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第四章
第十九話 たった一人の大事な弟
しおりを挟む……あの日言おうと考えていたことを、そのまま言えばいい。
今まで兄さんが与えてくれた愛情を全否定して捨て去るような、そんな残酷な言葉になってしまうけれど。
それでも兄さんは、ボクの言葉なら全て受け入れると告げた。
……だから、もう逃げない。逃げるべき理由はない。
兄さんと過去から逃げ出したあの日から、前へ進まなければ。
「兄さんは、いつでもボクの味方でいてくれましたよね。兄さんと比べてボクを貶める母さんから庇ってくれたり、何も言わない父さんに母さんをどうにかするよう直談判したり、……ボクが自信を失わないように、ボクのいいところをいつも教えてくれたり。ボクは、兄さんからたくさん愛情をもらいました」
「……あぁ」
「でも、だからこそ――ボクは苦しかった」
喉の奥がつっかえるような感情を、ぐっと堪える。兄さんのような善人を傷つける言葉を吐くことに、まだ抵抗が残っているようだ。
けれど、ここを踏み越えなければ進めない。ボクと兄さんの時計が、秒針を進められなくなってしまう。
「ボクは兄さんと違って顔も良くないし、成績も特別良いわけじゃない。運動だってダメで、特別秀でた物も無かった。……誰の目から見てもボクは「出来の悪い弟」で、「白夜と自分を繋げるための便利な連絡手段」です」
「そんな……」
「言っておきますが事実ですよ、兄さん。小学校に上がってから、ボクはずっとそうして見られて来たんです。周りはみんなボク自身ではなく、ボクの先にいるアナタを見ていた。他人がアナタの名前ばかり口にする環境の中、ボクは段々と自分のことを「出来損ないの人間」と思うようになりました」
兄さんの表情が、悲痛の色に染まっていく。きっと、ボクの言葉を否定したくて仕方ないのかもしれない。
「そんなことはない、お前は俺の影なんかじゃない」「蛍は蛍だ」――と。
……ただ、その言葉はもう要らない。
「……兄さんからの愛情や慰めは、最初は嬉しかった。兄さんはボクを認めてくれる、兄さんだけはボクのことを分かってくれてるって、純粋に思えてたんです。……けど……」
「けど……?」
「――嬉しかったはずの兄さんの言葉は、段々とボクの劣等感を刺激するだけの不快なものに変わっていました」
兄さんの目が、大きく見開かれる。
約十五年、一緒に暮らしてきた弟――その立場から、兄さんの顔を見るだけで何となく察してしまう。
まさか、こんなことを言われるとは夢にも思ってなかったのだろう。
ボクに危害を加えようとしていたわけじゃない、寧ろ反対のことをしてくれようとしていた兄さん。
そんな兄さんの心を、ボクは壊すことになるかもしれない。……改めて覚悟を決め直し、もう一度拳を握りしめる。
「ボクを慰める傍らで、兄さんは変わらず輝き続けていました。母さんに褒められ、先生にも褒められ、ボクのクラスメイトもアナタに憧れの目を向け続け……。……アナタが輝けば輝くほど、ボクがどれだけ劣っているのか、嫌でもこの心に刻まれてしまう」
「…………」
「だから……もう、アナタの傍にいたくない」
ボクが今口にしているのは、確実に兄さんを傷つける酷い言葉だ。
ボク自身がそれを一番分かっていて……だからこそ、目を逸らしてしまいそうになる。
しかし、目を逸らしてしまえば最後……ボクはまた、兄さんから逃げることになってしまう。
逸らしたくなる衝動を堪え、曇った表情の兄さんに目を向けていた。
「兄さんは、誰もが認める素晴らしい人間です。そんなアナタの隣に居続けていたら、そう遠くないうちに劣等感と羨望でぶっ壊れて……今度こそ、アナタを本気で殺そうとするかもしれません」
「蛍……」
「だから、もう二度とボクの前に現れないでください。ボクはもう、これ以上アナタへの感情を積み上げたくない。……アナタという存在を忘れて、両親のことも忘れて……ただの「不破 蛍」として生きていきたいんです」
ボクが話し終えると、兄さんは顔を俯かせてしまった。
……傍にいたくないと言ったとはいえ、傷ついた表情を見ると少しばかり心は痛む。
兄さんは……何も悪いことをしていないから。
風の音だけがボクらを包む、静寂。しばらく、ボクと兄さんの間に言葉はなかった。
「……俺は……」
沈黙を破ったのは、兄さんの一言だった。
ボクの方に少し歩み寄り、俯かせていた顔を上げる。
「俺は蛍と、あの頃のようにもう一度兄弟仲良くしたい。今も昔も、ずっとその気持ちは変わらない」
「…………」
「あの時俺を突き飛ばしたことなんて、もう気にしないでほしい。俺は最初から赦してるし、無かったことにしたっていい。……それがずっと言いたかった」
――弟にあんなことをさせたのは、弟の心をちゃんとケアできなかった兄の責任だ。
悲痛な表情を浮かべて、兄さんが語る。
兄さんは、ボクが抱えた感情の原因を全て自分のせいだと思っている――あくまで弟は悪くない、そう主張し続けるつもりだろう。
「俺がもう少し大人だったら、母さんにももっと色々言えたはずなんだ。母さんに言いなりの父さんを動かすことだって出来たかもしれない。……俺の力不足のせいで、お前の心を守り切れてなかった。お前の気持ちに、ちゃんと気付けなかった」
「…………」
「……俺は、蛍になら殺されてもいいとさえ思ってる。それぐらいお前のことが大事で、好……」「そういうところだよ!!」
……その先は言わせない。もう言わせたくない、聞きたくない――ボクは兄さんの言葉を全力で遮った。
「お前に対してこんな捻れきった感情を抱いた原因は、誰でも無いボク自身だ!! お前はやれることをやって、普通に生きてきただけだろ!!」
残酷なくらいの兄さんの優しさが、今もなおボクを愛してくれる兄さんの心が、却ってボクの胸を締め付ける。
息が止まってしまいそうなくらい苦しくて、そんな優しさにあてられる価値のない自分がどんどん醜く見えて――感情が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「さっきも言ったでしょう!? 一瞬でも、ボクは本当にお前を殺そうとした!! 勝手に羨んで、勝手に嫉妬して、勝手にどんどんお前を嫌いになって、勝手に爆発して――挙げ句の果てにあんなことをしたってだけだよ!!」
「……蛍……」
「ボクにあんなことをさせたのは自分? ボクの心をちゃんとケアできなかった自分が全部悪い? ふざけんな!! 誰から見たって兄さんは何も悪いことなんてしてない!! 寧ろボクのせいで下手すりゃ死んでたかもしれないのに、どうして憎むどころかボクを……ッ!!」
怒りと自己嫌悪で、体が震える。蓋をしていたもの全てが底から溢れ出ているようで、怖いくらい感情が止まらない。
相手は他人じゃない、長年一緒に暮らしていた血の繋がりのある家族。……だからこそ、余計に感情が加速してしまうのだろう。
"近くに影人さんがいる"――その事実があることで、どうにかギリギリのところを保てているくらいだ。
「……そうやって優しくされるの、ボクにとってはもう苦しいだけなんです! 兄さんに優しくされればされるほど、どんどん自分のことが嫌いになって、……隣にいたら、絶対にまた同じことを繰り返す……!!」
「……蛍……」
「……ボクを赦さないで、兄さん。たとえ血の迷いだったとしても、アナタを殺そうとしたボクを憎んで、恨んで、……お前のせいで死ぬかと思ったって、ボクのことを責め続けてください」
そうして、兄さんもボクのことを忘れてほしい。「幸せになってほしい」と言われるべきは、むしろ兄さんの方なのだ。
「……ボクのことを、恨んでください」
本来なら、ボクは兄さんに罰せられるべき人間。
もう元に戻ることのない感情を抱いてしまった時点で、愛情を向けられる資格だってないのだ。
「……そう、か」
ぽつり、と兄さんが小さく言葉を口にする。
どこか悲しそうな表情を浮かべる顔を俯かせて、しばらく黙り込んでいた。
風の音と木々が揺れる音だけが場を包む、静寂。
静かな時間が少しばかり続いたが、不意に「ザッ……」と音を立てて、兄さんがボクに歩み寄る。
一歩、二歩、三歩――拳一つ分まで距離を詰めたところで、ボクの右頬に衝撃が走った。
「……兄さ……」
「……ごめん」
握り拳を握った兄さんが、声を震わせる。
何が起こったのか、すぐに理解はできてはいたが……予想外すぎる出来事に、すべてを忘れかけてしまいそうだった。
――誰かに手を上げることなんて一度もなかった兄さんが、思い切り拳を振るったのだ。
「可愛い弟の願いは、何でも聞いてやりたい。お前がそれでいいなら、お前が今よりもっといい人生を送れるなら……精一杯、応えてやりたいよ。……でもな」
何かを堪えながら懸命に表情筋を固めたような、ぎこちない笑顔を浮かべる。
今にも泣きそうで、不安定な……そんな雰囲気を醸しだしつつも、兄さんはボクに笑顔で語りかけていた。
「お前を恨むことだけは出来ない。これから先、お前を嫌って生きていくなんて、俺には出来ない……!!」
「……兄、さん」
「どんなことをされようと、何を言われようと……俺にとって、蛍はたった一人の大事な家族で、可愛い弟なんだ! だからお前を恨むことも嫌うことも出来ないし、あの時のことも赦したい……責める気になんてなれない」
「だから……俺に出来ることは、これが精一杯だ」
ボクの右頬を殴った手を、空いた手で握りしめる。
兄さんを殺そうとしたボクを嫌え、恨め、一生ボクを責め続けてくれ──それに対する兄さんの答えが、これなのだろう。
どこか苦しそうに見える表情を浮かべている辺り……きっと、必死な思いでボクを殴ったのかもしれない。ボクを貶す母さんのことも、怒りはしても暴力は一切振るわなかったのだ。
もしかしたら……兄さんが人を殴ったのは、これが初めてかもしれない。それも、相手は弟のボクだ。
……何となく、分かった。
ボクが兄さんの愛情を受け入れないのと一緒で、兄さんもボクに対する気持ちを変えるつもりはきっと無いのだろう。
「……ただ、俺は蛍を苦しめるつもりはない。俺が隣にいることで蛍がずっと苦しい思いをするのなら──お前と会うのも、これで最後にするよ」
一歩、二歩……兄さんが、ボクから離れていく。
ずっとボクの近くにいたいと思っていてくれた兄さんが、ボクから離れていく。
「兄さん、……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。……お前の気持ち、ちゃんとこの耳で聞けて良かった。俺もお前に伝えたいことを伝えられたし……悔いは無いさ」
踵を返し、公園の入り口へと向かって歩いて行く。
あと一歩で公園を出る──そこまで来たところで兄さんが振り返り、口を開く。
「あの銀髪の子にも、よろしく伝えておいてくれ」
──元気でな、蛍。
寂しそうな笑顔の目尻が、少し光って見えた気がした。
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