あおに融ける ~愛を知らない自分と、恋を知りたい彼~

上川 可塑

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「もうかえってこないの?」
 夜の浜辺で、幼い自分が言う。
「そうだね、もう帰らない」
 静まり返った街。猫の子一匹起きていないほど寝静まったこの夜には、打ち寄せる漣の声と、遠くで煌めく星の瞬きの音しか聞こえない。太陽の息吹すら無く、永遠に朝が来ない気すらした。
「ぼくさびしい」
「俺も寂しかったよ」
 波打ち際から少し離れた砂の上、膝を抱えて二人で海を見ている。触れ合うほど近くに座っているのに、なぜだか幼い自分からは生命の温かさが感じられない。
「ぼくもかえろうかな」
「どこに帰るの?」
 幼い頃、帰る場所のなかった自分が、一体どこに帰るというのか。
「おうちじゃなくて、ぼくのなかにかえる」
「君の中?」
「そう、ぼく」
 細く小さな丸い指先が、蒼慈郎を指差した。
「ぼくもいっしょにいっていい?」
 その言葉に、蒼慈郎はぽろりと一滴落涙した。そうか、置いて行く必要などないのだ。一人ぼっちで、寂しくて悲しくて怖くて、寒かったのに。誰も温めてはくれなかったこの子を、自分が置いて行くだなんて、これ以上救われないだなんて、そんな酷い話はない。誰よりも自分がよく知っているのに。自分が一番理解しているのに。
「いいよ、一緒に行こう」
 ぱたぱたと、いくつもの涙滴が目縁から落ちた。
「わあッ ぼくはどこにいくの?」
「海を渡って、外国に行くよ」
「すごい! ぼくもいっていいんだ」
「そう、一緒に行くんだ」
「もううみにかえらなくていいの?」
「いいよ」
「おうちにも?」
「うん」
「がっこうにも?」
「そう」
 自分を覗き込む瞳には、黒く濁った気味の悪さはもうどこにもなかった。キラキラと星よりも輝いて、子供の歓待に満ちている。
蒼慈郎の膝に置かれた小さな手のひらを握りしめると、酷く冷え切っていてカサカサとしていた。
「あったかいね」
「温かいね」
 嬉しそうに笑う幼い自分に向け、両腕を開いて見せた。
「わっ それはなに?」
「これは抱き締めてあげるよって合図」
「だきしめてくれるの?」
「うん」
「ぼくはどうしたらいい?」
「俺を抱き締めてくれたらいいよ」
「うまくできるかなぁ」
 同じ様に両腕を広げる小さな自分を、蒼慈郎は思い切り抱き締めてやった。痩せぎすで細い骨がそこかしこに当たる、冷たく頼りない胴体。しかし合わせた胸には、確かに生きていると彼の鼓動が伝わってくる。あの頃の自分は、きちんと生きていたのだ。人間として、生きていたのだ。人間で在れなかった環境で、人間として息をし心臓を動かしていた。
「あったかい」
「もう寒くないよ」
「よかったぁ。ぼくたちはもう、さむくないんだ」
「そう、俺たちはもう、寒くないんだ」
「ずっといっしょにいてくれる?」
「うん、もう置いて行かないよ」
「うれしいなあ」
 腕の中で、頼りない体がもぞりと動いて、蒼慈郎を覗き込んだ。
「おかえり」
「ただいま」
 海洋の先、地平の後ろから、朝焼けの薄赤が差し込み始めていた。





 鼻先をくすぐる匂いで目が冷めた。鶏肉が焼ける美味しい匂いと、カレーの匂い。次に脳に入ってきたのは、少し離れたところから聞こえてくる楽しそうな声。女性と男性がじゃれ合いながら楽しげに料理する声だ。誰かが鼻歌を歌っている。
――幸福には匂いと音が付いてるのか
 頬が火照っている気がするほど、全身が温かい。蒼慈郎は未だ重い瞼をゆっくりと数回開閉し、定まらない視野と思考に覚醒を促す。
「起きた?」
 その問い掛けに答えようと鼻で深呼吸をする。大きく吸って、深く吐き出す。開こうとした唇にチュッと短く口付けられ、その声の主が拓睦であることをようやく理解した。
 瞼をしっかりと開ければ、こちらを見つめる彼の瞳と目が合う。
 また彼がベッドに潜り込んでいたようだ。
「きみ、いつから…」
「ずっと一緒に寝てた」
「そう…」
 向かい合うようにして寝ていたのか、気付けば拓睦の腕が胴体に回っていた。
「んはは…どうりであったかいわけだ」
 向かい合うというよりも、抱き合って眠っていたという方が正しい。
「ふあ… 何だか不思議な感じ」
 寝起きの欠伸をしながら、蒼慈郎は言う。
「不思議?なにが」
「ご飯の匂いで起きて、遠くで父親と母親の楽しげな声がして、安心できる布団の中で誰に起こされることもなく、ぬくぬくとしてる」
 フフッと蒼慈郎は鼻笑を零し、もう一度欠伸をした。まだまだ眠れそうだ。
「今何時かな…」
「夜の七時前」
 ということは、自分は十二時間近く眠っていたということになる。
 大きく伸びをし、上体を起こす。カッターシャツとスラックスがシワシワだ。拓睦が襟元のボタンを開け、ベルトを抜いてくれたのだろう。寝苦しさは一切なかった。
 いやそれだけじゃない。きっとこのベッドも寝具も良いものを使っているのだろう。長時間睡眠の気怠さが殆どないと言っても過言ではない。アメリカに帰ったらベッド周りを改善しようと、蒼慈郎は決意をした。
「お腹空かない?」
「そういえば…昨日の昼に食べたっきりだ」
「インドカレーできてるよ」
「手作り? 凄いね」
「あとターキー」
 凄い組み合わせだが、今日がクリスマスなのだから仕方ない。のだろうか。そういったイベント事に縁遠かったから正解が分からない。しかしインドカレー屋にはよくタンドリーチキンだって置いてあるのだし、別におかしいことも無いだろう。多分…。
「この前まで母さんがインドに行ってたから今年はインド料理なんだけど、去年はスリランカだったかな…毎年違う」
「それは面白いね」
「でも毎年ターキーを作るのは父さんだから、その味は変わらない」
 夫婦でエプロンを付けてキッチンに並んで立つのだろうか。ああでもないこうでもないと言い合いながら、睦まじく。両親がそうやって過ごしている姿など、蒼慈郎は終ぞ見たことがなかった。母と姉は稀にそうやって二人で料理をしていたようだが、台所に立つ彼女たちにかち合ったことはない。
「お父さんとお母さん、仲が良いんだね」
「しょっちゅう喧嘩してるよ」
 拓睦の両親が、髪を掴み合って殴り合っての喧嘩をするようには見えない。彼の言葉遣いや喧嘩の下手さを鑑みても、きっと言い合いの類なのではないだろうか。
「ねえ、晩ご飯、食べてくでしょ」
 なるほど、これまでの説明は全て商売口上のようなものか。アピールタイムだったわけだ。美味しいインドカレーとターキーがあるぞと、彼なりの誘い文句だったわけだ。
 その誘いに乗ってやりたい気もするが、何より見知らぬ家族の団らんに自分が入り込む事が気不味い。団らんを知らぬ自分が、そこに入り込んで場の空気を悪くするのではないかと考えてしまう。いや、端的に言えばきっと怖いのだ。冷えた肌で感じる温かさとは、双方の温度差のせいか触れた瞬間チカッと刺すように痛みが走る。それと同じで、胸が痛むのじゃないかと考えると怖い。やっと少しばかり過去を迎合できそうな今、ようやく幼い自分の体温に触れた今、急激に熱いバスタブに投げ込まれるのは何とも心許ない。溺れてしまうかも知れない。
「まあ、断れないんだけどね」
「……どういうこと?」
 見慣れてしまった悪戯な拓睦の笑みに、蒼慈郎は少し眉根を寄せた。
「ボストンバックの中身は全部クリーニングに行ってるし、母さんがいつになく頑張って作ったインドカレーを食わずに帰れるとお思いかね?」
 ボストンバッグには汚れたままの衣服が入っていたはずだ。蒼慈郎は思わず感心してしまう。この家族は人を饗したいがために、足を引き止める術をたくさん知っている。蒼慈郎のスーツを人質に仕立てる事が出来るし、人の情に訴えかける等朝飯前のようだ。
――ここまで首尾よくやられちゃなあ
 蒼慈郎はクツクツと喉奥で笑った。
「君のご両親は全く凄いね。いや、まさしく君のご両親と言うべきか。君がそうであることが、ご両親の子供としての証みたいだ」
「どういうことだよ」
「俺を絆すのが上手いとこだよ」
 この血族は、本当にそういう部分に長けていると思う。正直に思いを伝えるし、恥ずかしげもなく乞うし。そうまで言って貰えるのなら、ならば少しだけ……と言いたくなる。
 そしてこの目の前の子供など、甘えることも大層得手で、幾度その誘惑に負けそうになったか。大人の自分がしっかりしなければと理性が強く言ってくれなければ、何度甘やかすところだったか。
「甘え方の分からない俺が、君の甘やかし方だけは知ってるなんて、おかしいなぁ」
 蒼慈郎は笑いながら上半身を起こし、もう一度伸びをする。すると拓睦が腰に巻き付いてきて、腹に顔を埋めてきた。頭髪を撫ぜてみると、乾いていてしっかりと芯のある健康的な髪質であった。
 拓睦は自分の欲求が分かっている。見えている。だからして欲しいことをはっきりと口にするし、そうして口にしてもらえたら、こちらも何かと行動に移りやすい。だからきっと甘やかし方が分かる。
――彼と居れば俺もそうなるんだろうか
 欲しい物を欲しいと言える、人間然とした人間に成れるのだろうか。
――いや既に兆しは出てきてるな
 ビルにクリスマスプレゼントを強請ったこと、拓睦に会いたいと言えたこと。首尾は上々と言えるのではないだろうか。
「おかしくないじゃん。もっと甘やかしてよ。まだまだ足んないから」
「まだ? 何を要求されるんだろう」
 豊かな頭髪、その下に埋もれた彼の耳殻を摘んで指の腹でゆっくりと撫ぜる。すべすべとした肌理と、柔らかな産毛が触っていて気持ちいい。
「……ッ ちょっと!」
 手遊びに耳を触られ立腹したのか、拓睦に手のひらを払われた。
「わっごめんごめん」
「そんないやらしい触り方されたら、誘われてるのかと思っちゃうじゃんか…」
「…今のいやらしかったの?」
「ん……きもちかった…」
 真剣な顔で頷く拓睦に、蒼慈郎は腹を抱えて笑った。
 耳を撫でるだけで焚き付けられるだなんて。
――なんて操りやすいんだろう!
 こんなんじゃ、自分が彼の耳元で囁くだけで、彼は自分の願いを何でも聞き入れてくれるのではないか。相互でお互いに甘い、ということなのだろうか。それはそれで面白い。
 その時、薄暗い部屋のドアを拓睦の母親がノックして言った。
「起きてるなら出ておいで!折角作った美味しいインドカレーが冷めちゃう!」
 拓睦に先導されて向かった広いリビングの食卓には、真っ赤なポインセチアをセンターにした不思議な並びが催されていた。ポインセチアの脇には丸々と太った照りの強いターキーが置かれ、その隣には透明の耐熱ガラス容器に入ったラザニアが並び、背の低い大きなバスケットにはうず高く積まれたナンが。それぞれの席には三色のカレーと、コールスローサラダの小鉢。でっぷりとした腹のドリンクピッチャーには、にんじんジュースだろうか、オレンジ色の液体が入っている。
「……凄いですね」
 起き抜けのよれた姿見で取り繕うことも出来ず、蒼慈郎は馬鹿正直に感想を口にした。
「ケーキもあるわよ」
 これ以上あるだなんて。この家族はどれほどの量を食べる気でいるんだろう。蒼慈郎は拓睦の母親の最後のひと押しに、恐ろしさすら感じた。
「さあさ、席に着いて。僕が腕によりをかけたターキーを切り分けよう」
 蒼慈郎と拓睦が並んで席に着くと、エプロン姿の拓睦の父親が自慢気にナイフを取り出した。よく見れば、彼はエプロンの下にクリスマスシーズンによく見る、あの派手すぎる模様のセーターを着ている。もしかしなくても、この家族はイベント事が好きで、そういうものには全力投球なのだろうか。
 しっとりと柔らかそうな鶏肉を、個々それぞれのメイン皿に移すと父親も座り、氷の詰められたボトルクーラーに刺さっている瓶を引き抜いた。
「蒼慈郎さんは、お酒は飲めるかい?」
「あ、はい…」
「よかった!じゃあまずはこのシャンパンで乾杯といこうじゃないか!」
「パパ開けるの気をつけてよね!一昨年はそれで電気を一つ駄目にしたんですから!」
 母親が両手のひらで耳を塞ぎ身を反らす。慎重に栓を抜こうとする父親の横で、殺すなら早くして!と騒ぐ彼女に笑いそうになった。ポンッと景気の良いとは言えない軽い音をさせ、ようやく開栓したシャンパンをグラスに注いでもらう。大人は小さく泡の上る淡金色の綺麗な液体を、子供はにんじんジュースをそれぞれ打ち合わせ、乾杯とした。
 口に含んだシャンパンはほの甘く鼻に抜ける風味が豊かで、舌で踊る発泡が心地よい。それに寝て喉が渇いていたのだろう、一気にグラスを空にしてしまった。次は拓睦の母親がシャンパンを注いでくれた。
「すいません、ありがとうございます」
「じゃんじゃん食べてね蒼慈郎さん」
「そうだよ、早く食べないと無くなっちゃうからね」
「こ、こんなにあるのにですか…」
 早々無くなるような物量ではない。
「カレーとコールスローのおかわりならあるけど、ラザニアとターキーは一点物よ。ああ、ナンも焼けばあるわね」
 どれから手を付けようか…こんなにも選択肢があると、途端に迷いが生じてしまう。取り敢えず、取り分けて貰ったターキーから食べるべきなんだろうか。蒼慈郎は逡巡の手付きでターキーにナイフを通す。艷やかな皮面は強く焼かれているのか案外さっくりとしており、皮下の肉たちは白くしっとりとしていて柔らかい。口に運ぶと淡白なのにジューシーで、味付けのスパイスとハーブ、それと中に詰められた野菜の旨味が染みていて美味しかった。鶏肉なのにパサパサしていない。
「どうだい?」
 歓待を湛えた拓睦の父親が、丸眼鏡のレンズ越しにこちらを見ている。何か気の利いたことを言うべきなんだろうが、ターキーに関する知見が皆無なので、何と言っていいのかが分からない。
「初めて食べるんですが、パサついていなくて、とてもジューシーで美味しいですね」
 簡単に感じたことを伝えると、父親は嬉しそうに何度も頷いた。
「温度管理が大変なんだよ。皮はパリッと、でも中の肉は焼きすぎないようにって…。もう誰も感動してくれなくてね」
「毎年食べてるものね」
「てりやき味とかになったら俺も分かるよ」
「僕が折角君たちを思って作ってるのに、これじゃあ報われないよ…」
 優しげな彼の眉がすっかり下がってしまった。蒼慈郎は掛ける言葉がない。
「報われたくて料理してるってとこが駄目よ。料理なんてそうそう報われないもの。家族が健康に過ごしてるならそれで結構」
 クイッとシャンパンを傾けながら、拓睦の母親が悪戯にニヤリと笑った。なるほど、彼のあの笑みは彼女からのものか。それほど拓睦のあの顔にソックリだった。
 そんな彼女が担当したインドカレーは、サグ・マトン・キーマの緑赤黄の三色だ。ほうれん草のサグはまろやかで、赤いマトンはヒリつく辛さとほろほろと解ける肉が美味しく、キーマはさっぱりとするスパイスが良かった。
 何でも、インドで知り合った人間にスパイスを分けて貰い持ち帰りたかったが、税関で没収されるのが目に見えているので諦めたのだそうだ。スパイスと言っても種子状のものも多いから、仕方のないことだ。
「ところで拓睦、アンタ今日静かね」
 サグカレーをナンで掬って大口で頬張った拓睦は、咀嚼しながらモゴモゴと何かを言っている。箱からティッシュを抜き渡してみると、口の周りの緑の液体を拭いて、ごっくんとものを嚥下した。
「何か恥ずかしい」
「恥ずかしいって何よ」
「……父さんと母さんが蒼慈郎さんに会ってるのが恥ずかしい」
 今更何を言うのだろうか。連れてきたのは拓睦自身だし、両親に蒼慈郎のことを吹聴したのも彼自身だ。
「てか蒼慈郎さんのこと言わなかったらよかったなって思ってる」
「まァ!なぁによ今更!何で駄目なのよッ」
「だってしょうがないじゃん!今分かったんだから! 俺の蒼慈郎さんであって、父さんと母さんのじゃないからな!」
 両親にまで牽制する拓睦に、蒼慈郎は呆れてしまった。
「男の嫉妬は醜いわね!駄々こねてんじゃないわよ全く…拓睦くんはいつまで子供のつもりなのかしら~?」
 ニヤつく母親の挑発に、拓睦は分かりやすくブスくれて口を尖らせている。
「嫉妬じゃない。これは独占欲。蒼慈郎さんは俺の。はいQED」
「証明完了しちゃった…」
 中間式も何もなく急に証明完了するものだから、思わず口に出してツッこんでしまった。拓睦は頬の血色を良くしながら、威張った風な顔付きだ。
「ママも恥ずかしくなってきたわ…」
「僕もだ……。まさか拓睦がこんな情熱的な子に育つなんて思わなかったよ…」
 目の前の夫婦も揃って顔を逸らし頬を赤くしている。いや彼らの場合は酒気での紅潮か。
 そもそも拓睦はいつもこの様な調子だったので、蒼慈郎からしたら彼は日常こういうものなのだと思っていた。しかし案外違うようだ。自分から野暮なことを聞くのは、今だけは止そう。蒼慈郎はシャンパンを含みながら、少しだけ笑った。
 食事を済ませ、デザートのケーキが運ばれ、現物のブッシュドノエルを初めて見、初めて食べ、少しの感動を覚えた蒼慈郎は、今は出されたホットワインを飲みながらリビングのソファで足を投げ出した。
 片付けを手伝えと叱咤されている拓睦の代わりに自分が行こうとすると、お客様に手伝わせるなんてと余計拓睦が叱られてしまったので、余計なことはすまいとこうしてソファで寛ぐに徹している。夜間なのになぜかカーテンの閉められていない、ベランダに続く窓。そのレースカーテンの向こうで、高層ビル屋上の警告灯が赤くぼんやりと瞬いているのが見えた。
 美味しい料理、和気あいあいとする家族に、温かく守られた室内。ここに流れる空気は、バスタブの中のような安堵を蒼慈郎に運んだ。
――いい空間だな
 マグカップの中でホットワインをくゆらせると、浮かぶ果実片のいい匂いがする。
 人の団らんに飛び込んでも、案外痛みも悲しみもなかった。ただただ、この温かい湯のようなものの中で、全身が、心がふやけるような微睡みに似た感覚に包まれている。
――アルコールのせいかな
 こくりとワインを飲むと、舌全体に渋みと甘みが広がり、喉を焼いて下っていく。
――彼らの人柄もあるのだろうな
 拓睦の両親は、この場に居る蒼慈郎を見るに留めてくれていた。蒼慈郎を透かして誰を見るわけでもない、過去を詮索するわけでもない。ここに居る、自分自身を見てくれた。食卓を囲む一人の人間として扱ってくれた。丁寧に饗し、過度な詮索はしない言及はしない。それが心地よい。気負わずに存在することを許されている感覚が新鮮だ。
「寒くないかい」
 エプロンで手を拭きながら、拓睦の父親がソファの対岸に座った。付けっぱなしだったエプロンをようやく外した彼は、ふうっと溜め息を一つ吐いて背もたれに体を預ける。
「ええ、お陰様で。ご馳走様でした」
「どうだった?我が家のクリスマスは」
「そうですね…クリスマスパーティーというものを初めて体験したので、他と比較して気の利いた言い回しは出来ないんですが…良いですね、こういうのも」
「アハハ、そうだろう?別に何があるってわけじゃないけど、家族で共有することに意味があるんだろうね。こういうイベントは」
 カチャリと丸眼鏡の位置を直して、優しげな男性は笑った。その笑顔に、蒼慈郎は今なら何を聞いても許される気がした。
「どうして…俺を招待してくれたんですか」
 高校生の我が子が付き合っていると言う大人を招くだなんて。それも一周り以上も歳の離れた男を、クリスマスに招くなんてそうそうできることではない。
「拓睦くんの話を聞いて興味が湧いたと言ったら失礼に当たるかな。恋を知らないあの子が、熱烈に恋する相手だなんて。親ならひと目見ておきたいものだよ」
「そんなに彼は…俺のことをご両親に」
「何も知らないものだから、ほぼ僕らに話してくれたよ。ごめんね、君は隠しておきたかったかも知れないけど」
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 濡れそぼった手のまま、拓睦がキッチンから走ってくると、蒼慈郎の隣にどかりと腰を下ろした。両手で持っていたワインが揺れる。
「二十二時から人工雪散布が始まるって」
「出た金の無駄」
 聞くところによると、都内数カ所のビル屋上から人工雪散布用の疑似雲が飛ばされるらしい。ここ三年ほど、クリスマスに日本の主要都市で試験的に飛ばされ、一時間から一時間半の間聖夜を白くムーディーにするのが目的だとか。
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「さあねえ。だけど、誰かの思い出の一端は担うことが出来るね」
 拓睦の父親はロマンチストなのかも知れない。
「疑似雲の運転がもっと長時間できるようになったら、その技術を応用して干ばつ地域の解消に一役買うんじゃないですかね。気象を人間が操れるようになったら、天災の怖さは減りますし。様々なシンギュラリティはこういう些細なところから始まるんです」
 ロマンチストな父親には悪いと思いながら、蒼慈郎は現実的な意見を言ってみた。
 確か少し前に、日本とアメリカの大学が提携してそのような実験をやっていると記事で読んだ覚えがある。
「疑似雲も今は大型散布用マシーンでAI管理された機械の様相かも知れませんが、様々なことが進化すれば分子や粒子といったものを散布するだけというような未来になる」
「へえ~…無駄じゃないんだ」
「無駄じゃないね。何かの礎だよ、今作られているものは全て」
 これから何かに変わるために、それらは在る。進化の道筋が明らかなものもあれば、完全変態して全く姿形を変えてしまうものもあるかも知れない。
「あ、ほらあと少しで散布が始まるよ。二人共コート取っておいで」
 父親に勧められるままコートを羽織り、ベランダに出る。いくらアルコールで温まっているとは言え、高層マンションの十五階はビル風も相まって寒い。外気に晒されて五分も経たない内に指先がキンと冷えて痛む。
「左手貸して」
 隣に並び立つ拓睦がそう言うものだから、従い左手を差し出せば掴まれ彼のポケットに一緒くたに突っ込まれる。
「ここら辺も雪が降るの?」
「一応散布範囲内だけど、風向きで変わるかな。どうなんだろう」
 二人で見つめる都内の町並みは、夜とは思えないほど賑々しく煌々と光っていた。遠くに見えるタワーのライトアップは赤と緑のクリスマスカラーに光り、繁華街の方角など空が白んで見える。車や電車の音、取り分け騒がしい人間の怒号はここまで聞こえてくる。
「蒼慈郎さんはアメリカで生まれたの?」
 その声に隣を見やると、彼は真正面のどこか遠くを見つめているようだった。バランスの取れた彼の綺麗な横顔。
「俺は日本生まれ日本育ちで、生まれたのは本州の一番南だよ」
「じゃあ雪降らないの」
「滅多なことじゃ降らないね」
 拓睦はきっと自分の生い立ちが聞きたいのだと蒼慈郎は察知し、彼が望むならと今伝えられるものは伝えようと思った。
「十八歳で家を出るまでは悲惨なものでね。あまり良い生育環境じゃなかった。十八で家を出て働いて金を貯めて、東京に出て企業に就職して、二十五歳の時に今のアメリカの会社にスカウトされて入って……それから君に出会った。こんなもんかな」
 これでどうかと拓睦を見れば、未だ感情の読めない綺麗な横顔のままだった。
「俺もさ、蒼慈郎さんの親に会った方がいいのかなって、思って」
「う~ん…どうだろうなあ。彼らはもう俺のこと、忘れてるんじゃないかな。俺も両親が今どこに居るのか知らないし…」
「……そういうもんなの?」
「俺の家はね。かれこれ十年以上帰ってない。どうしても君が俺の親に会いたいならアメリカに遊びにおいで。俺のパパになったと思い込んでいる上司に会える」
 その蒼慈郎の台詞に、ようやく拓睦がこちらを向いた。眉根の寄った、よく分からないと如実に表す顔付きだ。
「…どういうこと?親じゃないけどパパって名乗ってるの?」
「俺も分からないんだけど、本人はそのつもりだそうだよ」
「それってセクハラじゃん」
「アハハ!本人にそう言ってみるかい?卒業旅行はカリフォルニアにおいでよ。その奇特な上司に会えるツアーを組もう」
「じゃあ卒業テスト終わったら行くから」
 その時視界の端々に白い浮遊物が見て取れ、二人して真上を見上げた。綺麗な牡丹雪がふうわりと風に踊りながら下りてくる。
「卒業テストっていうのは」
「高三最後のテストで、それが終われば俺らは自由登校期間に入んの。一月二十五日までだから、その日そのまま飛行機乗ってく」
「何もそんな急がなくても…」
 ビルは逃げないのだから、そんなに生き急いで飛行機に飛び乗らなくてもいい。そう伝えても、拓睦はまだ夜を見上げ雪を見ている。
「俺ね、春からイタリアに進学すんの。四年くらいは向こうで勉強。だから取り敢えず一秒でも長く蒼慈郎さんと居たいから、すぐアメリカ行って卒業式で日本帰ってきて、またアメリカに戻るからね」
「……もっと今を大事にすべきだと俺は思うけど。君たちのような年頃は得難いものがとても多い、希少価値があるんだ。だから友人や親兄弟と、もう少しゆっくり時間を過ごす方がいいと思うよ」
 蒼慈郎の得られなかったものを拓睦は持っているのだからと、少し僻みっぽい考えが出てしまった。しかしどれほど尊く温かで眩しく得難いものか、それを彼が知るような環境に陥らない方がいいのかも知れない。
――自分が陽だまりに居たのだと気付くのは
――いつだって寒い夜の帳の中だから
 彼には幸福なままでいて欲しい。
「蒼慈郎さんが言いたいこと分かるけど、今の俺の優先順位はアンタが一番だからね。自分の価値分かってんの?」
「俺の価値?」
「蒼慈郎さんだって十分得難いよ」
 ポケットの中で繋いだままの手のひらを、拓睦がぎゅうっと強く握ってきた。そういえば、彼の体温のお陰で左手が温かい。蒼慈郎はその手を握り返すと、拓睦を覗き込んで言った。
「じゃあ君の分のベッドを買っておくよ。何か揃えておく日用品があれば、思い付き次第メッセージを送っておいて」
「いやベッドは要らないじゃん」
「床で寝る気なの…?」
「ベッド一つでいいでしょ」
「君がいいなら構わないけど。それでもやっぱりベッドは一つ買わないとね。丁度新調しようと思ってたんだ」
 蒼慈郎の言葉に、拓睦が眉根を寄せた。この返答じゃ満足いかないらしい。自分が何を間違えたのか検討も付かない蒼慈郎は小首を傾げ、拓睦の指摘を待つ。
 不機嫌に寄る眉根も、ムッとしかめられた瞼も夜闇に輝るアンバーの双眼も、甘く整った彼の顔面のせいか威嚇の威力が少ない。
「…分かってないじゃん」
「ごめんごめん、何か間違ッ…」
 急にコートの胸元をむんずと掴まれ引き寄せられたものだから、思わず蒼慈郎は手摺を強く掴んだ。
「いつになったら抱かせてくれんの?」
 至近距離で睨めつけられてようやく蒼慈郎は理解した。ベッドが一つでいい理由はそういうことか。しかもあろうことか、彼は自分を抱く気でいるのだ。この華奢で、まるで美少女と見紛うような高校生は、いくらも背の高く年上の自分に劣情を抱けるのだと言ってのける男らしさを持っていたことを蒼慈郎は思い出す。
「君が俺を上手にリード出来るようになったらかな」
 意地悪くそう言ってみると、彼は分かりやすくむくれた。頬を膨らまして。
「俺が童貞なの知っててそんなこと言ってんの!? アンタがリードしてくれるべきじゃんか!不公平!」
「これじゃあ無理そうだね」
 明け透けな彼の子供っぽい訴えを笑ってやると、頬を膨らませた彼の鋭い蹴りが蒼慈郎の腿裏に綺麗に入った。
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