異世界で小学生やってる魔女

ちょもら

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第三章 続 魔女と天使の腎臓

健全なる身体には健全なる精神が宿る

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「どお? 少しはおちつゅいた?」

「……」

「なんとか言ってくんらきゃわかんにゃいよ」

「……ん。……でも、もうちょっとだけ」

 午後二十時。面会時間終了が迫り、沢山の見舞い客が病院を去って行く中で、不法侵入を果たした私の見舞い客は、面会時間なんぞ知った事かとばかりに私のベッドを占拠している。私はそんな彼女に包まれながら、感情の抑制をただひたすらに待ち続けた。性別の存在しないザンドを彼女と呼ぶのもどうかとは思うけれど、ザンドが使っているその体は生物学的にはれっきとした女だし、まぁ彼女と言っても間違いではないだろう。

 暖かい。子供特有のぽかぽかした体温が、オキシトシンの分泌を促進させる。それまでに感じていた不安や動揺が嘘のように取れて行く。

 オキシトシン。幸福感をもたらしてくれる事から幸せホルモンという名称で有名なそのホルモンだが、オキシトシンによる幸福感の発生は、実はオキシトシン本来の効能ではない。オキシトシンの本来の名称は射乳ホルモン。乳首への刺激がトリガーとなって分泌され、これが分泌される事で母乳の出をよくさせるのがオキシトシン本来の働きなのだ。

 では何故そんなホルモンに幸福感を発生させる役割があるのかと言うと、それはお母さんに母性本能を目覚めさせる為である。当たり前な話だが、例え自分がお腹を痛めて産んだ子供だったとしても、赤ちゃんと言うのは、結局は母親と血が繋がっているだけの別の生命体だ。そんな別の生命体に体の一部を吸われる授乳という行為は、本来ならば母体に多大な不快感をもたらすものなのだ。

 しかし、だからと言って自分の赤ちゃんに不快感を持ってしまうと、母は子供を見捨ててしまう。全ての動物でそのような事が発生すれば、赤ちゃんは育つ事が出来ずに種は滅亡の一途を辿る事になるだろう。そうならない為に、オキシトシンは母体の脳を騙すのだ。おっぱいを吸われる行為は気持ちいい事だ。こんな気持ちいい思いをさせてくれる赤ちゃんと言う存在は、とても愛しい存在だ。そうやって育児放棄をさせないように母親を洗脳するホルモン。それがオキシトシンによる幸福感の正体である。

 自慰で乳首を弄った事のある人間なら、誰だって感じた事はあるだろう。乳首を触ると、どこか懐かしい気持ちに包まれて、怒りとは無縁の存在になって行くあの感じ。あの懐かしさの正体こそが、オキシトシンのもたらす幸福感なのだ。これは言い換えれば、セックスにおいて乳首を責められるのが好きな人は、怒りとは無縁の穏やかな人格者である可能性が高いのではないのかとも、私は思っている。

「イヴっちさー。もう一時間はじゅっとこうしてゆくね?」

「……うん。……でも、あともう一時間だけお願い」

「まったゃく、しばらく見やいうちに甘えん坊になっちゃって」

 ザンドはその小さな体で私の頭を抱きしめながら、後頭部を優しく撫で回してくれた。オキシトシンというのは乳首への刺激が最も活発な分泌を促すトリガーなのであって、乳首程の効率はなくても、こうして好きな誰かと触れ合っているだけでも十分な分泌がされるものだ。私はザンドの胸に埋めた顔で彼女の体温を感じ取りながら、幸福感に包まれた世界の海へ、どこまでもどこまでも沈んで行く。

「……ザンド」

「ん?」

「……良い匂いする」

「あ、わかゆ? イヴっちのお母さんのクッソ高いシャンプーつゅかってんの。衛生管理もこのかやだの健康の為に大事だかやね」

「……贅沢なやつ」

 私は思いの外リッチな生活を満喫しているザンドに笑みを漏らしながら、ザンドの胸から少しだけ顔を離した。

「……でも、ごめんね。そんなに綺麗に使ってくれているのに、こんなに汚しちゃった」

 私の顔が離れたザンドの胸元は、私の涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

「べつゅにいいよ。どおせ盗んだ服やし」

「そっか。じゃあいっか」

「そうそう。構わにゃい構わにゃい」

 なら別によかった。私はもう一度ザンドに抱きしめて貰おうと……、したその時。

「ぎゃあ⁉︎」

 ザンドが悲鳴を漏らす。私に突き飛ばされた事で、ベッドから落ちたのだ。長期に渡る入院で筋力の衰えた私でも、流石に5~6歳児相当の女児の体を突き飛ばすくらいは造作もないらしい。

「今のって……」

 しかし私はそんなザンドの惨状なんて見向きもせずに上体を起こした。ザンドとポチが侵入した事で開けっ放しになった窓から、聞き覚えのある声が響いて来たのだ。

「いってえ……っ! ちょっとイヴっち! 何すんの!」

 ザンドはベッドをよじ登りながら私に文句を言って来たものの、それでも私の視線はザンドを向く余裕がない。私の視線は窓の外、一階の病院出入り口ただ一点だけを凝視していた。面会時間が終了した事で帰宅して行く見舞い客の中に、見覚えのある人物がいたのだ。

 私は移植手術を受けるにあたって、十日前に設備の整った新宿のこの病院に転院している。新宿の病院。私はつい最近、そのワードを耳にした覚えがあった。

『こんばんは。お父さんはいる?』

『……え? ……いない』

『どこにいるのかわかる?』

『……病院』

『どこの?』

『……新宿』

『そっか。じゃあもういいよ』

 あの子だ。

『もしかして天使さん?』

『……そう見える⁉︎』

 天使を信じる家の、あの子のお母さんが入院している病院も、確か新宿だった。それってここの病院だったんだ。病院から出て来た二人組を見ながら、私はその事を確信した。

 あの女の子がいる。お父さんらしき人物に手を引かれながら、満面の笑みを浮かべたあの時の女の子が歩いている。時刻は午後の二十時過ぎ。病院の街灯だけが道を照らす真っ暗な世界。私と彼女との間には相当な距離があるし、私の視覚だってもはや左目しか正常に機能していない。それでも元の視力が良いおかげで、あそこにいる親子の正体があの時の女の子である事くらいははっきりと認識する事が出来た。

 おまけにあの子の手首からは、十字に光り輝く物体がぶら下がっている。私が魔法で作ってプレゼントした玩具の十字架だろう。彼女があの時の女の子である事は、もはや疑いようのない事実だ。

「イヴっちってば! 聞いてゆ⁉︎」「見て、ザンド」

 私は随分滑舌が良くなったとはいえ、それでも微かに舌足らずなザンドの肩を引き、ザンドにもあの子の姿を見せてあげた。

「……あ。あいつゅって」

「うん。あの時の女の子。すっごいニコニコしてる。お母さんの手術、上手く行ったんだね」

 なんて言ってはみたものの、あの子のお母さんが無事に退院出来るのは分かりきっていた事だが。それでもあの子の笑顔の手助けになれたのなら、私も本望だ。あの子を励ましてあげた甲斐があった。ひまわりのように眩しいあの子の笑顔が、私の中にほのかな熱を灯してくれる。

「よかった」

 あの子を笑顔を見て、心の底からそう思った。

【急に落ち着くじゃん】

「え。……あ」

 そんな私の視界に、ザンドのページが飛び込んで来た。ポチがザンドを開いて見せて来たのだ。さっきまではポチの胸に顔を埋めている都合上、ザンドはポチの肉声を使って話していたけれど、やっぱり僅かに舌足らずの残る肉声よりもこっちの方が何倍も話しやすい。

「本当だ。なんか……急に涙引っ込んじゃった」

 ザンドに言われ、目尻に指を当てる。するとさっきまで溢れ続けていた涙が、この一瞬で完全に引いている事に気がついた。あれだけ荒んだ感情も、とめどなく溢れ続けた涙も、あの子の笑顔が掻っ攫って行ったかのように静止する。私を天使と呼んでくれたあの子を見ていると、心の中に温かいお湯を注がれたような気分になるのは何故だろう。

「すごい落ち着く」

 心が安らぐ。

【落ち着いたならそろそろ教えてよ。うちがいない間に何があったのか】

「あー。そうだったね」

 私はポチからザンドを受け取り、ポチをベッドの下にステイさせた上で、この十日間で起きた出来事をザンドに語った。大病院の設備をショートさせた後、私の視界が真っ赤に染まった事。慌てて出て行ったお母さんが戻って来て、移植の話を持ち出された事。最初は拒んだものの、最終的にはお母さんとの殴り合いにまで発展し、暴力による脅しに負けて移植の話を飲んでしまった事。ドナーが心停止患者なせいで腎臓の生着に時間がかかって、今日の昼までは特別病棟で療養していた事。私のドナーは推定十歳前後の女の子で、とてもつまらない性格をした子であると推察出来た事。腎臓を移植してから三日目でおしっこが出るようになって、一生の付き合いになる筈だった透析から解放された事。腎臓の生着が確認された今日からは一般病棟に移転して、今いるこの病室に入った事。ここで数日間の療養を終えれば退院となり、家に帰れるようになる事。義足の準備も順調に進んでいて、十月の終わり頃にはリハビリ施設にも通うようになる事。……そして。

「ケーキを……、思いっきり食べた」

 九日ぶりに再会したクソババアの見舞い品を食べて、大泣きした事。

「ごめんね。情けない所見せちゃって。私もあんなんで泣くとか思ってなくてさ」

 愚痴でも漏らすように、ザンドのいない十日間を吐き続けた。

【イヴっち。なんか変わった?】

 そんな愚痴を聞き終えたザンドが不思議そうに訊ねて来た。とても既視感のある問いだ。つい数時間前まで、私もそんな事を思っていた。だからと言って記憶の転移のようなオカルトを信じる気になんてなれないし、ただの気のせいだと思い込む事にしたのだが。

「別にそんな事はないと思うけど……。そう見える?」

 でも、他人から見ても私は変わったように見えているらしい。主観的にも、客観的にも、変わったように見えるらしい。

【うん。なんか優しい顔をしてる】

「えー、何それ。もしかして口説いてる? 急に褒めらたら照れるじゃん」

 私はそんな不思議な感覚に包まれながらザンドのおべっかに頬を歪めたものの。

【別に褒めてるつもりはないよ】

 私の返答に対するザンドの反応は、どこまでも酷く冷めていた。歪んだ頬に緊張が走り、ニヤけていたはずの顔が無表情に作り替えられて行く。過ごしやすい室温を維持し続けるこの部屋で、鳥肌が立って行くのを感じた。

【あのさ、イヴっち】

 ザンドの言葉が、冷たい触手のような形を持って迫ってくる。私の手足に絡み、体にも絡み、そして首にも一周ぐるりと巻きつかれたような、そんな感じ。……だから。

【今から憂さ晴らしに行こうって誘ったら、行ってくれる?】

 その問いはまるで、自分の望む答えが返って来ないのなら、このまま私の首をへし折るぞ、と。そう脅されているように感じてしまうのだ。

【イヴっちの家族をぶっ殺したい気持ち、ちゃんと残ってる?】

 まぁ、そんなのただの私の勘違いなのかも知れないけれど。……でも。

「……んー」

 仮にそれが勘違いではなかったのだとしても、一度お母さんに締め殺されかけた私にとって。

「そう言うのは、もういいかな」

【……】

「なんかもう……、色々面倒くさいや」

 今更その程度の脅しなんて、効くはずもなかった。
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