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第三章 続 魔女と天使の腎臓
豚の顔をした悪魔
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※本項で解説している内容は、ロシアによるウクライナへの侵攻が行われる以前のものとなります。2022年現在はロシアへの渡航もウクライナへの渡航も困難な為、2021年以前のやり方である事を念頭に置いた上でお読みください。
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『こんにちはー、イヴちゃん。またしばらくの間よろしくね?』
九歳になったある日を境に、私は頻繁に祖母の家に預けられるようになった。両親が仕事を理由にして家に戻らなくなる日が、毎月一度は必ず訪れるようになったのである。その多くは三日以内で済んだものの、長い時なら十日以上も祖父母に預けられる事もあった。
それらしい兆しは私が八歳の頃には何度かあった。あれは脳梗塞で亡くなった祖父のお葬式に参加して、何日かが経った頃だ。いつもは家の中でも家の外でも笑顔を絶やす事のなかったお母さんの笑顔が、ある日ふと、とても嘘臭く感じるようになってしまったのである。
『お母さん』
『……ん? どうしたの、イヴ?』
『……』
それでも私が話し掛けると、お母さんはハッとしたように自然な笑顔を取り戻して私に応じてくれた。けれどあれは自然な笑顔を取り戻したと言うより、自然な笑顔を取り繕ったと言った方がより正確だ。赤海家に引き取られてから、幾度となく両親から笑顔を向けられ続けた私には、その事がよく理解出来た。
一卵性双生児の親は、全く同じ顔を持った自分の子供を一目見ただけで見分ける事が出来る。猫の多頭飼いをしている飼い主は、同じ柄の猫を一目見ただけで見分ける事が出来る。それと同じように、両親の自然な笑顔を見続けていた私には、両親の笑顔の自然さと嘘臭さが、一目見ただけで区別がついた。
『どこか痛いの?』
『え?』
『ここ?』
でも、結局は笑顔の裏表を見分ける事が出来るだけだ。どうしてお母さんがそんな笑顔を浮かべるのか、どうしてお母さんが私に嘘の笑顔を見せるのか。知識の足りない子供なりに頭を捻って、悩んで、考えて。それでやっとの思いで導き出せた答えは、いつか見せられたお母さんの下腹部の手術痕の事。私はお母さんが心配をかけないように痛いのを我慢しているのかと考え、お母さんの服の上から手術痕を撫でてあげた。
『大丈夫? まだ痛い?』
『……大丈夫』
そんな私の事を、お母さんは優しく抱きしめながら答えるのだ。
『もう痛くなくなった』
と。
『ありがとう、イヴ』
と。そう呟くお母さんの笑顔からは、嘘臭さは見る影もなく消え去っていた。そして。
『……ごめんね』
最後に心の底から詫びるように謝罪を口にしたお母さんだけれど、私がその謝罪の意味を理解出来るようになるのは、それからもう少し時間が経った後の話だった。
一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。祖父母の家に預けられる日々が過ぎて行く。四ヶ月、五ヶ月、六ヶ月。そんな日々が半年程経った辺りで、遂に蓄積し続けた私の痺れが切れてしまった。
『おばあちゃん。お父さんとお母さんって本当にお仕事に行ってるの?』
半年間もよく、こんな先の見えない不安を誤魔化し、そして隠し続けられたものだと思う。けれどもう限界だった。
私の両親は、きっとお仕事で家を空けているわけじゃない。銀行員のお父さんと専業主婦のお母さんが、こんな頻繁に家を空けたりするお仕事なんて存在しない。九歳の頭脳でも、そのくらいの事は理解出来ていた。
でも、理解出来たからなんだ。私は両親の嘘を理解しつつも、この不安を言葉にして両親に打ち明ける事が出来ない。だって二人が私に嘘をついてまで家を空ける理由なんて、そんなの私に知られたくない何かがあるからに決まっているから。その何かを知ってしまったが最後、私は一体どうなってしまうのだろう。そんな不安を考えながら半年間を過ごしたんだ。そんな不安を抱えながら、私は半年間も過ごしたんだ。
でも、もう限界だった。この不安には先が見えない。半年が経っても解消されないこの不安が、この先何日、何ヶ月、何年経っても解消されないまま私だけが置いてけぼりになる。そんな未来の光景がふと脳裏に浮かび、鳥肌が立った。
両親の嘘に気づかないふりをしたまま過ごす数年間と、二人が隠し続ける真実を知りたい好奇心を天秤にかけると、見事なまでに拮抗している。けれどその天秤は日数が経つにつれて次第に好奇心へと傾き出し、遂には好奇心を乗せたお皿が地面へと降り立ってしまった。
『……そうねぇ。やっぱり気づいちゃうわよねぇ』
しかしやっとの思いで打ち明けたこの不安も、おばあちゃんの口振りからして明確な答えが返って来ないのは明白だった。
『でも、ごめんなさい。この事はどうしてもあなたの両親から聞かないといけないの。おばあちゃんが勝手に口にしていい事じゃない。……ただ、これだけは信じてあげて? 二人がイヴちゃんに隠し事をしているのは、イヴちゃんの事が嫌いになったからじゃないって。寧ろその反対。この秘密を打ち明けたが最後、自分達はイヴちゃんに嫌われちゃうんじゃないかって。それが怖くて本当の事を言えずにいるのよ』
『……別に嫌いにならないけど』
『そうねぇ……。そうなってくれたらおばあちゃんも嬉しい。本当なら今ここで、何があっても二人の事を嫌いにならないであげてって、イヴちゃんにお願いしたいくらいだもん』
『お願いしてもいいよ? 絶対嫌いにならないから』
『それは出来ない。だってイヴちゃんは何も知らないでしょ? 今のイヴちゃんにそんなお願いをしたら、二人のせいでどれだけあなたが傷ついても二人の事を許しなさいって、釘を刺す事になっちゃう。イヴちゃんが決めるのよ。二人の事を許すかどうか。……もうそろそろ、あの二人も本当の事を話してくれるはずだから』
『……』
私はコップのジュースを飲み干しながら、お願いは出来ないと言いつつも、それでもどこか懇願するような表情を浮かべるおばあちゃんの話に耳を傾けた。
そんなおばあちゃんの言葉の意味を知る事になったのは、それから三ヶ月が経った日の事だった。
『お母さん』
『……うん』
『これ誰?』
『……この人はね』
その日、私は神妙な顔つきをした両親に呼び出され、リビングのテーブルに向かい合いながら座っていた。私はコップ一杯の牛乳を飲み干しながら、お母さんが見せてくれた写真の女の人について訊ねてみた。
その人物が日本人でないのは確かだった。腰にまで届く長いブロンドの髪に、彫りの深い整った顔立ち。何より肌の白さが日本人の物とは比べ物にならない。そんな白人女性の写し出された写真だった。
お父さんとお母さんは途中まで言葉を言いかけたものの、しかし二人は視線を合わせながら黙り込んでしまう。それでもこのままではいけないと思ったのだろう。二人を意を決して前を向き、私に彼女の正体について話そうとしたのだけれど。
『……お父さん、お母さん』
でも、二人が言葉を紡ぐよりも先に私は一つの違和感に気づいてしまった。
『え……あ、ど、どうしたの? イヴ』
覚悟を決めた顔付きで訊ねるお母さんに、私はこの違和感の正体を口にした。
『おしっこ行きたい』
『いってらっしゃい』
行ってきた。
私は再びソファに座り、空になったコップに牛乳を継ぎ足して一気飲みをした。
『ぷはぁー……』
乾いた喉が潤う。逃げたのかと言われれば、その通りだ。両親のただならぬ気配を感じ取った私はトイレに逃げたのだ。どうせならおしっこではなく、うんちだとでも言っておいた方が良かったと、今更ながらに後悔する。
二人の前で牛乳を飲んだのも、絶妙なタイミングでトイレに行ったのも、結局はただの現実逃避。子供がない知恵を絞って考え出した、精一杯の時間稼ぎ。確かに私は喉が乾いていたし、尿意だって催していた。でも、我慢出来ない程ではなかった。写真の女性の正体を知るのが怖かったのだ。
二人は九ヶ月もの間、私に彼女の存在を隠し続けた。おばあちゃんが言う事が本当なら、私はこの女性の正体を知ったが最後、お父さんとお母さんの事を嫌いになってもおかしくないのだと言う。
『あのね、イヴ。この人なんだけど……』
心臓が高鳴る。それがドキドキやバクバクと言った、恋の高鳴りとは全くの別物である事は、他でもない私自身がよく知っていた。私は怖い。この人の正体を知るのが怖い。九ヶ月もひた隠しにされた秘密を打ち明けられるのが怖い。
『この人はロシアの方で……。その……ね? なんて言うか……』
二人を嫌いになるのが怖い。
『お母さん、またおしっこ』
『ダメ!』
席を立つと同時に、その手をお母さんに掴まれた。お母さんの体が弱いのを差し引いた上でも、子供の私が大人のお母さんを腕を振り解けないのは、九歳の私でも十分理解出来た。
『せめてこれだけ聞いてから行って』
『……』
『お願い……』
『……』
私はソファに腰を落とす。私の意思で座ったと言うより、お母さんの気迫に打ち負けて無理矢理抑え込まれたようだった。
『この人の名前はミロスラーヴァさんって言って……』
『……』
あぁ。
『ある意味で……その、イヴのお母さんに当たる人……になるのかも知れない』
『……』
入って来る。
『あのね、イヴ』
『……』
私の耳に、形のない暴力が土足で踏み込んで来る。そして。
『代理母出産ってわかる?』
『……』
私の鼓膜が、姿なき侵入者に犯された。
代理母出産。読んで字の如く、子供を産めない女性が、自分の代わりに他の人の子宮を使って、血の繋がった子供を産んで貰う事。
代理母出産は、現状日本の法整備が整っておらず、日本国内で行う事は出来ない。その為斡旋業者に高額な依頼金を支払う事で、代理母出産が合法化されている国に赴いて行う事になる。代理母出産が合法化されている主な国はロシア、ウクライナ、ジョージア、アメリカ、メキシコの五カ国。しかしメキシコやジョージアは技術的な遅れが少々目立ち、アメリカは莫大な医療費がかかる事から現実的な渡航先とは言えない。故に日本人が代理母出産を行う上で最も安定したルートを辿るには、ロシアかウクライナのどちらかが最善の選択肢になるとの事だ。
代理母出産のやり方は簡単だ。海外の病院でお父さんの精子とお母さんの卵子を人工受精させた後、その受精卵を代理母の子宮へ移植させて、後は産まれて来るのをただ待つだけ。かつて私がお母さん001号~005号へ行った行為と殆ど変わらない。簡単も何も、私は既に代理母出産を実施する方の立場で経験しているのだから。
お母さんは子宮にこそ問題はあったものの、しかし卵巣の機能は消失しておらず、月に一度の月経だってしっかり訪れていた。代理母出産は、そんなお母さんとお父さんの間に血の繋がりを持った子供を作る為の、最後の手段だった。
『来月……、産まれて来るの』
『……』
『男の子なんだって』
『……』
『……あのね、イヴ。お母』『お母さん』
私はコップをテーブルに置き、お母さんに被せるように口を開いた。お母さんの話を聞きながら、もう何杯牛乳を飲んだ事だろう。気づけば900ミリはあったはずの牛乳のパックを、私一人で飲み干してしまっていた。
私はコップを置き、この九ヶ月間、お母さんが私に向け続けた顔と同じ顔をしながら、満面の笑みではしゃいでみせた。
『弟が出来るの?』
『……』
『私、お姉ちゃんになれるの?』
『……』
『やった』
『……』
『いひー』
次の瞬間、私はお母さんに抱きしめられる。そして何度も何度も私の耳元で、まるで己の罪を懺悔するような口振りで感謝の言葉を続けるのだ。ありがとう、ありがとう、と。
私は信じていた。お母さんならきっと、私のこの笑顔の裏に気が付いてくれるって。だって、私は気がついていた。この九ヶ月間、お母さん達が向けて来た笑顔の嘘に、何度も何度も気がつく事が出来た。
でも、お母さんは気がつけないんだね。私の笑顔に。私の強がりに。本当に私が弟の誕生を喜んでいるんだって、そう信じて疑わないんだね。
院長先生は言っていた。子供というのは、他人同士だったお父さんとお母さんの血を繋ぎ、本当の家族にしてくれる大切な宝物だって。それが例え私のような血の繋がりのない子供でも、両親に望まれて引き取られるのだから、本当の家族になる事は出来るはずだって。
私は両親に望まれて引き取られた血の繋がらない子供。でも私の弟は、両親に望まれて生まれて来る血の繋がった子供になるみたい。
『……』
私は本当にここの家族なの。
『……』
血の繋がった弟が生まれて来るなら、血の繋がらない私は一体この家族の何。
『……』
人間が持てる愛情の数はたったの二個だ。だから人間は、その愛情を注ぐ対象を二つにまで絞らなければならない。故に殆どの人間は、右手の愛情を生涯の伴侶に捧げ、左手の愛情を伴侶との間に生まれた大切な我が子に捧げる。
ねぇ、お母さん。ねぇ、お父さん。
『……っ』
私の分、残ってる?
一ヶ月後。ロシアから二人が帰国する。お母さんの腕に抱かれた悪魔の顔を、私は死ぬまで忘れる事はないだろう。釣り上がった目、時折瞼の中から覗かせる瞳では斜視の傾向があり、また日本人である事を踏まえた上でも低いその鼻は豚のように潰れていた。
『イヴ。あなたの弟よ。抱っこしてみる?』
お母さんはそんな醜い赤子を私に抱かせようとして来たから、私は思わずその豚から手を離してしまった。それは人として当たり前の反応なはずだ。誰が好き好んでブサイクに触れようだなんて思うものか。こんなブサイクな生き物、私の視界に映る事さえ悍ましい。……なのに。
『イヴ⁉︎ あなた何をしているの!』
私の手から落ち、床に叩きつけられた弟が鳴き声を轟かす。弟の鳴き声があまりにうるさかったから、私はもう一つのノイズを聞き取る事が出来なかった。お母さんに頬を叩かれた破裂音が、弟の鳴き声に掻き消されて行く。
『……』
お母さん。前に私がモルモットを落としちゃった時、お母さんはこうして私の事を叩いて叱ったっけ。お母さんが今私を叩いたのは、私がモルモットよりも命の重い人間を落としちゃったから?
『アスタ!』
それとも体の弱い赤ちゃんを落としちゃったから?
『大丈夫? 怪我はない?』
じゃなかったら。
『……』
血の繋がらない赤の他人が、お母さんの大切の子供を傷つけたから?
私は洗面台の方へと足を運び、涙に塗れた顔を洗いながら、無限に湧き出る水道水をいつまでも、いつまでも、お腹が破裂しても構うものかとばかりに飲み続けた。
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『こんにちはー、イヴちゃん。またしばらくの間よろしくね?』
九歳になったある日を境に、私は頻繁に祖母の家に預けられるようになった。両親が仕事を理由にして家に戻らなくなる日が、毎月一度は必ず訪れるようになったのである。その多くは三日以内で済んだものの、長い時なら十日以上も祖父母に預けられる事もあった。
それらしい兆しは私が八歳の頃には何度かあった。あれは脳梗塞で亡くなった祖父のお葬式に参加して、何日かが経った頃だ。いつもは家の中でも家の外でも笑顔を絶やす事のなかったお母さんの笑顔が、ある日ふと、とても嘘臭く感じるようになってしまったのである。
『お母さん』
『……ん? どうしたの、イヴ?』
『……』
それでも私が話し掛けると、お母さんはハッとしたように自然な笑顔を取り戻して私に応じてくれた。けれどあれは自然な笑顔を取り戻したと言うより、自然な笑顔を取り繕ったと言った方がより正確だ。赤海家に引き取られてから、幾度となく両親から笑顔を向けられ続けた私には、その事がよく理解出来た。
一卵性双生児の親は、全く同じ顔を持った自分の子供を一目見ただけで見分ける事が出来る。猫の多頭飼いをしている飼い主は、同じ柄の猫を一目見ただけで見分ける事が出来る。それと同じように、両親の自然な笑顔を見続けていた私には、両親の笑顔の自然さと嘘臭さが、一目見ただけで区別がついた。
『どこか痛いの?』
『え?』
『ここ?』
でも、結局は笑顔の裏表を見分ける事が出来るだけだ。どうしてお母さんがそんな笑顔を浮かべるのか、どうしてお母さんが私に嘘の笑顔を見せるのか。知識の足りない子供なりに頭を捻って、悩んで、考えて。それでやっとの思いで導き出せた答えは、いつか見せられたお母さんの下腹部の手術痕の事。私はお母さんが心配をかけないように痛いのを我慢しているのかと考え、お母さんの服の上から手術痕を撫でてあげた。
『大丈夫? まだ痛い?』
『……大丈夫』
そんな私の事を、お母さんは優しく抱きしめながら答えるのだ。
『もう痛くなくなった』
と。
『ありがとう、イヴ』
と。そう呟くお母さんの笑顔からは、嘘臭さは見る影もなく消え去っていた。そして。
『……ごめんね』
最後に心の底から詫びるように謝罪を口にしたお母さんだけれど、私がその謝罪の意味を理解出来るようになるのは、それからもう少し時間が経った後の話だった。
一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。祖父母の家に預けられる日々が過ぎて行く。四ヶ月、五ヶ月、六ヶ月。そんな日々が半年程経った辺りで、遂に蓄積し続けた私の痺れが切れてしまった。
『おばあちゃん。お父さんとお母さんって本当にお仕事に行ってるの?』
半年間もよく、こんな先の見えない不安を誤魔化し、そして隠し続けられたものだと思う。けれどもう限界だった。
私の両親は、きっとお仕事で家を空けているわけじゃない。銀行員のお父さんと専業主婦のお母さんが、こんな頻繁に家を空けたりするお仕事なんて存在しない。九歳の頭脳でも、そのくらいの事は理解出来ていた。
でも、理解出来たからなんだ。私は両親の嘘を理解しつつも、この不安を言葉にして両親に打ち明ける事が出来ない。だって二人が私に嘘をついてまで家を空ける理由なんて、そんなの私に知られたくない何かがあるからに決まっているから。その何かを知ってしまったが最後、私は一体どうなってしまうのだろう。そんな不安を考えながら半年間を過ごしたんだ。そんな不安を抱えながら、私は半年間も過ごしたんだ。
でも、もう限界だった。この不安には先が見えない。半年が経っても解消されないこの不安が、この先何日、何ヶ月、何年経っても解消されないまま私だけが置いてけぼりになる。そんな未来の光景がふと脳裏に浮かび、鳥肌が立った。
両親の嘘に気づかないふりをしたまま過ごす数年間と、二人が隠し続ける真実を知りたい好奇心を天秤にかけると、見事なまでに拮抗している。けれどその天秤は日数が経つにつれて次第に好奇心へと傾き出し、遂には好奇心を乗せたお皿が地面へと降り立ってしまった。
『……そうねぇ。やっぱり気づいちゃうわよねぇ』
しかしやっとの思いで打ち明けたこの不安も、おばあちゃんの口振りからして明確な答えが返って来ないのは明白だった。
『でも、ごめんなさい。この事はどうしてもあなたの両親から聞かないといけないの。おばあちゃんが勝手に口にしていい事じゃない。……ただ、これだけは信じてあげて? 二人がイヴちゃんに隠し事をしているのは、イヴちゃんの事が嫌いになったからじゃないって。寧ろその反対。この秘密を打ち明けたが最後、自分達はイヴちゃんに嫌われちゃうんじゃないかって。それが怖くて本当の事を言えずにいるのよ』
『……別に嫌いにならないけど』
『そうねぇ……。そうなってくれたらおばあちゃんも嬉しい。本当なら今ここで、何があっても二人の事を嫌いにならないであげてって、イヴちゃんにお願いしたいくらいだもん』
『お願いしてもいいよ? 絶対嫌いにならないから』
『それは出来ない。だってイヴちゃんは何も知らないでしょ? 今のイヴちゃんにそんなお願いをしたら、二人のせいでどれだけあなたが傷ついても二人の事を許しなさいって、釘を刺す事になっちゃう。イヴちゃんが決めるのよ。二人の事を許すかどうか。……もうそろそろ、あの二人も本当の事を話してくれるはずだから』
『……』
私はコップのジュースを飲み干しながら、お願いは出来ないと言いつつも、それでもどこか懇願するような表情を浮かべるおばあちゃんの話に耳を傾けた。
そんなおばあちゃんの言葉の意味を知る事になったのは、それから三ヶ月が経った日の事だった。
『お母さん』
『……うん』
『これ誰?』
『……この人はね』
その日、私は神妙な顔つきをした両親に呼び出され、リビングのテーブルに向かい合いながら座っていた。私はコップ一杯の牛乳を飲み干しながら、お母さんが見せてくれた写真の女の人について訊ねてみた。
その人物が日本人でないのは確かだった。腰にまで届く長いブロンドの髪に、彫りの深い整った顔立ち。何より肌の白さが日本人の物とは比べ物にならない。そんな白人女性の写し出された写真だった。
お父さんとお母さんは途中まで言葉を言いかけたものの、しかし二人は視線を合わせながら黙り込んでしまう。それでもこのままではいけないと思ったのだろう。二人を意を決して前を向き、私に彼女の正体について話そうとしたのだけれど。
『……お父さん、お母さん』
でも、二人が言葉を紡ぐよりも先に私は一つの違和感に気づいてしまった。
『え……あ、ど、どうしたの? イヴ』
覚悟を決めた顔付きで訊ねるお母さんに、私はこの違和感の正体を口にした。
『おしっこ行きたい』
『いってらっしゃい』
行ってきた。
私は再びソファに座り、空になったコップに牛乳を継ぎ足して一気飲みをした。
『ぷはぁー……』
乾いた喉が潤う。逃げたのかと言われれば、その通りだ。両親のただならぬ気配を感じ取った私はトイレに逃げたのだ。どうせならおしっこではなく、うんちだとでも言っておいた方が良かったと、今更ながらに後悔する。
二人の前で牛乳を飲んだのも、絶妙なタイミングでトイレに行ったのも、結局はただの現実逃避。子供がない知恵を絞って考え出した、精一杯の時間稼ぎ。確かに私は喉が乾いていたし、尿意だって催していた。でも、我慢出来ない程ではなかった。写真の女性の正体を知るのが怖かったのだ。
二人は九ヶ月もの間、私に彼女の存在を隠し続けた。おばあちゃんが言う事が本当なら、私はこの女性の正体を知ったが最後、お父さんとお母さんの事を嫌いになってもおかしくないのだと言う。
『あのね、イヴ。この人なんだけど……』
心臓が高鳴る。それがドキドキやバクバクと言った、恋の高鳴りとは全くの別物である事は、他でもない私自身がよく知っていた。私は怖い。この人の正体を知るのが怖い。九ヶ月もひた隠しにされた秘密を打ち明けられるのが怖い。
『この人はロシアの方で……。その……ね? なんて言うか……』
二人を嫌いになるのが怖い。
『お母さん、またおしっこ』
『ダメ!』
席を立つと同時に、その手をお母さんに掴まれた。お母さんの体が弱いのを差し引いた上でも、子供の私が大人のお母さんを腕を振り解けないのは、九歳の私でも十分理解出来た。
『せめてこれだけ聞いてから行って』
『……』
『お願い……』
『……』
私はソファに腰を落とす。私の意思で座ったと言うより、お母さんの気迫に打ち負けて無理矢理抑え込まれたようだった。
『この人の名前はミロスラーヴァさんって言って……』
『……』
あぁ。
『ある意味で……その、イヴのお母さんに当たる人……になるのかも知れない』
『……』
入って来る。
『あのね、イヴ』
『……』
私の耳に、形のない暴力が土足で踏み込んで来る。そして。
『代理母出産ってわかる?』
『……』
私の鼓膜が、姿なき侵入者に犯された。
代理母出産。読んで字の如く、子供を産めない女性が、自分の代わりに他の人の子宮を使って、血の繋がった子供を産んで貰う事。
代理母出産は、現状日本の法整備が整っておらず、日本国内で行う事は出来ない。その為斡旋業者に高額な依頼金を支払う事で、代理母出産が合法化されている国に赴いて行う事になる。代理母出産が合法化されている主な国はロシア、ウクライナ、ジョージア、アメリカ、メキシコの五カ国。しかしメキシコやジョージアは技術的な遅れが少々目立ち、アメリカは莫大な医療費がかかる事から現実的な渡航先とは言えない。故に日本人が代理母出産を行う上で最も安定したルートを辿るには、ロシアかウクライナのどちらかが最善の選択肢になるとの事だ。
代理母出産のやり方は簡単だ。海外の病院でお父さんの精子とお母さんの卵子を人工受精させた後、その受精卵を代理母の子宮へ移植させて、後は産まれて来るのをただ待つだけ。かつて私がお母さん001号~005号へ行った行為と殆ど変わらない。簡単も何も、私は既に代理母出産を実施する方の立場で経験しているのだから。
お母さんは子宮にこそ問題はあったものの、しかし卵巣の機能は消失しておらず、月に一度の月経だってしっかり訪れていた。代理母出産は、そんなお母さんとお父さんの間に血の繋がりを持った子供を作る為の、最後の手段だった。
『来月……、産まれて来るの』
『……』
『男の子なんだって』
『……』
『……あのね、イヴ。お母』『お母さん』
私はコップをテーブルに置き、お母さんに被せるように口を開いた。お母さんの話を聞きながら、もう何杯牛乳を飲んだ事だろう。気づけば900ミリはあったはずの牛乳のパックを、私一人で飲み干してしまっていた。
私はコップを置き、この九ヶ月間、お母さんが私に向け続けた顔と同じ顔をしながら、満面の笑みではしゃいでみせた。
『弟が出来るの?』
『……』
『私、お姉ちゃんになれるの?』
『……』
『やった』
『……』
『いひー』
次の瞬間、私はお母さんに抱きしめられる。そして何度も何度も私の耳元で、まるで己の罪を懺悔するような口振りで感謝の言葉を続けるのだ。ありがとう、ありがとう、と。
私は信じていた。お母さんならきっと、私のこの笑顔の裏に気が付いてくれるって。だって、私は気がついていた。この九ヶ月間、お母さん達が向けて来た笑顔の嘘に、何度も何度も気がつく事が出来た。
でも、お母さんは気がつけないんだね。私の笑顔に。私の強がりに。本当に私が弟の誕生を喜んでいるんだって、そう信じて疑わないんだね。
院長先生は言っていた。子供というのは、他人同士だったお父さんとお母さんの血を繋ぎ、本当の家族にしてくれる大切な宝物だって。それが例え私のような血の繋がりのない子供でも、両親に望まれて引き取られるのだから、本当の家族になる事は出来るはずだって。
私は両親に望まれて引き取られた血の繋がらない子供。でも私の弟は、両親に望まれて生まれて来る血の繋がった子供になるみたい。
『……』
私は本当にここの家族なの。
『……』
血の繋がった弟が生まれて来るなら、血の繋がらない私は一体この家族の何。
『……』
人間が持てる愛情の数はたったの二個だ。だから人間は、その愛情を注ぐ対象を二つにまで絞らなければならない。故に殆どの人間は、右手の愛情を生涯の伴侶に捧げ、左手の愛情を伴侶との間に生まれた大切な我が子に捧げる。
ねぇ、お母さん。ねぇ、お父さん。
『……っ』
私の分、残ってる?
一ヶ月後。ロシアから二人が帰国する。お母さんの腕に抱かれた悪魔の顔を、私は死ぬまで忘れる事はないだろう。釣り上がった目、時折瞼の中から覗かせる瞳では斜視の傾向があり、また日本人である事を踏まえた上でも低いその鼻は豚のように潰れていた。
『イヴ。あなたの弟よ。抱っこしてみる?』
お母さんはそんな醜い赤子を私に抱かせようとして来たから、私は思わずその豚から手を離してしまった。それは人として当たり前の反応なはずだ。誰が好き好んでブサイクに触れようだなんて思うものか。こんなブサイクな生き物、私の視界に映る事さえ悍ましい。……なのに。
『イヴ⁉︎ あなた何をしているの!』
私の手から落ち、床に叩きつけられた弟が鳴き声を轟かす。弟の鳴き声があまりにうるさかったから、私はもう一つのノイズを聞き取る事が出来なかった。お母さんに頬を叩かれた破裂音が、弟の鳴き声に掻き消されて行く。
『……』
お母さん。前に私がモルモットを落としちゃった時、お母さんはこうして私の事を叩いて叱ったっけ。お母さんが今私を叩いたのは、私がモルモットよりも命の重い人間を落としちゃったから?
『アスタ!』
それとも体の弱い赤ちゃんを落としちゃったから?
『大丈夫? 怪我はない?』
じゃなかったら。
『……』
血の繋がらない赤の他人が、お母さんの大切の子供を傷つけたから?
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――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。
面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。
そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。
「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。
昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。
……だから、今度は俺が――。
現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。
少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。
引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。
※こんな物も召喚して欲しいなって
言うのがあればリクエストして下さい。
出せるか分かりませんがやってみます。
ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜
KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞
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そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。
捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。
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