闇を抱く白菊 —天命の盤—

アリスの鏡

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第四章 二つの闇

十九話 光の在り処

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◇◇◇ 劉永りゅうえい ◇◇◇

 崖の上。赫燕かくえんの本陣が上げるときの声と、勝利に沸く獣の咆哮ほうこうが、風に乗ってここまで届いてくる。

 だが、劉永りゅうえいの耳には、それら全てが、遠い世界の音のようにしか聞こえていなかった。彼の脳裏にこびりついて離れないのは、ほんの半刻ほど前に見た光景。

 ——あれは、玉蓮ぎょくれんなのか。

 劉永の知る彼女は、書庫で目を輝かせ、劉義りゅうぎの難解な問いに誰よりも早く答えを見いだし、そして、艶っぽい絵には「軍略ですか?」と小首を傾げる、あの純粋な少女だったはずだ。

 その笑顔を守りたいと、心から願った少女。だが、この崖の上から見た「あれ」は、違った。伏兵の中から飛び出し、敵将と刃を交える姿。

 その剣の冴えは、もはや塾で交わした鍛錬のそれではない。水が流れるように敵の懐に入り込み、心の臓を貫いた、あの寸分の迷いもない一閃いっせん。返り血を浴びて、敵将を見下ろしていた、あの冷たい横顔。

 思い返せば思い返すほどに、拳がギシギシと音を立てる。

「劉永様……」

 背後で、父がよこした監視役の兵が息を呑む。劉永は、声を返すことができない。

 そして、直後に始まった、赫燕軍による一方的な蹂躙じゅうりん。それは、父の道とは正反対にある、仁の欠片もない、殺戮さつりく

 父の兵法ならば、こうはならない。だが——勝ったのだ。あの外道な策が、味方の損害を最小限に抑え、敵を壊滅させた。その冷徹な事実が、何より重くのしかかる。

「ご報告します!」

 そこへ、血相を変えた劉永隊直属の伝令が駆け込んできた。

「赫燕軍が、捕虜を逃したようです」

「捕虜を……?」

「はっ。逃がした捕虜に、『白楊はくようの華が、鬼神の如く敵将を討った』と吹聴させるよう仕向け、放ったようです」

 ——ぞわり、と。背筋に、冷たい汗が浮かんだ。

 あの男——赫燕は、初めからこれが目的だったのだ。玉蓮の武を利用するだけではない。彼女の美貌と公主という血筋、その存在の全てを、敵に投げつけたのか。血の色に染め上げて。

「……赫燕、将軍」

 劉永は、奥歯を噛み締めた。

 父の弟弟子であった、あの男。幼かった劉永が覚えているのは、死んだ目をした少年が、さらに昏い目をして戦場に向かっていく背中だけ。その背中が急激に大きくなり、ついには白楊はくよう国の第一将となった。父は、彼の才を認めながらも、その闇を深く憂いていた。

 その昏い闇が今、玉蓮を飲み込もうとしている。いや、違う。彼女は、自ら試練を選んだ。姉の復讐の道を真っ直ぐ進むために。あの男の闇が、それを可能にすると信じているのだ。

「……っ」

 彼女が進めるように、彼女が前を向けるように、どんな道であっても見守り続けると、彼女を待ち続けると、誓ったはず。だが、その誓いが、毒々しいほどの血の匂いに掠れていきそうだった。拳を握りしめれば、爪が手のひらに食い込んでいく。

 その時、遠く、赫燕の本陣から、地響きのようなときの声と笑い声が響いてきた。玉蓮が、今、あの獣の巣の只中に、一人でいる。

 劉永は、燃え盛る篝火かがりびの光が映る空を睨みつけ、手綱を強く引いた。何かに追い立てられるように馬を都に向けて走らせた。
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