時世時節~ときよじせつ~

氷室ユリ

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15 大いなる後悔

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 踏ん切りが付かない俺を差し置いて、ユイは自ら唇を押し当てて来た。
 その瞬間の記憶がない。

「……イタッ!痛い、ううう……っ」
 ユイのこんな呻き声で我に返った。右の肩の辺りを押さえている。そこはさっきまで俺が手を置いていた箇所だ。
 押さえた所からは次第に血が滲み出し、見る間にピンクのウェアを染めて行く。

 あのほんの一瞬、理性が飛んだ時に力が入ってしまったらしい。俺の指先には、ユイの血液が付着していた。
「ああ……、俺は何て事を!ユイ……済まない」 
 血の香りが辺りに充満し、再び理性が飛びそうになってすぐさま距離を置く。

 あってはならない事がついに起きた。この俺がユイを傷つけた。
 近くの木の上に身を隠して、こんな事実に愕然となる。

「新堂先生!どこに行ったの?戻って来て!……痛い、痛いよ、先生ぇ!」
「ユイ、大丈夫か?すぐに手当てをする。ほんの少しでいい、時間をくれないか」
 姿を現さずに彼女と会話する。
「気にしないで、私は平気よ?ケガなんて慣れてるもの」こう言いつつもユイはとても痛そうに顔を歪めている。

 早く怪我の状態を確めなければ。そう思いつつも恐怖で近寄れない。また彼女を傷つけてしまいそうで。それ程に、今の俺は酷く動揺していた。

「新堂先生ぇ……」
 再度名を呼びながら立ち上がったユイだが、途方に暮れた様子で再び座り込んだ。
「血、止まんないよ、どうしよう。怖い……怖いよ、新堂先生!」
 仕舞いには涙を零しながら声を振り絞っている。

 ああ、これ以上は待たせられない。すぐに戻ろう。意を決して立ち上がる。
 一度車に戻り、ドクターズバッグを持ってユイの元へ舞い降りた。

「ごめんな、待たせて。すぐに手当てしよう。心配しなくていい」
「新堂先生!……もう、急にいなくならないでよ。心細くて、怖かったのよ?」
 姿を現した俺に抱きついてくるユイ。
 そっと押し止めて顔を覗き込む。
「ああ分かってる。一人にして済まなかった。鞄を取りに、車に戻ってたんだ」
 ここは、そういう事にしておいて欲しい。

 衣服を肌蹴させて状態を見る。かなり出血している。脱脂綿を患部に当てて血を拭って行くと、傷はかなり深そうだった。痛みは相当強いはずだ。
 
「痛いよな……、すぐに鎮痛剤を打とう」
 しかし案の定ユイは拒否する。「痛くないもん。注射は、イヤだ!」
「嘘を言うな。強い痛みは血圧も低下させる。抑えた方がいい。すぐに良くなるから」
 有無を言わさず患部周辺に針を刺した。

 顔をさらに歪めたユイだったが、どうやら痛みはそれ程感じなかったようだ。傷の痛みの方が強いのだろう。

 車に戻って着替えさせ、必要な処置を施した。
 やがて薬が効いたのか、徐々にユイの表情が落ち着いて来た。

「気分は?悪くないか」
「大丈夫」
 しばし彼女を見つめて集中する。「心拍が少し早いようだ」
「新堂先生、本当にそんなの見ただけで分かるんだ」感心したように呟くユイ。
「前に言わなかったか?」何を今さら?
「心臓の音が聞こえるなんて、冗談かと思ってた」

 無理もない。力なく微笑む俺を見て、ユイが不安そうに言った。

「……先生は?私の血、あんなに見ちゃったけど、大丈夫だった?」
 自分がこんな状態なのに俺の心配か?「俺は平気だ。さっきは本当に悪かった」
「でも、急にどうして……?」
「ユイのキスが、あまりに良くてね。一瞬意識が飛んだ」ここは本当の事を言おう。 
 ユイには真実を知る権利があるから。

「私のキス、そんなに良かった?」ユイの目が輝いた。
「ああ、とてつもなく良かったよ」優しく微笑んで答える。
 だが俺の笑顔は束の間だった。すぐに後悔の波に飲まれて、どん底に叩き落される。

 やはり、人間と長時間共に過ごすのはリスクが高すぎるのだ。自分は浅はかだった。

「落ち着いたら帰ろう」
「もうちょっと滑りたかったなぁ……」
「本当に、申し訳なかった」
 心からそう思って謝罪を述べると、ユイはまたも予想外の事を言った。
「先生にせっかく買って貰ったウェアが!台無し……え~ん!」

 血に塗れたウェアはもう使えない。何しろ肩の部分には、しっかりと俺の指が食い込んだ穴が開いているのだから。

「そんな物は買い替えればいいだろ!」吐き捨てるように言い放つ。
 そして力なく続ける。「……だが、ユイの替えはどこにもない。こんなふうに傷をつけるつもりは……本当になかったんだ」
「分かってるよ、そんな事。私の血を見ても、先生はちゃんと手当てしてくれた。一滴も飲まないで。それが何よりの証明でしょ?」

 大した事ではないとでもいうように言って退ける。
 こんな事態になってさえも、まだ分からないのか?俺がどれだけ危険な存在かを。

 確かに血は一滴だって味わったりしていない。処置のためにユイの元に戻ってからは、そんな気は全く起きなかった。目の前にあんなにも血が流れていたのにだ。仕事でいつもそうするように、俺は完璧な外科医だった。
 これまで制御できていた。それなのになぜあの時……。自分の不甲斐なさにほとほと嫌気が差した。

 せっかくのユイの誕生日を、俺は一瞬で台無しにしてしまった。

「帰ろう」
 助手席のシートを倒して横になっている彼女に告げ、静かに車を発進させた。

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