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第六章 見えないところで誰かがきっと
55.ひとつの終わり
しおりを挟む全てが解決して、穏やかな元の生活に戻った。
今日はたまたま近くで仕事をしていたとの事で、新堂さんが会社まで車で迎えに来てくれた。
会社前の通りで待ち構える黒ベンツを見ると、いつも思ってしまう。
「子供の頃から、な~んにも変わってないなぁ。ワタシ!」
それは幼い頃に、実家のヤクザなベンツでやって来たキハラだったり、出会った頃の冷血新堂だったりするのだが。
助手席ドアを開けると、聞き慣れた声が耳に届く。
「お帰り」
「新堂さんもお疲れ様。わざわざ寄ってくれてありがとう」
車に乗り込み、笑みを交わしながら伝える。
夕方の道は意外と混んでいて、電車で帰るよりも時間がかかったりする。いつも断るお迎えだが、今日は少しだけ嬉しかった。
秋も深まった十一月初旬。日はすでに傾き始めてピンク色の夕焼け空が広がっている。
「キレ~イ……。見て、新堂さん、空、凄い色よ!」
信号待ちしていたため、彼もサイドから空を見上げている。
「ああ。大気の水分量が多いとこうなる」何とも淡白な感想だ。
それはどこまでも冷血新堂らしくて、つい今しがた昔を思い出していただけに、思わず笑ってしまった。
「何だよ。別に変な事は言ってないと思うが?」
「うん、言ってないよ。大丈夫」そう返しつつもまた笑う。
程なくして車は動き出した。
流れ行く車窓を眺めながら、こんな事をポツリと呟いてみる。
「私、そろそろこのパート辞めようかなぁ」
新堂さんが驚いたように助手席を振り返った。「今のは空耳か?」
「ふふっ。……。さあ、どうかしら」
色々迷惑もかけたし、自分はあそこにいない方が良いのではと思い始めて、実はすでに会社でボスと交渉中だ。
シフト制の仕事は後任が決まらないと辞められない。仕事に穴を開けてしまうから。だからそれまでは続けてくれと頼み込まれている訳だが、それはつまり、後任が決まらなければ辞められないという事ではないか?
こんな状況のため、まだ彼には内緒にしておこう。
ところがその後二週間もしないうちに急展開となる。案外あっさりと後任が決まったとの事。どうやら誰かのツテで招いたらしい。
そうなれば、私はあっさり用済みの人だ。
そしてついに迎えた十一月最終日の朝。
「いよいよ最終日だな」
「そうね、って、新堂さんそれ言うの何回目?」
どこか楽しそうな彼に突っ込む。何せ昨日からずっとこれだ。
晴れて退職が認められたと喜んでばかりもいられない。
私には、心配な事が一つ残っている。場合によっては今後もあそこの人達をガードする必要があるかもしれない。
万が一、朝霧ユイに関わった人間に接触しようとする連中が現れたなら。そんな危険が消えた訳ではないのだ。
そして過保護な彼は、最後までこうだ。
「送って行くよ」
「大丈夫!こんなにいい天気なんだし。何しろ最終日だからこそ、一人で行く……いえ行かせて?」
「まあ……最後だし、分かったよ」
「ほらまた言った!」
今月の最終日は日曜日だったが電車は案外混んでいる。ここは行楽地が近いため、週末は観光客で混雑する事が多いのだ。
さらに今年は秋の到来が遅かった事もあり、まだ紅葉が楽しめるらしい。
「私も新堂さん誘って、紅葉でも見に行こうかな~」
こうして通勤する事もなくなる。名残惜しさを覚えつつ、混み合った電車を降りた。
会社に着くと、ボスが待ち構えていた。
「朝霧さん、おはよう。ちょっといい?」
「おはようございます支社長、今行きます」
もしや後任の人の採用が取り消されたとか?今さらそれは困る!
退職願を出した時、ボスには何度も引き留められた。体調が良くないなら別だが、そうではないのになぜやめるのかと。
時として体調不良で長期に休んでいた私だから、そう言われても仕方がない。
今になってまたその押し問答を再開するつもりではないだろうが。
いつもの接客ブースに誘導されて、対面で腰を下ろす。
ボスが前屈みになって切り出した。「ねえ。最後だから本音で答えてほしいの」
「……はい?」どうやら後任の人は無関係らしい。
「あなたが辞めたい理由は、自分のせいでって、責任を感じたからでしょ?」
「迷惑をかけたのは本当の事ですから……」
結果的に招いた大きな損失の事もある。
私がここを去る本当の理由は誰にも話していない。話せる訳がない!朝霧ユイがいると、この会社は殺し屋に狙われる確率が上がりますから、などと?
「確かに、ウチの支社の売上は先月から大幅に落ちたわ。でも皆、それを巻き返そうと頑張ってる。私達はこんな事じゃ潰れないわよ」
熱い。もうすぐ冬なのに、朝から熱い!
「朝霧さんの意思が固いのが分かったから、退職を許可したけど。……でも私は、この先もずっと一緒に働きたかったわ。これは本音よ?例えどんな危険が増したとしてもね」むしろやり甲斐を感じるじゃない!と笑って続ける。
「危険が、増しても?ボス、それはホームページの……」掲載写真を見て群がる、飢えた男達の事かと聞こうとした。
「ホ~ント、やっぱり朝霧ユイは人気者ね!全く妬けるわよ。私がもうちょっと若かったら張り合えたけどね?」と急に緊張感のない声を出す。
しかしボスは、またもガラリと雰囲気を変えて言い始める。
「これは私だけの胸に留めておくから、心配しないで」
「一体、何の事を……っ」私の言葉はまたも遮られる。
「いい?朝霧ユイ。女だからって理由なんかで負けちゃダメよ?どんな時も自分の正義を貫いて。これは先輩からのアドバイス」
「……あの、」目の前の燃えるような強い瞳に射竦められ、言葉が続かない。
自分の正義。こんな内容はどうとでも取れるものだが……この人はただ者ではない。もしかして、こちらの世界の先輩だったり?
「何も言わなくていいわ。ここの事は大丈夫、私が絶対に守って行くから。何が向かって来たとしてもね」そう言ってウインクを飛ばす。
私の心配事に気づいていたのか。全く大したボスだ!
「はい。ボスなら、何が乗り込んできても無敵ですね」私はようやく笑えた。
そして接客ブースに豪快な笑い声が響き渡った。
その後ボスは訪問の予定があるとの事で、私にねぎらいの言葉を残して外出してしまった。これが最後の会話となった訳だ。
あの人の正体がどうあれ、この会社の安全は保障された。心置きなく出て行ける。
安堵しながら席に戻ると、皆が仕事を中断して集まってきた。
「朝霧さん、ホントにお疲れ様!次の仕事は見つかった?」
「いえ。当分は家にいようかと」
「そうよね~。別にあなたは働かなくてもいいじゃない。新堂先生がいるんだし?朝霧さん、愛されてるから!」
「やめてくださいよ……」
全くその通りだが?何せ私の退職を手放しで喜んでいるのは彼の方だ。
「だけど、あまりに急だよ?酷いよ、辞めちゃうなんてっ」
「済みません、そうでしたよね」ボスには前から言っていたが、皆に公表したのは後任が決まってからだ。
「今度来る新人さん、ボスと同年代らしいよ!」
それは知らなかった。こんな情報に私も含め、一同が目を丸くする。
パートの世界はこういう事もあり得るのだ。
「ボスもやりずらいだろうね~!」
ここでも笑いがこだました。
そんなこんなであっという間に一日が終わる。
皆から花束やらプレゼントやらを次々と贈られるので、帰る頃には荷物が山になってしまった。
「これ全部、持ち帰れるの?朝霧さん」
「無理でしょ……!」いくら私が力持ちでも?
「明日も来ちゃえば?」と誰かが言う。「それじゃ退職した意味なくない?」とまた誰かが答える。
「そんな事より、手っ取り早く新堂先生呼べばいいじゃない。今日家にいるんでしょ」
確かに家にいる。出かけるとは言っていなかった。だが……見渡せば、目を輝かせた中年女性達。誰もが最後に彼に会いたい!と訴えている。
そのプレッシャーに負けて、携帯を手に取った。
私が彼を呼ぶ決心をしたのを見て、後ろから歓声が上がるのだった。
「ごめんね朝霧さん、最後にあんな酷い事が重なって。私、何もできなくて申し訳なかったわ」リーダーが言ってくれる。
「いいえ。リーダーのせいじゃないし!それより、あまり根詰めすぎないように。これからの方が大変なんですから……ほら、新人さんの件とか?」
「あははっ、それね。もちろんよ」
荷物を運ぶというもっともらしい名目の元、ほぼ全員が私と共にエントランスまで降りた。外を覗くと、すでに黒光りするベンツが停まっているのが確認できる。
私達に気づいたのか、彼が車から降りてこちらにやって来る。
来なくていいのに!と思いながら皆の方に振り返り、荷物を受け取る。
「皆さん、本当にお世話になりました。色々勉強させていただけて嬉しかったです。それに、本当に楽しかった。こういうの私、初めてだったので……」ちょっとだけウルっと来て言葉を切る。
「ヤダっ、泣かないでよ朝霧さ~ん!貰い泣きしちゃうじゃない……っ」誰かがそう言って早速グスッと鼻を鳴らしている。
「感受性の高い人達が多い職場だから、ゴメンね、朝霧さん。気にしないで!」
「……はい!うふふっ」最後まで楽しい。
「総出でお見送りとは、破格の待遇だな、ユイ」彼がエレベーターホールまで入って来て、一同に向かって頭を下げる。
途端に悲鳴のような歓声が上がり、その場の雰囲気が一気に様変わりした。
「さっき泣いてくれてたんじゃなかった?」あまりの豹変ぶりに、思わずぼやく。
目に当てていたハンカチは、彼に対するアピールの道具と化しているのだった。
こうして賑やかな最後で締めくくった。
荷物を運び終えて走り出す。
「ゴメンね、急に呼び出して。散々来なくていいって言ったの私なのに」
ちょっぴり肩身が狭い思いだが、「全く気にしてない。むしろ最後に挨拶できて俺も嬉しかったよ」
まあ、あれだけキャーキャー言われたら、悪い気はしないだろうが?
少しだけムッとしつつも、「運んでもらえて助かったわ、ありがと」と礼を述べる。
「ユイは愛されてたんだな、あの会社の人達に。例のボスはいなかったようだが」
「会いたかったの?」
「いいや。申し訳ないが、あのタイプは少々苦手だ。って、言うなよ?この事!」
「言わないわよ、だってもう会わないし?」言えないわよ……。
もうここに来る事はない。そして、こんな恒例行事も今日でお仕舞い。
段々寂しさが募り始めた。こんな気持ちになるのは卒業式以来かもしれない。
「長らくお疲れ様。良く頑張ったな」
「こんなに続くと思ってなかったでしょ。自分でもそうだけど!」
「よほど居心地が良かったんだな」
「うん。きっとね」この普通の生活が新鮮で楽しかったのは事実だ。
血生臭くもない、危険も伴わない普通の日常。こんな私を受け入れてくれた事が何より嬉しくて。
「ユイの人望と責任感のなせる業だ」
「大袈裟だよっ、それ……!」
こんな会話をしながら車を走らせ、今日は道の混雑もなかったお陰でスムーズに帰宅する事ができた。
車から二人で荷物を運び出す。
「ところで今日の体調は?」チラリと顔を覗かれる。「大丈夫だけど。なんで?」紙袋を掴んで顔を上げた。
「今夜は祝杯をあげねばと、極上のワインを用意してあるからさ」
「えっ!ホント?嬉しい~っ!大好き、新堂さん!」
こんな申し出に、思わず彼に飛びつく。
その時、手にしていた紙袋の中身が、ガチャっと嫌な音を立てた。
「ん……おい、今の音、これに何が入ってるんだ?」
「記念にグラスを貰って……ちゃんと包んだよ?」袋を覗くと、包んだ緩衝材が捲れている。
「さては、包んだだけで留めてないな?」
「うん。テープ貼るのめんどくさくて!」急いでたし、と言い訳する。
彼が中の物に手を伸ばす。
「ちょっと、割れてたら危ないよ!」
「大丈夫みたいだ、ほら、割れてないよ。気をつけろよ?」
彼が取り出したグラスは、どうやら無傷だったようだ。
丁寧にくるみ直して袋に仕舞う彼に言う。「もうすぐそこなのに、そこまでする?」
「家に入る間に転ぶかもしれないだろ?」サラリという彼に、「誰が?」と聞く。
「それを持ってたのは誰だ?」
「え~え~ワタシです!言っとくけど、転んでも割らない自信あるんだからね?」
負けず嫌いの私の言い分など当然無視される。「いいから早く運べ」
「だけどあなたって几帳面よね~。でも、それならあの書斎は何であんな悲惨な状態になるのかしらね?全くもって謎だわ!」
「そういうおまえのいい加減さだって謎だな。コルトをこのグラスみたいに扱ったりはしない。割れる心配もないのに!」
「それは単に重要度の違いじゃない?」
玄関前で彼が立ち止まる。
「これは重要じゃないのか?不要な物を貰ってくるなよ」
「グラスならあっても困らないかと思って。今のがいつ割れるか分からないし?」
「うちの食器は良く割れるからな!」
「あ~っ、それ私に言ってる?」
「誰とは言ってない」との答えには即「じゃあ誰?」と返す。
「俺じゃないだろうな」
「あなたじゃなきゃ私しかいないじゃない!」
イタズラっぽい目で私を見下ろしている。
いつもより饒舌な彼は、ちょっぴり感傷的になっている私を励まそうとしてくれているのか。
ありがとう、心の中で彼の背中に礼を言いながら部屋に入った。
「ねえ?そういえば昔、あなたのボロアパートに招待された時、シンクに大量のコップが置いてあったの思い出したんだけど」
「そんなのあったか。さあ、忘れたな」
「とぼけないでよ。あれって何だったの?ずっと気になってたの今思い出した!」
「だから忘れたって」
結局真相は謎のまま終わった。
新堂さんが夕飯の下ごしらえをしてくれていたお陰で、すぐに祝杯の時間が幕開けとなる。
「それじゃ改めて。長らくお勤め、ご苦労様」
「何か言い方がアレだけど……。ありがと!乾~杯!」
一体いくらしたのか恐ろしい赤ワインは、一口含めば重厚なお味で!今日の料理にとても合っているとは思うが、私には高級さが未だ分からず。
「何だかとてもスッキリとした気分だ」清々しい顔で彼が言う。
「何であなたが?それ言うの私よ」
「ああ済まん!だから、自分の事のように思ってるって事だよ。まあ深く考えるな」
「変なの!でも前は、私がパートするの喜んでたでしょ?」
「そうだったか?」またとぼけている。
私が裏家業を再開できなくするためだった。
でも今は違うようで、それがなぜか分からない。
「だけど良く決心したな」
「ここんとこ色々起きたから。それで思い知らされたって言うか。元々休暇取りまくってたし。そんな私を今まで雇ってくれてただけで感謝よ」
「ボスは何て?」
「何も心配するな、負けるなって」何の確証もない。私の推測で勝手に語れない。だから彼にはこれだけを伝えた。
「強い人だな、相変わらず!」
そうだね、と私は微笑んだ。
「これからは朝の言い合いもなくなる。無理をして仕事に行かれずに済む。ずっと側にいてやれるんだな」
「新堂さんにだって無理してほしくないからね?もう絶対に……病気になってほしくない。私、これからはずっと新堂さんの側にいるわ」
「そう言ってくれると思ったからさ」
「え?」
「さっきの答えだよ。前はパートに行かせたかった。それはお察しのように、余計な事に目が向かないよう、極力暇な時間は作らせないってね」
「余計な事って、例えば殺しとか?」
「相変わらずの直球だな……。ああそうだ」
やっと本音を聞けた。たまにはあなたも直球で来てみてはどうですか?
「前みたいな過激な事は、もうしないでくれるんじゃないかって。俺の願望だがね」
「過激な事ね……。やりたくても体が付いて行きそうにないわ!」
それでもいいのかもしれない。この人を守れるくらいの余力さえあれば。
「新堂さんが病気になって、一緒にいられる時間って凄く貴重なんだって改めて気づいた。私はもう一秒もムダにしたくない」
限りある人生、共に過ごせる時間は貴重だ。
「もうすぐ五年。その先だって、新堂さんはちゃんと生きて行けるわ」
「ああ。何もかもユイのお陰だ」
「新堂さん……!」
想いが募って、私達は強く抱きしめ合った。
この確かな温もりと、どこまでも安心する新堂さんの匂いに包まれて、これからも私はいつでも幸せを満喫できる。
かつて私は彼に言った。幸せがどういうものか教えると。今彼が私と同じように感じているとすれば、分かったはずだ。幸せがどんなものか!
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