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6章 マイ・シンデレラ・ガール
25話 パーティーの夜 2
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あとは帰りのタイミングだけ気をつければ大丈夫だろう。役員と一緒に参加する食事会ほど気を遣うものはない。会場を見渡せば、他の秘書たちもそれぞれ席についているようだ。
「こんばんは、松嶋さん」
振り向くと、そこには完璧なビジネススマイルを浮かべた彼がいた。 でも、その瞳だけが、悪戯っぽく笑っている。サングラスが外された素顔は、わたしが知っている彼の姿。
「……こんばんは」
言葉に表せない悔しさをこめて見つめれば、目の前の笑顔は更にはじける。
「そんな顔しなくても」
「来ないって言ってたのに」
小さく頬を膨らませてみる。驚いたのは事実だけれど、久しぶりに会えた龍介さんにいつの間にか頬が緩んできてしまう。それをわかっているのか、彼はさらに笑みを深める。
「おいで。仁さんが後でこっちに来るから、その時に紹介するよ」
「……はい」
仁さんは、Legacyのリーダー。その人に紹介してすると言われてしまえば、膨らませた頬は更に緩んで、もうふにゃふにゃになって、なんならニヤニヤする口元に合わせて動いている。
それに気付いたらしい龍介さんが、クスクス笑う声が聞こえてくるけれど、わたしの意識は背中に触れる龍介さんの手の温かさに集中する。背中に手が触れている、ただそれだけのことで、わたしの頭の中はもう龍介さんでいっぱい。
そして、促されるままに龍介さんと優くんと一緒のテーブルに座った。
卓也の席は死角になっていて見えない席だった。自分の担当する役員の姿がわからないという状態が些か気になり、卓也の姿を探すように視線を動かしているわたしに「大丈夫だよ」と龍介さんの声が届いた。
「うちの事務所の子たちがうまくやるから」
「なんか落ち着きません」
「リラックスして、楽しんでいってください」
「お二人とも笑顔がわざとらしいです」
「そんなことないですよ、松嶋さん」
「もう……」
龍介さんに埋め尽くされそうだった意識は、視界の隅に入った優くんの顔によって、かろうじて正常に引き戻される。
自分に課された、否、自ら引き受けたこの「任務」——YUTOのサインを手に入れること。これだけは、絶対に忘れてはならない。もし、この任務に失敗すれば、どれほど悲惨な末路が待っているか。
「優斗さん」
一瞬のうちに、顔からすべての熱を消し去り、真剣そのものという表情を貼り付けた。
「なに、優斗さんって。気持ち悪ぅ」
優くんは、突然のよそよそしい呼び方に、顔をしかめて露骨に嫌悪感をあらわにした。
「サインをください」
「え、俺の?」
優くんの問いかけに対し、わたしは余計な言葉は使わず、ただ真剣な眼差しを向けたまま、静かに頷きだけを返した。
「ど、どうしたの、綾乃。俺のこと……」
「後輩が好きなの」
「後輩かい」
「栞ちゃんっていうの。わたしの、大切な後輩。彼女にプレゼントしたいの。だから、名前を入れてあげてね」
にっこり笑って優くんにそう告げれば、なんだかよくわからない、細めた瞳が返される。
「なんなら綾乃にも書こうか? ついでに」
「あ、それは大丈夫」
「迷えや! 一瞬ぐらい!」
「いらないもの」
心からの真実。紛れもなく、嘘偽りなく答えたのに、優くんはとても不満そう。
「いらない言うなや」
優くんは、ブツブツと何か文句を言いながらも、手慣れた様子で色紙に綺麗なサインを施していく。その筆跡は整然としていて、まるで印刷された文字のように完璧だった。
「あ、ちょっと、名前はもっと大きく書いてよ! これじゃ、栞ちゃんの名前、優くんのサインに埋もれちゃうじゃない」
わたしが思わず口を挟むと、優くんは持っていたペンをピタリと止めて、ムッとした表情で睨んできた。
「うるさいな! サインはこれくらいがベストなんだよ」
わたしたちが言い争っていると、そばにいた龍介さんが、面白がるようにクスクスと笑い始めた。
「俺もはじっこにサイン書くかな」
龍介さんはそう言って、優くんからペンを奪い取るようにして受け取った。
「え……? 龍介さんも?」
わたしも優くんも思わず顔を見合わせた。
やいやい言い合うわたしと優くんの様子など全く気にしていないように、龍介さんは優くんが書いたサインの端っこ、色紙の隅に、躊躇なくペンを走らせ始めた。そして出来上がったものは——なんというか、表現に困るもの。
(うん……これは?)
龍介さんが真剣な顔で描いたその物体は、きっと、生物なんだとは思う。丸い頭に細い手足、そしてギザギザした何か。しかし、それが犬なのか猫なのか、はたまた伝説の生き物なのか、わたしには言い切る自信がない。
字も絵も全てにおいて器用で上手な優くんと違い、龍介さんの描く「絵」は独特すぎる。一見すると、子どもの落書きのようにも見えるけれど、妙に力強い線と、計算されているのかいないのか分からないバランス感覚は、凡人の描くものとは一線を画している。
アートと言えば、アートかもしれない。非常に前衛的で、解釈の余地しかない、アートだ。
(これは、一体なに?)
そもそも生き物なのかさえ際どいところ。せっかくの栞ちゃんへのプレゼントが変なもので埋め尽くされていく。
呆然とそれを見つめるわたしとは対照的に、優くんは身体をくの字に折り曲げて笑っている。悪戯っ子の兄弟はとても楽しそう。
「よし、完成」
満足そうに色紙を眺める龍介さん。その横顔は、まるで世紀の傑作を生み出した芸術家のようだ。
龍介さんは、一見怖そうに見える。人間以外の何かに例えるなら、その名の通り龍かもしれない。あとはライオンとか虎とか、大きくて強そうな生き物が相応しい。
でも、話してみると、印象はすぐに覆される。柔らかい声と穏やかな話し方。子供みたいな瞳。そして、もっと話してみると、無邪気に笑って悪戯したり、はしゃいだりする姿を見せてくれる。今、目の前にいる龍介さんみたいに。
龍介さんの違う一面を目にする度に、心臓の奥が震えて上手く息ができなくなる。指の先までその震えが伝わってきて、その衝動のまま勝手に動き出してしまいそうになるから、わたしは必死になって手を握り締める。
「本当に秘書だね」
降ってきた優くんの声に、そちらを見れば、大きくて丸い目でわたしをまじまじとみている。
「そういうドレス着てるとイメージ違う。ほら、ハワイではシャツとかゆるめのワンピースとかだったじゃん」
「用意されたドレスだもん」
「俺、こういうドレスも好きだよ。綾乃が着ると清楚で上品な感じになるね」
「本当ですか? でも、背中が出過ぎてて、ちょっと恥ずかしいです」
「スタイリストとかが選ぶの?」
「いえ。今日は、担当の役員が選んだみたいで……」
「……そっか」
彼の視線が、わたしの背中に落ちる。その目が一瞬、冷たく細められた気がした。露出の多いドレスへの苛立ちか、それを選んだ男への嫌悪感か。
「……似合ってるけど、あんまり見せたくはないな」
誰にも聞こえないくらいの小声で呟かれたその言葉に、背筋が痺れる。
「みんな綺麗な人ばっかりだし、秘書って本当に才色兼備なんだな」
微かに低くなった龍介さんの声に気づいたのであろう優くんが、空気を引き戻してくれた。
「わたしが知る限りでも、みんなすごい努力してるからね。外見も中身も磨く、それが当たり前」
「綾乃も英会話学び始めたって言ってたもんね」
「はい、まずはせめて英語をと思いまして」
「ハワイでも聞き取りはできてから大丈夫だよ」
話している間に、すぐに触れそうな距離に彼の手や足が近づいてくる。その触れそうで触れない龍介さんの体に意識が集中していってしまう。
龍介さんの存在で熱を帯びていく頬を自覚しながら、必死に視線を外した。脳内は完全に龍介さんで占領されかけている。その意識を無理矢理にでも通常の可動域に戻そうと、わたしはぎこちない動きで頭を振る。
優くんにその不自然な動きを指摘され、からかわれたことで、わたしの頬の熱は更に高まるのを感じた。
「うるさいな」
「だって不自然じゃん」
優くんは相変わらずニヤニヤと笑っている。
「放っておいてよ」
「龍介さんばっかり意識してさ。俺も意識してよ」
「優くんを……?」
「なに、その『無理ですけど?』みたいな言い方。俺だって、イケメンの部類に入るんだけど」
優くんはさらにふくれっ面になり、わたしの発言に不満そうな声を上げる。
他愛のない言い合いを続けていると、隣に座っていた龍介さんから、ふいに「あ」という小さな声が漏れた。その声にわたしたち二人の視線が、自然と龍介さんの向かう先へと引き寄せられる。
龍介さんは、テーブルの少し先に立つ人物に向かって、小さくお辞儀をした。
「仁さん」
「どうも」
男性らしい顔立ちとは、こういう人のことを言うのかもしれない。彫の深さとは裏腹に優しく穏やかな瞳の龍介さんや、整っているけど女性のような柔らかさを兼ね備えている優くんとは違う。
はっきりとした眉毛に、くっきりした二重の大きな目が黒縁眼鏡に彩られているそのお顔は、どこからどう見ても業界人。Legacyのリーダーであると同時に、事務所の社長という事実。この人、ただものではない。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
勢いよく立ち上がり、腰を折り曲げるようにして頭を下げると、大きな笑い声が降ってきた。
「あはは! そんなかしこまらないでよ! 龍から聞いてて、ずっと会いたいって思ってたんだ。ディアブロさんの話をもらって、こんな偶然あるかなって思ってさ。飲み会の話になったから、ぜひ秘書さんもってね」
「……そうだったんですね」
「元カレが役員っていうのは知らなくて。そこは本当にごめんね」
「あ、いえ! そんな」
「席を見えないようにしたから、楽しんでね」
卓也からは死角になる席はやはり偶然ではないらしい。
仁さんは数手先を見越して行動する、頭のいい人だと龍介さんが言っていた。そして正直で嘘が嫌いで、だから自分自身も嘘をつかない人。周りに無理だと言われることも、やり遂げるために努力を重ねて、這いつくばってでも信念を曲げることなく、前に進むことをその背中で教えてくれたのだと。
自分を見失わないこと。諦めずに立ち向かうこと。そして、愛する人たちを、仲間も、家族も、恋人も、ファンも、全ての人を大切にして守りぬくこと。仁さんから受け継いだその生き方を自分自身も後輩たちに教えたいと、ある日の電話で話してくれた。
ふと、栞ちゃんから借りた彼らの資料映像を思い出す。全て見終わっていないけれど、そこにはわたしの知らなかった彼らがいた。
Legacyはデビューして十二年。始めから順風満帆だったわけではないことを、わたしは初めて知る。
今ではドームツアーで観客を数百万人規模で動員する彼らが、食べるものにも困っていたこと、借金をして生活をしていたこと、デパートの屋上や駅前広場で数人の観客を前にライブを続けていたこと。
小さなビルの一角で、メンバーと数人のスタッフだけで立ち上げた芸能事務所は、今や都心に大きな自社ビルを構えるほどになった。
そして、デビューして、数百万枚のCDを売り上げるようになったLegacyは、メインボーカルの龍介さんが喉の病気を患う苦難に直面する。
歌声どころか話すことさえも叶わない日々。ボーカリストが自身の喉にメスを入れる手術をするという恐怖。浮き沈みが激しく流れの速い芸能界で、一年以上の休養を要する不安。
それでも彼らはひた向きに、真っ直ぐに、がむしゃらに、この道を駆け抜けてきたのだ。十二年間も。
自分たち自身も含めてファンや世間の人に、活動のテーマとしている愛や夢、幸せを伝えていきたい、届けていきたいと話す龍介さんの声は、聴いているだけで胸が温かくなるほどに、力強く優しかった。
目の前で、優くんとふざけ合って笑う彼。その屈託のない笑顔の裏に、どれほどの恐怖と絶望があったのだろう。
声を失うかもしれない恐怖に打ち勝ち、今こうしてステージに立っている。その強さが、眩しい。ただ優しいだけじゃない。泥水をすするような苦しみを知っているからこその、深みのある優しさ。
「こんばんは、松嶋さん」
振り向くと、そこには完璧なビジネススマイルを浮かべた彼がいた。 でも、その瞳だけが、悪戯っぽく笑っている。サングラスが外された素顔は、わたしが知っている彼の姿。
「……こんばんは」
言葉に表せない悔しさをこめて見つめれば、目の前の笑顔は更にはじける。
「そんな顔しなくても」
「来ないって言ってたのに」
小さく頬を膨らませてみる。驚いたのは事実だけれど、久しぶりに会えた龍介さんにいつの間にか頬が緩んできてしまう。それをわかっているのか、彼はさらに笑みを深める。
「おいで。仁さんが後でこっちに来るから、その時に紹介するよ」
「……はい」
仁さんは、Legacyのリーダー。その人に紹介してすると言われてしまえば、膨らませた頬は更に緩んで、もうふにゃふにゃになって、なんならニヤニヤする口元に合わせて動いている。
それに気付いたらしい龍介さんが、クスクス笑う声が聞こえてくるけれど、わたしの意識は背中に触れる龍介さんの手の温かさに集中する。背中に手が触れている、ただそれだけのことで、わたしの頭の中はもう龍介さんでいっぱい。
そして、促されるままに龍介さんと優くんと一緒のテーブルに座った。
卓也の席は死角になっていて見えない席だった。自分の担当する役員の姿がわからないという状態が些か気になり、卓也の姿を探すように視線を動かしているわたしに「大丈夫だよ」と龍介さんの声が届いた。
「うちの事務所の子たちがうまくやるから」
「なんか落ち着きません」
「リラックスして、楽しんでいってください」
「お二人とも笑顔がわざとらしいです」
「そんなことないですよ、松嶋さん」
「もう……」
龍介さんに埋め尽くされそうだった意識は、視界の隅に入った優くんの顔によって、かろうじて正常に引き戻される。
自分に課された、否、自ら引き受けたこの「任務」——YUTOのサインを手に入れること。これだけは、絶対に忘れてはならない。もし、この任務に失敗すれば、どれほど悲惨な末路が待っているか。
「優斗さん」
一瞬のうちに、顔からすべての熱を消し去り、真剣そのものという表情を貼り付けた。
「なに、優斗さんって。気持ち悪ぅ」
優くんは、突然のよそよそしい呼び方に、顔をしかめて露骨に嫌悪感をあらわにした。
「サインをください」
「え、俺の?」
優くんの問いかけに対し、わたしは余計な言葉は使わず、ただ真剣な眼差しを向けたまま、静かに頷きだけを返した。
「ど、どうしたの、綾乃。俺のこと……」
「後輩が好きなの」
「後輩かい」
「栞ちゃんっていうの。わたしの、大切な後輩。彼女にプレゼントしたいの。だから、名前を入れてあげてね」
にっこり笑って優くんにそう告げれば、なんだかよくわからない、細めた瞳が返される。
「なんなら綾乃にも書こうか? ついでに」
「あ、それは大丈夫」
「迷えや! 一瞬ぐらい!」
「いらないもの」
心からの真実。紛れもなく、嘘偽りなく答えたのに、優くんはとても不満そう。
「いらない言うなや」
優くんは、ブツブツと何か文句を言いながらも、手慣れた様子で色紙に綺麗なサインを施していく。その筆跡は整然としていて、まるで印刷された文字のように完璧だった。
「あ、ちょっと、名前はもっと大きく書いてよ! これじゃ、栞ちゃんの名前、優くんのサインに埋もれちゃうじゃない」
わたしが思わず口を挟むと、優くんは持っていたペンをピタリと止めて、ムッとした表情で睨んできた。
「うるさいな! サインはこれくらいがベストなんだよ」
わたしたちが言い争っていると、そばにいた龍介さんが、面白がるようにクスクスと笑い始めた。
「俺もはじっこにサイン書くかな」
龍介さんはそう言って、優くんからペンを奪い取るようにして受け取った。
「え……? 龍介さんも?」
わたしも優くんも思わず顔を見合わせた。
やいやい言い合うわたしと優くんの様子など全く気にしていないように、龍介さんは優くんが書いたサインの端っこ、色紙の隅に、躊躇なくペンを走らせ始めた。そして出来上がったものは——なんというか、表現に困るもの。
(うん……これは?)
龍介さんが真剣な顔で描いたその物体は、きっと、生物なんだとは思う。丸い頭に細い手足、そしてギザギザした何か。しかし、それが犬なのか猫なのか、はたまた伝説の生き物なのか、わたしには言い切る自信がない。
字も絵も全てにおいて器用で上手な優くんと違い、龍介さんの描く「絵」は独特すぎる。一見すると、子どもの落書きのようにも見えるけれど、妙に力強い線と、計算されているのかいないのか分からないバランス感覚は、凡人の描くものとは一線を画している。
アートと言えば、アートかもしれない。非常に前衛的で、解釈の余地しかない、アートだ。
(これは、一体なに?)
そもそも生き物なのかさえ際どいところ。せっかくの栞ちゃんへのプレゼントが変なもので埋め尽くされていく。
呆然とそれを見つめるわたしとは対照的に、優くんは身体をくの字に折り曲げて笑っている。悪戯っ子の兄弟はとても楽しそう。
「よし、完成」
満足そうに色紙を眺める龍介さん。その横顔は、まるで世紀の傑作を生み出した芸術家のようだ。
龍介さんは、一見怖そうに見える。人間以外の何かに例えるなら、その名の通り龍かもしれない。あとはライオンとか虎とか、大きくて強そうな生き物が相応しい。
でも、話してみると、印象はすぐに覆される。柔らかい声と穏やかな話し方。子供みたいな瞳。そして、もっと話してみると、無邪気に笑って悪戯したり、はしゃいだりする姿を見せてくれる。今、目の前にいる龍介さんみたいに。
龍介さんの違う一面を目にする度に、心臓の奥が震えて上手く息ができなくなる。指の先までその震えが伝わってきて、その衝動のまま勝手に動き出してしまいそうになるから、わたしは必死になって手を握り締める。
「本当に秘書だね」
降ってきた優くんの声に、そちらを見れば、大きくて丸い目でわたしをまじまじとみている。
「そういうドレス着てるとイメージ違う。ほら、ハワイではシャツとかゆるめのワンピースとかだったじゃん」
「用意されたドレスだもん」
「俺、こういうドレスも好きだよ。綾乃が着ると清楚で上品な感じになるね」
「本当ですか? でも、背中が出過ぎてて、ちょっと恥ずかしいです」
「スタイリストとかが選ぶの?」
「いえ。今日は、担当の役員が選んだみたいで……」
「……そっか」
彼の視線が、わたしの背中に落ちる。その目が一瞬、冷たく細められた気がした。露出の多いドレスへの苛立ちか、それを選んだ男への嫌悪感か。
「……似合ってるけど、あんまり見せたくはないな」
誰にも聞こえないくらいの小声で呟かれたその言葉に、背筋が痺れる。
「みんな綺麗な人ばっかりだし、秘書って本当に才色兼備なんだな」
微かに低くなった龍介さんの声に気づいたのであろう優くんが、空気を引き戻してくれた。
「わたしが知る限りでも、みんなすごい努力してるからね。外見も中身も磨く、それが当たり前」
「綾乃も英会話学び始めたって言ってたもんね」
「はい、まずはせめて英語をと思いまして」
「ハワイでも聞き取りはできてから大丈夫だよ」
話している間に、すぐに触れそうな距離に彼の手や足が近づいてくる。その触れそうで触れない龍介さんの体に意識が集中していってしまう。
龍介さんの存在で熱を帯びていく頬を自覚しながら、必死に視線を外した。脳内は完全に龍介さんで占領されかけている。その意識を無理矢理にでも通常の可動域に戻そうと、わたしはぎこちない動きで頭を振る。
優くんにその不自然な動きを指摘され、からかわれたことで、わたしの頬の熱は更に高まるのを感じた。
「うるさいな」
「だって不自然じゃん」
優くんは相変わらずニヤニヤと笑っている。
「放っておいてよ」
「龍介さんばっかり意識してさ。俺も意識してよ」
「優くんを……?」
「なに、その『無理ですけど?』みたいな言い方。俺だって、イケメンの部類に入るんだけど」
優くんはさらにふくれっ面になり、わたしの発言に不満そうな声を上げる。
他愛のない言い合いを続けていると、隣に座っていた龍介さんから、ふいに「あ」という小さな声が漏れた。その声にわたしたち二人の視線が、自然と龍介さんの向かう先へと引き寄せられる。
龍介さんは、テーブルの少し先に立つ人物に向かって、小さくお辞儀をした。
「仁さん」
「どうも」
男性らしい顔立ちとは、こういう人のことを言うのかもしれない。彫の深さとは裏腹に優しく穏やかな瞳の龍介さんや、整っているけど女性のような柔らかさを兼ね備えている優くんとは違う。
はっきりとした眉毛に、くっきりした二重の大きな目が黒縁眼鏡に彩られているそのお顔は、どこからどう見ても業界人。Legacyのリーダーであると同時に、事務所の社長という事実。この人、ただものではない。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
勢いよく立ち上がり、腰を折り曲げるようにして頭を下げると、大きな笑い声が降ってきた。
「あはは! そんなかしこまらないでよ! 龍から聞いてて、ずっと会いたいって思ってたんだ。ディアブロさんの話をもらって、こんな偶然あるかなって思ってさ。飲み会の話になったから、ぜひ秘書さんもってね」
「……そうだったんですね」
「元カレが役員っていうのは知らなくて。そこは本当にごめんね」
「あ、いえ! そんな」
「席を見えないようにしたから、楽しんでね」
卓也からは死角になる席はやはり偶然ではないらしい。
仁さんは数手先を見越して行動する、頭のいい人だと龍介さんが言っていた。そして正直で嘘が嫌いで、だから自分自身も嘘をつかない人。周りに無理だと言われることも、やり遂げるために努力を重ねて、這いつくばってでも信念を曲げることなく、前に進むことをその背中で教えてくれたのだと。
自分を見失わないこと。諦めずに立ち向かうこと。そして、愛する人たちを、仲間も、家族も、恋人も、ファンも、全ての人を大切にして守りぬくこと。仁さんから受け継いだその生き方を自分自身も後輩たちに教えたいと、ある日の電話で話してくれた。
ふと、栞ちゃんから借りた彼らの資料映像を思い出す。全て見終わっていないけれど、そこにはわたしの知らなかった彼らがいた。
Legacyはデビューして十二年。始めから順風満帆だったわけではないことを、わたしは初めて知る。
今ではドームツアーで観客を数百万人規模で動員する彼らが、食べるものにも困っていたこと、借金をして生活をしていたこと、デパートの屋上や駅前広場で数人の観客を前にライブを続けていたこと。
小さなビルの一角で、メンバーと数人のスタッフだけで立ち上げた芸能事務所は、今や都心に大きな自社ビルを構えるほどになった。
そして、デビューして、数百万枚のCDを売り上げるようになったLegacyは、メインボーカルの龍介さんが喉の病気を患う苦難に直面する。
歌声どころか話すことさえも叶わない日々。ボーカリストが自身の喉にメスを入れる手術をするという恐怖。浮き沈みが激しく流れの速い芸能界で、一年以上の休養を要する不安。
それでも彼らはひた向きに、真っ直ぐに、がむしゃらに、この道を駆け抜けてきたのだ。十二年間も。
自分たち自身も含めてファンや世間の人に、活動のテーマとしている愛や夢、幸せを伝えていきたい、届けていきたいと話す龍介さんの声は、聴いているだけで胸が温かくなるほどに、力強く優しかった。
目の前で、優くんとふざけ合って笑う彼。その屈託のない笑顔の裏に、どれほどの恐怖と絶望があったのだろう。
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平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?
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