93 / 93
4章 二人の男、大人の男
28話 優しさのゆく先 1
しおりを挟む
◇
「……あぁ。大丈夫だから、心配すんな」
トイレに行って、また戻ろうと廊下を歩いていると、エレベーターホールの方から話し声が聞こえてきた。少しぶっきらぼうなこの話し方は広斗だ。
「……大丈夫だよ」
広斗にも声をかけようと、廊下を進みながらホールに近づいていく。近付く程、広斗の声がはっきりと聞こえてくるのに相手の声が聞こえない。どうやら電話をしているようだ。
この角を曲がればエレベーターホール。
「——だから、南野。そんなに泣くなって」
(——みなみ、の?)
一瞬にして歩みが止まる。
「今はあんまり話聞いてやれないけど、帰ったらまた電話するから」
私はなんてタイミングが悪いんだろう。また彼女と電話をしている。プロジェクトの打上げ中でも、広斗は関係なく彼女の電話に出るんだ。私は、それ以上近付くこともできずに、廊下の壁にもたれ掛かる。
角を曲がれば、すぐそこに広斗がいる。
「あぁ、次の休みだろ。わかってる…………みんなで飲むし」
来週飲むなんて話は聞いていない。私の知らないところで何かが起こっている。私は知らない広斗と彼女の世界。
こんな立ち聞きみたいなことは良くない。でも、このまま広斗の前に出て行って普通に話すこともできない。壁にもたれ掛かったまま、私はその場から動けずにいた。その時、すぐ近くに人の気配を感じ、思わず声をあげそうになるのを必死でこらえる。
「……香取さん」
「ゆりちゃん。矢野くん、例の子と話してるの?」
お互いに、広斗に聞こえないように小声で話す。
「ゆりちゃん? 矢野くんが好きならちゃんと言わないと。恋人なら、嫌なことは嫌だって伝えないとダメだよ。行っておいで」
「……私」
香取さんと私の言葉が途切れると、それまでなんとなく聞こえていた広斗の声が鮮明になった気がした。
「大丈夫だって…………夜遅くても平気だから。え………………俺は付き合ってるやつなんかいない」
目の前には香取さんのきれいな顔が見える。でも、私の意識はそこから遠のいて、広斗の言葉だけを繰り返していた。
『——付き合ってるやつなんかいない』
付き合ってる人はいない。はっきりと言った。確かに耳に届いた。
それ以上は広斗の声も香取さんの声も聞こえなかった。香取さんが、私に何か話しかけていた気がする。でも、私が感じたのは、両腕を掴む香取さんの手の感触と、少しずつ力が抜けていく自分の体。
私が一人で舞い上がっていたんだ。自分でもその可能性はわかっていたじゃない。今更だよ。今更、こんなにショックを受けること自体が間違っている。腕を掴む香取さんの手を外し、私はエレベーターホールを横切り、みんなのところへ向かった。
広斗の言葉が何度も何度も頭の中で響く。香取さんを振り切り、元いたラウンジに戻った私は打ち上げで賑わいを見せる室内を呆然と見つめた。なんだか妙にリアルだ。さっきの出来事が作り物じゃないかと錯覚してしまうほど。私の足音を聞いて、陽子とゆきちゃんが振り返る。
「ゆり、遅かったね。お帰り……」
私を見て、陽子の言葉が止まった。二人の顔を見ると少しだけ震えがおさまる。
「陽子……」
「……何かあった?」
「ゆりちゃん? 大丈夫?」
「……あぁ。大丈夫だから、心配すんな」
トイレに行って、また戻ろうと廊下を歩いていると、エレベーターホールの方から話し声が聞こえてきた。少しぶっきらぼうなこの話し方は広斗だ。
「……大丈夫だよ」
広斗にも声をかけようと、廊下を進みながらホールに近づいていく。近付く程、広斗の声がはっきりと聞こえてくるのに相手の声が聞こえない。どうやら電話をしているようだ。
この角を曲がればエレベーターホール。
「——だから、南野。そんなに泣くなって」
(——みなみ、の?)
一瞬にして歩みが止まる。
「今はあんまり話聞いてやれないけど、帰ったらまた電話するから」
私はなんてタイミングが悪いんだろう。また彼女と電話をしている。プロジェクトの打上げ中でも、広斗は関係なく彼女の電話に出るんだ。私は、それ以上近付くこともできずに、廊下の壁にもたれ掛かる。
角を曲がれば、すぐそこに広斗がいる。
「あぁ、次の休みだろ。わかってる…………みんなで飲むし」
来週飲むなんて話は聞いていない。私の知らないところで何かが起こっている。私は知らない広斗と彼女の世界。
こんな立ち聞きみたいなことは良くない。でも、このまま広斗の前に出て行って普通に話すこともできない。壁にもたれ掛かったまま、私はその場から動けずにいた。その時、すぐ近くに人の気配を感じ、思わず声をあげそうになるのを必死でこらえる。
「……香取さん」
「ゆりちゃん。矢野くん、例の子と話してるの?」
お互いに、広斗に聞こえないように小声で話す。
「ゆりちゃん? 矢野くんが好きならちゃんと言わないと。恋人なら、嫌なことは嫌だって伝えないとダメだよ。行っておいで」
「……私」
香取さんと私の言葉が途切れると、それまでなんとなく聞こえていた広斗の声が鮮明になった気がした。
「大丈夫だって…………夜遅くても平気だから。え………………俺は付き合ってるやつなんかいない」
目の前には香取さんのきれいな顔が見える。でも、私の意識はそこから遠のいて、広斗の言葉だけを繰り返していた。
『——付き合ってるやつなんかいない』
付き合ってる人はいない。はっきりと言った。確かに耳に届いた。
それ以上は広斗の声も香取さんの声も聞こえなかった。香取さんが、私に何か話しかけていた気がする。でも、私が感じたのは、両腕を掴む香取さんの手の感触と、少しずつ力が抜けていく自分の体。
私が一人で舞い上がっていたんだ。自分でもその可能性はわかっていたじゃない。今更だよ。今更、こんなにショックを受けること自体が間違っている。腕を掴む香取さんの手を外し、私はエレベーターホールを横切り、みんなのところへ向かった。
広斗の言葉が何度も何度も頭の中で響く。香取さんを振り切り、元いたラウンジに戻った私は打ち上げで賑わいを見せる室内を呆然と見つめた。なんだか妙にリアルだ。さっきの出来事が作り物じゃないかと錯覚してしまうほど。私の足音を聞いて、陽子とゆきちゃんが振り返る。
「ゆり、遅かったね。お帰り……」
私を見て、陽子の言葉が止まった。二人の顔を見ると少しだけ震えがおさまる。
「陽子……」
「……何かあった?」
「ゆりちゃん? 大丈夫?」
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ひとつの秩序
水瀬 葵
恋愛
ずっと好きだった職場の先輩が、恋人と同棲を始めた。
その日から、南莉子の日常は少しずつ噛み合わなくなっていく。
昔からの男友達・加瀬透真は、気づけばやたら距離が近くて、優しいのか、図々しいのか、よく分からない。
好きな人が二人いるわけじゃない。
ただ、先輩には彼女がいて、友達は友達の顔をしなくなっていく。
戻れると思っていた関係が、いつの間にか戻れなくなっている。
これは、仕事も恋もちゃんとやりたいのに、だいたい空回りしている大人たちの、少し不器用なラブコメディ。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
【完全版】ホリカヨは俺様上司を癒したい
森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。
そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。
『郡司部長、私はあなたを癒したいです』
※他の投稿サイトにも載せています。
俺にお前の心をくれ〜若頭はこの純愛を諦められない
ラヴ KAZU
恋愛
西園寺組若頭、西園寺健吾は夕凪由梨に惚れた。
由梨を自分の物にしたいと、いきなり由梨のアパートへおしかけ、プロポーズをする。
初対面のヤクザにプロポーズされ、戸惑う由梨。
由梨は父の残した莫大な借金を返さなければいけない。
そのため、東條ホールディングス社長東條優馬の婚約者になる契約を優馬の父親と交わした。
優馬は女癖が悪く、すべての婚約が解消されてしまう。
困り果てた優馬の父親は由梨に目をつけ、永年勤務を約束する代わりに優馬の婚約者になることになった。
由梨は健吾に惹かれ始めていた。でも健吾のプロポーズを受けるわけにはいかない。
由梨はわざと健吾に嫌われるように、ある提案をした。
「私を欲しいなら、相手になります、その代わりお金頂けますか」
由梨は健吾に囲われた。
愛のないはずの優馬の嫉妬、愛のない素振りをする健吾、健吾への気持ちに気づいた由梨。
三人三様のお互いへの愛。そんな中由梨に病魔が迫っていた。
元カノと復縁する方法
なとみ
恋愛
「別れよっか」
同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。
会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。
自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。
表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!
先輩、お久しぶりです
吉生伊織
恋愛
若宮千春 大手不動産会社
秘書課
×
藤井昂良 大手不動産会社
経営企画本部
『陵介とデキてたんなら俺も邪魔してたよな。
もうこれからは誘わないし、誘ってこないでくれ』
大学生の時に起きたちょっとした誤解で、先輩への片想いはあっけなく終わってしまった。
誤解を解きたくて探し回っていたが見つけられず、そのまま音信不通に。
もう会うことは叶わないと思っていた数年後、社会人になってから偶然再会。
――それも同じ会社で働いていた!?
音信不通になるほど嫌われていたはずなのに、徐々に距離が縮む二人。
打ち解けあっていくうちに、先輩は徐々に甘くなっていき……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる