新説 六界探訪譚

楕草晴子

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1.冤罪

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すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」

『三四郎』夏目漱石 より

**********

 俺はカンニングなんかしてない。
 テストの監視担当だったクラス担任は、根城の理科室で黒い実験用の机をひじ掛けにして、淡々と『やってません』を繰り返す俺に生暖かいまなざしで『正直になれよ』『やったんだろ』の二点張り。
 机を挟まずに椅子と椅子で向かい合っているので構図は違うものの、ひと昔もふた昔も前の刑事ドラマのごとく、かつ丼でも差し入れてきそうな。
 こいつの目もとはエビスビールのマークにそっくりだ。
 酒に弱いのにビールは嫌いじゃない親父がたまーに買ってくるあれ。
 犯人宥め役にもこの形の目はハマるって今知った。
 二人でやられたら無実でももう面倒になって自白してしまうかもしれない。
 怒鳴り役がいなくてよかった。
 前回の反省を踏まえて真面目に勉強し、いつもよりちょっと点が良かった。本当にそれだけだ。
 そもそも安藤さんの答案を写していたら、平均ちょい上ではなく百点近くなってもよかったはず。
 担任は黙って俺の目を時折じっとのぞき込みつつ話をしている。
タイミングを見計らって目を伏せたり色々モーションだけ出しながら、あの時を脳裏に浮かべた。
 確かに、テスト中に右隣の安藤さんのほうはちらっと見た。
 もしかしたら、ちらっとじゃなかったかもしれない。
 テストに対する安藤さんの真剣な取り組みを受け、前のめりになった体によって安藤さんのおっぱいが机の上に載ったから悪い。
 あのおっぱいが。
 理科室の骨格標本――通称はなこ――が、じっとりとこっちを見つめている。
 『最低』とでもいいたげだ。
 人体模型――こっちは例によってたろう――は、同じ男として俺の気持ちを汲んだと思いたい。
 当然動かずうっすらと微笑みを浮かべている。
『後ろめたくない顔なんて、できないよねぇ』
 たろうの顔にこのセリフをうっかり合わせてしまった。
 たろうの微笑みは嘲笑いに変わった。
「うん、む~、他の教科の点が良かったわけじゃないし、証拠が残ってるわけじゃないから、まぁ今回は、んん、まあ、な。次やったら親御さんに連絡、とるしかなくなるから、な、やるなよ、な。な!」
 途中聞いていなかったが、どうやら無駄な説教は終わったようだ。
 再び黙って目を伏せるという無難なシグナルを出すと、担任はため息交じりに俺を見て、今日はこれで、とつぶやいて腰をさすりつつ立ち上がった。
 担任に引っ付いて理科室を出ると、ドアの鍵をかけながら担任は俺のほうを見やる。
「ほんと、正直に話せよお前。黙ってたらわからん」
「やってません」
 言えるかよ。
 担任がカギをかけて立ち去る後ろ姿を、視線でチクッとでも刺せたら、と思いながら眺め、角を曲がって姿が見えなくなったところでこっちもため息をついた。
 きっとこういうことがあったら、『うちの子になんて真似をうんぬんかんぬん!教育者でしょそんなのうんたらかんたら!』と学校に怒鳴り込む、そんな親もいると思う。
 が。父一人子一人で暇なしの親父だ。それ以前に、そもそも親父に話したら速攻で真実がバレる気がする。
 やっぱりこのままスルーが一番楽そうだ。
 理科室の隣の音楽室からは、吹奏楽部のトランペットかなにかの音がしっかり聞こえる。
 担任がたびたびお説教の場にここを選ぶのは、外に話が漏れないからでもあった。
 説教の間中繰り返しイントロだけ練習していたため、このメロディを覚えてしまった。
 『エーレッシャのイントロ、ラストもっかいいくよー』という吹奏楽部の顧問の声が聞こえる。
 こんな嫌な記憶たっぷりになった曲を頭の中でリピート再生させたくない。
 渦中の安藤さんが吹奏楽部なだけに余計始末が悪い。
 エーレッシャさんはきっと巨乳寄りでむっちりしたスタイルが魅力のとてもとても優しい美人だ。
 そう思うと少しだけ嫌な記憶が中和された気がした。
 小一時間お説教だったが、帰宅して夕食の支度をするためにスーパーに寄り道する時間はありそうだ。
 うちの学校が部活強制入部じゃなくて本当に良かった。
 じいちゃん亡き今、自宅の家事全般は俺の仕事になってる。
 二、三か月と比較的短かったじいちゃんの介助がなくなったのが楽なような寂しいような。
 中学生にして感覚が所帯じみてしまって、今日みたいに特売の曜日は早く帰りたい。今日は卵が安い。
「済んだ? お説教」
「ん。お前なんでまだいるの?」
「数学赤点。見直し会終わったとこ」
 要は補習だ。
 一学期の期末で初の赤点をもらってしまった時を思い出す。
 普段は何も言わない親父がさすがに咎めてきた。
 その努力の結果、今回の好成績だったのに。担任の恵比須顔が浮かんだ。
 無言で二人して校門に向かう。駅の手前まで方向が同じ、スーパーに寄り道するときはさらに駅の向こうにある途中のマックまで、帰宅部――といっても向こうは習い事と塾通いで予定はパンパンだが――同士結構な頻度で帰り道が一緒になる。
 ほぼ惰性だ。
「オツカレ」
 矢島はニヤッとし、一拍置いてますますニヤニヤしだした。
「致し方あるまい」
 わざと堅苦しい言い方をする俺に笑い出した。
「本人にばれてなきゃいいんじゃね?」
「俺はやってない」
 俺はカンニングするほど成績に興味ない。
「知ってる。じゃなくて。じゃなくって! 自分が喋ったこと忘れてるだろ」
「何」
 ふふ~んと訳知り顔だ。
「『安藤ってチューガクセーにしては胸でかいよね』。だめだぞー」
 覚えてたのか。くそっ。
 横目でジトっと矢島を見ると、ちっちっちっと大げさに舌打ちしながら人差し指を口の前で左右に振っている。
 それに対して舌打ちしたい気分だ。
 ぐるっと迂回して大通りに出る。このまま通りに沿って歩くと駅。車の音がうるさい。
「俺はやらないけど、同じおっぱい星人としてちょっとだけわかる。
 俺は最後尾ほぼ固定だし、隣のヤローは成績も似たようなもんだから見ても面白くもなんともないけど。
 アイちゃん大変だな。テストのときの座席名簿順縛り」
 うちの学年は女子より男子が多い。
 一クラスにつき二、三人多いので、名簿順に並べると男子の一番後ろが余計にはみ出てしまう。
 その分は女子の列に一人移ってテストを受けていた。矢島はクラス替えがあってもほぼ後ろ二席のどっちかになる。
 車の音に負けない音量で話す顔は真剣だ。まさか胸のサイズのこととはだれも思うまい。
 『俺はやらないけど』って言葉の中に、倫理的にやらないというのと同じくらい『そんなへましない』という響きも含まれているように聞こえた。
 俺は宿命的に最前列。
 だから、安藤さんとも小学校のころから結構な割合で隣の席になってた。
「安藤さんにばれてるとまずいんだよなぁ」
「そりゃそうだろ」
「多分お前が思ってるのと違う」
「そーなの?」
「家近いんだ」
 他界したじいちゃんと安藤の爺は仲が良く、花屋を営んでいる安藤宅にじいちゃんはよくお邪魔して将棋を指してた。
 孫の話もしたようで、ちょくちょく通りすがりに声をかけられる。
 内孫で女の子の安藤さんを溺愛している爺のこと。
 もし安藤さんにばれたら、当然あの頑固爺にも話がいくかもしれないわけで。
「でもいまんとこセンセーで済んでんでしょ。よかったんじゃん。
 田中みたいにやってもないのに早とちりしたクラスの女子に騒がれると一発アウトだからな。
 俺が安藤さんにばれてるとって言ったのはそーゆーこと」
 田中は4月半ば頃、女子のリコーダーを盗んで舐めようとしたらしいという事件を起こしていた。
 実際は無実。
 音楽室の忘れ物に気づき、名前が書いていないので職員室に届けに行こうとして音楽室を出たところで、忘れたことに気づいて取りにきた女子と鉢合わせ。
 瞬時に盗みと誤解した女子に叫ばれただけだったのだが。
 女子がスクールカースト最上位グループの一人で、スピーカーだったのがまずかった。
 袋が恐らく手芸が趣味なのだろう母親の手作りで、名前が一見ブランド名か何かに見えるようなデザイン刺繍で書いてあったのもよくなかった。田中にはほぼ模様にしか見えなかったらしい。
 騒いでいるうちに尾ひれがついて、いつの間にか盗んで口のところを舐めたことになってた。
 担任は事実をクラスに周知、騒いだ女子にも名前をわかりやすく書くようにほんのり注意したものの、学年のはじめでキャラ決めの時期だったため、キモい男という役割が定着してしまった。
 担任は建前は作ったぞとばかりにもう触れもしない。
 あの恵比須顔で『ま、ま、ま、』とか言って立ち去ってしまう。
 俺と一対一だと強気なのに、である。
 さすがにもう舌打ちしながら『マジキモいし』とかすれ違いざまに言われることはなくなったようだが、会話の中の田中が『ぺろぺろ星人』なのは拭いきれてなかった。
 白くて丸くてそんな時でもつやつやの田中の顔と、所在無げに席に着く姿が思い起こされる。
 俺や矢島のような男子のやや日陰グループの中ではそれぞれ、明日は我が身というスレがこそっと立って注意喚起されていた。
 あの大事件をすっかり忘れ、つい安藤さんの胸元を、テスト中で名簿順に席替えされた最前列で見てしまった俺は、矢島の暗黙の指摘通りだいぶ迂闊だった。
 そもそも安藤さん自身とも小学校まではそれなりに話したりしていて、仲が悪いわけじゃない。
 幼馴染とまではいかないが全く縁のない人でもない知り合い同士、そんな関係だ。
 だからこそ、もし、テスト中にしげしげ胸を眺めていたとばれてたら。
 うーん、ばれてたら?
 もう今は前みたいに話をすることはほぼないし、向こうも男子ってそんなもんかで終わりかもしれない。
 第一気づかれていないかも。集中してたし。
 いやいや全く逆で、ものすごく気持ち悪がられる可能性もある。女子クラス委員安藤さんからすると、騒ぎ立てたりはしないが、冷静にねちねちと理詰めか。
 あぁ、もう、ほんと、人の頭の中が見えたら分かりやすくていいのに。現実は。
「めんどくせぇ」
 言葉はすぐ上の高架を遠ざかる山手線の音にかき消された。
 高架を過ぎると、駅からわらわらと人が溢れる。
 まだ早い時刻だが、何人かは右手に見えるファストフード松乃屋に流れ込んだ。
「マックドールのハンバーガーより松乃屋のほうが腹膨れるんじゃ」
「お前と違ってまだ成長期本番迎えてねーの。校章外してもそこの第一中だってばれる。
 俺だって松乃屋の牛丼がいい。あー米食いてーよぉー」
 中学二年になったところでつるつる背が伸びて一七〇センチを超えた頭の位置から、一五〇センチ前半の矢島を見下ろす。
 俺の肩らへんの高さにある頭でぶちぶちと文句を垂れた。
 もともと顔がどちらかといえば大人びている俺だと校章をはずせば学ランの高校生を装えるが、身長含め色々ミニサイズのこいつだと難しいのは察せられた。
 寄り道は基本校則NG。
 しかしなぜかマックは昔からセーフ――正確には、校則NGだが暗黙の了解で先生はお目こぼし――とされている。松乃屋がアウトの理由はよくわからない。
「あーあ、俺はまた一人で寂しくファストフードからの英会話だよん。ばいばいアイちゃん」
 手をひらひらさせながら、自動ドアに吸い込まれる矢島。
 じゃあと返して、高架に沿って日陰になっている道に入った。
 俺たちの後ろから来ていた誰かが俺の肩にぶつかる。
 すみません、と雑な謝罪をして、黒い長袖黒い長ズボンという雑な服装の男が、さっきの松乃屋と同じようにすぐ右手のコンビニへ。
 その後ろ姿を見たら、田中が浮かんだ。
 矢島は田中のことをうっかりあんな目にあっているかわいそうな奴扱いしていたが、俺は知っている。あいつが実は『勇者』だということを。
 もちろん、比喩的な意味だ。ここはファンタジーの世界ではない。
 異世界トリップチート設定でとかそういうことじゃない。そしてそんなかっこいい言葉で普通はあらわさないだろう。
 忘れもしない。
 衣替え直前。
 あいつはそこのコンビニで朝の登校途中に十八禁のエロ本を買っていたのだ。
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