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第一章 神の化粧師
一
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紅、緋、朱――鮮烈な赤が嫌いだ。
だというのに俺は、この恨めしい色を商売道具にしている。
「父さん、先日から気になっていたのですが」
目の前の父に声をかけると、唇を恨めしい色彩で飾った父が目蓋を上げた。
「んー? なんだい咲ちゃん」
「どうしていつも、化粧中は鏡に向かって手を合わせているんですか?」
もう一度目を閉じるよう促し、急ぎ足で舞台化粧の仕上げを進める。話を振っておいてなんだが、雑談していて遅れては座長に叱られてしまう。
「この落花街(らっかがい)はね、化粧の神様に守られているんだってさ。だから俺も、永く綺麗でいられますようにってお願いしているんだよ」
「綺麗」、と父が紡いだその瞬間、頭と胸が同時に脈打った。震えがバレないよう深呼吸し、急いで次の言葉を探す。
「そんなものに頼らなくても、父さんは年の割に若く見えるでしょう」
紅を塗った唇をむっと尖らせた父は、「まだ三十路だし」と早口に言った。
「咲も何か願い事してみたら? 本当は大社へ直接お参りに行きたいんだけれど、近々婚礼があるとかで入れないんだよ」
「神なんていませんよ」
「あら、どうしてそんなことを言うんだい?」
精いっぱいの冷淡にも、父の目から光が絶えることはない。
「もし神がいるのなら――」
俺のような奴を野放しにしておくはずがない――喉まで出かかった言葉を飲み込み、父の頬に薄ら浮き出ている傷跡に赤と白を重ねた。役者にこんな傷があってはいけない。念入りに隠さなければ。
「はい、できましたよ。では行ってらっしゃい」
こうして完成品の顔を見ると、父か母か分からなくなる。女形化粧をこっそり自画自賛したところで、律儀にも毎回礼を言う父に背を向けた。
「咲ちゃん、観ていってくれないの?」
「副業を始めたんです。公演が終わったら、また化粧を落としにきますから」
筆や皿を鏡台の下にしまっていると、鏡越しに視線を感じた。ふと顔を上げた先には、華やいだ女――否、父の微笑みが映っている。
「お前も、引っ込み思案じゃなければね。舞台には上がらないって話したら、座長が残念がってたよ」
「俺は裏方が性に合っていますから」
生きている限り働かなければいけない。だからこの仕事をしているだけ。流石に口にはしないが、役者に勧誘される度そんなことを考える。
舞台へ出ていく父を見送り、自分の支度をすることにした。他の団員の目を盗み、長着と袴から藤色の衣に着替える。鏡台の引き出しから足し毛を取り、短い地毛の上から被せる。さらに恨めしい色で顔を塗れば、別の誰かさんの完成だ。
「今日もよろしくね、『お咲(さき)』」
劇場のある落花街とは、ドブ川で隔たれた花街。堀にかかる三途橋を渡れば、そこは今日も鮮やかな金魚提灯と、慌ただしい大人たちであふれていた。副業用の顔――『お遣い中の芸妓見習い』に化ければ、心置きなく男たちの腰元に視線を滑らせることができる。
「よし、始めますか」
父も劇団の関係者も、夕方の公演中は表に出ない。この内緒の副業は、誰かが話でもしない限り知られることはないのだ。
人のぎっしり詰まった大通りの流れに乗り、まずは前から来た男のたくましい腕へぶつかってみる。
「おっとすまねぇ!」
とっさに差し出してくれた男の手を断り、「こちらこそ失礼しました」と頭を下げた。
「こりゃあエラい器量良しじゃねぇか。怪我はねぇかィ?」
こういう人の見てくればかり気にする奴からこそむしり盗ってやりたいが、こいつは駄目だ。辺りの遊郭を取り仕切る本橋屋の嫡男で、顔馴染みも街に多い。
一発目からハズレか――。
「ええ、平気です。それでは……」
「今日はツイてるなァ。嬢ちゃんみてぇな娘と知り合いになれてよォ」
さすが、街一番の好色で有名の本橋屋だ。薄目でも分かる、ニヤついた表情に寒気がする。これ以上立ち話を続ける前に、銭の足しにもならない本橋屋から離れていった。
今日はどうも運がないらしい。忙しなく往来を行き交うのは、ここの住人や仕事人ばかり。財布を太らせてやって来る遊郭の客は、普段より少ないようだ。
「出直すか……」
帰り道を往きつつ行き交う人波を眺めていた、その時。鮮烈な、赤――ひと際目を引く色が、視界の端に飛び込んできた。小柄で華奢な赤い着物の女は、珍しい散切り髪を揺らしながら、堂々と人混みをかき分けている。
向かいから来る女に足が引き寄せられる。女が生まれながらに持っているであろう、迫力に満ちた黒。白磁の肌に馴染んだ、目元と唇の赤。花街を飾る金魚提灯の下、その女だけが錦鯉のように鮮やかだった。
忘れていた呼吸を深くしながら、正面を見据える。女ではなく、できるだけ遠くへ視線を投げて。白黒縞のハイカラな帯に、銀色の輝きを放つ何かが挟まっている。すれ違いざまに確認できたのは、その何かだけだった。もちろん言葉を交わすこともなければ、目を合わせることもない。女は人混みへと消えていく。手のひらに残ったものは、女の帯に挟まっていた銀色の物――裏の装飾が錆びついた、古い丸鏡だ。
花街の客以外から盗ったのは、これが初めてだ。それでも盗みなど慣れた行為だというのに、胸騒ぎがする。不安を一刻も早く拭い去るため、今日は早々に切り上げて、いつもの換金所へ向かうことにした。
楼閣のひしめく表通りから外れ、少しばかり質の良い平家が並ぶ日陰道を小走りで進んだ。しばらく行くと、突き当たりに『小指』と墨で書かれた古看板が見えてくる。
「助六じいさん、こんにちは!」
骨董屋の店主は、煙管片手に新聞を読んでいるところだった。
「今日もお宝が手に入りましたよ」
鑑定台に本日の儲け物である鏡を乗せてみたが、助六じいさんの視線は紙面に張り付いたままだ。何度も呼び続けてやっと、煙混じりのため息が漏れた。
「まーた来たか、女形小僧」
「客に向かってひどい言い草だなぁ。で、これいくらで引き取ってくれますか?」
「こいつは……」
助六じいさんは新聞を畳に放り投げ、手のひらに収まる大きさの鏡を持ち上げた。するとちょうど、中庭へ続く裏戸が開く。
「あっ、お客さん? いらっしゃい。こんな遅くにご苦労様です」
薬草のカゴを抱えて店に入って来たのは、助六じいさんの孫娘だ。足の悪い助六じいさんの代わりに、この娘――お露(つゆ)が店の雑事から家事をすべてやっている。俺と二つしか違わないというのに、比べ物にならないほどの孝行者だ。
「こんばんは、お露ちゃん」
笑顔でひらひらと手を振ってみせると、お露の頬が引きつった。
「えっ、その声……えっ……咲さん!?」
お露は額に汗を吹かせながら、カゴの中身と俺の顔を交互に見比べている。
「うわぁっ、やられたわ。美人さんだなって見惚れちゃったじゃない! お顔も雰囲気も、普段とまったく違って明るいんだもの」
「君ってさり気なく失礼だよねー」
毎度のことながら、この慌てようには笑いをこらえきれない。
「もう、笑いごとじゃないよ! 咲さんってば、また変装して悪いことしてるのね?」
「咲じゃなくて、今は『芸妓見習い』のお咲ね」
台所までカゴ運びを手伝っても、お露は口をへの字に曲げたままだった。ここへ来れば、変身が成功しているかどうかが分かるのは良い。しかし、いちいち盗みを咎められるのは勘弁してもらいたいところだ。
「いくら他所の殿方しか狙っていないって言ったって、盗みはいけません。こんなことを続けていたら、いつかひどい目に――」
「俺はもう地獄行きだよ。今更戻れるもんか」
薄昏の窓に視線を逸らし、はっきりと言い放った途端。後方から、重い物が落ちる音が響いた。「お露ちゃん?」、と振り返った土間には、お露が膝をついて崩れ落ちている。
いくら幼馴染とはいえ、どうしてお露がここまで衝撃を受けるのか。ため息交じりに手を差し伸べると、お露は少しためらった末に手を取った。
「いつもこうやってウチのこと助けてくれるし、咲さんはやっぱり悪人なんかじゃないよ。それにお金が足りないなら、じっさまに相談すれば……」
静かに諭すその言葉に、聞こえなかったフリをする。お露の手をそっと放し、鑑定を任せたままにしている助六じいさんのところへ戻った。
「女形小僧、こいつは青銅鏡か?」
一体何事だろうか。いつも小刻みに震えているじいさんの手が、煙管の灰がこぼれるほどに震えている。拡大鏡の奥の細い瞳まで揺れていた。
「鏡には詳しくありませんが、多分そうでしょうね。錆びていますし、大した値はつかないって分かっていますよ。だから一、二銭でも文句は……って!」
咄嗟に手を伸ばし、助六じいさんの手から滑り落ちた鏡を受け止める。
「ちょっと気をつけてくださいよ! もう一杯引っかけたんですか?」
「こいつぁウチでは引き取れん。悪い心地がする」
冗談かと思いきや、じいさんは見たことがないほど青ざめていた。演技にしては迫真過ぎる。
「脅かさないでくださいよ。悪い心地って何なんです?」
「古物には神が宿ると、ワシのじっさまが言っていた。あるいは呪いか、物の怪か……」
息を乱したじいさんは、袖口から取り出した小銭を目の前に突き出してきた。
「これやる。その鏡は持ち主に返せ」
「神に呪いって、そんなの迷信じゃないですか。舶来の医学や科学の本を熱心に読んでいる人が、いったい何を言っているんですか?」
押し付けてくる銭を押し返すと、助六じいさんの力がより強まった。骨と皮の腕からは想像もつかないほどの力だ。
「それとこれとは別だ! ほれ、早よ行け」
まさか銭を投げつけられるとは思っていなかった。口をついて出た文句は全て、じいさんの怒号にかき消されてしまう。土間に散らばった小銭を拾い、お露に挨拶をする間もなく荒れた店を飛び出した。
今日の助六じいさんはどこかおかしい。怒鳴り散らされるなんて初めてだ。普段からは考えられない変貌ぶりを見ると、いよいよこの鏡が普通ではないような気がしてきた。
だというのに俺は、この恨めしい色を商売道具にしている。
「父さん、先日から気になっていたのですが」
目の前の父に声をかけると、唇を恨めしい色彩で飾った父が目蓋を上げた。
「んー? なんだい咲ちゃん」
「どうしていつも、化粧中は鏡に向かって手を合わせているんですか?」
もう一度目を閉じるよう促し、急ぎ足で舞台化粧の仕上げを進める。話を振っておいてなんだが、雑談していて遅れては座長に叱られてしまう。
「この落花街(らっかがい)はね、化粧の神様に守られているんだってさ。だから俺も、永く綺麗でいられますようにってお願いしているんだよ」
「綺麗」、と父が紡いだその瞬間、頭と胸が同時に脈打った。震えがバレないよう深呼吸し、急いで次の言葉を探す。
「そんなものに頼らなくても、父さんは年の割に若く見えるでしょう」
紅を塗った唇をむっと尖らせた父は、「まだ三十路だし」と早口に言った。
「咲も何か願い事してみたら? 本当は大社へ直接お参りに行きたいんだけれど、近々婚礼があるとかで入れないんだよ」
「神なんていませんよ」
「あら、どうしてそんなことを言うんだい?」
精いっぱいの冷淡にも、父の目から光が絶えることはない。
「もし神がいるのなら――」
俺のような奴を野放しにしておくはずがない――喉まで出かかった言葉を飲み込み、父の頬に薄ら浮き出ている傷跡に赤と白を重ねた。役者にこんな傷があってはいけない。念入りに隠さなければ。
「はい、できましたよ。では行ってらっしゃい」
こうして完成品の顔を見ると、父か母か分からなくなる。女形化粧をこっそり自画自賛したところで、律儀にも毎回礼を言う父に背を向けた。
「咲ちゃん、観ていってくれないの?」
「副業を始めたんです。公演が終わったら、また化粧を落としにきますから」
筆や皿を鏡台の下にしまっていると、鏡越しに視線を感じた。ふと顔を上げた先には、華やいだ女――否、父の微笑みが映っている。
「お前も、引っ込み思案じゃなければね。舞台には上がらないって話したら、座長が残念がってたよ」
「俺は裏方が性に合っていますから」
生きている限り働かなければいけない。だからこの仕事をしているだけ。流石に口にはしないが、役者に勧誘される度そんなことを考える。
舞台へ出ていく父を見送り、自分の支度をすることにした。他の団員の目を盗み、長着と袴から藤色の衣に着替える。鏡台の引き出しから足し毛を取り、短い地毛の上から被せる。さらに恨めしい色で顔を塗れば、別の誰かさんの完成だ。
「今日もよろしくね、『お咲(さき)』」
劇場のある落花街とは、ドブ川で隔たれた花街。堀にかかる三途橋を渡れば、そこは今日も鮮やかな金魚提灯と、慌ただしい大人たちであふれていた。副業用の顔――『お遣い中の芸妓見習い』に化ければ、心置きなく男たちの腰元に視線を滑らせることができる。
「よし、始めますか」
父も劇団の関係者も、夕方の公演中は表に出ない。この内緒の副業は、誰かが話でもしない限り知られることはないのだ。
人のぎっしり詰まった大通りの流れに乗り、まずは前から来た男のたくましい腕へぶつかってみる。
「おっとすまねぇ!」
とっさに差し出してくれた男の手を断り、「こちらこそ失礼しました」と頭を下げた。
「こりゃあエラい器量良しじゃねぇか。怪我はねぇかィ?」
こういう人の見てくればかり気にする奴からこそむしり盗ってやりたいが、こいつは駄目だ。辺りの遊郭を取り仕切る本橋屋の嫡男で、顔馴染みも街に多い。
一発目からハズレか――。
「ええ、平気です。それでは……」
「今日はツイてるなァ。嬢ちゃんみてぇな娘と知り合いになれてよォ」
さすが、街一番の好色で有名の本橋屋だ。薄目でも分かる、ニヤついた表情に寒気がする。これ以上立ち話を続ける前に、銭の足しにもならない本橋屋から離れていった。
今日はどうも運がないらしい。忙しなく往来を行き交うのは、ここの住人や仕事人ばかり。財布を太らせてやって来る遊郭の客は、普段より少ないようだ。
「出直すか……」
帰り道を往きつつ行き交う人波を眺めていた、その時。鮮烈な、赤――ひと際目を引く色が、視界の端に飛び込んできた。小柄で華奢な赤い着物の女は、珍しい散切り髪を揺らしながら、堂々と人混みをかき分けている。
向かいから来る女に足が引き寄せられる。女が生まれながらに持っているであろう、迫力に満ちた黒。白磁の肌に馴染んだ、目元と唇の赤。花街を飾る金魚提灯の下、その女だけが錦鯉のように鮮やかだった。
忘れていた呼吸を深くしながら、正面を見据える。女ではなく、できるだけ遠くへ視線を投げて。白黒縞のハイカラな帯に、銀色の輝きを放つ何かが挟まっている。すれ違いざまに確認できたのは、その何かだけだった。もちろん言葉を交わすこともなければ、目を合わせることもない。女は人混みへと消えていく。手のひらに残ったものは、女の帯に挟まっていた銀色の物――裏の装飾が錆びついた、古い丸鏡だ。
花街の客以外から盗ったのは、これが初めてだ。それでも盗みなど慣れた行為だというのに、胸騒ぎがする。不安を一刻も早く拭い去るため、今日は早々に切り上げて、いつもの換金所へ向かうことにした。
楼閣のひしめく表通りから外れ、少しばかり質の良い平家が並ぶ日陰道を小走りで進んだ。しばらく行くと、突き当たりに『小指』と墨で書かれた古看板が見えてくる。
「助六じいさん、こんにちは!」
骨董屋の店主は、煙管片手に新聞を読んでいるところだった。
「今日もお宝が手に入りましたよ」
鑑定台に本日の儲け物である鏡を乗せてみたが、助六じいさんの視線は紙面に張り付いたままだ。何度も呼び続けてやっと、煙混じりのため息が漏れた。
「まーた来たか、女形小僧」
「客に向かってひどい言い草だなぁ。で、これいくらで引き取ってくれますか?」
「こいつは……」
助六じいさんは新聞を畳に放り投げ、手のひらに収まる大きさの鏡を持ち上げた。するとちょうど、中庭へ続く裏戸が開く。
「あっ、お客さん? いらっしゃい。こんな遅くにご苦労様です」
薬草のカゴを抱えて店に入って来たのは、助六じいさんの孫娘だ。足の悪い助六じいさんの代わりに、この娘――お露(つゆ)が店の雑事から家事をすべてやっている。俺と二つしか違わないというのに、比べ物にならないほどの孝行者だ。
「こんばんは、お露ちゃん」
笑顔でひらひらと手を振ってみせると、お露の頬が引きつった。
「えっ、その声……えっ……咲さん!?」
お露は額に汗を吹かせながら、カゴの中身と俺の顔を交互に見比べている。
「うわぁっ、やられたわ。美人さんだなって見惚れちゃったじゃない! お顔も雰囲気も、普段とまったく違って明るいんだもの」
「君ってさり気なく失礼だよねー」
毎度のことながら、この慌てようには笑いをこらえきれない。
「もう、笑いごとじゃないよ! 咲さんってば、また変装して悪いことしてるのね?」
「咲じゃなくて、今は『芸妓見習い』のお咲ね」
台所までカゴ運びを手伝っても、お露は口をへの字に曲げたままだった。ここへ来れば、変身が成功しているかどうかが分かるのは良い。しかし、いちいち盗みを咎められるのは勘弁してもらいたいところだ。
「いくら他所の殿方しか狙っていないって言ったって、盗みはいけません。こんなことを続けていたら、いつかひどい目に――」
「俺はもう地獄行きだよ。今更戻れるもんか」
薄昏の窓に視線を逸らし、はっきりと言い放った途端。後方から、重い物が落ちる音が響いた。「お露ちゃん?」、と振り返った土間には、お露が膝をついて崩れ落ちている。
いくら幼馴染とはいえ、どうしてお露がここまで衝撃を受けるのか。ため息交じりに手を差し伸べると、お露は少しためらった末に手を取った。
「いつもこうやってウチのこと助けてくれるし、咲さんはやっぱり悪人なんかじゃないよ。それにお金が足りないなら、じっさまに相談すれば……」
静かに諭すその言葉に、聞こえなかったフリをする。お露の手をそっと放し、鑑定を任せたままにしている助六じいさんのところへ戻った。
「女形小僧、こいつは青銅鏡か?」
一体何事だろうか。いつも小刻みに震えているじいさんの手が、煙管の灰がこぼれるほどに震えている。拡大鏡の奥の細い瞳まで揺れていた。
「鏡には詳しくありませんが、多分そうでしょうね。錆びていますし、大した値はつかないって分かっていますよ。だから一、二銭でも文句は……って!」
咄嗟に手を伸ばし、助六じいさんの手から滑り落ちた鏡を受け止める。
「ちょっと気をつけてくださいよ! もう一杯引っかけたんですか?」
「こいつぁウチでは引き取れん。悪い心地がする」
冗談かと思いきや、じいさんは見たことがないほど青ざめていた。演技にしては迫真過ぎる。
「脅かさないでくださいよ。悪い心地って何なんです?」
「古物には神が宿ると、ワシのじっさまが言っていた。あるいは呪いか、物の怪か……」
息を乱したじいさんは、袖口から取り出した小銭を目の前に突き出してきた。
「これやる。その鏡は持ち主に返せ」
「神に呪いって、そんなの迷信じゃないですか。舶来の医学や科学の本を熱心に読んでいる人が、いったい何を言っているんですか?」
押し付けてくる銭を押し返すと、助六じいさんの力がより強まった。骨と皮の腕からは想像もつかないほどの力だ。
「それとこれとは別だ! ほれ、早よ行け」
まさか銭を投げつけられるとは思っていなかった。口をついて出た文句は全て、じいさんの怒号にかき消されてしまう。土間に散らばった小銭を拾い、お露に挨拶をする間もなく荒れた店を飛び出した。
今日の助六じいさんはどこかおかしい。怒鳴り散らされるなんて初めてだ。普段からは考えられない変貌ぶりを見ると、いよいよこの鏡が普通ではないような気がしてきた。
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