからではなかったのか……。
「一緒に入れたのが一回だけで残念だったけどな」
「ウソでしょ?あれって、あなたが頼んだの!」
「このゴールデンウィーク真っ只中だぞ?客室は埋まっていたし、貸し切れるのは普通平日だ」
「まさかあなたって人は、最初から金にものを言わせて……っ」
「人聞きの悪い。サービス料と言え」
「だからあの女将、新堂さんに目を付けたのね。お金持の客って事で!見かけに寄らず、したたかな女!」
「俺は別に何とも思わない。日本らしさを一つ守れたんだから?」
サラリとこんな事を言う彼はどこまでも満足げだ。どうにも今回の新堂さんは人が変わったように見える。
思わずバッグで揺れているお守りに目が行ってしまった。
宿を出てこんな会話をしているうちに、本日最初の目的地へもうすぐ着くところだ。
今日は晴天。一日この天気が続くと良いのだが。昨日は徐々に雲が広がって星空も見られず仕舞いだったから。
「ところでユイ。今日は体調はどうなんだ?」
「大丈夫そうよ、今のところ。昨日ストレス解消できたし?」
「解消、し切れたのか?」
「うん。新堂さんの事も蹴りつけなくて済んだでしょ!」
「どういう意味だ?」
「私もあなただけよ。新堂さんっ!」
運転中に抱きつく今や定番のこの行為は、即却下と見えてすぐに引き剥がされる。
けれど彼は言った。「いつも言ってるじゃないか。俺は、おまえしか眼中にないって」
「もちろん分かってたわよ。でも、確認したくなったの!」
負けずに今度は腕に絡みつく。
「ちゃんと前向いて座ってろ。また酔うぞ?」
「大丈夫。新堂さんは運転上手だから」
「良く言うよ……。まあ、この分なら今日は大丈夫そうだな」
目的地の公園に着く。今年は気温が高めなせいで、例年今の時期に満開になる芝桜がすでに見頃を終えて半分になっていた。
「一面お花畑じゃなくて残念だね……」
私の感想は聞こえていたのか?「暑い……耐えられん。帰ろう」彼が踵を返す。
「え……早くない?!ちょっと、待ってよぉ~!」ほんの数分で観光は終了した。
実際太陽光は夏の日差し。公園内は予想以上に暑く、私の体調もあって無理は禁物と考えてくれたのだろう。
その後場所を変えて二泊ほどして、今回の旅を終えた。
「新堂さん、今回は運転お疲れ様。結局ずっとしてもらっちゃったね」
「いいさ。峠道はキツかったけどな」
走り屋と呼ばれる連中が好む峠道をいくつか通った。何度かそれらしき車に煽られたのだが、今回私は終始耳の痛みに苦しんでいて、それどころではなかった。
「今度は絶対運転させてもらうからね?」
「もちろんお願いするよ。運転は好きだが、あんなふうに煽られるのはゴメンだ!」
教訓。標高の高い場所へ行く時は、勝手に耳栓を外さない事!
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