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#2 スケッチブック

07 スケッチブック

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 ある日、船が来た。

 大きな船だ。汽船だった。
 大きな蒸気の音が、小屋の空気まで震わせた。

 アインは朝方に出て行ってしまった。獣の皮や、鹿の角を持って。

 彼らと交換するのだという。
 僕は連れて行ってくれなかった。きっと、僕がまだ子供だからだと思う。


 アインは夕方に戻って来た。

 僕はアインを出迎えた。
 アインは少し疲れた様子だったが、怪我なんかはないみたいだった。

「おかえりアイン!」
「ただいま。いい子にしてた?」
「いい子にしてたってば」
「へえ、そう。じゃ、いい子のアンタにはプレゼントをあげなきゃね」

 そう言うと、アインは僕を手招きする。
 アインは真新しいスケッチブックを三冊、僕に手渡した。

「これ……」
「それとほら、鉛筆。あと絵の具」

 アインは同じように新品の筆記具を、僕に渡す。

「アンタ、絵を描くのが好きなんでしょ」


 僕は信じられない思いでそれらを見ていた。

 絵も、字も、地図すら読めないアインしかいないこの島には、紙も筆記具も存在しない。
 存在しないし、必要ない。

 そんな無用なものを、わざわざ手に入れてきてくれるなんて。


「……うぅ、アイン……僕なんかのために、ありがとう……」

「別にそんなに感動することないでしょ。親が子供を喜ばせたいのは当たり前のこと」

 僕は真新しい鉛筆を取り出して、ナイフで先を尖らせる。


「どうしたの?」

 黒鉛の香りは、何故かとても懐かしい。
 懐かしいけど、少し、怖い。

「……ううん、何でもないよ」

 何でもない。
 僕はそう言って、ページを捲って描き始めた。


「何を描いてるの?」
「弓と矢だよ」
「ふぅん」

 アインはそう言って、僕から離れて籠のものを片付け始めた。

「ねえ、アイン。これ、あの船の人が持ってたの? あの人たちは、どこから来る人?」
「大陸だよ」

「そう、なんだ……大陸って、遠いのかな」
「遠いよ。簡単には行けない」
「怖い人たちじゃ、ないよね?」
「悪魔じゃなければ、誰にだって話くらいは通じる」


 僕は簡単に、弓の輪郭を描き、その後繊細な模様を写していく。

 輪郭をくっきりと浮きだたせて、凛と張り詰めた弦の、その固く鋭いのを思い出しながら描き入れる。

 そして矢を添える。手を止める。僕はアインの矢をそれほど見たことがない。いつも使っている、短弓用の矢を描いた。

 全体のバランスを見て、適度に黒鉛を擦って影を入れる。

 ものの数十分で、その絵は完成した。
 僕はなんとなく、完成の証としてその絵にサインを書き入れた。

「ねえ見てアイン、上手に描け、」


 ……激痛に大声で泣き喚くが、大人たちは皆冷めた目をしていた。「矢が掠っただけでこの有様」「やはり所詮『持たざる者』か」「しかし、あの方の血を引くのだぞ」一人の女に腕を掴まれる。「聖なる結界の中だというのに、傷が癒える様子もないではないか」数人の失望したような溜息。「それにしても全く、なんと情けないことだろう」「あの方は御首を切り落とされたときも、毅然としておられたというのに」数秒の沈黙。「しかし全く、ああ、耳が割れそうだ」大きな舌打ち。「ただの子供のようではないか」「情けない」「そこの者、喉を射よ」数人が息を呑む。「何を……殺すつもりか」「すぐに治せる。少し静かにさせるだけだ」「あの方も教育を望んでおられる」「おい、やるなら早くやってくれ。うるさい、全く」


「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 目の前にアインがいた。
 僕は咄嗟に口を押さえたが、間に合わなくて、激しく嘔吐した。

「大丈夫?」

 アインは文句も言わず、ただ僕の背中をトントンと撫でてくれる。
 僕は嘔吐の衝撃で涙目になりながら、放心した。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 僕は息を荒げながら、その場に座り込んだ。
 アインは僕をそっと抱きしめてくれた。


「どうしたの?」
「……うん、ごめんなさい、僕……大丈夫、だから」
「アンタ、顔色真っ青だよ。本当に大丈夫なの?」
「……思い出したんだ」
「アンタの過去?」
「うん、そう。……少しだけだけど、思い出した」
「良かったね」

 アインはそう言ってくれたけど、その言葉とは裏腹に口調は固い。僕を心配しているのだろうと分かった。

「いい思い出じゃ、なかったみたいだね」
「……うん」

「今日はもうベッドに入って、寝た方がいいよ。片付けは気にしないで、アタシがやっといてあげる」

 僕は力なく頷いて、「ありがとう」と言った。

 どうしようもなく疲れていて、僕はそのまま水に沈む泥のように、眠りに落ちた。
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