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第三章 続 魔女と天使の腎臓
犬人間
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夢と現実は連動する。幼稚園や小学校に通ってた頃に、誰もが一度は経験した事があるはずだ。おしっこをする夢。夢の中で明確な尿意を感じ、トイレに行って用を足すと、現実の私はおねしょをしている。現実の体が尿意を催した為に、その感覚が夢にまで反映されてしまったのだ。
今、私は夢を見ている。孤児だった私に家族が出来た、八年前の夢を。
『おばさん、誰?』
その人は七歳の私に手を差し伸べながら、悲哀と慈愛を織り交ぜたような表情を浮かべていた。
『おばさんはおばさんよ。イヴちゃんの伯母さん』
『私のおばさん?』
『そう。イヴちゃんのお母さんのお姉さん。それで……』
まだ七歳だった私にとって、見知らぬ大人なんてものは警戒を抱く対象でしかないものの、しかし私の伯母さんを名乗る彼女の一言に、私の警戒心はすぐさま好奇心へと移り変わった。私は物心がつく頃から孤児だった。産まれた時から孤児だったのだ。
『イヴちゃんのお母さんになりたいって思ってる、そんなしがないおばさんです』
七歳という身であれば、両親の概念くらい知っている。義務教育で学校にも通っているのだから、両親を持たない自分が普通でない事もよく理解していた。
『……まぁ、イヴちゃんが良ければの話だけど』
そんな幼い私にとって、私の両親を知った上で私の両親にもなってくれようとする彼女の手は、どの麻薬よりも魅力的に映った。
「……」
酷く懐かしい夢に魘されながら目を覚ます。私にかつての悪夢を見させた元凶が何なのかは明白だ。
「その……ごめんね。折角久しぶりに会えたのに、やっぱり行けそうにない」
お母さんの声が聞こえる。電話で誰かと話しているのだろう。まったく、病人が眠る病室で通話だなんて、迷惑もいい所だ。
「ううん、家族の問題。今、色々と大変な事になってて……。私だけ遊びに行くのが申し訳なくてね」
お母さんの声がずっと私の鼓膜を叩くから、お母さんの夢を見る羽目になってしまった。最悪な目覚めである。おかげでほんの数年とは言え、お母さんの事を心の底から家族だと認識してしまったかつての黒歴史が、連鎖的に思い起こされてしまうじゃないか。
「大丈夫、心配しないで? ……うん。うん。……わかった。いつか余裕が出来たら連絡するわね」
これはキツい仕返しが必要だと思った。
「ありがとう、さっちゃん」
だから私は通話を終えたお母さんに向かって。
「……病室では静かにしないとダメじゃん」
今の私に出来る目一杯の嫌味を言ってやった。
「……イヴ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
慌てたように振り向くお母さん。目が覚めて真っ先ににお母さんの顔が視界に飛び込むこの光景も、今やすっかり見慣れたものだ。だってお母さん、毎日のようにお見舞いに来るんだもん。おかげでここ数日間に渡る私の寝覚めは、すこぶる悪い。目が覚める度に害虫を見るようなものだし。
「……誰?」
いつもより僅かにトーンの高いその話し方からして、お母さんの通話相手は仲の良い人物なのだろう。私がそう訊ねると、お母さんは苦笑いを浮かべながら通話相手の事を教えてくれた。
「十年も前の古いお友達。不妊治療をしていた時に知り合ったの。長い間会っていなかったんだけど、この前たまたま道端でばったり再会してね」
お母さんはどこか遠い目をしながら呟いた。
「十年も経つのに凄い綺麗だったなぁ……。むしろ若返ってさえいたような気がする」
若さで言えば、お母さんだって年齢不相応に若々しい外見をしているのだけれど。敗血症に犯され、あらゆる臓器を破壊し尽くされたお母さんはとても体が弱い。少しの運動で息が切れるし、すぐに貧血を起こして倒れたりもする。私が中三になったばかりの時も、黄疸で顔や目が黄色くなっていたっけ。あれも病院で処方された薬が合わずに急性肝炎を起こした物だった。
そんな体の弱い彼女だからこそ、普段から健康には人一倍気をつけていて、外出だって必要最低限にしか行わない。その為日光を浴びる時間が極端に少ない事もあり、お母さんの肌は同年代と比べると何倍も白いのだ。そんなお母さんが見た目の若さで誰かを褒めるのは、最早賞賛を超えて嫌味でさえあると私は思った。そんな嫌味な彼女には。
「……余裕が出来たら連絡するってさ。私が死んだらって事?」
目一杯を超えた、精一杯の嫌味をぶつけてやろうと思った。
「……」
私の嫌味を受け、お母さんの表情が曇り出す。その無様な顔に思わず口角が上がりそうになるも、しかし私よりも先にお母さんの方が口角をあげた。それは笑顔というより、苦笑いにも近い不器用な笑い方だった。
「大丈夫。お母さん、わかってるから。あなたがそんな事を言う子じゃない事くらい」
「……」
「体が悪いと、どうしてもイライラしちゃうものね。いいの。お母さんは優しいあなたの事をよく知っている。あなたの優しい姿を何度も見て来ている。悪い子ぶるには、あなたは今まで徳を積み過ぎたのよ。……どんな嫌味を言われたって、お母さんはアスタに優しくしてくれた今までのイヴを信じるから」
「……」
舌打ちでもしてやろうか。ほんの一瞬そう思いかけたものの、頭の中が一面のお花畑で埋まっているような馬鹿を相手にしたくないと言う気持ちの方が、僅かに上回った。私は溜め息を吐いて天井を見る。
「……行ってくれば?」
「……え?」
「遊びだよ遊び。……久しぶりに再会した友達なんでしょ?」
「……」
「……私を遊びに行かない理由に使うのやめてよ。イライラする」
少しして、私の手のひらに熱が宿る。お母さんに手を握られたのだ。
「やっぱりあなたは優しい子。アスタとの接し方を見ていたらわかるわよ」
「……」
「あなたくらいの年齢で、あれだけ偏見を持たずに天使に優しく出来る人って、中々いない。あなたを引き取って、本当によかったと思ってる」
「……」
「なのに何で……。どうしてあなたみたいな優しい子が、こんな……」
無くなった私の左足を見ながら、お母さんは神様でも呪うように恨み言を呟き続けた。同じく、私もお母さんが天使と呼ぶアスタを見ながら、心の中で恨み言を吐き散らかす。
私の幼い弟は、並べられた椅子をベッドにしながらスヤスヤと眠っていた。まだ言葉もろくに話せない幼い彼は、きっとこれからもろくな言葉を話す事はない。唸り声のような鳴き声を発し、手掴みで物を食べ、気に入らない事があれば動物のように暴れ回る。そんな理性も自制心もない、ケダモノとしての人生を歩む事になるのだ。五歳の弟を見ながら、そんな未来を想像する。
私は言葉を扱えない彼を人間だとは思わない。染色体の数が人間とは違う彼の事を、同族だとは思わない。何が弟だ。何が天使だ。
「あなたが何をしたって言うの……っ」
くたばれ、ダウン症児(あくま)が。
招かれざる客の退室と歓迎する客の来訪は、ほぼ同時に発生した。
面会時間を終えたお母さんがアスタを連れて病室を去った事で、ようやく自由を手に入れたとばかりに私はスマホに手を伸ばす。日課のニュースチェックだ。果たして今日の超常殺人はどんな事が起きているのかな? ……と、思った矢先。コツコツと病室の出入り口がノックされた。
それは生まれて初めての経験だった。病室の扉をノックされる事は何度もあったけど、窓をノックされる事なんて滅多にない。滅多どころか普通の人生を歩んでいたならほぼ有り得ないだろう。でも、私は普通の人生なんか歩んでいないから。
「わん!」
窓に視線を向けると、そこには一冊の本を口に咥えた六歳児相当の私がいた。小さい私はカリカリと爪を立てるように窓をこじ開け、ようやく生じた小さな隙間に体をねじ込むように侵入してくる。……が、その子は窓の淵に足を引っ掛けてしまい盛大に転んでしまった。とは言えその子が泣くような事はないけれど。
「わん!」
その子はむくりと立ち上がる。転倒によって赤く染め上がった鼻など物ともせずに、口に咥えた本を私の前に広げて見せた。
【おっひさー⭐︎ 元気してるかい?】
私はそんな友の姿に思わず微笑し、そして答えた。
「……元気元気。三、四キロのダイエットにも成功したんだよ? ……ほら」
私は切断された左足をザンドに見せつけながらジョークを疲労した。ブラックジョーク。自虐である。とは言っても私の左足には石膏包帯が巻かれ、また傷口から漏れ出る滲出液や血液を排水する為の管だって取り付けれているのだから、三、四キロの減量もプラスマイナスゼロになっているわけだけど。
【いや、言い方。でも命に別状はなかったんだね】
「……そうだね。残念な事に」
【残念言うなし】
久しぶりのまともな会話だった。空っぽの心に温かいお湯を注がれるような感触がする。これが生き返った感覚なのだろう。足を切断しても得る事の出来なかったこの感覚が、酷く尊い。
「……どう? それの調子は」
【めちゃくちゃ順調だよ! 見てみ?】
ザンドがそう言うと、私のクローンはザンドの事を放り投げた。ザンドが私の真横に投げ捨てられた事で、私のクローンはザンドによる意識の乗っ取りから解放された……はずなのだが。
「わん! わんわん!」
私のクローンは犬の真似をやめようとはしない。病室中を四足歩行で歩き回り、部屋の散策に飽きるとベッドの上に乗って来て、私に遊んでとでも言いたそうに服従のポーズを取るのだ。もしも彼女に尻尾があれば、今頃ぶんぶんと振り回していたであろう事が容易に想像出来る。
【前頭前野の脳細胞をかなり破壊しておいたんだ。もうポチに人間としての自我が芽生える事はないよ】
「……へー。いいじゃん」
曝け出されたクローンのお腹を撫で回すと、私のクローンは満足そうにくぅーんと唸った。
大脳はその構造によって、大きく三つに層に分ける事が出来る。大脳の表面である大脳皮質。大脳皮質の内側に存在する白質。そして大脳の深部に存在する大脳基底核。そしてこの大脳皮質もまた、領域毎に四つのパーツに分けられるのだ。
運動や思考を司る前頭葉。感覚や知覚を司る頭頂葉。聴覚を司る側頭葉。そして視覚を司る後頭葉。この内、ザンドが調教という名目で破壊を繰り返しているのが、前頭葉の大部分を占める前頭前野であった。
前頭前野。運動と思考を司る前頭葉の中でも、とりわけ思考能力に特化した機能を持つ領域の事。前頭前野は思考能力の発達した人間においては、脳全体の30%を占めるのに対し、他の動物の脳ではたったの数%、人間の次に発達した脳を持つチンパンジーでさえ10%程の割合しかないのである。
思考、感情、意志、自我、実行力。それらを発生させる上で最も重要な前頭前野の脳細胞を破壊し尽くされたこの子は、人間の体を持った実験動物から、正真正銘本物の実験動物へと成り下がった。もうこの子は、一生人間のような自我を持つ事はない。
こうなってしまったからには、もうこいつには人権もクソもあったもんじゃない。この子はもう人の幸せを理解する事が出来ないのだ。犬以上の知性を持てなくなったこの子にとっては、犬のように扱ってあげる事が最大の幸せなのである。お腹を撫でられ、幸せそうな笑みを浮かべるクローンを見ながらそう確信する。……でも。
「ぎゃお⁉︎」
私のクローンは突如悲鳴を上げて、私から距離を取った。私が彼女のお腹に爪を立て、食い込ませながら引っ張ったのが原因だろう。しかしそうなってしまうのもしょうがない。
【ちょっとイヴっちー。あんまポチの事いじめないでよね? これでも一生懸命育ててんだから】
「……ごめんごめん。……でも、なんかさ」
だって、幼い頃の私と同じ顔をしたそれを見ていると思い出してしまうのだ。
「私と同じ顔を持ってるのが……、気持ち悪くて」
クソババアとクソジジイを、本当の両親だと信じて甘えてしまったかつての自分の姿を。
今、私は夢を見ている。孤児だった私に家族が出来た、八年前の夢を。
『おばさん、誰?』
その人は七歳の私に手を差し伸べながら、悲哀と慈愛を織り交ぜたような表情を浮かべていた。
『おばさんはおばさんよ。イヴちゃんの伯母さん』
『私のおばさん?』
『そう。イヴちゃんのお母さんのお姉さん。それで……』
まだ七歳だった私にとって、見知らぬ大人なんてものは警戒を抱く対象でしかないものの、しかし私の伯母さんを名乗る彼女の一言に、私の警戒心はすぐさま好奇心へと移り変わった。私は物心がつく頃から孤児だった。産まれた時から孤児だったのだ。
『イヴちゃんのお母さんになりたいって思ってる、そんなしがないおばさんです』
七歳という身であれば、両親の概念くらい知っている。義務教育で学校にも通っているのだから、両親を持たない自分が普通でない事もよく理解していた。
『……まぁ、イヴちゃんが良ければの話だけど』
そんな幼い私にとって、私の両親を知った上で私の両親にもなってくれようとする彼女の手は、どの麻薬よりも魅力的に映った。
「……」
酷く懐かしい夢に魘されながら目を覚ます。私にかつての悪夢を見させた元凶が何なのかは明白だ。
「その……ごめんね。折角久しぶりに会えたのに、やっぱり行けそうにない」
お母さんの声が聞こえる。電話で誰かと話しているのだろう。まったく、病人が眠る病室で通話だなんて、迷惑もいい所だ。
「ううん、家族の問題。今、色々と大変な事になってて……。私だけ遊びに行くのが申し訳なくてね」
お母さんの声がずっと私の鼓膜を叩くから、お母さんの夢を見る羽目になってしまった。最悪な目覚めである。おかげでほんの数年とは言え、お母さんの事を心の底から家族だと認識してしまったかつての黒歴史が、連鎖的に思い起こされてしまうじゃないか。
「大丈夫、心配しないで? ……うん。うん。……わかった。いつか余裕が出来たら連絡するわね」
これはキツい仕返しが必要だと思った。
「ありがとう、さっちゃん」
だから私は通話を終えたお母さんに向かって。
「……病室では静かにしないとダメじゃん」
今の私に出来る目一杯の嫌味を言ってやった。
「……イヴ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
慌てたように振り向くお母さん。目が覚めて真っ先ににお母さんの顔が視界に飛び込むこの光景も、今やすっかり見慣れたものだ。だってお母さん、毎日のようにお見舞いに来るんだもん。おかげでここ数日間に渡る私の寝覚めは、すこぶる悪い。目が覚める度に害虫を見るようなものだし。
「……誰?」
いつもより僅かにトーンの高いその話し方からして、お母さんの通話相手は仲の良い人物なのだろう。私がそう訊ねると、お母さんは苦笑いを浮かべながら通話相手の事を教えてくれた。
「十年も前の古いお友達。不妊治療をしていた時に知り合ったの。長い間会っていなかったんだけど、この前たまたま道端でばったり再会してね」
お母さんはどこか遠い目をしながら呟いた。
「十年も経つのに凄い綺麗だったなぁ……。むしろ若返ってさえいたような気がする」
若さで言えば、お母さんだって年齢不相応に若々しい外見をしているのだけれど。敗血症に犯され、あらゆる臓器を破壊し尽くされたお母さんはとても体が弱い。少しの運動で息が切れるし、すぐに貧血を起こして倒れたりもする。私が中三になったばかりの時も、黄疸で顔や目が黄色くなっていたっけ。あれも病院で処方された薬が合わずに急性肝炎を起こした物だった。
そんな体の弱い彼女だからこそ、普段から健康には人一倍気をつけていて、外出だって必要最低限にしか行わない。その為日光を浴びる時間が極端に少ない事もあり、お母さんの肌は同年代と比べると何倍も白いのだ。そんなお母さんが見た目の若さで誰かを褒めるのは、最早賞賛を超えて嫌味でさえあると私は思った。そんな嫌味な彼女には。
「……余裕が出来たら連絡するってさ。私が死んだらって事?」
目一杯を超えた、精一杯の嫌味をぶつけてやろうと思った。
「……」
私の嫌味を受け、お母さんの表情が曇り出す。その無様な顔に思わず口角が上がりそうになるも、しかし私よりも先にお母さんの方が口角をあげた。それは笑顔というより、苦笑いにも近い不器用な笑い方だった。
「大丈夫。お母さん、わかってるから。あなたがそんな事を言う子じゃない事くらい」
「……」
「体が悪いと、どうしてもイライラしちゃうものね。いいの。お母さんは優しいあなたの事をよく知っている。あなたの優しい姿を何度も見て来ている。悪い子ぶるには、あなたは今まで徳を積み過ぎたのよ。……どんな嫌味を言われたって、お母さんはアスタに優しくしてくれた今までのイヴを信じるから」
「……」
舌打ちでもしてやろうか。ほんの一瞬そう思いかけたものの、頭の中が一面のお花畑で埋まっているような馬鹿を相手にしたくないと言う気持ちの方が、僅かに上回った。私は溜め息を吐いて天井を見る。
「……行ってくれば?」
「……え?」
「遊びだよ遊び。……久しぶりに再会した友達なんでしょ?」
「……」
「……私を遊びに行かない理由に使うのやめてよ。イライラする」
少しして、私の手のひらに熱が宿る。お母さんに手を握られたのだ。
「やっぱりあなたは優しい子。アスタとの接し方を見ていたらわかるわよ」
「……」
「あなたくらいの年齢で、あれだけ偏見を持たずに天使に優しく出来る人って、中々いない。あなたを引き取って、本当によかったと思ってる」
「……」
「なのに何で……。どうしてあなたみたいな優しい子が、こんな……」
無くなった私の左足を見ながら、お母さんは神様でも呪うように恨み言を呟き続けた。同じく、私もお母さんが天使と呼ぶアスタを見ながら、心の中で恨み言を吐き散らかす。
私の幼い弟は、並べられた椅子をベッドにしながらスヤスヤと眠っていた。まだ言葉もろくに話せない幼い彼は、きっとこれからもろくな言葉を話す事はない。唸り声のような鳴き声を発し、手掴みで物を食べ、気に入らない事があれば動物のように暴れ回る。そんな理性も自制心もない、ケダモノとしての人生を歩む事になるのだ。五歳の弟を見ながら、そんな未来を想像する。
私は言葉を扱えない彼を人間だとは思わない。染色体の数が人間とは違う彼の事を、同族だとは思わない。何が弟だ。何が天使だ。
「あなたが何をしたって言うの……っ」
くたばれ、ダウン症児(あくま)が。
招かれざる客の退室と歓迎する客の来訪は、ほぼ同時に発生した。
面会時間を終えたお母さんがアスタを連れて病室を去った事で、ようやく自由を手に入れたとばかりに私はスマホに手を伸ばす。日課のニュースチェックだ。果たして今日の超常殺人はどんな事が起きているのかな? ……と、思った矢先。コツコツと病室の出入り口がノックされた。
それは生まれて初めての経験だった。病室の扉をノックされる事は何度もあったけど、窓をノックされる事なんて滅多にない。滅多どころか普通の人生を歩んでいたならほぼ有り得ないだろう。でも、私は普通の人生なんか歩んでいないから。
「わん!」
窓に視線を向けると、そこには一冊の本を口に咥えた六歳児相当の私がいた。小さい私はカリカリと爪を立てるように窓をこじ開け、ようやく生じた小さな隙間に体をねじ込むように侵入してくる。……が、その子は窓の淵に足を引っ掛けてしまい盛大に転んでしまった。とは言えその子が泣くような事はないけれど。
「わん!」
その子はむくりと立ち上がる。転倒によって赤く染め上がった鼻など物ともせずに、口に咥えた本を私の前に広げて見せた。
【おっひさー⭐︎ 元気してるかい?】
私はそんな友の姿に思わず微笑し、そして答えた。
「……元気元気。三、四キロのダイエットにも成功したんだよ? ……ほら」
私は切断された左足をザンドに見せつけながらジョークを疲労した。ブラックジョーク。自虐である。とは言っても私の左足には石膏包帯が巻かれ、また傷口から漏れ出る滲出液や血液を排水する為の管だって取り付けれているのだから、三、四キロの減量もプラスマイナスゼロになっているわけだけど。
【いや、言い方。でも命に別状はなかったんだね】
「……そうだね。残念な事に」
【残念言うなし】
久しぶりのまともな会話だった。空っぽの心に温かいお湯を注がれるような感触がする。これが生き返った感覚なのだろう。足を切断しても得る事の出来なかったこの感覚が、酷く尊い。
「……どう? それの調子は」
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「わん! わんわん!」
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【前頭前野の脳細胞をかなり破壊しておいたんだ。もうポチに人間としての自我が芽生える事はないよ】
「……へー。いいじゃん」
曝け出されたクローンのお腹を撫で回すと、私のクローンは満足そうにくぅーんと唸った。
大脳はその構造によって、大きく三つに層に分ける事が出来る。大脳の表面である大脳皮質。大脳皮質の内側に存在する白質。そして大脳の深部に存在する大脳基底核。そしてこの大脳皮質もまた、領域毎に四つのパーツに分けられるのだ。
運動や思考を司る前頭葉。感覚や知覚を司る頭頂葉。聴覚を司る側頭葉。そして視覚を司る後頭葉。この内、ザンドが調教という名目で破壊を繰り返しているのが、前頭葉の大部分を占める前頭前野であった。
前頭前野。運動と思考を司る前頭葉の中でも、とりわけ思考能力に特化した機能を持つ領域の事。前頭前野は思考能力の発達した人間においては、脳全体の30%を占めるのに対し、他の動物の脳ではたったの数%、人間の次に発達した脳を持つチンパンジーでさえ10%程の割合しかないのである。
思考、感情、意志、自我、実行力。それらを発生させる上で最も重要な前頭前野の脳細胞を破壊し尽くされたこの子は、人間の体を持った実験動物から、正真正銘本物の実験動物へと成り下がった。もうこの子は、一生人間のような自我を持つ事はない。
こうなってしまったからには、もうこいつには人権もクソもあったもんじゃない。この子はもう人の幸せを理解する事が出来ないのだ。犬以上の知性を持てなくなったこの子にとっては、犬のように扱ってあげる事が最大の幸せなのである。お腹を撫でられ、幸せそうな笑みを浮かべるクローンを見ながらそう確信する。……でも。
「ぎゃお⁉︎」
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【ちょっとイヴっちー。あんまポチの事いじめないでよね? これでも一生懸命育ててんだから】
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だって、幼い頃の私と同じ顔をしたそれを見ていると思い出してしまうのだ。
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この度ついに完結しました。
1年以上書き続けた作品です。
途中迷走してました……。
今までありがとうございました!
---
追記:2025/09/20
再編、あるいは続編を書くか迷ってます。
もし気になる方は、
コメント頂けるとするかもしれないです。
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