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#2 部屋の中
25 肯定、うまく言えない
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「なあクロ」
その日は珍しく、彼は比較的冷静でまともな状態にあった。
そして、彼を罵倒していた女性を、彼はクロと呼んだ。
私はたぶん、初めて彼女の名を知った。
「俺は頭がおかしいか?」
「ええ、そうですね」
「分からないんだよ。俺は今何をしてるんだろうって……」
「それは先輩、あなたの頭がおかしいからです」
「おかしいわけがない。だって俺は、ずっと……」
「おかしいんですよ。あなたは頭のおかしい精神異常者です」
黒髪の女性が彼の側にいた。見知った彼女の姿は、いつもと同じに見える。
その表情は、いつもより嬉しそうだ。
「クロさん、そんな風に彼を責めな、」
「俺は薄情な人間だよな。レビィが死んだのを、俺は喜んでるのかな」
看過できなかった私は、女性に向かって抗議しようとする。
しかし私の言葉は、彼によって遮られた。彼には私の言葉は届かない。
「そうですねぇ。その通りだと思いますよ。うふふ」
クロ、という名の通り、彼女は黒かった。
それは悪意、敵意、殺意、しかし凡庸なそれとは違って具体的で、それでいて不快感を覚えない。
「ブロウ、こっちを向いてください、私はこっちです」
二人共から返事はない。
視線すら合わせてもらえない。
私は、どうすればいいのか分からなかった。
ただ二人を交互に見ることしかできない。
「クロ、俺は死んだ方がいいよな」
彼の目は据わっていた。
いつも微笑んでいる口元は固く結ばれていた。
「そうですねぇ。先輩にとっても、周囲にとっても、それが最良の選択でしょうね」
「そうだよな。そうした方がいいよな」
「ええ、そうですよ先輩。今から首吊って死にましょうよ。そうしたら楽になれますよ」
「楽になれる……そうだな、楽になれるな……」
「ええ、さっさとこの世から逃げちゃいましょうよ先輩。先輩はいつだって嫌なことから逃げて来たじゃあないですか。さあさあやっちまいましょうよ」
「……そうだな。そうだな、もう……俺は……」
「そうですよ。先輩が死んで困る人なんて誰もいませんよ」
「そうだな……」
「そうと決まれば先輩、善は急げですよ。ささ紐を結んでください。丁度いいところに先輩の全体重を支えられそうなドアもありますし、ね」
クロさんは至極楽しげに、彼と話している。
そして彼の目は虚空を見つめていて、ただ仄かに口元は笑っていた。
「そうだな……」
彼は立ち上がって、がさがさと音を立ててクローゼットを漁った。
まさか本気だろうか。
ついさっきまで、とても楽しそうに明日の話をしてくれたのに。
止めないと……と私は思った。
なんとかして、止めないと。
「ブロウ、大丈夫ですか、ブロウ?」
私は立ち上がり、立ったまま慣れた手つきで直径二センチメートルほどのロープを結ぶ彼の服を、そっと摘まんで引っ張った。
「……」
すると彼はその手を止めて、だらんと体の横にぶら下げる。
「ブロウ?」
やっぱり聞こえてないのか、なんて諦めかけたとき、ブロウは朦朧としたようにふらふらとよろめいて、私に倒れかかった。
片手にはロープをを握りしめていて、それが私の脛を掠めて擽った。
「ぶらいど……」
彼は、苦しそうに呟いた。
まるで泣きそうな声。
聞いたことのない彼の弱み。
私は彼の体に手を回した。
そうした方がいいのだと知っていた。
「つらい……」
「……あ……はい……」
「俺さ、もう……死にたい。もう……レビィのところに行きたい……」
「レビィさん?」
「うん……俺のせいで死んだの。俺が殺したの、俺が、俺が悪い……」
「……」
レビィ、という名は私の知らない名だった。
彼の友人だろうか? もしかしたら、兄弟かもしれない。または、可愛がっていたペットとか。
彼の言葉はまるで殺人を悔いているようにすら聞こえた。
彼はあまりにも罪悪感に囚われすぎていた。
その「レビィ」は彼に殺されたのだろうか。
私にとってはどうでもよかった。
「……ブロウに死なれたら困ります。貴方と私は繋がっているんですよ、貴方が死んでしまったら、私も死んでしまうじゃありませんか」
私は、とっさに彼を引き留めようとしてそう言った。
上手く言葉が見つからない。
この気持ちを言い表せそうにない。
すると彼は力なく頷いて、微笑んだ。
「そうだな。ごめんね、ブライド。本当、ごめん……」
彼は泣いていた。
涙を流し、震える声でそう言った。
彼のこんな姿を見たのは初めてで、私はどうにかして彼を慰めたいと思った。
彼はいつも、優しかったから。
「貴方がいないと、私は美味しいココアが飲めませんよ」
「……ココア?」
「そうです、ココアです。私の大好物ですよ」
私は肯定するように言った。
でも彼は、力なく首を振る。
「誰でも作ってくれるよ。俺じゃなくても」
「貴方が作ってくれるのでなければ、嫌です」
「……なんで?」
「貴方のが、一番美味しいからですよ」
そう言うと、彼はまた泣きそうな声で、まるでうわ言を言うみたいに悲しそうにした。
「……いちばん」
「ええ、一番です」
私は力強く肯定した。
「そっか」
彼は、いつもとは違うような笑顔で、少し笑ったようだった。
突然その体重が重くなって、私が押しつぶされて尻もちをついたとき、彼は気を失っていた。
その日は珍しく、彼は比較的冷静でまともな状態にあった。
そして、彼を罵倒していた女性を、彼はクロと呼んだ。
私はたぶん、初めて彼女の名を知った。
「俺は頭がおかしいか?」
「ええ、そうですね」
「分からないんだよ。俺は今何をしてるんだろうって……」
「それは先輩、あなたの頭がおかしいからです」
「おかしいわけがない。だって俺は、ずっと……」
「おかしいんですよ。あなたは頭のおかしい精神異常者です」
黒髪の女性が彼の側にいた。見知った彼女の姿は、いつもと同じに見える。
その表情は、いつもより嬉しそうだ。
「クロさん、そんな風に彼を責めな、」
「俺は薄情な人間だよな。レビィが死んだのを、俺は喜んでるのかな」
看過できなかった私は、女性に向かって抗議しようとする。
しかし私の言葉は、彼によって遮られた。彼には私の言葉は届かない。
「そうですねぇ。その通りだと思いますよ。うふふ」
クロ、という名の通り、彼女は黒かった。
それは悪意、敵意、殺意、しかし凡庸なそれとは違って具体的で、それでいて不快感を覚えない。
「ブロウ、こっちを向いてください、私はこっちです」
二人共から返事はない。
視線すら合わせてもらえない。
私は、どうすればいいのか分からなかった。
ただ二人を交互に見ることしかできない。
「クロ、俺は死んだ方がいいよな」
彼の目は据わっていた。
いつも微笑んでいる口元は固く結ばれていた。
「そうですねぇ。先輩にとっても、周囲にとっても、それが最良の選択でしょうね」
「そうだよな。そうした方がいいよな」
「ええ、そうですよ先輩。今から首吊って死にましょうよ。そうしたら楽になれますよ」
「楽になれる……そうだな、楽になれるな……」
「ええ、さっさとこの世から逃げちゃいましょうよ先輩。先輩はいつだって嫌なことから逃げて来たじゃあないですか。さあさあやっちまいましょうよ」
「……そうだな。そうだな、もう……俺は……」
「そうですよ。先輩が死んで困る人なんて誰もいませんよ」
「そうだな……」
「そうと決まれば先輩、善は急げですよ。ささ紐を結んでください。丁度いいところに先輩の全体重を支えられそうなドアもありますし、ね」
クロさんは至極楽しげに、彼と話している。
そして彼の目は虚空を見つめていて、ただ仄かに口元は笑っていた。
「そうだな……」
彼は立ち上がって、がさがさと音を立ててクローゼットを漁った。
まさか本気だろうか。
ついさっきまで、とても楽しそうに明日の話をしてくれたのに。
止めないと……と私は思った。
なんとかして、止めないと。
「ブロウ、大丈夫ですか、ブロウ?」
私は立ち上がり、立ったまま慣れた手つきで直径二センチメートルほどのロープを結ぶ彼の服を、そっと摘まんで引っ張った。
「……」
すると彼はその手を止めて、だらんと体の横にぶら下げる。
「ブロウ?」
やっぱり聞こえてないのか、なんて諦めかけたとき、ブロウは朦朧としたようにふらふらとよろめいて、私に倒れかかった。
片手にはロープをを握りしめていて、それが私の脛を掠めて擽った。
「ぶらいど……」
彼は、苦しそうに呟いた。
まるで泣きそうな声。
聞いたことのない彼の弱み。
私は彼の体に手を回した。
そうした方がいいのだと知っていた。
「つらい……」
「……あ……はい……」
「俺さ、もう……死にたい。もう……レビィのところに行きたい……」
「レビィさん?」
「うん……俺のせいで死んだの。俺が殺したの、俺が、俺が悪い……」
「……」
レビィ、という名は私の知らない名だった。
彼の友人だろうか? もしかしたら、兄弟かもしれない。または、可愛がっていたペットとか。
彼の言葉はまるで殺人を悔いているようにすら聞こえた。
彼はあまりにも罪悪感に囚われすぎていた。
その「レビィ」は彼に殺されたのだろうか。
私にとってはどうでもよかった。
「……ブロウに死なれたら困ります。貴方と私は繋がっているんですよ、貴方が死んでしまったら、私も死んでしまうじゃありませんか」
私は、とっさに彼を引き留めようとしてそう言った。
上手く言葉が見つからない。
この気持ちを言い表せそうにない。
すると彼は力なく頷いて、微笑んだ。
「そうだな。ごめんね、ブライド。本当、ごめん……」
彼は泣いていた。
涙を流し、震える声でそう言った。
彼のこんな姿を見たのは初めてで、私はどうにかして彼を慰めたいと思った。
彼はいつも、優しかったから。
「貴方がいないと、私は美味しいココアが飲めませんよ」
「……ココア?」
「そうです、ココアです。私の大好物ですよ」
私は肯定するように言った。
でも彼は、力なく首を振る。
「誰でも作ってくれるよ。俺じゃなくても」
「貴方が作ってくれるのでなければ、嫌です」
「……なんで?」
「貴方のが、一番美味しいからですよ」
そう言うと、彼はまた泣きそうな声で、まるでうわ言を言うみたいに悲しそうにした。
「……いちばん」
「ええ、一番です」
私は力強く肯定した。
「そっか」
彼は、いつもとは違うような笑顔で、少し笑ったようだった。
突然その体重が重くなって、私が押しつぶされて尻もちをついたとき、彼は気を失っていた。
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