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entrée:狂食
2.「選択」
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この世で最も信頼できる人間のひとりである彼――ノットと3階のテラスで庭の賑わいを眺めながら、冷たい夜風を浴びていると。
「今夜で花嫁修業も終わりますね」
「はい……そうですね」
そんな話など、今はどうでも良いのです。それより「この指輪をはめてください」、と今すぐ言ってしまいたいところですが。
震えを抑えるのに精いっぱいで、言葉が出てきません。
もしこの指輪が、ノットの右手の薬指にピッタリはまってしまったら――そう考えるだけで、底の見えない奈落へ突き落とされた心地になるのです。
「心配はありません。あと少し……本当にもう少しで食人鬼は断罪されます。もちろん、あなたの頑張りのおかげです」
ここへ潜入してマダーマム家の皆さんと交流を持った以外、私は何もできていません。ですがたった今――私はひとつ、とんでもない発見をしてしまいました。
「『あなたがここにいてくれた』――それだけでも十分だったのです」
「え……?」
少し苦しそうに微笑むノットを見上げた瞬間。薄い唇が耳元に寄り、震える吐息が耳を掠めました。
「いいですか? 明日の『選択』で、私を選んでくださいね。そうすれば、あなたは海辺の教会のシスターへ。私はこれまで通り、あなたの兄である神父へ……全部、元通りになります」
それはここへ潜入した当初、ノットが家族の一員と知った時から思い描いていたシナリオでした。
調査が終わればノットを花婿に指名して、縁談を反故にしていただく。そうすればすべて元通り――のはずでしたが。
「いいですね?」、と繰り返し囁くノットに返事ができませんでした。
あぁ神様、お父様――私はここへ来て、救いようのない嘘つきになってしまったようです。
ですが、後悔はありません。
神の意志でも、任務でもなく――私の意志で、地下室の彼らを解放したいと願っているのですから。
「さて、キミの選択を聞こうか」
雷鳴の轟きに負けないギュスターヴの声に、こくんと唾を飲み込みました。
12月20日の安息日。マダーマム家での花嫁修業を始めてから、48日目となったその日。ついに住み込みの修業が終了いたしました。
夕食の席には、アール以外の家族全員が集まっています。天候はギュスターヴいわく、「素晴らしい夕立」です。
「兄弟の中から誰を婿として選ぶのか。あぁ、選ばないのもアリだがね」
偽りの花嫁、偽りの修行――マダーマム家で過ごしたすべてが、いよいよ終わりを告げます。
食人鬼が見つかっていない以上、闘いが終わるわけではありませんが。もうここで過ごすことはなくなるのです。
「私……私は……」
深呼吸して顔を上げると、一番緊張しているルイーズと目が合いました。辛味をこよなく愛する「赤食家」の彼女――上品で麗しい立ち振る舞いに似合わず、破壊神のごとき力と、庶民の店で騒ぐ姿が今も目に焼き付いています。
その隣には、いつも通り微笑んでいる「繭食家」のリアン。彼は最初「ヤバい男性」認定をしていましたが、途中で「ヤバい時もある男性」へ昇格しました。
空席を飛ばした横で、俯いている「肝食家」のモア。仕留める勢いで頭突きをしたことは、いまだに謝っていませんが。彼には様々なところで助けていただきました。
真横で眉根を寄せているノット。そして最後に、底知れない笑みを浮かべているギュスターヴを見つめます。
「アールとエルがいい、です」
すると誰のものか判別不能の殺気が、一瞬にして食堂を満たしました。屋敷を軋ませるほどに揺らぐ気配に、身震いが止まりません。
これはギュスターヴのものか、あるいは――それでも当主の深く暗い赤眼から視線を逸らさないでいると。
「マチルダ」、とギュスターヴはドアの外に控えていたマチルダを呼び出しました。
「アールを連れてきてくれないか」
誰も声には出さないものの、全員から明らかな動揺を感じます。
やがて、マチルダに連れられてきたアールが入室した瞬間。うっかり涙腺が緩みかけ、炭酸水を一気に流し込みました。地下室でしか会ったことのないアールが、外を歩いているのです。
アールはこちらを一切見ようとはせず、いつも空席だった場所に腰かけました。
「いやー、家族が全員揃うっていいねぇやっぱり」
ひとりだけ明るいギュスターヴは、花嫁修業のこと、それから私がアールを選んだことをかいつまんで話しました。
今さらですが。家族全員の前でプロポーズって、もはや処刑ではないでしょうか。
「というわけでまぁ、お前の返事を聞きたいんだけどね。どうする?」
花嫁修業も、結婚の意思も、すべては噓。それでもアールが地下から解放されるのならば、この噓はきっと罪になりません。
ここで彼が「イエス」と答えてくだされば、彼は自由の身になるはず。結婚うんぬんは、後から何とでも理由をつけてご破算にすれば良い話ですから――。
「俺は結婚したくない」
それはもう、淡々と。
アールが「ノー」と答えたことを飲み込むまでに、手足の先が冷たくなってしまいました。
もしかすると、意図を分かっていただけなかったのでしょうか。やはり打ち合わせはすべきだったのでしょうか、とアールを見つめますが。影を落とした顔は無造作に伸びた前髪で隠れ、まったく表情が分かりません。
「……もう戻っていい?」
立ち上がるアールを、ギュスターヴは少しの間を置いて呼び止めました。
それにしても今さらですが。「断られた」という事実が、時間差で心臓をチクチクと刺してきます。これは「そういうこと」ではなく、ただアールのためになれば、とこの状況を利用しただけのこと。
頭ではそう、分かっているのですが。
「アール、これまでよく耐えたね。今日でキミへのお仕置きは終わりだよ」
「え!?」
思わず立ち上がってしまいましたが、アール本人はビクともしていません。
これは双方にとって最善の結果だというのに、とアールを責めるような気持になった瞬間。黒く煮詰まった色をアールの瞳に見つけたことで、高揚は緩やかに冷めていきました。
「さて。アールに結婚の意思がないならば、どうしようかねぇ、お嬢さん」
なぜ私に訊くのでしょうか。やはりルイーズのおっしゃる通り、この方は頭の歯車がずれているのでしょう。内心悪態をついていると、横から深く息を吸う音が聞こえました。
「父さん。もし彼女が心変わりすれば、他の兄弟との結婚を認めてくださいますか?」
ノットは、真剣に何を言い出すのでしょうか。
「ああ、勿論。ただし一番は彼女の気持ちだけどね」
そして相変わらず、マダーマム家の当主は変人なのか、気遣い上手なのか分かりません。
「ノット、何でそんなことを……」
「サリーナ嬢。息子たちはキミが気に入っているようだし、もう少し修業を続けてはいかがかな?」
まったく予想外なことに、花嫁修業の延長が決定されてしまいました。
アールに断られたことも、ノットの言葉の意図も、そして指輪のことも整理がつかないうちに――「じゃあ長男からでいっか」、と雑にお部屋訪問の順番を決められてしまったのです。
ひとまず部屋で仮眠をとった後、リアンの部屋を訪ねることにしました。
「昨夜はお疲れだったでしょうから、律儀に訪ねてくださらなくても良かったのですが」
ここへ来る前は、何も話したい気分ではありませんでしたが。いつも通りワインを傾け、胡散臭い笑みを浮かべているリアンを見た瞬間、少し呼吸が楽になりました。
やはり、この鎖と枷は着用必須のようですが。
「それにしても、晩餐会は例年以上に盛り上がりましたね。あなたのおかげだと思いますよ、ロリッサさん」
「いえ、そんな……え?」
慣れ親しんだ名前に、つい返答してしまいましたが。今たしかに――。
「おや、違いました? 黎明教会ウェルズ東地区、通称海辺の教会所属、シスター兼僧兵のロリッサさん」
やはり気のせいではありませんでした。
「この家であなたの正体に気づいていない人間は、もういませんよ。あなたは食人鬼の調査に来たのでしょう?」
リアンたち天文塔の職員も、同じく食人鬼の事件を追っているはず――ですが。私はマダーマム家を疑い、正体を偽って潜入した身です。
途端に身震いがして、今夜の拘束具を外す算段を練っていると。黒い笑みを浮かべていたリアンが、メッキを剥がして笑い出しました。
「そう怖い顔しないで。我々はあなたの調査を邪魔するつもりはありませんよ。ご存知の通り、私の仕事も食人鬼を探し出すことですから」
「でも私は、あなたたち家族を騙していたのですよ?」
震える息で溢すと、空になったグラスが静かにサイドテーブルへ着地しました。
こちらを見下ろすリアンの手が、私の両腕を拘束している鎖を軽く引き上げます。
「花嫁修業のことですね。たしかに入り口はそうだったかもしれません。ですがその結果、嘘は誠となったのですから、もう良いではないですか」
嘘が誠――どういうことでしょうか、と首を傾げると。
「あなたはもう、マダーマム家の一員ですよ」
リアンの真意はともかく。
その言葉を受け取った瞬間、胸を責め立てていた不安と焦燥が溶けていきました。
「家族の一員……そんなこと、許されるのでしょうか」
「私がそう認めているのですから、きっと他の家族も同じでしょう。お嫌でなければ、これからも当家へ遊びにいらっしゃってください」
自分を認めてくれる場所が、もうひとつ――そんなこと、海辺の教会に来てから一度も考えたことはありませんでした。
たったひとつの場所でさえ、自分を受け入れてくれる世界ができたことは奇跡だったのですから。
ぽかんと口を開けているうちに、耳障りな金属音を立てていた鎖と枷が外れました。
「えっ、これいいのですか?」
なんと。初めてリアンが、自室のイスに座らせてくれました。
「良いのです。さて、今夜は何の話をしましょう。この間観劇した、オペラの話でもいかがですか? 推しのミゲルさん(12)が天使以外喩えようもないほどに天使で――」
リアンは意外と話上手で、話していても飽きないのですが――やはり思い出してしまいます。
アールの拒絶。ノットへの疑念。胸元にしまっているこの指輪が、もしノットのものだとしたら――それでも今はリアンの話を聞きましょう、と緩くなった涙腺に無理やり力を入れていると。
「この家に食人鬼はいませんよ」
やはり私の顔は口ほどにものを言うのか。それとも、リアンが処刑術と合わせて読心術も極めているのか。
こちらを安心させるように微笑むリアンを捉えた瞬間。ずっと噤んでいた口から、不安が滑り出ていきました。「まだ自分は、この家のご兄弟を疑ってしまっている」、と。
「そうですね。現状で私が申し上げられることはひとつ。『この家に食人鬼はいません』――あぁ、先ほどと同じですね」
「そう断言できる理由はなんですか?」
リアンは「家族だから」という生易しい理由で、可能性の糸を断ち切るような方ではないと分かっています。
「東町の食堂で言っていた、『今のマダーマム家に魔人病はいない』、が根拠ですか?」
「ええ、その通り。もっと視野を広げてはいかがですか? ロリッサさん。私に尋ねるより、同じ組織の人間の方が口にできることも多いのでは?」
それはつまり、今もっとも会いたくないけれども会わなければならない彼――ノットに聞け、ということでしょう。
「さて、行きますか」
「どこへ?」と訊き返すうちにも、目の前に手を差し出されていました。とっさに革手袋越しの右手を掴むと、リアンは人の手を引いたまま部屋を出て行こうとします。
階段にさしかかったところで、ようやくリアンの意図が読めました。
「え、ちょっと待ってください! まだ心の準備が……」
「何の話ですか? あなたたちは兄妹のように気心の知れた仲だと、ある筋から聞いたのですが」
「どの筋ですかそれ……とにかく今はダメです。部屋に戻って、ミゲルくんのお話を聞かせてください!」
階段の手すりを掴んで逆らっていると、ついには体を担がれてしまいました。
まったく、少しは見直したのですが――「ヤバい時もある」彼の、ヤバい部分がこんな時に発揮されるとは。
有無を言わさず連れて行かれたのは、1階の玄関横にある居室。この屋敷へ来て初めて、夜のお部屋訪問に訪れた部屋です。
「では、後はごゆっくり」と足を床に降ろしてくれたリアンは、さっさと来た方向へ戻ろうとしていました。
「えっ、待って! リアンは……」
「あなたたちは一度、2人できちんと話すべきです」
言葉の意味を噛み砕く間にも、リアンの姿は遠ざかっていきます。やがて角を曲がり、姿が完全に消えたところで、ようやくドアに向き合いました。
きちんと話すべき――そうです。リアンの意図は別として、私たちは話さなければいけません。
深く息を吸い、吐き、拳を握ったところ――。
「ロリッサ……」
ドアが部屋の内側から開き、低く沈んだ声が降りかかりました。
「今夜で花嫁修業も終わりますね」
「はい……そうですね」
そんな話など、今はどうでも良いのです。それより「この指輪をはめてください」、と今すぐ言ってしまいたいところですが。
震えを抑えるのに精いっぱいで、言葉が出てきません。
もしこの指輪が、ノットの右手の薬指にピッタリはまってしまったら――そう考えるだけで、底の見えない奈落へ突き落とされた心地になるのです。
「心配はありません。あと少し……本当にもう少しで食人鬼は断罪されます。もちろん、あなたの頑張りのおかげです」
ここへ潜入してマダーマム家の皆さんと交流を持った以外、私は何もできていません。ですがたった今――私はひとつ、とんでもない発見をしてしまいました。
「『あなたがここにいてくれた』――それだけでも十分だったのです」
「え……?」
少し苦しそうに微笑むノットを見上げた瞬間。薄い唇が耳元に寄り、震える吐息が耳を掠めました。
「いいですか? 明日の『選択』で、私を選んでくださいね。そうすれば、あなたは海辺の教会のシスターへ。私はこれまで通り、あなたの兄である神父へ……全部、元通りになります」
それはここへ潜入した当初、ノットが家族の一員と知った時から思い描いていたシナリオでした。
調査が終わればノットを花婿に指名して、縁談を反故にしていただく。そうすればすべて元通り――のはずでしたが。
「いいですね?」、と繰り返し囁くノットに返事ができませんでした。
あぁ神様、お父様――私はここへ来て、救いようのない嘘つきになってしまったようです。
ですが、後悔はありません。
神の意志でも、任務でもなく――私の意志で、地下室の彼らを解放したいと願っているのですから。
「さて、キミの選択を聞こうか」
雷鳴の轟きに負けないギュスターヴの声に、こくんと唾を飲み込みました。
12月20日の安息日。マダーマム家での花嫁修業を始めてから、48日目となったその日。ついに住み込みの修業が終了いたしました。
夕食の席には、アール以外の家族全員が集まっています。天候はギュスターヴいわく、「素晴らしい夕立」です。
「兄弟の中から誰を婿として選ぶのか。あぁ、選ばないのもアリだがね」
偽りの花嫁、偽りの修行――マダーマム家で過ごしたすべてが、いよいよ終わりを告げます。
食人鬼が見つかっていない以上、闘いが終わるわけではありませんが。もうここで過ごすことはなくなるのです。
「私……私は……」
深呼吸して顔を上げると、一番緊張しているルイーズと目が合いました。辛味をこよなく愛する「赤食家」の彼女――上品で麗しい立ち振る舞いに似合わず、破壊神のごとき力と、庶民の店で騒ぐ姿が今も目に焼き付いています。
その隣には、いつも通り微笑んでいる「繭食家」のリアン。彼は最初「ヤバい男性」認定をしていましたが、途中で「ヤバい時もある男性」へ昇格しました。
空席を飛ばした横で、俯いている「肝食家」のモア。仕留める勢いで頭突きをしたことは、いまだに謝っていませんが。彼には様々なところで助けていただきました。
真横で眉根を寄せているノット。そして最後に、底知れない笑みを浮かべているギュスターヴを見つめます。
「アールとエルがいい、です」
すると誰のものか判別不能の殺気が、一瞬にして食堂を満たしました。屋敷を軋ませるほどに揺らぐ気配に、身震いが止まりません。
これはギュスターヴのものか、あるいは――それでも当主の深く暗い赤眼から視線を逸らさないでいると。
「マチルダ」、とギュスターヴはドアの外に控えていたマチルダを呼び出しました。
「アールを連れてきてくれないか」
誰も声には出さないものの、全員から明らかな動揺を感じます。
やがて、マチルダに連れられてきたアールが入室した瞬間。うっかり涙腺が緩みかけ、炭酸水を一気に流し込みました。地下室でしか会ったことのないアールが、外を歩いているのです。
アールはこちらを一切見ようとはせず、いつも空席だった場所に腰かけました。
「いやー、家族が全員揃うっていいねぇやっぱり」
ひとりだけ明るいギュスターヴは、花嫁修業のこと、それから私がアールを選んだことをかいつまんで話しました。
今さらですが。家族全員の前でプロポーズって、もはや処刑ではないでしょうか。
「というわけでまぁ、お前の返事を聞きたいんだけどね。どうする?」
花嫁修業も、結婚の意思も、すべては噓。それでもアールが地下から解放されるのならば、この噓はきっと罪になりません。
ここで彼が「イエス」と答えてくだされば、彼は自由の身になるはず。結婚うんぬんは、後から何とでも理由をつけてご破算にすれば良い話ですから――。
「俺は結婚したくない」
それはもう、淡々と。
アールが「ノー」と答えたことを飲み込むまでに、手足の先が冷たくなってしまいました。
もしかすると、意図を分かっていただけなかったのでしょうか。やはり打ち合わせはすべきだったのでしょうか、とアールを見つめますが。影を落とした顔は無造作に伸びた前髪で隠れ、まったく表情が分かりません。
「……もう戻っていい?」
立ち上がるアールを、ギュスターヴは少しの間を置いて呼び止めました。
それにしても今さらですが。「断られた」という事実が、時間差で心臓をチクチクと刺してきます。これは「そういうこと」ではなく、ただアールのためになれば、とこの状況を利用しただけのこと。
頭ではそう、分かっているのですが。
「アール、これまでよく耐えたね。今日でキミへのお仕置きは終わりだよ」
「え!?」
思わず立ち上がってしまいましたが、アール本人はビクともしていません。
これは双方にとって最善の結果だというのに、とアールを責めるような気持になった瞬間。黒く煮詰まった色をアールの瞳に見つけたことで、高揚は緩やかに冷めていきました。
「さて。アールに結婚の意思がないならば、どうしようかねぇ、お嬢さん」
なぜ私に訊くのでしょうか。やはりルイーズのおっしゃる通り、この方は頭の歯車がずれているのでしょう。内心悪態をついていると、横から深く息を吸う音が聞こえました。
「父さん。もし彼女が心変わりすれば、他の兄弟との結婚を認めてくださいますか?」
ノットは、真剣に何を言い出すのでしょうか。
「ああ、勿論。ただし一番は彼女の気持ちだけどね」
そして相変わらず、マダーマム家の当主は変人なのか、気遣い上手なのか分かりません。
「ノット、何でそんなことを……」
「サリーナ嬢。息子たちはキミが気に入っているようだし、もう少し修業を続けてはいかがかな?」
まったく予想外なことに、花嫁修業の延長が決定されてしまいました。
アールに断られたことも、ノットの言葉の意図も、そして指輪のことも整理がつかないうちに――「じゃあ長男からでいっか」、と雑にお部屋訪問の順番を決められてしまったのです。
ひとまず部屋で仮眠をとった後、リアンの部屋を訪ねることにしました。
「昨夜はお疲れだったでしょうから、律儀に訪ねてくださらなくても良かったのですが」
ここへ来る前は、何も話したい気分ではありませんでしたが。いつも通りワインを傾け、胡散臭い笑みを浮かべているリアンを見た瞬間、少し呼吸が楽になりました。
やはり、この鎖と枷は着用必須のようですが。
「それにしても、晩餐会は例年以上に盛り上がりましたね。あなたのおかげだと思いますよ、ロリッサさん」
「いえ、そんな……え?」
慣れ親しんだ名前に、つい返答してしまいましたが。今たしかに――。
「おや、違いました? 黎明教会ウェルズ東地区、通称海辺の教会所属、シスター兼僧兵のロリッサさん」
やはり気のせいではありませんでした。
「この家であなたの正体に気づいていない人間は、もういませんよ。あなたは食人鬼の調査に来たのでしょう?」
リアンたち天文塔の職員も、同じく食人鬼の事件を追っているはず――ですが。私はマダーマム家を疑い、正体を偽って潜入した身です。
途端に身震いがして、今夜の拘束具を外す算段を練っていると。黒い笑みを浮かべていたリアンが、メッキを剥がして笑い出しました。
「そう怖い顔しないで。我々はあなたの調査を邪魔するつもりはありませんよ。ご存知の通り、私の仕事も食人鬼を探し出すことですから」
「でも私は、あなたたち家族を騙していたのですよ?」
震える息で溢すと、空になったグラスが静かにサイドテーブルへ着地しました。
こちらを見下ろすリアンの手が、私の両腕を拘束している鎖を軽く引き上げます。
「花嫁修業のことですね。たしかに入り口はそうだったかもしれません。ですがその結果、嘘は誠となったのですから、もう良いではないですか」
嘘が誠――どういうことでしょうか、と首を傾げると。
「あなたはもう、マダーマム家の一員ですよ」
リアンの真意はともかく。
その言葉を受け取った瞬間、胸を責め立てていた不安と焦燥が溶けていきました。
「家族の一員……そんなこと、許されるのでしょうか」
「私がそう認めているのですから、きっと他の家族も同じでしょう。お嫌でなければ、これからも当家へ遊びにいらっしゃってください」
自分を認めてくれる場所が、もうひとつ――そんなこと、海辺の教会に来てから一度も考えたことはありませんでした。
たったひとつの場所でさえ、自分を受け入れてくれる世界ができたことは奇跡だったのですから。
ぽかんと口を開けているうちに、耳障りな金属音を立てていた鎖と枷が外れました。
「えっ、これいいのですか?」
なんと。初めてリアンが、自室のイスに座らせてくれました。
「良いのです。さて、今夜は何の話をしましょう。この間観劇した、オペラの話でもいかがですか? 推しのミゲルさん(12)が天使以外喩えようもないほどに天使で――」
リアンは意外と話上手で、話していても飽きないのですが――やはり思い出してしまいます。
アールの拒絶。ノットへの疑念。胸元にしまっているこの指輪が、もしノットのものだとしたら――それでも今はリアンの話を聞きましょう、と緩くなった涙腺に無理やり力を入れていると。
「この家に食人鬼はいませんよ」
やはり私の顔は口ほどにものを言うのか。それとも、リアンが処刑術と合わせて読心術も極めているのか。
こちらを安心させるように微笑むリアンを捉えた瞬間。ずっと噤んでいた口から、不安が滑り出ていきました。「まだ自分は、この家のご兄弟を疑ってしまっている」、と。
「そうですね。現状で私が申し上げられることはひとつ。『この家に食人鬼はいません』――あぁ、先ほどと同じですね」
「そう断言できる理由はなんですか?」
リアンは「家族だから」という生易しい理由で、可能性の糸を断ち切るような方ではないと分かっています。
「東町の食堂で言っていた、『今のマダーマム家に魔人病はいない』、が根拠ですか?」
「ええ、その通り。もっと視野を広げてはいかがですか? ロリッサさん。私に尋ねるより、同じ組織の人間の方が口にできることも多いのでは?」
それはつまり、今もっとも会いたくないけれども会わなければならない彼――ノットに聞け、ということでしょう。
「さて、行きますか」
「どこへ?」と訊き返すうちにも、目の前に手を差し出されていました。とっさに革手袋越しの右手を掴むと、リアンは人の手を引いたまま部屋を出て行こうとします。
階段にさしかかったところで、ようやくリアンの意図が読めました。
「え、ちょっと待ってください! まだ心の準備が……」
「何の話ですか? あなたたちは兄妹のように気心の知れた仲だと、ある筋から聞いたのですが」
「どの筋ですかそれ……とにかく今はダメです。部屋に戻って、ミゲルくんのお話を聞かせてください!」
階段の手すりを掴んで逆らっていると、ついには体を担がれてしまいました。
まったく、少しは見直したのですが――「ヤバい時もある」彼の、ヤバい部分がこんな時に発揮されるとは。
有無を言わさず連れて行かれたのは、1階の玄関横にある居室。この屋敷へ来て初めて、夜のお部屋訪問に訪れた部屋です。
「では、後はごゆっくり」と足を床に降ろしてくれたリアンは、さっさと来た方向へ戻ろうとしていました。
「えっ、待って! リアンは……」
「あなたたちは一度、2人できちんと話すべきです」
言葉の意味を噛み砕く間にも、リアンの姿は遠ざかっていきます。やがて角を曲がり、姿が完全に消えたところで、ようやくドアに向き合いました。
きちんと話すべき――そうです。リアンの意図は別として、私たちは話さなければいけません。
深く息を吸い、吐き、拳を握ったところ――。
「ロリッサ……」
ドアが部屋の内側から開き、低く沈んだ声が降りかかりました。
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