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王都への誘い

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 爺さんが、二階から降りてきた。
 これで帰宅か、と口の中の食べ物を噛み下していると。

『行け』ということなのだろう。

 親指で二階を指しながら、爺さんは階段から壁際へと直行し、長椅子に腰を下ろした。

 入れ替わりに、俺が二階へ。

 床を傷めるから、鎖は肩に担いで。空の採取袋も忘れず背負う。階段を登りきったら、一階フロアーを見下ろす廊下を真ん中まで行って、ノックする。ドアの向こうの声は、半分ひっくり返っていた。

「あぁ……はひって」

 部屋に入ると、半裸に上着を羽織っただけの状態のギルマスが、机に突っ伏していた。

 前世の世界であれば小玉スイカとも、あるいはメロンとも、世代によってはロケットにも喩えて呼ばわっただろう豊かな胸が、天板でむにゅりと潰れている。だがその大きさと柔らかさと弾力のベンチマークみたいな変形に対して、俺は、性的な興奮を掻き立てられるどころか(着地した瞬間の、飛行機のタイヤみたいだなあ)くらいにしか思うことが出来なかった。

(俺は、本当に幼女になってしまったのだなあ)

 そんな感慨を抱く俺の入室に、ギルマスは気付いてるのか気付いてないのか。背中から腰にかけてを、ゆっくり、波が海をわたるように収縮させて仰け反る。切なげに呻きながら、彼女は言った。

「いま別れたばかりなのに……もう会いたくて……会いたくて………震える……あ、また……また、震、え、る」

 それはヤりすぎで余韻が凄いことになってるだけだろう、とは思ったが言えないし、今の俺には、それを一息で言えるほどの滑舌の良さも無かった。

「よぢ……よぢ」

 とりあえず、背中を撫でてやった。
 ギルマスは、しばらく呻いて身悶えした後、

「そこの、左端の棚の真ん中の段……そこから、一種類につき一冊ずつ」

よろよろした手で棚を指差し、本を出すよう命じた。

「これをあげるから、家で勉強してくれ。それから……分からないところがあったら、ギルドここに来てくれ。私か、職員の誰かが教えるから。そういう意味では、この時期で良かったのかもしれないな。初年度で習う程度の内容は詰め込めるだろうから、入学試験くらいなら楽勝だ」

 なんとなくだが、話が見えてきた。

「が……っこう?」

 うん、そうだ。と、ギルマスが頷く。

「クサリ――君には、学校に行ってもらう。ミルカ・フォン・ゴーマン――件の『お嬢さん』が、君を気に入ったそうでね。彼女の通う王都の学園へ是非にとのお誘いだ。入学は来年の秋――1年後だね。入学試験が夏にあって、それに備えるためだろうな。春には迎えを寄越して、王都で暮らしてもらうつもりだそうだ」

 ということは、出発は半年後か。

「入学試験については、心配ないだろう。ミルカ嬢の推薦であれば、形だけさ。とはいっても、入学後に落ちこぼれても困るだろうから、こっちにいる間にそれなりの学力は身に着けておいてもらう――というわけで、現時点での学力を確かめさせてもらうよ」

 というわけで、小テストを受けることになった。

 問題は文字の読み書きと簡単な計算。それから王国の歴史についてだ。俺の回答を覗き込んで、ギルマスが驚いたような声をあげた。

「へえ、君は字が上手いんだなあ……そうか。ムート殿は、書画も達者だからなあ」

 爺さんがギルドに売ってるのは、ダンジョンの素材だけじゃない。時々だが、彫刻や自作の詩を付けた絵なんかも持ち込んでいる。そしてそれが、結構な値段で買い取られているのだった。

 記憶を取り戻す前の俺は、そんな爺さんの創作活動を横で真似するのを入り口に、ダンジョンで拾った地図や初級冒険者向きの教科書を筆写することで、読み書きを憶えたのだった。

 計算については、一応、前世で大学を出ているので……

「うん。歴史以外の教科は満点か。入学試験なら、これだけで合格出来るだろうが、逆にいうと歴史だけが酷すぎる。しかし読み書きがこれだけしっかりしてるなら、我々の授業次第でどうにでもなるか」

 冬の間、冒険者の仕事は激減する。特に、採取がメインとなる初級冒険者には、ほぼ無収入となる者も少なくない。

 その対策として、当地のギルドが作った制度が『若年冒険者向け教育補助』だ。

 ギルドで行われる、文字の読み書きや計算、礼儀作法の講習を受けることで朝夕の食事が提供され、訓練場での宿泊が許可される。

 また、若年冒険者に限ってはギルドの雑用が仕事として紹介され、最低限の賃金を得ることも出来る。

 これによって、冒険者の基礎教養のレベルが底上げされ、低くなった収入を補うため無茶な仕事を請けて命を落とす、といった者も激減することとなった。

 俺が受けることになる授業も、この制度によって行われるものになるだろう。

――ところでだ。

 ここまで触れられてないが、重要なことがある。

「じ、じじぃ…‥さ、ん、なん……て……」

「ムート殿か。もしかしたら反対されるかもとも思ってたが、快く賛成してくれたよ。ただ――」

「だだ?」

「『3ヶ月、待ってくれ』と。ギルドわれわれの授業が始まるのは3ヶ月後だから、丁度良いって言ったら丁度良いんだけどね」

 もらった本――ギルドの授業で使われる教科書――を採取袋にしまって、部屋を出た。

 最後に、俺は訊ねた。

「ど、どう、じ……で」

「ん?」

「わだ、じ……いだぐだる……とぐ……じゃない……だどに……どうじ、で」

「ああ、そうか。そうだな。確かに、君を王都に行かせるのは得じゃない。ギルドうちは、結構な痛手だ。ムート殿に劣らず、君は凄腕だからな――でもね。それが単純に損と呼べるか……というより、損得に収まるかどうかは、別だ。なあ、クサリ。君は、運命ってどう思う?」

「………」

「使命って言った方がいいかな。人間には使命があるとしよう。そして人生には、色々なことが起こる。色々なことをする。もちろん、どれが自分の使命かなんて分からない。だから、自分で決める。私が使命だと思えば、それが私の使命だ。というわけでだ。君が学校に行くのを助ける。これも私の使命というか、私の使命の方向性の中にある行いなんだ。だから何というか、要するに、好きでやってるってことだな」

 棲家に帰ると、爺さんが荷物をまとめ始めた。

 ダンジョンの奥まで探索する時は、いつも大荷物になるが、今回の荷物は、過去のどれよりも大きかった。

 そして翌朝、俺は出発した。

 ダンジョンの、最奥へと。

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