僕は君のことを忘れるけれど、ボクはキミのことを忘れない

香澄 翔

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迫り来る悪夢

21.パンドラの箱

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 天井を見上げる。壁紙の染みが、少しだけ見えた。

 何もない天井は、ボクの心の中を示しているかのように、白く、でもどこか薄汚れていた。

 たけるくんのために、ボクは身を引かなければいけない。たけるくんの近くにいたら、たけるくんを刺激してしまうから。

 いつまで? たけるくんの病気が治るまで。いつまで? たけるくんがボク以外の何かを好きになるまで。いつまで? いつまで? いつまでも?

 頭の中が震えていた。

 受け入れようと思うものの、心がそれを否定していた。

 たけるくんと一緒にいたい。それがボクの素直な気持ちだった。
 たけるくんから離れるだなんて、考えられなかった。

 悔しくて、悲しくて、ボクがいることが悪いのかと、自分を責めて、それでもたけるくんのそばにいたくて。混乱して頭が壊れそうだった。

 いっそボクのことを嫌いになってくれたらいいのに。それならボクだって諦められるのに。たけるくんがボクのことを大好きだと思っているからこそ、忘れてしまうなんて。そんなの、諦められるはずがないよ。

 だってそれはたけるくんへの裏切りだ。たけるくんはボクのことを好きでいてくれるのに、ボクがたけるくんのことを好きじゃなくなんて、なれるはずがないよ。

 でもそれは、ボクがたけるくんを諦めたくないから思ってしまう言い訳なのだろうか。

 たけるくんのことを思うなら、ボクはたけるくんから離れるべきなのだろうか。

 この季節は夜になると、まだまだそれなりに冷え込む。
 だけどボクの体が震えているのは、寒さのせいではないかもしれない。

 体中が震えていた。両手で自分を抱え込んだ。

 冷たくて、まるで血が通っていないかのように思えた。

 震える自分の体を両手で抱え込むようにして、ぎゅっと目をつむる。

 まだボクに何か出来ることはあるのだろうか。たけるくんのために出来ることはあるだろうか。

 先生の説明によれば、たけるくんの深層意識にはまだボクのことを好きな気持ちが残っているのだと。その好きという気持ちが、脳内で強く刺激を作り、それがきっかけで脳内の分泌物が暴走してしまう病気なのだと言っていた。忘れるのはそれに対する防御反応で、それによって分泌物が抑えられるのだと。

 だからたけるくんの心を中途半端に刺激してはいけない。好きな気持ちを刺激するようなことをしてはいけない。それは脳内の暴走を長く引き起こし、心を壊してしまう原因になるとのことだった。

 今回のたけるくんは、おそらく病院にくるまでの間にいくつか刺激をうけるようなことがあったのだろうとのことだった。ボクとのライムをみたことや、そのあともボクとのやりとりもそうかもしれない。でもおそらくはそれ以外にも何かあっただろうとは言われた。

 いくつかの要素がからみあって、好きな気持ちを完全に思い出さないまま、中途半端に記憶を取り戻したために、脳内が暴走しかけていたらしい。

 今までの事例によればその状態が長く続くと精神的にはよくないとの話だった。中にはそのまま心が壊れてしまったケースもあるらしい。

 だから先生がとった手段はボクとのことをはっきり肯定すること。質問してボクのことを引き出すことによって、ボクとの記憶をはっきりと思い出させる。強い刺激を受けることで、曖昧な状態を回避して、もういちど忘れさせることだった。それ自体もあまりよくはないらしいけれど、さっきまでの状態が続くよりかはいいらしい。

 本当は何もせずに安静にしているのが無難だということだった。出来るなら引っ越しなどしてしまって、環境を変えてもう絶対に思い出させないのがいいとのことだった。

 最初はサッカーのことが忘れていたから、サッカーじゃテレビや本などでどこからでも刺激を受けてしまう。だから引っ越しには意味がなかった。

 でもボクのことだったら、ボクが近くにいなければ、そのことを知っている人がいなければ、強い刺激を受けることがない。だからそうした方がいいかもしれない。

 先生の説明はボクに絶望を覚えさせるには十分な話だった。

 たけるくんにとってはボクは重荷になってしまう。そう言われたも同然だった。

 やっぱりこの話をきいた上で、ボクに出来ることなんて何もないかもしれない。

 諦めるしかないのかもしれない。

 この病気が治った例はゼロではない。だから決して不治の病ではない。それだけが唯一の希望だった。でも何をすればいいのかもわからなかった。

 希望はほとんどない。残された希望も微かなものだ。

 パンドラの箱を開けたとき、この世のすべての災厄が解き放たれた。でもそこに残された希望は、果たして良いものだったのだろうか。

 災厄と同じように閉じ込められていた希望は、それがあるからこそ諦められない。苦しさを続けるだけの、やっぱり災厄だったのかもしれない。

 ボクにとってたけるくんは世界そのものだった。灰色にくすんだ色あせた世界に、光を射してくれた。ボクの目の前に鮮やかな世界を取り戻してくれた。

 でもそれでも。

 箱の中にわずかに残った希望は、ボクの心に救いの糸を垂らしていた。
 たった数例でも完治した記録はある。

 それなら。
 それならもしかしたら。

 たけるくんだって、病気を克服してくれるかもしれない。

 神様。もしもボクに出来ることがあるのなら、何でもやる。やってみせるから。

 たけるくんに奇跡を起こしてください。

 箱に残った希望は災厄とは違うものだと、ボクに教えてください。
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