時世時節~ときよじせつ~

氷室ユリ

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40 ありふれたはずの日常

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 シチリアから、ロシアの自宅へ戻って約ひと月半後、ユイは二十を迎えた。

「やっとお酒もタバコも解禁~!どっちから試そっかな~!」
「浮かれているところ悪いが、煙草はダメだからな」
「じゃ、お酒はいいのね?ワインかウオッカ、どっちがいいかなぁ」
「どうしてもならワインにしろ」
 こんな俺の言葉に、ユイは目を潤ませて喜びを表現している。
「できれば、赤な?」そしてこう付け加える。そうすれば二人で乾杯ができる。


 手にする深緑色のボトルが、ポコポコという音を立てながら真っ赤なワインをグラスに満たして行く。もう一つにはすでに、深紅の液体が注がれている。
 俺達はキッチンに並んで、赤の飲み物へと視線を落とす。

「ちゃんとワイン用意してあったんじゃない。さ~っすが先生!」
 ユイが先に注いであった方に手を伸ばす。
 瞬時に、たった今注いだばかりのグラスをユイの手に押し付けた。
「ユイのはこっち」
「あ、ありがと……」
 呆気に取られながらも、俺のものと見比べて微妙な色の違いを感じ取った様子。
 
 グラスを手に、ソファーに向かう俺の後を追いながら言ってくる。
「ね~!そっち、飲んでみたいなぁ」
 そんな無邪気な顔でせがんでも無駄だ。こんな事を思いつつも、自分の体は硬直していたらしい。
 その隙にあろう事か(!)ユイにグラスを奪われてしまった。

 しかしそうはさせない。我に返った俺は、あっという間にグラスを入れ替えて腰を降ろす。
「さあ。乾杯しようか」
「ああん!ずるい!」

 こんなふうに食事を摂るのは、恐らくこれが初めてだろう。ユイの前で血を飲む時が来るとは……。
 自分がどんな顔をして飲んでいたのか分からない。気づくとユイの心音が響いていた。
 恐怖を感じているのだろうか。

「ユイも飲んでみたら?初のアルコール。悪酔いしそうだったら止めるからな?」
 飲み干してしまった自分の空のグラスをテーブルに置きながら、手付かずのユイのグラスを見て言う。
「ワル酔いってどんなの?」
 俺の真似をしてか、ユイが一気に飲み干した。負けず嫌いめ!
「おいおい、そんな飲み方はないだろ。もっと味わって飲まないと」
「あら~!私は先生にならって飲んだだけよ?あなたこそ味わった?」

「ユイ。本当は今、俺のこと怖いと思ったんだろ」
 図星か。声を上ずらせながら聞いてくる。「なっ!何でそう思うの?」
 あえて説明はしなかった。きっと言わなくても分かっているだろうから。

「ワインは度数が高い。もっと低いものから勧めるべきだったな……」
 あまり心拍数を上げすぎるのも良くない。
「このドキドキは……アルコールのせいじゃないもん」
「なら、やっぱり俺が怖いって事になるな」

「……どうして今になって、私の前で堂々と飲んだの?」
 もう言い逃れは諦めたらしい。
「おかしいな、前にも飲んでたけどな」とぼけてこんな事を言ってみた。
「先生!もう酔ったの?そっちこそ禁止よ!」

 ユイが火照り出した体を俺に寄せて来た。「……気持ちいい~」
 いつもならばすぐに離れるところだが、今は自分も食事中なので若干体温がある。
「いつもより冷たくないだろ?」
「……ん?んん~……」上目遣いに俺を見上げるその姿は、まるで猫だ。
 そんなユイを見ていたら、やや緊張していた体が一気に緩んだ。

「だからゆっくり飲めって言ったんだ。大丈夫か?何かつまみでも食べたら?」
 頷いたユイは気だるげに立ち上がると、冷蔵庫からチーズを取り出して戻ってくる。
 その間に自分のグラスにだけ、並々と赤い液体を追加した。
「あ~!どっから持って来たの?」
 驚いた様子で聞かれるも答えは一言。「内緒だ」

 いつでもストックがある訳ではない。今回は特別に用意していたのだ。
 空になったユイのグラスにもワインを注いでやる。

「二杯目のお許し、出たみたいね」
「今のところはな」肩を一度大きく上下して答えた。
「こうして先生がここで食事できたら、二十四時間、ず~っと一緒にいられるね」
「それは難しいな。この程度の量では満たす事はできないんだ」
 このコメントにユイが黙り込んだ。何を想像したのかは大体予想できる。
「また……怖がらせたな。済まない」

 ユイは慌てて首を振ってから、ワインを口に含んでしかめっ面になる。

「ユイには、ジュースの方がいいみたいだ」
「全っ然美味しくない!そうかも……。ねえ、新堂先生は好きだった?ワイン」
「ああ。良く飲んだよ。大概はヤケ酒だ。安いヤツを何本もね」これでは好きだったとは言えないか。
「昔のワインは不味かった。今の方が断然品質がいいだろうな。香りが全然違うから」
「味わえなくて残念ね。それで、それは美味しい?」俺のグラスを見て聞いてくる。

「これか?さあ、どうだろうな……」
 渇きを癒すためだけに口にするこれが、果たして美味しいと言えるのか分からない。

「私の血、美味しそうな匂いがするって言ってたけど、不味い血もあるの?」
「ユイに会うまで、俺も気づかなかった。初めてなんだよ。おまえのような人間はね」
 あらゆる意味で。そう心で続けながらユイを見る。
「そっか。初めてか~!私、先生の初めての人って事ね!ステキ!」そう言って抱きついて来る。
「そう、おまえは俺だけのもの。絶対に誰にも渡さない」

 今なら凍えさえずに済む。心ゆくまで触れられる。ユイの背中にそっと腕を回して、その存在を確めるように抱き寄せた。


 一日はゆっくりと、しかし確実に流れて行く。

 前の晩にオペを請け負った患者の事後フォローのために、翌日の日中に病院に行く事もあるが、それ以外はずっとユイの側で過ごしている。

 時にはピアノを教えたりするのだが、どうも彼女には忍耐力が足りない部分がある。
 ヴァンパイアは、ひとつの事を無限に続ける事ができる。飽きるという感覚がないのだ。だがユイは相当飽きっぽい性格のようで……。

「もう一度だ。ここはこうだ、分かるか?」
「分かんない。ああん!だからもういいってば。向いてないのよ、私には」
 ピアノを前にレッスンは延々と続く。
「先生は先生でも、こっちの先生はキライだぁ!医者も嫌いだけど!」

「好きか嫌いかはどうでもいい。分かるまで説明するよ。さあ、もう一度弾いてみて」
「何でそんなに根気強いの?こんなできの悪い生徒相手に、怒りもせずに穏やかに教えてくれるなんて!」
 普通ならヒステリーでも起こして手を引っ叩かれてるところ、とユイが続ける。
「こんな事でなぜ怒る?」 
「だって、サジ投げられても当然なくらい、私、飲み込み悪いでしょ?」
「このくらい普通だろ。おまえが飽きっぽいんだ。で、どうする?もうやめる?」

 選択肢を与えられてホッとしたのか、ユイが即答した。
「はい、やめます!それより先生、何か弾いてよ」
「しょうがないな……」
 ユイと入れ替わってピアノに向かう。手を鍵盤に乗せて指を滑らせる。ピアノは息を吹き返したように美しい旋律を奏で始めた。

「ほら先生、ピアノも喜んでるよ、先生みたいな上手な人に弾いて貰えて!」
「人、ではないけどな」

 こんなユイとの他愛のない日常が、とても愛おしかった。かつてユイが時間を止めたいと言っていた事を思い出す。
 少しだけ、その気持ちが分かった気がした。

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