どろあらしの頼みごと

スズキマキ

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こうれん、どろあらしに出会う

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 ブウン、ブウン、と虫の羽音が聞こえる。いやな音だ。こうれんは顔をしかめてかばんの肩ひもをかけ直した。かばんの中からカラン、と音がした。空になったアルマイトの弁当箱だ。かばんの中で傾いているなとこうれんは思った。すぐにでも直したいけど、道端でやるわけにもいかない。
 虫の羽音はただ音だけでなく、わずかに空気がふるえるのも感じる。羽音の振動に反応して、こうれんの肌もざわざわした。こうれんは虫がきらいだ。
 虫だけではない。ここにはこうれんのきらいなものがいくらでもある。
 こうれんは町で生まれて育った。町は清潔だった。でもここはちがう。
 汚いものが、こうれんは大きらいだ。
 昨日の雨で道がぐちゃぐちゃだ。ぬかるみに足をとられ、小虫が発生して飛びまわり、泥のいやな匂いがあちこちでする、雨の翌日はいっそう、こうれんのいやなものであふれかえる。
 道の先に小虫の大群が黒いかたまりを作っている。(うわ。)とこうれんはいっそう眉をよせた。
 そっちに気をとられていたので、背後にいる人間に気づかなかった。
 ぐいっ、と、こうれんの腕が引かれた。
 こうれんはぎょっとした。
「お前、やおの孫だな。少し前からここにいるだろう。三回見たことがある。」
 しわがれた声に、こうれんはすごくいやな気持ちになって、振り返った。

 やせた、背の低い、汚くて年とった男が一人、そこにいた。

 田舎の人間はみんな、町に住む人たちに比べたら清潔感がない。着古した和服を着る者が多い。木綿もめんがくたっとへたれているし色もあせているし、それにえりをだらりと開けていることもよくある。だけど、と、こうれんは考えた。
 それにしたって限度があるだろ、そう思った。
 目の前にいる男は、こうれんが11年生きて出会った中でいちばん汚かった。汚さの新記録、きっとこの先も破られない記録だろう。
 半分くらい白い髪はあちこちまばらに禿げかかっており、目は血走ってむき出しの歯が黄色。服はこのへんの人間にしてはめずらしくシャツで、元々は白い開襟シャツだったと思うが、ずいぶん古いものらしくて茶色に変色している。それに袖がり切れてボタンがいくつか無くなっていた。こうれんは男が裸足はだしなのに気づいて(うわっ。)と思った。ここの集落の者は大人も子どももたいてい、普段は草鞋わらじだ。でも男はそれすらいていない。
 でも、だけど、足よりも、もっと汚いのは顔だ。
 泥だらけ。
 肌がまだらに見える。泥、肌、泥、肌。半分くらい泥だ、とこうれんは思った。そのためか、男から泥の匂いがする。雨の翌日の道とおなじにおい。
 こうれんはこの男の名前を知っている。この集落で評判の男。祖父母からも、同級生からも、この男に近づくな、話をするなと言われている。
 こうれんはみんなから聞いた男の名前を小声でつぶやいた。
「どろあらし。」
「うるさい!」
 男がいきなり大声を出したのでこうれんはびっくりした。手を振りはらおうとしたけれど、男の手がこうれんの腕を強くつかんで離さない。
「いまこの子どもと話すところだ!だまっていろ!」
 あれ、とこうれんは思った。どうも男がどなりつけたのは、こうれんではないだれかのようだ。こうれんはあたりを見回したが。そばにはだれもいなかった。
 どろあらしの目がぎょろりと動いて、こうれんをにらんだ。
「やおの孫、お前の家に竹ぼうきがあるか?」
「ある。」
 反射的にこうれんは答えた。祖父母や同級生の制止の言葉はしっかり覚えているが、それでもとっさに返事をしてしまった。なぜなら聞かれたのがほうきのことだったからだ。
「ぼくが毎日使っている。ほうきだけじゃない、ぞうきんだってタワシだって使っている。毎日きれいにしているんだ。」
 こうれんはつい、胸をはって答えた。
 どろあらしがフン、と鼻をならした。
「お前、そうじが好きか。ならちょうどいい。やおの孫、お前これからそうじの道具を持って大岩のところへ行け。」
「えっ? 大岩?」
「ああそうだ、大岩だ。知っているか?」
 こうれんが返事をするより早く、どろあらしがこうれんの腕をさらにぐいっと引っぱって歩き出した。
「こっちだ。教えてやる。」
「ちょっと、痛い。はなせよ、ねえ、はなせ!」
 こうれんがわめいても、どろあらしはおかまいなしだ。こうれんをぐいぐい引っぱってすごい速さで歩く。こうれんは足がもつれそうになった。
(転んだら汚れる!)
 そう思ってなんとか踏みとどまった。その後は腕をふりほどくのを後回しにして、どろあらしの歩調に合わせて急いで歩いた。転んで泥だらけになるくらいなら男についていく方が一千倍マシだと思った。
 二人はあぜ道を進み、やがて少しだけ広い道へ出た。こうれんはこの道を知っている。駅のある小さな町からこの集落に通じる一本道だ。汽車に乗る者はみんなこの道を通って駅へ向かう。こうれんは逆で大きな町から汽車に乗って駅で降りて、この道を通って祖父母の家にやって来たのだ。
 道の左右に田んぼが広がる。カエルの鳴き声がひびく。それに、こうれんのきらいな虫の羽音も。途中で三回ほど二人は小虫の群れにつっこんだ。こうれん一人だけなら絶対によけて通るが、どろあらしは平気で突っ切った。こうれんも否応なくついていく。そのうち田んぼが途切れて草むらになり、竹やぶが現れ、さらに歩くと雑木林が現れた。木かげで少し暗くなり、ところどころでこもれ日が二人の肌にあたってそのときだけ明るさと温度が変わる。木のにおいがむわっと鼻につく。
 やがて雑木林がとだえた。どろあらしが足を止めた。
「ここだ。」
 どろあらしが見上げた先を、こうれんも見た。そしてつぶやいた。
「これ、岩?」
「そうだ。大岩だ。」
「ぼくは丘かと思った。」
 ただし丘と呼ばれる一般的な地形の持つなだらかさは、そこにはない。切り立った、高いーー。
「たしかに岩かも。」
 こうれんはうなずいた。どろあらしが大岩に近づき、岩肌に手でふれた。どろあらしに引きずられて、こうれんもすぐそばに寄った。そして顔をしかめた。こうれんはここへ来てから顔をしかめてばかりいる。
「苔だらけだ。」
「キノコもある。」
「食べられるの?」
「腹を下すとか、一日中ずっとしゃっくりが出るとか、変な夢を見る。それを気にしなければ食える。」
「毒じゃないか!」
「あと、まずい。」
 そういうのは食べられるといわないだろう、とこうれんは思った。
 どろあらしのあごがぐいっと上がり、視線が大岩のてっぺんに向いた。つられてこうれんもおなじようにした。
 てっぺんのあたりは木々が生えている。やっぱり岩には見えないな、とこうれんは思った。
 どろあらしの、こうれんの腕をつかんでいるのと反対の手がずいっと伸びた。やせているし、あちこちあかだらけで、こうれんの目にはその腕は枯れ木みたいに見えた。というか垢のついた腕をこうれんは初めて見た。垢って見たら垢だってわかるんだな、と、こうれんは変なところで感心した。とにかくその汚い腕の先、人差し指が大岩のてっぺんのあたりを指した。
「あそこは日当たりがいい。」
「それが何?」
「だが、一箇所、普段は日の当たらない場所がある。当たるのは年に一度、夏至の日だけだ。そしてこの大岩のその場所に日が当たるのは、今度の夏至、つまり1週間後で百回目だ。」
「うん。」
 つい、こうれんは素直にうなずいた。どろあらしの声が奇妙におごそかだったからだ。それにこうれんの父がこよみや天体の話をすることを好み、一緒に暮らした頃にこうれんにこういう話をときどき聞かせたことも影響したかもしれない。
 どろあらしについてこうれんは、みんなから聞いていたよりは、まともな人間かもしれないと思った。話す言葉が意外にもしっかりと筋道の立った説明だったからだ。
 次の瞬間までは。
 どろあらしが言った。

「こうじゃくだいらんが来る。」

「え?」
「こうじゃくだいらんだ。」
「は? こうじゃく、何?」
「こうじゃくだいらん。」
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