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8.混ざりあって灰になる

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「東上線の終電、まだあって良かったですね」
「うん。送ってくれてありがとね」

 しいちゃんを無事に玄関先まで送り届けたところで、名残惜しくも手を離した。
 さて、ここから家まで歩いて40分。酔いと手の熱を完全に覚ますのにはちょうど良い距離だ。

「じゃあ、おやすみなさい。また連絡します」

 靴を脱いでいたしいちゃんは、目を丸くしたまま何も言わない。
 わざわざ言葉を待つのも変な気がして、すぐに玄関のドアを振り返ると。背中へ柔らかい感触がもたれかかった。

「4回戦、していかないの?」

 腰へ回った遠慮がちな手に、いつもと違う芯のない声。「置いていかれたくない」と訴えているようなその声に、思わず足を止めてしまった。
 酔いにしいちゃんの熱が混ざりあって、心臓が早鐘を打っている。

「……今日のところは帰ります」

 しいちゃんの腕をそっと外し、玄関のドアノブに手をかけた瞬間――部屋の奥からオレンジ色の触手が伸びてきて、両足首に絡みついた。
 全身に走るゾワっとした震えが走り、思わず吐きそうになる。

「ほら、バッシュもユヅくんと遊びたいって」
「バッシュ?」

 前回会ったドーピィは水風船のような感触だったが、このバッシュにはフワフワの毛が生えている。しいちゃんの占い鏡に映っていたヤツとは違うようだ。
 それにしてもこのフワフワ、教授が飼っているマンチカンの尻尾みたいだ。とてもではないが知性を持ってるようには見えない――部屋の奥から長く伸びている触手を観察していると、かすかな湯気を上げた触手は奥へ素早く引っ込んでいった。

「えっ?」
「見すぎだよ。バッシュはとっても恥ずかしがり屋さんなんだ」

 確かに名前通りの性格らしい。

「ユヅくんだって、こうやって見つめられたらすぐ照れちゃうもんね」

 不意に繰り出された微笑みに、フル稼働していた心臓がドッと音を立てた。この笑みをあの配信者にも見せたのだろうか――無防備な顔を見ていると、苦い水が喉の奥に溜まっていく。
「ユヅくん?」と首を傾げたしいちゃんを持ち上げるように引き寄せ、衝動のままに口付けた。
 唇ではなくて頬にしてしまったが――キョトンとした顔から慌てて視線を逸らすと、クスッという笑いが下から聞こえてくる。

「ごめん……やっぱり酔ってるのかも。冷静な判断できる自信ないし帰ります」
「なんで謝るの? とっても頑張ってくれたのに」

 熱を帯びた顔を手で覆いつつ、しいちゃんを振り返ると。指の隙間から見たしいちゃんは余裕の笑みを浮かべていた。
 以前しようとした時は怯えていたのに――。
 妙な意地と悔しさが湧いてきて、再びしいちゃんに向き直った。今度こそ唇同士を合わせるつもりで。

「いいですか?」

 荒くなる息を整えながら問いかければ、しいちゃんは口ではなく目で「どうぞ」と答えた気がした。
 息を止め、唇に唇で触れると――柔らかい。しいちゃんの熱と甘い匂いが直に感じられる。唾液に濡れた唇の隙間からこぼれる吐息に頭を支配され、何度もつけては離すを繰り返した。

「これ、すごい……っ……」

 全然やめる気になれない――。
 そのうち胸を何度か叩かれ、唇を軽く噛まれた。「しつこい」という意思表示だったのか、挑発のつもりだったのか。それでも体が止まらない。
 歯を立てられて開いた隙間に舌を入れようとすると、すぐに閉じられてしまった。唇を舐めても開けてくれない。
 一度体を離し、じっと目を見つめると。

「あはっ、お預けされてるワンちゃんみたい」

 明らかな煽りと分かっている。分かっているのに、まんまと焚きつけられてしまった。

「口、開けて」

 潤んだ目を細めるしいちゃんの口角に人差し指を挟み、開いた隙間に舌をねじ込む。舌先で上顎を撫でると、小さな口の喉奥から短い声が漏れた。
 初めて聞く声――もっと聞きたい。
 小さな舌の上下を優しく撫でれば、声がより甘く変わっていく。時々角度を変えて唇を深く合わせると、腕の中の体がビクッと跳ねた。

「ん、んーっ」

 苦し気な声に焦って舌を抜くと。とろけて虚ろになった目が、真っ直ぐにこちらを見ている。

「はぁ……こっちまで酔いそう」

 怖がってはいない――。

「首に手、回して」

 力の抜けたしいちゃんを抱え、薄暗い部屋の奥にあるベッドへと運んだ。頬や耳、首筋にキスを落としながら呼吸がゆっくりに戻っているのを確かめ、再び唇へ口を近づける。

「ごめん。もう少しだけ」

 付き合っていないのに、駄目なのに――粘膜が触れているだけで気持ちが良い。
 指同士を絡めながら狭い口内のあちこちを舌でなぞり、混ざり合った唾液を飲む。何度繰り返しても飽きない。むしろこれ以上の繋がりが欲しくなる。

「もっ、息でひなっ……ひぬっ」
「ご、ごめんなさい!」

 しいちゃんと完全に距離を取ったことで、なんとか頭を冷やすことができた。
 それにしても。あんなにすごいことを仕掛けてくる割に、しいちゃんはキスに慣れてないのだろうか――。
「バッシュ」と囁くように触手を呼び、しいちゃんは肉厚のフワフワをクッションにして寝転んだ。余っているバッシュの先端は、こちらを警戒するように頭をもたげている。

「ユヅくん必死すぎ。ちょっと前まで、腕がぶつかったくらいで赤くなってたのに」

 からかう口が上手く動いていないせいで、しいちゃんに余裕がないことは一目瞭然だった。
 最初はいつもの余裕を崩したかっただけなのだが――暴走した手前、喜ぶことなどできない。

「ごめん。しつこかった……よね」

 脱力したまま頭を下げると、しいちゃんは斜め下を向いて口を結んでしまった。

「あっ、そういえば」

 ふと顔を上げたしいちゃんはバッシュに謎語で囁き、玄関からスマホを取ってこさせた。ついでに触手は自分のカバンも引っ掛けてきたらしい。

「オフ会でモテモテだったよね、ユヅくん」

 しいちゃんに見せられたスマホの画面には、店のカウンターでマユさんと話す自分が写っている。

「えっ……いつの間に撮ってたんですか?」

 そもそもしいちゃんは、なぜこの写真を撮ったのか。
 もしや嫉妬してくれたのか。初めてここを訪れた時、「別に誰でもいい」と口にしていたあのしいちゃんが――?
 期待半面、「嫉妬した?」などと自意識過剰なことを聞けるわけがない。

「でも、しいちゃんだってknockさんと」

 言いかけて何でもないと口を噤むと、しいちゃんは満足気に口角を上げた。

「良かった。ちゃんと嫉妬してくれてたんだ」
「ちゃんと?」

 まさか自分に嫉妬させるために、意図的にあの男と話していたのだろうか。それはつまり、しいちゃんも自分のことが――都合よく期待が高まっていく。

「まだゲームは終わってないけど、訊きたいことがあるんです」

 背筋を正して向き直ると、しいちゃんも触手のクッションから起き上がった。

「3週間前から僕の気持ちは変わってない……いや、もっと強くなりました。でもしいちゃんは今、僕のことをどう思ってるのかなって」
「どう思ってるか?」

 ふと、しいちゃんの顔から笑みが抜け落ちた。
 顔を背けたしいちゃんは、背後で何か囁いている触手に謎語で短く話しかけている。やがて迷ったように笑いながら、こちらへ向き直った。

「どうって、約束した通りだよ。ユヅくんが我慢できたら付き合ってあげる」
「そうじゃなくて、僕はしいちゃんの気持ちを知りたくて――」
「そんなのホントはどうだって良いんでしょ」

 低く乾いた声に、膨らんでいた希望が弾け飛んだ。
 なぜこんなに冷めた顔をするのか――肩をそっと掴んで、堪えるように唇を噛むしいちゃんの体をこちらへ向かせる。

「どうしてそんなこと言うんですか?」
「だってみんなそうだったから。だからみんな、ああなったんだもの」

 しいちゃんの指す『みんな』が誰なのか、『ああなった』とは何のことか、何も分からない。それでもしいちゃんが、自分に話せない事情を抱えていることは分かっている。
 今にも泣き出しそうな彼女を見つめながら、次の言葉を探していると。

「あーあ、こんなはずじゃなかったのにな。ユヅくんも『みんな』と同じで、私自身のことなんて見てないって思ってたのに。そうだったら、楽だったのに……」

 虚な笑みを浮かべるしいちゃんを、無言で抱き寄せたその時。後頭部に硬いものが当たり、思わず「痛っ」と声を上げてしまった。

「何だ今の……」

 とっさに振り返ると。先端に財布をくっつけた触手が、こちらに向けて投げるモーションをとっている。
 玄関から届くわずかな明かりを頼りに、ベッドの足元を確認したところ。カバンが倒れてスマホやガムが転がり落ちていた。どうやら触手は、それらをこちらに投げて遊んでいるつもりらしい。

「あー、ユヅくんに懐いちゃったんだね。こらバッシュ、めっ」

 しいちゃんが小さな子どもにするようにたしなめても、触手はイタズラをやめようとしない。携帯バッテリーやガムが飛んでくるのに混じって、見慣れない箱がベッドの上に落ちた。
 菓子の箱ではなさそうだ。表面に「0.02」という数字と社名らしきものだけが書かれている。

「なぁんだ。あんなに帰るって言っておいて、実はやる気満々だったんだね」
「何のこと……あ」

 しいちゃんが指差した箱の裏面を見たところで、ようやくそれが何かを理解した。

「こんなものがどうしてカバンに――」

 混乱する頭に、ふと今朝シンと交わした会話がよみがえる。
 リビングで遅めの朝食を食べていた時、起きてきたシンに「大学3限から?」と訊かれて「ネット関係のイベントに行く」と話したところ。「愛しの彼女はくるのか?」とからかってきた。たしか「彼女じゃないけど来る」などと答えたら、その時に「んじゃ、ありがた~いお守りをプレゼントしとくから」とシンが何かをカバンに仕込んでいた気がする。
 菓子の箱かと思ってよく見なかったが。

「じゃあ余計なことは考えないで、安心して続きしようか」

 呆然としているうちに、腕を勝手に持ち上げられていた。ストッキング越しの太ももから、肌の熱が手のひらに伝わってくる。

「違っ、これはシン――同居人が勝手に!」
 とっさに手を引っ込めたところで、しいちゃんにベットへ押し倒された。わけが分からないうちにベルトまで外されている。

「相変わらずココは素直だね」

 キスをしている時、痛いほどに張っていたそれが、ようやく治まったというのに。しいちゃんの手が触れたせいで復活してしまった。

「あぁ、何とか入るかな」
「入らないから! 何も準備してないし」

 下着を脱がせようとする手を掴み、華奢な両手首を胸の前でまとめて拘束すると。
「準備? ゴムあるのに?」と、しいちゃんは目を丸くしている。

「その……しいちゃんの方が無理なんじゃない。何もしてないし、いきなりとか」

 童貞でもそのくらいは知ってる、と思いつつしいちゃんを腹の上から退けさせようとすると。

「私はいいの。ただ入れば」
「そんなの全然よくないから」

 体が小さいのに、意外と力が強い。
 上に留まり続けようとするしいちゃんの腰を掴み、全力で退かそうとしていると――粘り気のある水音がはっきりと響いた。
 瞬間「あっ」と発したしいちゃんは、目を見開いたまま固まっている。

「どうしたの?」
「別にどうもしてないよ」

 即席の笑顔を浮かべつつ、しいちゃんはそろそろと人の上から降りていった。

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 急に大人しくなったしいちゃんがベッドから降りようと、こちらに背中を向けた時。とっさにしいちゃんの足首を掴んでしまった。
 この間。今と同じように攻防を繰り広げた後のことがフラッシュバックする。下着に付いていた、どちらのものとも分からない体液が。

「ちょっとだけ、ごめん」
「ユヅくん? あっ……」

 タイトめなスカートの隙間に手を伸ばすと。下着が水分を受けて重くなり、ストッキングを貫通してあふれそうになっている。
「なんで」と無意識にこぼれた呟きに振り返ったしいちゃんは、「離して」とこちらを睨みつけてきた。
 そうだ、離さないと――でも。
 初めて見る怒りの表情に構わず手が動く。足首を掴んでいた手で腰を引き寄せ、再びスカートの中の指を曲げると。静寂の部屋に、思考を溶かす水音が響いた。

「すごい……濡れてる」

 下着越しに感じる熱い肉の表面を擦るたび、しいちゃんの喉からキスをしていた時と同じ声が漏れる。
 自分とのキスだけでこんな風になったんだ、と気づいた途端――「したい」を抑圧していた何かが弾け飛んだ。しいちゃんを仰向けに倒し、口で口を塞ぎながら、滑りを帯びた指2本を一番熱いところに擦りつける。

「んっ、んっ」

 指の動きに合わせて、唇の隙間から上擦った声が漏れている。下着越しに感じる肉の起伏に指を引っ掛けるたび、粘液が増えて音が大きくなっていく。

「ここ、気持ちいいの?」

 弄るたび美味しそうになっていく体――その上と下から聞こえてくる水音が混ざり合うのを聞いていると。これまで崇拝してきた詩人の謳う『純粋な愛』、それを投影した『理想の自分像』がぼやけていった。

「しいちゃん、ごめん……ごめんね……」

 体を超えた、心の繋がりが欲しかったはずなのに。自分も知らなかった黒い欲望が胸いっぱいに膨らんでいく。その欲望のままに、逃げようとする腰を固定し、肉のひだを擦る手を速めていった。

「ひっ……ぐ、いく……から! もうやめ……っ」

 触れ合っていた頬が、熱く濡れているのに気づいた瞬間。口の中に響いたくぐもった声とともに、揺れていた腰が大きく跳ねた。

「え……しいちゃん?」

 まだかすかに震えているしいちゃんは、足の指でシーツをぎゅっと掴み、激しい呼吸を抑えようとしている。

「だっ、大丈夫?」

 顔に張り付いた髪をよけると、天井を向いた虚ろな瞳から涙が流れていた。
 急速冷凍された頭に満ちたのは、とんでもないことをやらかしたという罪悪感。半径1メートル以内にいるのも申し訳ない気がして後退ると、シングルベッドから転げ落ちてしまった。

「痛った……」

 仰いだ先の薄暗い天井を、目立つオレンジの触手が通り過ぎていく。バッシュの行き先はベッドで、ぐったりしたしいちゃんに絡みついていた。
 分裂してこちらへ伸びてきた触手に、「いっそ殺して」と懇願すると。

『Gegen die Regeln』

 謎語ではない。発音的にはドイツ語のような気がするが、どういう意味だっただろうか。
 とにかく現実逃避をしている場合ではないと覚悟を決め、しいちゃんの傍に戻ることにした。

「しいちゃん、ごめ――」
「いれて」

 横たわったままのしいちゃんの、潤んだ視線が胸に突き刺さる。それでもよく見れば、スカートのファスナーを降ろす手が震えていた。
「でも」と言い淀むと、しいちゃんはゆっくり体を起こす。

「別に初めてじゃないんだし、変に気を遣わないでよ」

 今にも泣きそうな顔をしているのに――何が彼女に無理をさせているのだろう。
 汗で少し冷えた体を引き寄せ、そっと抱きしめた。そのまま互いの鼓動を感じていると、しいちゃんの震えが治っていく。

「しいちゃん、本当にしたいって思ってる?」

 返事の代わりに、肩へ鋭い痛みが走った。
 噛まれたのか、爪を立てられたのか。何が起こったのか理解できないうちに、しいちゃんは腕の中から離れていった。

「ごめんユヅくん……今日は帰って」
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