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11.『お友だち』不審

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 雨の日の図書館は、ペン先がよく走る。そのせいか、気がつけば教授との面談時間になっていた。
 面倒だが義務だ。行かなければならない。
 修論の目次を綴ったリーフレットに筆記用具をカバンにまとめていると、スマホに一件の通知が入った。

『用事があったから、早めに池袋着いちゃった』

 まずい――いくら目次の提出といっても、教授の話がそれだけで済むわけがない。移動時間も含め、最低でもここから1時間は見積もっておかなければ。
 返信しようとトーク画面を開いた瞬間。

『雨の日のカフェを堪能してるから、気にせずゆっくり来てね』

 普段はエキセントリックな印象が強すぎて忘れてしまうが――こういった気遣いがやはり彼女の美点だと改めて感じつつ、『了解。目標1時間です、ごめんなさい』と返信した。
 外で待ち合わせるのも初めてだというのに。今日は目的地が初めて入る場所ということもあって、昨日から緊張が解れない。

「……行かないと」

 深呼吸で気持ちを切り替え、窓際の特等席から立ち上がった。
 カバンを抱えて雨から守りながら、図書館から学部棟まで走る間。なぜ雨の予報が出ていたのに傘を持ってこなかったのか、と後悔が襲ってきた。部屋のカーテンを開けた早朝、空模様を気にする余裕がないほど今日の放課後のことで頭がいっぱいになっていたのだろう。
 古い棟の昇降口をくぐると、重い湿気が古い建物の匂いを際立たせていた。ハンドタオルで髪についた雨粒を払い落し、教授の部屋がある3階までエレベーターで昇る。

「失礼します」

 ドアを開けた瞬間、雨の匂いをかき消すほどの甘い香水の匂いが漂ってきた。

「海藤君、お疲れ様です」

 いつ見てもピンクのスーツに身を包んでいる教授へ会釈すると、本に埋め尽くされた部屋の隅にある事務イスへ座るよう促された。

「いつもブックカフェの主催ありがとうございます。でもそろそろ修論に集中したいでしょうし、M(マスター)1の子に引き継ぎしてもらいましょうか」

 主催ではなくなってもブックカフェに参加するのは自由だ。それにこれからは、ブックカフェ以外でもしいちゃんに会えるのだから。

「東條先生。まだ仮題の段階なのですが、こちらを見ていただけますか?」
「さすが来年から教鞭をとる方ね。締め切りより早めに、確かに受け取りました」

 屈託のない笑顔を見せる教授に向かって、さすがに「大袈裟な褒め方ですね」とは言えないが。

「担当講座は取れましたが、実際は研究室の雑用係からのスタートですから」

 大学で講師として雇ってもらえるとはいえ、駆け出しの研究員でしかない。きっと収入も、今のしいちゃんの半分にも及ばないだろう。

「あら、私も最初はそんなものでしたよ」
「東條先生が?」

 教授はまだ40後半で、学会内の年齢層を見る限り若い。早熟でエリートコースだったんだろうな、と勝手に思っていたのだが。

「ええ。執筆と翻訳の仕事を地道に続けつつ、論文をせっせとこしらえていたら、いつの間にかこうです」

 わざとらしいドヤ顔をされても反応に困る。しかし教授は途端に頬を引き締めると、デスクに積まれた本の山から、ジェンガの要領で一冊の古書を引き抜いた。
 見慣れた表紙――プラトン全集の『饗宴』だ。

「文学研究の道は険しい。私の時と今では学会の事情も変わっていることでしょう。ですから、この世界であなたの才能と努力が開花できるか……私には見当もつきません。それでもこのご時世に、真に『愛』を探求する若者は稀少ですから。これからも私のできる限りの力でサポートさせていただきますね」

 東條教授の研究室に所属して5年目になる今日、初めてお褒めの言葉をいただいた。
 自分にはこうして進路を応援してくれる師も、冗談を言いあえる友人も、心を通わせることができた人もいる。すべてが上手くいってるこの状況こそフィクションのようで、正体不明の悪寒が全身を襲った。
 幸せを実感すればするほど、不幸への恐怖が増していく。

「さて、こちらは後ほど精査させていただくとして。海藤君、この後少し時間ありますか?」
「え? ええ、本当に少しなら」

 予想外に教授の切り上げが早かったおかげで、もう少しだけ余裕がある。

「君に話を聞きたいという方が来ているのです。お通ししてもよろしい?」
「僕にですか?」

 何の心当たりもないが、教授の知り合いだろうか。
 そのまま教授は部屋を去り、数分が経った頃。入れ替わりで入って来たのは、少しよれたスーツ姿の中年男性だった。どこの大学の関係者だろうかと焼けた顔を眺めていたが、笑顔の下に隠された雰囲気が鋭い。

「初めまして、突然すみません。海藤柚月さんですね?」

「こういうものです」、と提示されたのは警察手帳だった。
 初めて近くで見るが、おそらく本物だろう。

「南署の猿渡と申します。少しお話をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「えっ……はい」

 事件の聴取だろうか。それこそ何の心当たりもない。
 まさかシンがとうとう何かをやらかしたのか――胸騒ぎを抑えつつ、猿渡さんと向い合って事務イスに腰かけた。

「この女性、生天目紫苑(なばためしおん)さんをご存知でしょうか」

 差し出された写真に、速まりつつあった鼓動が急加速した。
 名前に聞き覚えはない――が。写真の女性は見間違いようがない、しいちゃんだ。
 生天目紫苑。しいちゃんが教えてくれなかった本名を、まさか刑事の口から聞くことになるとは。彼女が何らかの事件に関わっているというのだろうか――呼吸を抑え、沈黙を貫いていると。

「ここ最近、あなたが彼女の家へ出入りするところを何度か目撃しています。失礼ですがご関係は?」

 圧力を帯びた声に、言い逃れができないことを悟った。黙秘の権利は当然あるだろうが、ここで黙っていても妙な誤解を招く気がする。

「本学のブックカフェで知り合って、本の貸し借りをしていて」

 友だちでもなければ、恋人と言ってしまって良いのかも分からない。
 猿渡さんの鋭い眼光から、時々視線を外しつつ話し終えると。「そうでしたか」、とかすかに煙草の臭いを帯びた息が吐き出された。

「彼女の部屋の中で、何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?」

 何を言いたいのだろうか。たしかに変わった生物は棲んでいるが、それが刑事事件になるようなことと関わりがあるとは思えない。第一触手たちは、あの場所から動くことができないのだから。

「変わったことはありませんでしたが。刑事さんがいらっしゃったということは、生天目さんは何らかの事件に関わっているということですよね? いったいどんな……」
「ここ2年の間に、『ある共通点』をもつ6名の一般男性が行方不明になっています。この女性は、それらの事件の関係者に名前が挙がっていまして」

 そういえば。ついこの間も、行方不明者の特番がやっていた。しいちゃんの家で夕飯を作っていた時だ。その時しいちゃんはテレビの電源を切ってしまったが――深く考えすぎかもしれない。

「その……共通点って何なんですか?」
「残念ですが、現時点ではあなたに詳細をお伝えすることができないのです」

 猿渡さんは写真を胸ポケットにしまうと、雨垂れの伝う窓辺へ視線を逸らした。

「これ以上彼女に関わらないことを強くお勧めします」
「えっ、どうして」

 行方不明事件の犯人にしいちゃんが関わっている――あるいは、しいちゃん自身が疑われているのだろうか。動きの悪い思考回路を必死にはたらかせている間にも、体格の良い刑事はイスから立ち上がっている。

「あなたの身を守るためです。どうか従ってください」

 猿渡さんは最後にこちらを一瞥すると、かすかな煙草の臭いを残して部屋から去って行った。
 しいちゃんが事件に関わっている――?
 何度噛み砕こうとしても理解が及ばない。
 感じたことのない巨大な不安が募る中、学部棟を出て歩き出した。
 傘がなくてちょうど良かったかもしれない。冷たい雨粒のおかげで、頭が少し冷えそうだ。

「事件……」

 もしかすると、しいちゃんはすでに自分が警察に探られていることを知っているのではないだろうか。そうでないならば、刑事が自分にあそこまで話さないはずだ。
 待ち合わせの場所まで、早く行かなければならないのに――全身の細胞が石化したかのように動かない。
 これからしいちゃんに会った時、この話をするべきだろうか。それとも、何も知らないフリをしているべきなのだろうか。あんな話を聞いた後でも、愛情と好意に揺るぎはない。ないはず、なのだが。
 もし誰にも言えない事情が彼女にあるとしたら――?
 それが、あの矛盾した態度と何か関係があるとしたら――?
 何の脈絡もなさそうなことが一点に繋がる可能性を思案するうちに、顔まで雨が滴るようになっていた。走っている学生はちらほら見かけるが、通りをゆっくり散歩している学生は自分以外にいない。
 北門まであと少し。部室棟前にさしかかったところで、背後から「おや? 貴殿は……」と抑揚のきいた声がした。今は誰だろうと無視したいところだが、肩に手をかけられては振り返るしかない。

「やはり『名無しのマスター』殿のご友人! 夏場とはいえ、雨降り小僧も仰天のずぶ濡れっぷりではありませぬか」

 傘を差して出してくれたのは、いつか異星人の話を聞いたオカルト研の――そうだ、たしか炎上職人。

「ささっ、とにかくこちらへ」

 半ば強引に腕を引かれ、部室棟の玄関へ連れて行かれた。
 屋根の下へ来て気づいたが、いつの間にか土砂降りになっていたらしい。最初はお節介だと思ったが――この中をゆっくり歩いている知り合いがいたら、たしかに様子がおかしいと思うだろう。

「某(それがし)のタオル、昨日洗ったばかりですゆえどうぞ」
「あ……自分の持っているから大丈夫です。ありがとうございます」

『類は友を呼ぶ』ということだろうか。さすがシンとリアルでも交流するだけあり、彼も人が良さそうだ。
 ひとまずハンドタオルで頭と顔を拭い、シャツに滴っていた水を絞り落とした。

「そういえばダチ氏、あれから異星人の調査に進展はありましたかな?」
「異星人? それなら――」

 その時ふと、あの刑事の顔が浮かんだ。刑事が訊いてきた「変わったこと」とは、やはり「お友だち」のことだったのだろうか。あの場ではいまいち頭が回らなかったが、今思い返せば疑問に思う点はいくつもあったはず――それが行方不明事件と繋がるかはさっぱりだが。

「進捗は思わしくないといったところでしょうか。それにしても触手型の異星人とは、某も人生で一度はお目にかかりたいものですなぁ」

 そうだ。あの触手を見たことのある人間は、しいちゃんや自分以外にもいるのだろうか。たしか2年前にあの場所へ引っ越してきた時から、触手は先に棲んでいたと言っていて――。

「あれ、2年前……?」

 猿渡刑事は確かに言った。「ここ2年の間に『ある共通点』をもつ6名の一般男性が行方不明になっている」と。

「おおそうでした、たしか部室に置き傘があったはず。某取って参りますゆえ、ダチ氏はしばしお待ちを」
「ちょっと待って! その異星人のことなんだけど」

 何から尋ねるべきなのか。疑問と謎がありすぎて、考えが上手くまとまらない。それでも真っ先に口から出たのは、「異星人との友情は、互いに損益なく成り立つものなのか」という疑問だった。敵でもペットでもなく、しいちゃんがヤツらを「お友だち」と呼ぶのはなぜなのか――今になって、その些細な点が気にかかる。

「損益ですか。ふーむ、良いところをつきますなぁダチ氏……では前回省いたところまで、踏み込んでお話しするといたしましょう」

 炎上職人は眼鏡のレンズについた滴を払うと、糸状に連なる雨を静かに見上げた。

「『異種の友情』をテーマとした作品において、宇宙からの来訪者と人間は心を通わせておりますがねぇ。『侵略の脅威』をテーマとした作品において奴(きゃつ)らは話の通じぬ、一方的な侵略者(インベーダー)でしかありませぬ」

 後者の方が真に迫っている気がする、と炎上職人はこちらに視線を戻した。

「そもそも異種ということは、我々人間の道理に必ずしも合致しないネットワーク、『思考』を築いているとは思いませぬか?」

 炎上職人が挙げていった異星人の思考の例は、「超合理的」、「理不尽」、「そもそも感情というものが存在しない」というものだった。

「思考が究極に研ぎ澄まされていったとしたら。思考のノイズになる『感情』は真っ先に捨てられる……某はそう考えておりますゆえ」

「つまり人間よりもかなり知能の高い異星人がいたとしたら、『お友だち』になることは不可能ってことですか?」
「知能指数が大幅に違えば、対等な関係を築くことは困難でしょうな……さて」

 そろそろ帰らないと体が冷えてしまう、と心配してくれた炎上職人は、「置き傘を取って来まする」と螺旋階段を昇っていった。

「『お友だち』でも、実際は対等な関係じゃないとしたら……?」

 しいちゃんとあの触手はどういう関係なのだろうか。
 降り注ぐ雨粒ひとつひとつを目で追ううちに、これまで耳にした触手たちの言葉が次々と浮かんでくる。

「『scapegoat(生贄)』、『期限、〆、残リ504時間、セイショク推奨』、『Gegen die Regeln(ルール違反)』……」

 それぞれ別に聞いた時は、何のことか分からなかったが――小康状態になった疎らな雨とともに、しいちゃんの放った言葉たちも降りてくる。
「簡単なゲームだよ」、「さっさとやっちゃえばいいのに」、「『お友だち』がアドバイスしてくれるおかげ」、「ここじゃない場所なら」――最後に聞こえてきたのは、時々押し入れから鳴り響いていた着信音だった。
 繋がらない。いや、繋げたくないだけだ。予測するだけで全身が震え、吐き気がする――ここまで自分の想像力が嫌になったことはない。
 しかし今すぐに確かめないと、取り返しがつかないことになる。

「あっ、ちょっとダチ氏! 傘は――」
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