線路と暗闇の狭間にて

にのまえ龍一

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前編 尾上なち、夢うつつ

午後の授業、放課後、暗闇の帰路

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 何でもいいから夢を持て、意志はそれからやってくる。



 これはワタシの担任の口癖であり、クラスのスローガンでもあり、そして何よりワタシ自身が為さねばならぬ最重要課題でもあった。



 何のこっちゃない、今後の進路だ。



 国語や社会が得意だから文系、数学や理科が得意だから理系とかいう相対的な決め方ができれば苦労はしなかったんだろうけど、生憎ワタシはどちらもおんなじくらいできて、一番の得意科目といえば、むしろ英語だった。



 つまりは、そう、どっちでもよかった。高校に入った時点で、いわゆる燃え尽き症候群に分類される積極的な無気力感に、毎日苛まれていたから。



 最終的に、ワタシは理系の道を選んだ。



 すい臓の末期がんにより六十代半ばで亡くなった祖父は名外科医であったし、父は大手電機メーカーの鉄道車両部品開発のプロジェクトリーダーという些か騒がしい家庭事情を顧みたうえで、教育熱心で過保護の看板を背負う母親からの強かな助言もあって、ようやく腹を括ったのだった。



 実際、勉強で苦労した覚えは、指折り数えるほどしかない。母親の自称英才教育の賜物かどうかは知らないが「お受験」には成功したし、中学受験だって毎日Nのリュックを背負って塾に通い続けたおかげか、県内有数の私立中学に進学できた。



 将来のエリートとしての誇りは皆無だったが、ご近所さんからはしょっちゅう、無責任な期待の眼差しとお世辞の数々をもらってきた。小さい頃からずっと一人っ子として育てられてきたから、余計に注目されていただけかもしれないが。





 挫折を初めて味わったのは、まさに高校受験のときだった。



 第一志望に選んだその高校は、受験生の〝粘り強さ〟と〝決断力〟をいわゆる圧迫面接で合否を決める採用方式で、筆記試験は実質お飾りだった。



 面接担当の先生たちは、義務教育課程修了間際のうぶなワタシたちを崖から突き落とすような、加えて墓穴を掘るような子には容赦なく「君の受け答えには一貫性がない」の正論だけど苛烈な一言。



 いくら合理的で優れた答えを言ったにしても、面接終了間際に「君はこの学校に向いてないね」とバッサリ斬られ残念無念。



 何のこっちゃない、その被害者の一人がワタシだった。



 問われた内容はずばり―――この高校で有意義な生活を送れるか、であった。



 知るかそんなもん。はいと答えたところで確かな裏付けがあるわけでもなし、いいえと答えたらここを受けに来た意味がなくなってしまうではないか。



 そうやって長考しているうちに、ワタシは三蔵法師の掌の上で弄ばれる愚かな猿を演じていた。



 ウソでもいいからはいと答えて何かしらのストーリーを作りなさい、と母に吹聴されたのを思い出したのは、惜しくも試験の全てが終わってからであった。



 その時は分かっていなかった。ワタシは不器用だったのだ。



 どしゃ降りの絶望感を浴びながら面接室をトボトボと出ていったワタシは、まるで目の前に姿見があるかのように、振り返らずとも、ただ静かに微笑む面接官共の顔を皺の一本一本までハッキリと見据えていた。



 校門を過ぎ、実際に振り返ったワタシの両目には、独特のサーモンピンクで塗りたくられた校舎でさえもがワタシを見下ろし、見下しながら嗤っていた。



 開けた土地に、ドッシリ根を下ろすようにしてそびえ立つ〝彼〟は、一期一会となるワタシに向かい、こんな言葉を贈ってくれた―――人生、楽あれば苦もあるさ。



 おせっかいだ、おとといきやがれこんちくしょう。そう毒づいた後で、猛烈な虚しさがのしかかってきたのは言うまでもない。



 不幸は上塗りされるもので、試験の帰りに着いた駅の中のトイレであろうことか、定期券付きのICカードを財布ごと落としていたことを改札の直前で気づかされ、焦りに焦った。



 用を足したトイレに戻って中を調べても財布は見つからず、泣きつくように改札窓口で事情を説明すると、ほんの僅かなすれ違いで駅の関係者が届け出てくれたのを聞いた。財布を拾ってくれた恩人に感謝を申したい気持ちでいっぱいだったが、帰りの電車の発車時刻が迫っていたのでそれは叶わなかった。



 試験の帰り、散々な目に逢いながらも無事生還を果たしたワタシは、受験勉強の相棒であった古今東西の邦楽・洋楽を聞き貪りつつ、夕時の帰宅ラッシュで込み合う電車の座席に腰を落とし、敗北感よりも解放感を味わいながら静かに両目を閉じた。



 コトンコトンと、車輪とレールの継ぎ目が奏でる音に癒されながら、ワタシはやがて深い眠りに落ちていった。



 それから先のことは、やけに朧げだった。



 真っ暗な頭の中にぽっかりと浮かび上がった白い輪っかが「見えた」のは、その時が最初だったかもしれない。それは、中学生最後の学年での修学旅行の道中、ちょうどワタシの目の前で起こった天体現象にそっくりだった。



 白昼の太陽を月が覆い隠す、すなわち金環日食である。



 この日食を見るためにわざわざ、ネット通販で日食グラスを取り寄せてしまったくらいだ。綺麗だったけど怖くもあったし、どこかしら安心感も見い出せてやっぱり恐ろしくなる。



 一言で云えばただ神秘的という感想以外は考えられなかった。それが今こうして、もう一度ワタシの目の前で繰り返されている。



 黒い太陽はワタシを惹きつけ、伸ばした腕が身体ごと球体の中へと吸い込まれていく感覚は、未だ新鮮なままだ。ちょうど、白いシャツにこぼしたコーヒーの染みみたいに、くっきりはっきりと覚えている。



 そうだ、あの時もワタシは電車の中にいたんだっけか。少しずつ当時のことを思い出すうちに、輪っかは溶けてなくなった。あの輪っかの存在は、ワタシの意識をを何処かへ容易く連れていきそうな優しさと危うさを孕んでいた。



 次にお目に掛かれるのは、いつなんだろう。



      ✡



 かの哲学者ブレーズ・パスカルいわく、人間は考える一茎の葦である。小学四年のときにまたもや登場する、甲斐甲斐しくて騒がしい母親によって覚えさせられた、しかし当時の記憶に薄い、その言葉。字面通りに理解することは簡単だったけど、その本質を咀嚼して飲み込んで理解すること、言い換えれば「行間を読む」なんてことは、かつてのワタシじゃできっこなかったのだ。



 パスカルいわく、人間の肉体は一本の葦のように脆く儚い存在なのだが、その命ひとつは全宇宙よりも重たくて、「考える」という行為のみによって、我々の威厳―――自らが死を自覚していること―――は、宇宙をも包み込むのだという。



 そう、彼の言う「考える」という行為こそ、今までのワタシに決定的に不足していた要素なのだった。いや、もう少し正確にいえば、「考え、判断を下す」だろうか。受験勉強なんてのは所詮、頭より身体に染み付かせるものだと未熟ながらに体得していたワタシに唯一、欠けていたものとも言いなおせる。



 勉強をしていれば問題を解くために頭を使いはするし、確かに「考える」ことはしている。でも答えは必ず決まっているし、野球の千本ノックや卓球のラリーのようにスパンスパンと打ち返していくようなものだ。



 ワタシが言及している「考える」は、けしてそんな意味合いの物ではない。哲学っぽく言えば「自己を見つめなおす」ということだ。



 簡単そうで、しかし一端やり始めるとキリがない。



「考える」ということは、自由意志があるということ。自由意志とは、何者にも束縛されずに自らの頭で決定する能力があるいうこと。そして決定することには、程度の大小はあれど責任を伴うということ。



 人間を除く全ての動物には、絶え間なくやってくる未来から種の絶滅を防ぐため、子孫を残す本能が遺伝子の一つひとつに刻み込まれている。昆虫、魚類、鳥類、爬虫類であれば卵の殻を破った瞬間から、哺乳類であれば母親の胎内から産み落とされた瞬間から、諸行無常の世を生き抜くことを強いられる。



 ところが人間はどうしてか、こうした宿命から外れた位置に生きている。生物学上は哺乳類の一種に過ぎないのに、彼らは社会の中で暮らす上で、あらゆる行為に責任を持たされる。ワタシ達のような未成年にだって当然それはあるわけで、例えばボール遊びで窓ガラスを割ってしまった時など、ささいな事柄でも発生しかねない。



 テレビ画面のむこうでいい歳した大人たちが、企業の不祥事や政治の汚職などで平謝りを行うシーンを時たま目にするが、一列に並んだ白髪頭の下ではきっと、少しでも責任から逃れるための方便をあれやこれやと、顔を歪めながら模索しているんだろう。あるいは、表向きは責任を取る体でいて、次の斡旋先へ飛び立つ準備を粛々と進めているのだろう。



 責任とはそうやって、膨れ上がったとしても意図して小さく砕かれてしまう。手垢を付けずに一気食いできるのは、武士とかヤクザとか、仁義溢れる潔い人種だけなんだろう。彼らは揃いも揃って、確固とした己を持っているのだから。



 考えるでもなく、進路決定も最後は己の責任だ。



 高校受験を終えたばかりのなまじ未成年がそれを自覚するなんてのは難しい。自覚できる日が来るのは早くて数か月、遅くて数年といったところではないだろうか。



 この学校にして良かった、あの学校にすれば良かったなど、一人ひとりが責任を無意識に自覚するのは、たいがいそうした瞬間に現れると思う。



 ワタシ自身はどうかといえば、当然そんなの分からない。



 時の流れは残酷なまでに早い。人の命など、熱したフライパンに落とされた一滴の雫に等しく、瞬く間に気化して何処かへ行ってしまう。



 それでも人は、生きているうちに何度も決断を迫られ、その度に悩まされる生き物だ。皆が皆いつでも一寸先の、先の見えない靄だらけの人生に怯え続けている。大げさだけど、嘘でもない。



 現にあるのは〈ワタシ〉という名のレールと、ワタシという名の乗り物だけだ。二つが脱線して離れれば、人は人でなくなるのかもしれない。あるいは、決断するという行為が出来なくなった時、ワタシは〈ワタシ〉でなくなるのかもしれない。



 ワタシが人でなくても良いのなら、話は別だ。



 手足が何本も生えていたり、空を飛んでいたり、ひょっとしたら地下とか深海とか、真っ暗闇の中で暮らす生き物なんかに生まれ変わっても可笑しくはない。この世のどこかで〈ワタシ〉という存在は時を越え、形を変え、誰にも気づかれないままどこまでも、どこまでも続いていくのであろう。



 しょせんはすべて、ワタシの無意味な妄想だけれども。



      ✡



 高校生活二年目の冬。



 具体的には三学期が始まって一か月と少しの、二月の中旬。



 春夏秋冬のバトンリレーも、春からは若草萌え香る初々しさを、夏からは命の躍動感あふれる灼熱の気を、秋からは待ちに待った実りと収穫による充足を各々受け継いで、アンカーたる冬へと託されていった。



 ところがワタシのいる教室中の生徒は皆、そんな情緒的雰囲気とは遠くかけ離れた、ぼんやりとした空調の暖気と、単調で睡魔を呼び寄せる力を十二分にもつ、男性教師の陰険な低い声とで、程よく漬け込まれている。



 それでも居眠りをこく訳にもいかず、何故なら教師の指名に応えられなかった者は、推薦入学を志望する者にとっては命綱となる内申点をガクガクッと下げられる、不合理ではた迷惑なシステムが出来上がっているからだ。



 生徒の大半は今、半目を維持して審判の時を待っている。



 その教師の担当授業は、世界史だ。予習はきっちりやっておくようにといつも宣言し、いざ授業となれば予習してきた範囲を教科書にのっとって板書、解説と一通り進めていくという、ほぼ完全に受け身の授業。



 ワタシの中学の授業では当たり前だった、ある時代の出来事が起こった理由を討論形式で進めていく授業形態とは真逆の、それこそ周囲のクラスメート達の同情を買って出たくなるような退屈っぷりだ。



 ―――ワタシはどうなのかって?



 無理もない、クラスの皆に倣って、今もうつらうつらと前後左右に身体を揺らしている。身体は為すがままだが、意識だけは妙にはっきりしている。



 感覚としては、明晰夢を見ている時にそっくりだ。夢の中にいる自分の身体を、手足の先まで覚醒時と等しく精密に動かせ、夢の展開までをも思い通りにできるような、ココロだけが異次元の世界に住むもう一人のワタシに乗り移ったような、そんな感覚だ。



 でも現実は、そう思い通りにいかないものだ。



「えぇーちょうどこの時期ぃ、ドイツではナチスという労働者党が政権を一党独裁しぃ、国民全員があのちょびヒゲを崇拝していたわけでぇ」



(ちょび、ちょびヒゲ……ヒットラーぁ)



 一方、教師たるナイスミドル(自称)の男は、黒板にやたら丁寧に書き上げたハーケンクロイツ(〝卍〟を鏡合わせで逆向きにしたナチズムのシンボルマーク)にたいへん満足しつつ、教壇の左右端をノッシノッシと行き来している。



「ナチス党員は皆、あのちょびヒゲとその腹心たちの顔を見ればすぐさま、その言葉を声高々と口に出し、敬意を表したわけでぇ」



(ふ、腹心……ゲッベルス、シュペーア、ヒムラー、モーンケぇ)



 クラスメート達も、催眠にかかったように彼の動きにつられて上体を左右に、それこそパスカルのいう〝考える葦〟のように揺らしている。皆が何かを考えるような素振りは、今の所さっぱり見られないけれども。



 実際、貴方の喩えは言い得て妙ですよ、パスカルさん。



「ニュルンベルク党員集会においてもぉ誰も彼もが威勢よく叫んでいたそうだがぁ、さてその言葉は一体何だったかな、と」



 教師の口が、そこで止まる。



 空調のゴウゴウという作動音が部屋中に盛り返され、緊迫感を細やかに炙り出す。



(何だったっけぇ……じ、じ、じぃ)



 すると、さっきまでゆらぁりゆらりと波打っていた葦の一本一本が、みな等しく居住まいを正す。瞼のシャッターも一気に持ち上げられ、いやでも気が引き締められていく。



 ところがワタシは今も曖昧な意識のまま、空想の花畑へとトリップ寸前である。



 ナイスミドル(自称)の教師の爪先が、ワタシ達の方へと向けられる。



「では、答えてもらおうかぁ」



(じぃ、じーぃ……く)



 窓際でまどろむワタシは、もはや臨界点に達しているようで、返すべき答えはすでに気管支を通過中だ。これは職業病とも言ってもいい、詮方ないワタシの宿命である。



 だのに眠気は一向に吹き飛んでくれない。やっぱり夜更かしなんかするんじゃなかった。



 寝惚けつつ、昨夜の出来事を思い出す。







 昨晩夜遅く、規則正しい生活を送る自分にしては珍しく眠れない夜だったので、部屋の時計を見ると深夜の二時を回っていた。



 ベッドの中で何度も寝返りを打っては布団とシーツをぐしゃぐしゃにしていくルーチンワークに耐えきれなくなったワタシは、家族の皆がすっかり寝静まった中、睡眠導入のために白湯を飲もうと一人、リビングに向かっていった。



 できるだけ軋みを上げないように階段を下りて行くと、ワタシはリビングがいつもより明るいことに気が付いた。実際にリビングに入ると、控えめな音量で通販番組が放送されていた。



 深夜番組の好きなウチの母がたまたま消し忘れたのだろうか、あまり深くは考えもせず、ワタシはあえてテレビをつけっぱなしのまま液晶を離れ、シンクの近くにある、ちょうどいい塩梅に冷めた魔法瓶の中身を確認し、マグカップに白湯を注いでいった。



 カクテルで言うところのトゥーフィンガーあたりで給湯のボタンから指を離し、一般的な家庭のテレビにしてはサイズの大きいテレビの前に置かれたソファに腰を下ろし、さっそく白湯のはいったカップの縁を傾けた。



 通販番組はすでに放送終了一分前ということもあり、ナノコロイド分子がうんたらかんたらという美容液と値段が画面に映りっぱなしだった。この手の類のブツは母が即断で注文するだろうなと鼻で笑いつつ、放送終了のテロップが流れ終わるまで視聴していた。



 問題は、そこからだった。



 エンドロールが終わり、画面がフェードアウトして真っ黒に変わっていく最中、いざテレビの電源を消そうとワタシがリモコンに手を伸ばそうとした瞬間、画面に新しい何かがフェードインしたのだ。



 それが、一匹の真っ白な猫の後ろ姿だった。



 画面の黒を背景に、白猫が何処か一点に向かうように延々とと歩き続ける光景だった。



 初めは深夜ドラマか何かのプロローグかと思ったのだが、GIFアニメのように同じ映像が何度も何度も流れていくだけだったので、次第に不気味さを覚えていった。



 手元にあったリモコンを取り、電源ボタンをポチポチ押してみる。けれども電源ランプは緑色のままで変わらなかった。



 リモコンの電池が切れてしまったのかと思い、電池蓋を剥ぎ取って中身の単三電池を取り換えに席を立つ。その間、テレビの画面から目を離さずにいたが、白猫の歩く映像は流れっぱなしであった。



 リビング入口付近の戸棚、ちょうどワタシの両肩辺りにある扉を開き、電池の詰まったパックを引っ掴んで早足で戻っていく。



 ソファに腰を下ろすなり、ワタシはパックの中から二本、単三電池を引き抜いて、リモコンに収まっている電池と交換をする。



 電池カバーをぱちんと嵌め終えた直後に画面を見上げると、白猫の足が止まった。



 間を置かず、ゆらりとした動作で白猫が全身をこちらへと向ける。ワタシの全身が、恐怖で無意識に硬直した。



 白猫は、透き通るマリンブルーの瞳をした、毛並みの美しい顔をしていた。



 そして、あろうことか少年のようなの声で、



『さぁ、僕のところへおいで』



 と腹話術のように横一文字の口で言い残し、あっという間に画面からフェードアウトしていったのだった。



 深夜に不気味な番組を観ればそりゃあ、たといワタシでも一人でトイレに行くのが無闇に怖くなったりとか普通はするもんだが、その時はそうではなかった。



 ソファから立ち上がろうとした瞬間、暖房もストーブも付けてない部屋の中でボーッとした眠気に襲われ、みるみる全身の力が抜けていった感覚に見舞われた。



 覚えているのはそこまでで、朝日が昇りきった頃にはなぜか、ベッドの中でいつものように眠っていたのだった。



 翌日、すなわち今日の朝、クラスメイトにありのままを話して見たのだが、知り合いの誰もが知らないと言うので、以来ワタシは悶々としたままでいた。







 そんなこんなで、話は教室に戻る。



「よぉーし……じゃあ、尾上」



 首ごと視線を左右に数回ずつ、わざとらしく捻って間を作りながら、教師たる中年のおやじは、一人の生徒を指名した。



 教室後ろの窓際というおいしいポジションに居座る女子目掛け、クラスメート全員の視線がレーザーポインタの如く的確に突き刺さる。



「尾上―ぇ、いないのか~?」



 いるっつうの、ここにいますって。夢見心地なだけなんですっ。



 ナイスミドル(自称)は、意外と執着深い。一度標的を定めたら、獲物が動き出すまでひたすら煽り続けるのだ。来世はハイエナで決まりだろう。



 傍観者効果だろうか、ワタシのすぐ前の席の奥井おくい(男子)も、右隣の久池井くちい(女子)も、果ては後ろにいる金森かなもり(男子)までもがしっかり固まってしまっている。



 五つくらい数が足りないが、今の状況こそまさしく八方塞がりであった。



(じー、ぃく……じーく)



「ほぉれ、返事をせんかーぁ」



 もともと深い眉間の皺を一層寄せ付け、声を張り上げてくる、その教師たるおやじ。たかが県立校だというのに、なにがあんたをそこまで熱心にさせるというのか。



 ナイスミドルと言いつつ実年齢は団塊の世代と変わらないのだから、早いところ年功序列の箱舟に乗っかってどこまでも遠くに旅立ってほしい。



 これだけ散々愚痴ろうが現実は非情な顔のままで、万事休すかとしきりに煽ってくる。内申点は誰にとっても伝家の宝刀なのだ、手放してなるものか。



(返事ぁ、はい。じーく、はい。ジーク、ハイ……っ⁉)



 時は来たれり、無意識のうちに口の端からじっとりと顎を伝い、落ちていった透明で粘性の低い物体が机上に達したその次の瞬間、



「尾上~ぇ……なち!」



「―――じっ、ジーク・ハイル‼」



 果たして、ワタシは覚醒した。兼ねてから溜め込んでいた、教師からの執拗な問いに威勢よく答える形で。ワタシの右腕は、付け根から末端までの悉くがピィンと伸ばされ、見事な仰角四十五度を保っていたのだった。



「よぉし、正解。流石によく勉強してるな」



 苦虫をこれでもかと噛み潰したような顔だったナイスミドル(自称)はいかにも満足気な顔で、硬直し続けるワタシを称賛した。



 しかして数秒の後、クラス中から暖かな拍手の雨音が、ワタシの耳朶を打ち続ける。

 授業終了のチャイムが、ほんの少しだけ遅れてやってきた。





「なっちゃんお願い、もっかいアレやって、アレ!」

「いや、頼むからもう忘れて」



 六限目の授業を経て、顔から出た火に肌を舐め尽くされる思いをしたワタシ。正直、アレが最初で最後の大恥であってほしいと、今も切に願う。



 窓越しに外を眺め遣れば、真冬の空は曇天と降雨の迷惑な抱き合わせ。



 ホームルームも終わり、放課後になり、机に突っ伏していたワタシの元にやってきたのは、仔犬の如き無邪気さを日頃からまき散らす、同じクラスの生徒。



 そして、濃厚なチョコレートの香り。



 今日は二月十四日、バレンタインデーだった。ウチの高校では毎年、この日の放課後になると、各教室中がそれはそれは甘ったるい匂いで充満する。



 チョコの匂いは朝のホームルームに端を発し、時限を重ねるたびに緩やかに濃度を増していき、昼休み中にピークに達すると、放課後を過ぎてようやく一段落する。



 チョコが苦手な人間には終日、胃もたれを免れ得ないだろう。



 生ぬるい空調の風にチョコ特有の匂いを発する分子が掻き回されて、午後の授業を睡魔との戦いの場へと変化させた張本人(人ではないが)なのだから。



「やってくれたら義理チョコあげるのにぃ」



「そんなものでワタシを釣るな、裏切り者」



 今年は去年にもまして、とにかく教室がチョコ臭かった。この場で食わんでも、家に帰ってゆっくりじっくり楽しめばよかろうに。



「何のことぉ?」



「とぼけない、知ってて起こしてくんなかった癖に」



 額から鼻先だけを起こし、口先は見せず、話し相手を非難する。



 先程からワタシの机に両肘を突いてヘラヘラしているのは、右隣の席でいつも授業を受けている女子生徒、久池井紫月くちいその本人だ。あだ名はしーちゃん、一応ワタシの友人である。



 とにかく時流には敏感で、行動を起こすのもクラス一早い人間である。



「なっちゃんはさ、もう誰かにあげた?」

「チョコ? いや、まだだけど」

「またぁ? 去年もそうじゃなかったっけ?」

「お金も時間もかかるし、メンドクサイ」



 チョコは好きだがバレンタインデーは好きになれない、ワタシはそういう人間である。



「それじゃ女子失格だぞぉ、なっちゃん」

「じゃあ、ワタシはもう一人前の女だね」

「いんや、なっちゃんはもう婆さんだね」

「そこは姉さんって言ってほしいな、恋多きしーちゃんセンセ」



 言い終えてからようやくワタシは、未だ鉛のように重たい自らの身体をむっくと起こした。紫月の視線が、僅かに上に傾いた。気にせずワタシは続ける。



「ところで今年は、一体どれくらい渡したの?」



「チョコでしょ? えーっとね、まず担任の中曽根でしょ、それから世界史のナイスミドル(自称)でしょ、あとクラスの友達みんなでしょ、それからそれからぁ……んふふ」



 にやけ始める紫月の顔を見て、ワタシにはピンと来るものがあった。



「なに、いつの間に抜け駆けしてくれちゃったワケ?」

「まだ一言もいってないじゃん……ってことはやっぱし、なっちゃんも脈アリな子、いるんだね?」



 紫月がワタシに顔をグイと寄せてくると、頭の左右で均等に束ねられた艶のある髪が、馬の尾っぽの如くしなやかに揺れた。俗にツインテールとも呼ばれる髪型だ。



「もし当てられたら、ワタシお手製の義理チョコあげるよ」



「ちょっと、人のセリフ取らないでよ」



 とぼけたワタシの口調に紫月は一端ムッとなったが、すぐに目を丸くして聞き出してきた。



「てか、なっちゃん今チョコ持ってるの?」



「ありますともセンセ。オンリーワンのが、ね」



 意味深な発言が、ワタシの口から一つ。言い終えた瞬間紫月の手はすでに、机脇に提げてあるワタシのカバンの金具へと手をかけていた。



「は、はなせバカコラっ」



「ええじゃないか、減るもんじゃあんめぇに~ぃ」



「口に入れたら減るっつーの、いい加減にしろっ」



 紫月は一向に引き下がろうとしてくれない。流石にイラついてきた。とはいえこのまま膠着すれば、今度こそ本当に万事休すとなってしまいそうだ。



 つい先ほどの発言は見栄でもハッタリでもない、ただの事実である。義理チョコにしてはちょっぴり大げさなので何チョコかと聞かれれば正直、答えに詰まってしまうのだが。



 つまり、それを誰にあげるかは、まだ決めていない。幾つになっても決断力の鈍いワタシには、答えを出すのさえ一苦労だからだ。逆にこういう特別な日は、大いに迷って迷いまくるのが醍醐味ではなかろうか。



 意中の人間がいてもいなくても、こういう時だけはワタシだけでなく周囲の誰もかもが特異な雰囲気に酔いしれて、見えない何かが背中を後押ししてくれる気がする―――傍にいる小娘がいなければ、そんな気持ちにどっぷり浸かれていたのに。



 よし、こうなりゃ作戦変更だ。



「ねぇっ、しーちゃん」



 ワタシが手の力を一気に緩めると、紫月は拍子抜けした顔で後ろによろけてワタシのカバンから手を離し、勢い余って尻もちをついた。



「なにすんのよぉ」



「一つ、占ってほしいことがあるんだけど」



「い、いきなり何ぃ?」



 スカートの埃を払いながら立ち上がった紫月が、ワタシの元に戻ってくる。



「今日これからチョコを渡す人と上手くやっていけるかどうか、占ってほしいの」



 紫月はキョトンとなったが間もなくニヤニヤとした顔つきになり、それでもからかうような素振りは見せなかった。



 意外なことに―――意外というのも彼女にとっては失礼かもしれないが―――紫月はタロット占いの趣味を持っていた。



 ワタシはその手の事情にはとんと疎い人間なのだが、ハマる者にはとことんハマらせる魅力がタロットにはあるのだろう。



「一回二百円」



「え、カネ取んの?」



「じょーだんじょーだん、ちょっと待ってね~」



 紫月はワタシの右隣の席、つまり彼女自身の机に下がっていたカバンをまさぐり、数秒経ってから厚みを帯びた長方形の物体を取り出し、ワタシの机の上に置いた。



「よーし、じゃあカードを混ぜるから好きなタイミングでストップ、って言ってね」

「うん」



 机の上で細くたおやかな指を持つ紫月の両手が、裏向きのタロットを無作為に広げ、回していく。

およそ五秒経過して、畏まった態度でストップ、と声をかけた。



 ピタリと止まった彼女の手は、バラけたタロットの一枚一枚を優しく労わるように寄せ集めていく。



 彼女が束となったタロットの四隅を揃えると、今度は裏向きのまま横一文字に、カード同士が少しずつ重なるように並べていった。



「さ、この中から好きな三枚を選んで」



 頷いたワタシは直感に任せ、左から一番目、十二番目、十四番目を選択して抜き取った。



 紫月は残りのカードをまとめて机の端に置き、残った三枚を等間隔に並べ直した。



「なっちゃんの方から見たカードの向きが、占いの結果だからね」



「分かった、よし来い」



 紫月が長い睫毛をした両目をヒタッと閉じ、深呼吸を一つ。精神集中の合図だった。



 すでに並べられたカードの絵柄が変わるでもないんだし、雰囲気作りが一番として行っているように見え、相変わらず客観主義な自分を可笑しく思う。



 我に返った彼女がゆっくりと両目を開き、ワタシから見て最も左側の一枚―――占う者の過去を表すらしい―――をめくった。



「まずは〝隠者〟の正位置か……なっちゃんは結構、奥手なのかな」



(う、当たってるかも)



 カードにはランプと杖を持ち、フードを被った老人が描かれていた。どことなく後ろ暗い表情をした老人からは、慎重さや思慮深さが感じ取れる。今に至るまでのワタシの内面をしっかりはっきりと象徴したかのような一枚だ。



 続いて紫月が、現在を表す二枚目をめくり出す。



「二枚目は〝運命の輪〟の逆位置……えー、進展も無しとはキッツいなぁ」



(うわ、これも当たってるな)



 カード中央に置かれた車輪の周りを、アヌビスやスフィンクス等の神話の生き物が取り付いていた絵が、そのタロットには描かれていた。きっと正位置ならば運気もアップしそうな雰囲気なのに、逆位置だったので残念だ。



 無言のワタシを見つつ、紫月はいちばん右、未来を表す最後の一枚をめくった。



「あーこりゃヤバいよなっちゃん」



 落語家みたいに額に手をペシンと当て、彼女がワタシの注意を引いた。



「ど、どうしたの?」



「〝魔術師〟の逆位置が出たってことは、アタックしても上手くいかない可能性大なんだよ。参ったねぇこりゃあ」



 三枚目のカードには、テーブルの上に手品用と思しき数々の道具を並べ、大道芸人のような格好をした男性がその手前でコインとステッキをもてあそぶ姿が描かれていた。



 素人のワタシには解釈のしようもなかったが、紫月の言う通りならばこのタロットの正位置が示す意味はチャンス有り、とかだろうか。



「マジ?」



「マジマジ。こりゃあ、チョコ渡すのは止めといた方がいいね。渡した男子にはもう別の女がいました~とか、そーゆー最悪の結果になるかもよ?」



「そっかぁ……」



 とりあえず、彼女の前で萎れてみる。もしワタシに心から好きな男子がいたらショックで狸寝入りしてもいい自信があったが、そうでなくても傷つくものは傷つく。



 やらないで後悔するより~とかいう謳い文句が、こういう時は信じたくなくなった。



「病まない病まない、今日はたまたまツイてない日なんだって。運勢はいつだって上がったり下がったりしないと、世の中のバランスが保たれなくなっちゃうからさ、ねっ?」



「うん、ありがとしーちゃん。そうだよね」



 カラッとした笑顔を、若き占い師へと贈る。一方の彼女も照れたように笑い返してきて、この親友の持つ魅力を再確認するに至った。



 ここで今日一日が終わってくれれば、明日は幸運が舞い降りてくる気がしたのに。



「だからなっちゃんお手製のスペシャルチョコはぁ……アタシのモンだ!」



「のわっ何だよ、結局チョコが欲しいだけじゃんかっ」



「恨むんならタロットの結果を恨め~アタシはなーんも悪くないもーん」



 かくして、ワタシはまた振り出しに戻った。



 確かにタロットの通り、現状はなんにも変わってくれないみたいだ。



 ワタシに運気という言葉は程遠い概念なのだろうか、運命という名の歯車が一生錆びついたままにならないことを祈りたい。困った時に神頼ばかり繰り返したら、神様は過労死するか激オコになって天罰を下すだろう。



 しかし今日の神様は、都合のいいことに非番でもやってきた。



「あっ」

「えっ?」



 声を上げたワタシの視線の先、教室の教卓側の入り口にふと現れた、一人の影。



 紫月も僅かに遅れて視線の対象をしかと捉え、一目散に走り出した。



「アイト君、待って~ぇ」



 直後、ドン引き必死の猫撫で声がワタシの鼓膜を舐めあげた。



 はからずも〝アイト君〟と呼ばれた生徒は、鼻息荒く駆け寄ってくる存在に俊敏に反応し、気障な振る舞いで右手を上げ、応対した。



 漢字に直すと、女乃めの愛人あいと。読み方を変えれば、おんなのあいじん。



 端整な顔の造り、すらりとした体躯と、異性を惹き付ける要素は当然外していない。



 白い歯を覗かせて微笑む瞬間が多くの同級生いわく最も魅力があるらしく、無意識でそれをやってるのだとしたらもはや天賦の才だ。



 一方、しーちゃんこと久池井紫月女氏に言わせれば「あたしが男で彼が女だとしたら、一目見てドキッとするよりはムラッと来るタイプ」らしい。表現がまわりくどい上にこれっぽっちも共感できなかった。



 しかしあの食いつきっぷりから判断するに、来世はチョウチンアンコウで決まりだな。性別的役割としては逆だけど。



 邪魔者の遠ざかった机に頬杖を突き、飼い犬の如く尻尾代わりのツインテを揺らしつつ、懐から抜き出した赤い小箱を押し付ける紫月のはつらつとした横顔を、ワタシはじっくりと観察する。



 彼女に尻尾が生えてればそれはもう上下左右に振り回すうちに千切れ飛び、本人はそのことにすら気づかないくらいの純朴さ、あるいは無鉄砲さをもってのアタックだ。



 はたから見るに、当たっても砕けるだけで生産性もないだろう。



 が、ワタシにも次第に心理的飽和という名の飽きがやって来たので、タロットを鞄に戻してやり、彼女に気配を覚られぬよう教室後方の出入り口から、勉強道具に埋もれるチョコ入りの鞄を引っ提げ、軽やかに抜け出した。



 教室を出る瞬間、ほんの僅かな間だけど、女乃君と目が合った。



      ✡



 幽霊部員の醍醐味といえば、コスパであろう。登録した部でロクに活動せずとも、推薦入試では言いようによってアピールポイントに使うことができる。



 中学ではクソ真面目に吹奏楽部に入って有終の美を飾って引退したが、高校ではロクな頑張りすら見せていない。



 気が向いたときに音楽室へ幽霊の如くふらぁりと現れて、得意のトランペットをすずろに鳴らしながら本部員と駄弁り、満足したら退出する、いい年こいた遊び人のようなワタシ。



 同部のメンバーからはいつでも大歓迎を受けているが、今日も変わらず気晴らしを目的にピースカプースカ繰り返し、空がすっかり藍錆びる午後の六時ごろ、ワタシは部室を後にした。



 暖房の掛かっていない校内の廊下は、階数を問わずひどく底冷えする。薄地のパンストはもちろん防寒具の役目を果たすこともなく、剃り残しの体毛に引っかかって内股や太腿をチクチクさせるだけだ。



 こうなりゃいっそのこと、駅でも見かける他校の女子みたくジャージの長ズボンでも穿いて下校するかと考えもしたが、母親がそれを許さなかった。



 彼女曰く「品位が落ちる」からだそうだ。たかが一介の女子高生に品位なんぞ求めないでほしい。



 下校時刻はとうに過ぎているが、まだ幾らかの教室は真っ光りのままで、そのうちの一つでは本日獲得したチョコの収穫数を競い合う、二人の無邪気な男子の声が騒がしかった。



 数で勝る一方の童顔な男子がもう一方の敗者たる切れ長の目をした男子に対し、情けをかけるつもりなのか、懐から戦利品と思しきものを一つ差し出した。切れ長は黙ってそれを受け取り、早速中身のものを口に入れたが、すぐに青い顔をして暴れ出した。



 ああ、きっとあのチョコはカカオ分98%の健康用だろう。



 実際、チョコ好きのワタシも興味本位で購入して酷い目にあったことがある。あの底なしの苦さを例えるとしたら、使い古した墨汁が口いっぱいに広がる光景をイメージすれば、何となく伝わるだろうか。



 そんな劇物を口に含んだまま、切れ長の男子は教室を飛び出していった。



 ちなみに彼がワタシの後ろの席の金森である。そしてもう一人、相方のリアクションをゲラゲラと笑う童顔の男子が、ワタシの前の席の奥井である。



「あれ、尾上さんじゃん。これから帰り?」



 密かに彼らのやり取りを眺めていたワタシに気づき、奥井が教室越しに声をかけてきた。その少し前に金森とすれ違ったが、薄暗い中だったので気にしないことにした。



「う、うんっ」



 突然のことだったので、たじろぎながらの返事になってしまう。



「外真っ暗だし、雨も降ってるから気をつけた方が良いっぽいよ?」

「ありがとう、別に心配ないよ」

「今、青田線の電車が少し遅れてるみたいでさ」

「マジ?」

「うん。人身事故が起きたとかでやってらんねーって、先に帰ったダチからメールが来てね。しかも事故ったの、ウチのガッコの生徒らしいよ」



 ありがたい情報を貰ったと同時、他人事ではない事態に背筋がヒヤリとなる。



「そ、そうなんだ」

「良かったら、俺達が駅まで付いてってもいいよ。どうせ暇だし」



 だが、奥井の言葉の裏を読み取ったワタシに、隙はなかった。



「いいってば、そんな」



「あはは冗談だってば、じょーだんっ」



 ヘラヘラしつつ、彼は大仰に手を振って見せる。この男、根底では紫月とそっくりな気がする。



「奥井てめぇふざけん―――おおっ、やっぱ尾上じゃん。ジーク・ハイル!」



「……う」



 奥井に足止めされている内に、金森がトイレ近くの水飲み場から戻ってきた。しかも、余計な挨拶と敬礼まで付けてきやがった。小学生でもあんめぇし。



「ななっ、尾上は誰かにチョコあげた? ぶっちゃけまだだったりする?」



「え、いやそれは、その」



 隙を見せぬつもりでいたが、あっさりと目の前の男に崩され、答えに詰まる。こういうグイグイ寄ってくるタイプは、昔から男女問わず苦手なワタシ。



 育ちが違えば中身も違うのは至極もっともだが、ワタシ自身はいつどこで育とうが今とまったく同じ状況を繰り返しそうな気がして、ニーチェの説く永遠回帰を束の間に垣間見る。



「金森、がっつきすぎ。魂胆丸見えだっつの」



「うげっしまった、先走りすぎたよ。スマン、尾上っ」



 謝っても、出るものは出ないのだが。安堵の意味で、思わずため息が漏れる。



「そんなに欲しいなら、あげてもいいけど」



 唐突な一言に金森の表情は一変し、奥井は机を揺らした。



 ワタシは制服のポケットから、楽しげな包装紙に覆われた小粒のチョコ(ハート形)を取り出し、手の平に広げて見せる。普段は滅多に見せないぎちぎちのスマイル付きで。



「金森くんだけに、特別だよ」



「お、おお、おおお」



 そっと手渡されたチョコを受け取り、やけに興奮し出す金森。男ってやっぱし、こういう言葉に弱いのだろうか。



 男子校なんかに行かなくてよかったね、と余計な言葉が口の端から零れそうになるのを、そこはかとなくこらえる。



「つっ、次はツンデレ風に頼む!」

「は?」



 わざわざ合掌してまで無理な注文を吹っ掛けないでほしい。



 出来なくはないけど、したくない。



「こっ、このチョコはアンタだけの特別なんだから、大いに感謝しなさいよねっ!」



 下手すれば少女と聞き違えそうなその声の主は、いつの間にか教室の出入り口まで寄ってきた奥井だった。

 ワタシと金森は、開いた口をさらに大きくした。



「あれ、こんな感じじゃなかったっけ? ツンデレって」



 キョトンとした表情の奥井。それほど今の演技に自信を持っていたのだろう。



 いちおう評価に値するハマりっぷりだったので、ワタシは我に返って行動に出る。



「奥井くん、ハイこれ」



「お? これは……」



 制服についている別のポケットからまさぐり出し、彼の手の平に乗せたものは、金森にプレゼントした物と同様の一口サイズのチョコ(四角形)だった。



「奥井くんだけに、特別だよ」



「ほ、ほほ、ほほほ」



 先程とは違ったリアクションに出会う。たぶん嬉しいんだろう。



「尾上ぇ、特別ってさっき言ったよなぁ?」



 金森の物悲しい声が、右から左へと流れていった。



 なるほど、こりゃ構って欲しいんだな。



「特別の意味を深く考えることだよ、金森くん」



「そうだぞ金森。もしかしたら尾上さんは俺が本命で、お前が大本命かもしれないだろ?」



 奥井からの余計なアシストが入る。それは中々の無理難題だ。



「なにっ、本当かソレは⁉」



 しかし見事に金森が食いついた。今いる位置から一歩前に勇み出てきて暑苦しく思うが、今の時節を考えれば丁度心地よい暖かさに―――なるわけないか。



「ええっ、と」



 またもたじろぐワタシ。他人を〝読め〟ても〝聞く〟ことに関しては、未熟なままだ。



 だからきっと、もう一歩が踏み出せないないのだろう。人間嫌いとか難儀な性格ではないはずだが、やはり他人との距離感を人一倍意識するからだろうか。



 嗚呼、心の声を聞ける魔法の耳が欲しくなってきた。



「ほら、そうやってグイグイ詰め寄るから引かれんだよ。尾上さん実はコイツね、中学ン時に同じ女子に三回コクって三球三振」



「あーあーあー言うんじゃねえよぉ!」



 奥井が見透かしたように煽り、金森が食ってかかる。



 ワタシが思考停止に陥ってる間に二人は廊下で鬼ごっこをおっ始め、突き当たりの角を曲がるともう、すっかり見えなくなった。



 と思いきや、ワタシが下駄箱に向かおうと踵を返した途端、すぐさま二人は戻ってきて、



「チョコありがとね、尾上さんっ」



「俺からもサンキューな! 来年は、大大本命のを頼むぜ!」



 わざわざ足踏みして止まってまで、そんな礼を述べてきたのだった。



 そのままあっという間にワタシの前を過ぎて行って、今度こそ気配すらなくなった。廊下に残されたワタシは再度身に染みる寒さに堪えつつ、物思いに耽りつつ、目的地へと歩を進めていく。



 ところで、奥井の言っていた「金森の三回コクって三球三振」というのはつまり、意中の相手に三回連続で「好きだ! 好きだ! 好きだ!」と送って「ダメ! ダメ! ダメ!」と返されるような告白だろうか。これじゃあ逆に三打数三安打だな、告られた相手が。



 姿の見えぬ二人の声が舎内を木霊するたび、ワタシは得意顔になる。



 彼らは絶対に気づいていないだろう、二人が受け取ったチョコはいずれもが、ワタシが紫月の机の中からくすねたものだということを。



 そして、紫月はいずれ気づくだろう。教室からワタシと一緒に姿を消したそれが、名のあるデパ地下で購入してきたというゴディバのチョコレートであることを。



 三人が六限目に助けてくれなかったことは、これでおあいこになった。



 ホント、傍観者効果なんてクソ喰らえだ。



      ✡



 下駄箱に程なくして辿り着いたワタシを待っていたのは、昼間よりもかなり厳しさを増した雨粒の冷たさと、大きさだった。



 バッグからつつじ色のマフラーを引っ掴んで手早く首回りを覆う。続けて折り畳み傘を開きながら外に出てすぐ、雨粒は雪混じりだということに気づく。お蔭で校門を抜けるころにはもう、傘の雨よけ部分がくたびれて、ずっしり重たくなる。



 人気を気にしつつ、傘の軸を取っ手伝いにクルリクルリと時に回して水気を払いながら、最寄りの青田駅へといつもと変わらず大股気味に歩いて向かう。



 勢いよく路面を踏み歩けば、暗色に染まったコンクリから飛び出す水滴がくるぶしより下に侵食していき、ひどく不快な感触が張り付いてくるのは言うまでもない。



 こんな天候の日に最も厄介なのは道路を走る車両云々からの水飛沫でもなく、しょっちゅう風向きの変わる雨粒の群れでもなく、ズバリ自転車だ。とくに、向かい風と同じ方向から傘を差して来られるのが一番質が悪い上に、そもそもが危ない。



 ましてや今は暗がりの中を歩いているのであるから、遊園地の下手なアトラクションよりもスリリングな体験ができてしまう。やっとのことでやり過ごすとまた一台や二台、狭くて不都合な歩道を我が物顔で過ぎていく。嗚呼、ワタシもやり返したいな。



 無言でひたすら足を運んでいると、煙った視界の先には最寄りの青田あおた駅南口を示すシックなデザインのプレートが確認できた。



 見慣れた光景だが、こういう天気の日の南口は雨宿りをする人でごった返し、改札口までたどり着くのに一苦労を強いられる。おまけに、雨天日特有の埃っぽい臭いが駅構内を埋め尽くすものだから、アレルギー体質のワタシには大きな負担となる。



 あいにく今日はマスクを持ち合わせていないのでマフラーで口元を隠し、定時退社のおっさん臭い人混みを否応なく突っ切り、やっとの思いで改札口に定期券を押し付ける。



 ようやく一息ついて、改札を抜けてすぐの電光掲示板を見上げ、奥井(の友人)の言葉が本当だと知る。



 こうなるともう電車は定時に来なくて当然なので、近くのコンビニでホット用のミルクティーを購入し、店を出てすぐに湯たんぽ代わりとする。



 人気の少ない場所に移って壁を背に、ボトルのキャップを捻って中身を一口。心安らぐ甘さが、寒さばかりに気を取られていた頭をニュートラルへと戻していく。



 どうせ今日は電車も遅れてることだし、別のホームでも散策してみよう。



 そうやって心身をほっこりさせた後、帰りとは別のプラットフォームに繋がる幅広の階段をゆったり下っていく。



 都心から少し離れていることもあって、常時人が途切れないということもなく、上ってくる人は皆無だった。だけど、視界の前方には発車時刻までの時間を持て余す人がまばらに散っていた。



 下り始めてから三十秒弱で、階下のプラットフォームに靴底が付く。



 足を止めずに左右を眺め渡すと、両側の線路の上にはすでに電車がスタンバイしていた。ベテランそうな二人の車掌さんがダイヤ出発前確認のためか、忙しそうに動き回っている。



 今冬から青田駅を含む区間の電車が全面リニューアルとなって、父が新車両のブレーキシステムの設計を一任されていることを本人から耳にした。



 今のところ、故障の報告は一件もないので逆に心配が絶えない、と安心よりも謙遜な態度を四六時中優先させる父には、実の娘たるこのワタシも頭の下がる思いである。



 いつもは立ち寄らない一・二番線、両端の一方にはいつも立ち寄る三・四番線につながる連絡路と、その道中に公衆トイレが設置されている。



 けっこう前から気づいているのだが、連絡路は百歩譲って無いよりマシだとしても、トイレなら上の階に十分すぎる数が確保されてるし、まったく予算の無駄遣いだと思う。



 便器の数を増やすより、ベンチの数を増やしてホームを居心地良くして欲しい。たしか改札の窓口近くに意見箱があったはずだし、今度こそ意見してみるか。



『今度参ります四番線16時30分予定、十両編成の水浦方面行きですがぁ、さきほど深河谷駅より復旧の目処が立ったとの情報が入りましてぇ17時13分、17時13分の発車予定となりますのでぇ、停車中の車両内にてお待ちくださいませ~』



 折しも駅のアナウンスコールが鳴り出し、寒さを微塵も感じさせぬ若々しくも機械的な男性駅員の声が後に続く。



 しかし参ったな、発車までまだ30分以上はある。もうじき辿り着く連絡路を通ったら、そのまま四番線の電車の中で暇をつぶしてもいいけど、ドアはずっと空きっぱなしで寒いから、やっぱり動き回ってた方が賢明かな。



 などと独り言ちる間に、連絡路の入口は目と鼻の先だ。出口までは十メートル強あり、入るとすぐに直角に折れ曲がるので、出口側を通路内から窺うことは出来ない。



 出来ないのだが、細かな視覚的情報を逃しがたい難儀な両目の働きのせいで、ワタシは視界の左端に予期せぬ光景を捉えてしまった。



(女乃君と、しーちゃん?)



 連絡路出口、すなわち向かいの三・四番線から見れば入口にあたる隅の方に見慣れた一人の顔と、見覚えのあるもう一人の顔があったのだ。



 バカな、たった数時間であんなに進展するなんて。我が身の内で冬眠間近だった好奇心が、新鮮な熱源を鋭敏に感知しする様を、痛烈に感じ取った瞬間だった。



 その時すでにワタシの足はモルタルに突っ込まれたように自由を失い、両目は揺れながらも対象のなす視覚的暴力に屈服せざるを得なかった。



 こういう日に限って、昔からの自慢である長時間のテレビゲームにも耐えうるタフな視力が恨めしくなる。



 二人は首元を一着の赤いマフラーを共有で覆い、見つめ合いながら両手を繋ぎ、その場所だけが因果空間から独立したように微動だにしないではないか。



(二人とも何を躊躇って……あっ)



 そうか、これがいわゆる相対性理論か。ワタシを含む周囲の人間にとっての一秒間が、二人にとっては星のまたたきに過ぎない時間しか流れていないっていうんだな。だからああして、意識だけがひどく間延びされた時間の中に取り残されているんだな。



 惰性的な思考に没頭して後頭部をボリボリと掻くうち、ふと思い立ったワタシは、アイドリングさせていた二本の足をためらいもなくベタ踏みさせ、今いるホームの正反対の連絡路へ向かって大股に歩みだした。

 紫月も女乃君も、ホームの向こうから密かな注目を浴びていたことに気づかなかったようなので、ここはひとつからかってやろう。



 連絡路を抜け反対側のホームへ躍り出たワタシは、通路の両端に停まる電車で暇時を潰す客たちに目もくれず、死角となる柱の陰へと潜り込む。



(よし、気づかれてない)



 通行人にいささか怪しまれることを承知で、潜入工作員よろしく鼻より上だけを柱から突き出し、二人の進展を伺い見る。どうやら、未だ固まったままだ。



 得意なスポーツ第一位に挙げてもいいくらい、ワタシはかくれんぼで見つかりにくい子供だった。存在感が薄いからとか、ベタな理由づけは御法度である。図工の時間において、絵画の才能を悉く爆発させていた過去を鑑みれば、むしろ目立っていた方なのだ。



 等間隔に並び立つ柱から柱へ、時には人波に紛れ、ついに二人との距離は三メートル弱というところまで接近する。

 

 ああなぜだろう、急速に胸が高鳴ってきた。かくれんぼ検定一級(急遽この場で創設)の血が騒いでいるからか。



 落ち着け、落ち着かんか。大きく息を吸ってゆっくり吐くんだ。たかが深呼吸されど深呼吸お前がやらんで誰がやる―――怒涛の自己暗示によってワタシの心身はひとまず鎮静化した。冷めた頭で、もう一回だけ二人を覗き見る。



(ホントに気づいてない、よね?)



 作戦実行への合図は近い。



 今いちど胸いっぱいに息を吸い込み、片手を心臓近くに当てて吐き出していく。それでもなお、鼓動は収まらない。いつも動悸が始まると、ワタシ自身に与えられたナマの生を嫌でも実感してしまう。



 およそ十秒後、ワタシと二人の近くで通行人の気配が消えた。今しかない。柱にべったりと預けていた上体を跳ね起こし、片足を軸にして前に方向転換。



 そして―――





《ずっとこの日を待ってたよ》





 心臓がドクンと跳ねた。冗談ではなく、本当にだ。



 勢い掛けていた手足が、全く反対のベクトルに打ち消されてしまった。折しも上の階から降りてきたやつれ気味のサラリーマンと目が合い、またぞろペースを乱されそうになる。



 多分まだばれてはいない。無理矢理そう確信付けて、体勢を少し前の状態に戻す。



 そしてすかさず、辺りをキョロキョロと見回すが、異変はない。



(幻聴……?)



 不可思議な現象には、とにかく疑いをかける癖のあるワタシ。感情のぶれはさっきの一瞬だけで済まし、取り乱した呼吸をさっさと戻していく。



 今の〈声〉は、あやふやな記憶でしかないが、女乃君だと思う。でもその〈声〉は、耳から入ってきたわけじゃない。もしそうならば、プラットフォームの構成上かなりの大声じゃないと届きはしないはずだ。



 耳じゃなければ、そう、頭の中から聞こえた・・・・・・・・・と言うべきだ。テレパシーってやつ。



 こんなことを言う自分がまだ正気なのを祈りつつ、事実本当に「聞こえた」のだから、いよいよワタシにも超能力の才能が開花し始めたのだろうか。



(気のせい、だと思いたいけど)



 先程の〈声〉が、頭の中に余韻として蘇ってくる。



 じっさい彼の肉声に初めて触れたのは、女乃君が生徒会に所属していることを紫月から聞き、秋頃の生徒会長に立候補する際の決意表明を校内放送で語った時だった。



 端整な容姿とは裏腹の雄弁な語り口調は耳の奥の脳幹までもを痺れさせるほどに迫力があって、もはや審議するまでもなく彼の生徒会長としての適性を、学校中の誰もかもに確信させたかに見えた。



 しかし結果は、僅差で他の組の男子生徒に及ばず、涙を呑む結果となった。



 これにショックを受けた紫月が一週間ほど、ワタシの席の隣で「アイト君が負けた、ありえない、ありえない」というぼやきを授業中でさえ垂れ流していたのには、正直呆れ返った。自ら推しまくったアイドルが選挙で大敗した瞬間の男子の心境と重ねれば、まあ分からなくもないけれど。



(……っと、何ボサッとしてんだか)



 我に返って、ここは公共の場であることを思い出す。平静さを装うために柱にそっと身を預け、懐からケータイを取り出して画面に目を通すフリをする。そうして数十秒の間を置いて、柱越しに上半身を捻り、背後を振り返る。



(あっ!)



 二人は、互いの心臓をくっつけ合うように抱擁していた。目の前で展開される寸劇は既に、クライマックスシーン突入の模様だ。



 二つの視線は、一粒のノイズすら許さない程にぴったりと重なり、一致しているようにみえた。おでこまで密着して、あれでは本当に恋は盲目と言わんばかりだ。



 対するワタシの両目はガン開きになりつつ、反射的に頭を引っ込ませていた。



(やっば、どうしよ)



 あんな光景を前にして、動揺しないはずもない。頬と両耳が熱っぽさを伴って、いつも以上に紅く染まっていく。



 好奇心に震えていた両脚も、ここにきてすっかり棒になってしまっている。完全に接近するタイミングを逃し、このまま立ち尽くすしかないかと思った、その矢先だった。





《準備はいいかい、今更ダメとかなしだよ?》





 またしても、あの〈声〉だった。間違いない、女乃君の〈声〉だ。二度あることは三度あるというが、二度目で九分九厘の確率を打ち出した。



(今日の自分、やっぱりヘンだ)



 心身ともに疲労困憊な訳でもなし、なのに幻聴が聞こえる。理性を働かせるのはもうやめにしよう。そうと決めたワタシはさっそく、ケータイの画面をいじって、柱の後ろで夢見心地な一人の同級生の目を覚まさせる行動に出る。



 ケータイをしまってすぐに柱から背中を浮かせ、某家政婦のように二人を覗き見ると、両者とも目を瞑り、例のポーズのままだった。こんちくしょう、なんて惚けた顔しやがる。「放蕩の恋、盲目の少女」とでも題名付けて額縁に閉じ込めてやろうか。



 だが、それもすぐに終わりにしてやる。



 ワタシが口の端を上げると同時に、紫月は何かに驚いて飛び跳ね、女乃君との距離を伸ばした。間もなく彼女は懐から騒ぎの原因を取り出し、彼に苦笑いを送ってから、画面の内容をチェックし始めた。その直前に、ワタシが柱から躍り出て、二人のいる連絡路付近へと大股気味に歩いていく。



 距離はみるみる縮んでいき、紫月がメールの文面を目にしてまたも驚きに顔を上げるのと、ワタシの姿が連絡路出入口へと吸い込まれていくのは、ほぼ同時だった。



 ―――おめでとう。



 その一文だけを紫月に送り、ワタシは連絡路内のトイレにて、頭を冷やすことにした。





 トイレの個室に入って十数分経つが、変化は一向に訪れない。



 紫月からの返事も、女乃君と思しきあの〈声〉も、さっぱり届く気配を見せないでいた。人知れず、誤魔化しようもない虚しさが段々と込み上げてきて、堪らず個室の天井を見上げる。



 首を反らしたワタシの両目に映り込んだのは、ねずみ色の埃に塗れた排気口。前向きに捉えれば、十余年の歳月を証明する働き者の証。悪く捉えれば、清掃員のおばちゃん達が見て見ぬふりをした結果の成れの果て。しかも、普段ならあっていいはずのフィルターに相当する金網がなく、ぽっかりと黒い口を開けている。



(うーん)



 なぜだか、その古びた四角形の内側に広がる暗闇がどうしても気になった。



 所詮通気口なんだから別の何処かと繋がっていることは百も承知だが、真っ暗闇というのはワタシの場合、恐怖心よりも好奇心を掻きたてる格好の材料である。ワタシと同年代の人間が心霊映像を撮ろうと、山奥にひっそり根を下ろす夜の廃墟に潜入したがるのと同じ理屈だ。



 紫月と女乃君のスキャンダル(?)を目にしてからというもの、いまのワタシは好奇心の塊を貪るように、怖いもの知らずになっていた。

 首が痛くなるのも忘れて、しばし虚空を見つめる。



(……ん?)



 気のせいか、確かな違和感と呼ぶべきかはっきりしないその異変を、双眼が捕えた。排気口の内側で米粒ほどの小さな光が二つ、ワタシの視界を掠めたのだ。



 理解する暇なく、ブルリと体が震えた。冬の寒さよりも体の芯を縮みこませる力のある、未知に対する純粋な震えだった。 



 今日のワタシは、やっぱり変だ。ついさっき呟いた言葉が、妙に真実味を帯び始めた。恋愛事の絡む今日みたいな日は、ワタシの五感をおかしくする作用でもあるのか。根拠レスな推測はなるだけ避けたいため、今一度お得意の理性を働かせる。



 あんな排気口に住み着く動物と言えば、コウモリだろうか。実物を目にしたことがないので当てずっぽうもいいとこだが、意外と当たってるかもしれない。こんなところで越冬なんかされたら一番困るのはもちろん、駅職員一同であろうが。



(誰も来ない様だし……よしっ)



 好奇心がワタシを唆し、蓋を閉じた便器の上に両脚を乗せると、軋みを上げて返事が来た。それでも構わず、童心に帰ったように排気口へと手を伸ばしてみる。



 身長は平均的なワタシだが、ここのトイレは幸い天井が低いので、何とかすれば手が届きそうだ。普段使わない脇腹の筋肉までもを精一杯伸ばして、目標までの距離を縮めていく。



 右手の先が排気口の内壁に触れるまで、あと数センチ。だが、身体はこれ以上伸びない。全身が次第にピクピクと痙攣し始め、姿勢が乱れていく。



「ん、ぐ……っぷはぁ」



 目標達成ならず。



 身体の緊張を一気に戻して両手に膝をつき、深く息を吐き出す。建物の中なのに息は白く染まり出し、徒労の具合がよく分かる。だが、諦めはしない。失敗は必ず成功のための糧とする、ワタシの無闇な意地がここに来て現れだした。



 背伸びで届かないのなら跳べばいい、ただそれだけのこと。万が一失敗した時のことを熟慮し、両足の位置をしっかりと正す。跳ね出す力を溜め込むのに両膝を曲げると、身体の重心が下がったせいか便器のフタが苦しそうに呻いた。



 両目でしっかりと天井の一点を見据え、息を限りなく吐き出してから、ワタシは跳んだ。跳躍に使われたエネルギーをできるだけ殺さず、弦から勢いよく放たれた矢のように右手を伸ばし―――黒い口の中で、確かな感触を得る。



「っ⁉」



 全身を、ひどい怖気が走った。



 右手は上昇の中途で勢いを失い、両足は宙に浮いたまま。



 つまるところ、ワタシの右手―――正確には右手首に何か、黒いものが纏わりついていた。人の手、と呼んで良いのかもしれないそれが、ワタシを宙ぶらりんにさせているのだ。



 今すぐにでも悲鳴を上げたかったが、本当に怖いものをいざ目の前にし、声帯が完全に麻痺してしまっている。



 代わりに引き攣った息遣いが、心肺を苦しめ始める。加えて、冬場に似つかわしくない大粒の汗が噴き出し、身体全体を熱くしたり冷ましたりしている。



 暫くして、ワタシはやっともがき始めた。二本の足をジタバタさせ、右手を黒い何かから引き剥がそうと必死になる。



 開いていた左手を持ち上げ、黒い何かを掴んでみようとしたが、なぜか触れることができない。あっちには掴めてこっちには出来ない、まったく意味が分からなかった。



 なれば、と暴れさせていた両足の裏を個室の壁に密着させ、不安定だった身体を無理やり固定させる。



 すかさず左手で右腕を掴み、綱引きの要領で黒き魔の手から逃れようとする。なおも膠着状態は変わらず、冷え切った未知の恐怖だけが手首を通し、ワタシの全身へと広がっていった。



 ところがどうしてか、黒い手はワタシを暗闇へと引きずり込もうとしている訳ではないようだ。



 さっきからワタシの身体を吊り上げたまま、一向に変化を見せようとはしない。恐怖心に押しつぶされそうになりつつも、それだけはハッキリとしていた。



《今夜はきっと、待ち焦がれていた〝夢〟が見られるかもなぁ》



 理性と焦燥がせめぎ合う中、手があの〈声〉で、またもワタシの脳内を響かせた。



 ただ、今までの〈声〉とは少しだけ違和感を含んでいた。女乃君と思しき〈声〉とは別の、野太く陰気臭いもう一種類の〈声〉が混じっていたのだ。



 もちろんその〈声〉に聞き覚えはない。例の深夜番組の後で出てきた白猫の鳴き声と似通った部分もあったが、流石にそれはあり得ないと一蹴する。



「夢って、何だよっ」



 ようやくワタシも声を出すことができた。まさか会話はできるまいと思いつつも、不恰好な苛立ちを込めて言ってみる。



《甘くてほろ苦くって、でも最後はきっと、何も残らない〝夢〟さ》



〈声〉があっさり返事をした。まさか本当に話が通じるとは。とはいえ返ってきた答えには皆目見当もつかない。



 異世界の住人と意思疎通が出来るということは、いつの間に夢の中にでも飛び込んでしまったというのか。思い当たる節といえば―――そうだ、昨晩遅くだ。あの番組中にいつしか意識を失って、気が付けばベッドで横になっていた時か。



「ねぇ教えてよ。これって……夢?」



 言葉が通じると分かった途端、ワタシは抵抗をあっさり諦めた。



 自らの腕を固く締めていた左手も、壁面に押し付けていた両足も全て脱力させると、初めて宙に浮いた時よりもズシッとした重さが身体全体に降りかかってきて、上がりっぱなしの右肩より先が痺れ始める。



《今は考えなくていい。すぐに分かることだからね》



 またもや会話成立。だが、相も変わらず答えになっていない答えしか返って来ない。でも黒い手が、自身の事を〝僕〟と呼ぶことは判明した。



「まさかとは思うけど、女乃君じゃないよね」

《君の想像次第さ》



 胡散臭い返事に、ややもすればこれは夢じゃないとらしくもない推断をした次第だが、やはり認めたくはない。第一、女乃君はさっきから紫月と同じ場所から一歩も動いていないはずなのだから。



「それより早く降ろしてよ。この体勢、結構キツイんだから」



 個室の壁に押し着けっぱなしの両足は、いつしかピクピクと笑い始めていた。



 身体の疲労に関しては、黒い手の不気味な感触と同様にありありと感じ取れる。今この時が夢じゃないと信じたい理由の一つだった。



《もう少し待ってよ。こうして君に触れていないと、会話が続けられないんだ》



「は?」



《君を掴んでいるこの手は僕のじゃない、もう一人の相棒の手さ》



 ますます胡散臭くなってきた。まさか女乃君の声を真似て、ワタシを弄ぶ幽霊の手じゃなかろうか。

憶測もいいところだが、ワタシが率直に思ったことでもあった。



「相棒? どうなってんの一体」



《あンだ、俺のことか?》



 手を通して、えらく不機嫌な〈声〉が返ってきた。



 しかも今度は、自らを掠れた声で〝俺〟と呼んだ。黒い手の持ち主は二重人格なのか、そもそも人かどうかも依然怪しいところだが。



「アンタが女乃君の相棒さん? そっからワタシが見えてるの?」



 物怖じせずに問いかけてみると、すぐに答えが届いた。



《んな趣味なンかねぇ。全部女乃の野郎に指図されてやってるだけだ》



「アンタも何か、目的があんの?」



《女乃と一緒だ。お前が来るのをずっと待ってたンだよ》



 どうにもこうにも掴み処がない。人の言葉を話す生物なんて、地球があと何周すれば誕生するのやら。



 常識が通用しない存在を相手にするのは、ひどく骨が折れる。尤も常識知らずなのは、こんな状況に平然としていられる自分自身かもしれないけど。



「このまま、ワタシを殺す気?」



《殺す? ナニ抜かしやがる。強いて言うなら生まれ変わらせる、だな》



 ろくでもない表現じゃないか。そう言い返したかったが、今の彼にはこれ以上何を言っても無駄な気がしたのだった。



《おおっと、そろそろ頃合いだ》



 彼は突然、そう口にした。



「えっ?」

《お前を招待する時間が来たってこったよ》



 字面通りに彼の言葉を理解して、劇的な不安に駆られ始めるワタシ。



「待って。まさかっ、このままワタシを引きずり込む気じゃ……」



《んな事出来るかよ。時が来たら俺はお前と会える、ただそれだけだ》



 あっさりと彼は悪意を否定した。



 それでも不安は掻き消えない。



「その時って、いつ⁉」



 ここが公共の場であることも忘れて、声を絞り上げる。



 長く待たずして、彼は答えた。



《今日の空がもう少しだけ黒く染まった時が、その時だ》



 女乃君ともう一つの〈声〉がふたたび重なり合い、頭の中で響き終わった直後、右手の拘束が解かれた。



 咄嗟に支えを失った両手を、急ぎ両脇の壁に押し当てる。ちょうど今の恰好が、子供の頃に遊園地で見た忍者の武家屋敷潜入ポーズにそっくりだった。



 突っ張った両手と両足のうち、先に音を上げたのは両足の方だった。



 ローファーの靴底は壁との摩擦を弱め、力なき両足を、頼りない両手をズリズリズリと下ろしていく。あと幾秒か持ちこたえたきり、ワタシは重力に完敗した。



 僅か数十センチの落下にもかかわらず、便器のフタの上で豪快に尻もちを突いた。得も言われぬ痛さに、しばし悶絶。



 便器のフタはひび一つ入っておらず、とりあえず安心できた。



 結構な衝撃音だったのだが、いつまでたっても扉の外に変化は感じ取れず、恐る恐る個室から顔を出してみて、現場に誰も存在しなかったことに気づいて安堵する。



 それからまた扉に鍵を掛け、閉めたままの便座の上に鞄を置き直し、立ったままで天井の四角く切り取られた暗闇を見上げる。



 もはやそこは、ただの暗闇でしかなかった。



(ホント、ひどい夢だったな)



 こうして普通に頭が回っているのだから夢なんか見なかった、と自信を持って誰かに言えればいいのだが、黒い手の戯言のせいでそうとも言えなくなってしまった。



 夢なら覚醒時に殆ど忘れてしまうことが常なのに、さっきの出来事に限って脳裏に生々しく張り付いて離れてくれないのだ。



 夢のような現実の出来事だったのか、現実のような夢の出来事だったのか―――決めるのはワタシ自身だ。他の誰にも代わりはできない。



(今日のワタシ、絶対ヘンだ)



 でもこれだけは、揺るぎようのない事実である。昨晩の一件といい、ワタシの体はいったいどうなってしまったというのか。



 誰か、この問いに答えられる聡明な人物がいれば苦労はしない。無論、苦労は否が応でも買わされる羽目になるのだが。



『お待たせしております四番線より17時13分特急水浦方面行き~、あと一分少々で発車いたしまぁす』



 連絡路付近のスピーカーから、駅係員のアナウンスが耳に刺さる。いつの間にそれほど時間が過ぎていたというのか。相対性理論とは、実に痛い所を突いてくるものだ。



 制服のポケットからケータイを取り出して、時刻を確認する―――七時十二分。間違いようもない、遅延された列車の発車時刻が迫っている。



 手を洗うのも億劫な勢いで女子トイレを飛び出したワタシは、いつにないスピードで連絡路の中を疾走し、本来ならば列車に乗り込むまで一分弱はかかる道程をわずか十五秒で突破し、目標の列車の一両目に滑り込んだ。



 ドア付近の乗客は幸い少なく、ワタシのためにスペースを確保してくれたと言っても過言ではなかった。



(ま、マジでギリだぁ)



 荒げまくった呼吸をゼーハーと繰り返して整える最中、そういえばと思い起こして、車内から紫月と女乃君がまだいるかどうか見回してみる。



 結果、二人は例の場所からいなくなっていた。とうに電車に乗り込んでしまったか、デートの場所を移したのか。生憎ワタシには見当もつかなかった。



 それと奥井から耳にした、人身事故を起こしたという同じ学校の生徒の安否も気になる。



 事故にしてはやけに復旧が早いことに不自然さを覚えたが、被害者が軽傷だったりとか、踏切付近で歩行者と車両とのさり気ない接触事故とかであれば、一応納得は出来る。



(ホント、調子狂いそう)



 何はともあれ、一言「疲れた」と今すぐ口にしたい気分だ。しかし、ワタシの周りに限らず車内の乗客の誰もが、ワタシ以上に計り知れない気苦労を背負ったように押し黙っている。



 老若男女という言葉がピッタリ当てはまるくらい、今日の電車には赤ん坊からお年寄りまで、実にレパートリー豊かな人たちでごった返していた。



 今のワタシにとっては、こういう耳の痛くなるような静寂がかえって心地よかった。見間違いじゃなければ、乗客の殆どがすでに目を瞑りながら頭を下に向けている。



 どうせこの時間帯だ、外は灯りがポツポツしているだけで真っ暗に変わりはない。オマケに雨と来れば、列車の運転は多少なりとも慎重にならざるを得ない。車掌さんが気の毒だ。



(今夜は、なるべく早く寝よ)



 発車メロディーの後に、水浦方面行きの列車のドアが、ゆっくりと閉まっていった。



      ✡



 夢はいったい、どこからどこまでが夢なのだろう。



 寝てる間にいつの間にか始まって、目が覚めると同時に終わる。数多の人間はきっと、この間に感じ取った出来事を夢と定義して憚らない。



 一方で、明晰夢という夢もある。明晰夢の中でなら、自らの意思で夢を制御できる。



 空を飛ぶ夢ならば、高層ビルの谷間をスーパーマンの如くスイスイビュンビュン気持ちよく駆け抜けられる。海を泳ぐ夢ならば、何処までも深く潜り、歴史的大発見になりそうなお宝を探し出せる。



 実は私も、そんな体験をしてみたいと思ったことがある。



 あれこれ調べて努力する内、少しずつだが、夢の中で自らをコントロールできるようになった。



 初めはほんの十秒程度、近くにあった公園のブランコに乗って遊ぶくらいしか出来なかったけど、慣れてくると空を泳いだり、超能力者よろしく大小様々な物体を浮かせて飛ばしたりとやりたい放題だった。

 

 全能感に酔いしれた私はいつしか、己の夢が現実を超えたような気がしていた。



 過程はどうあれ、経験者の殆どはそう口にする。



 夢を操れる彼らにとって、幸福とは何なのだろうか。



 現実に辟易し、永遠に夢の中で遊んでいられることだろうか。己の欲望を叶える手段として、来る日も来る日も夢に挑み続けること自体を指すのだろうか。



 いずれにしろ、夢は自己実現を可能にする道具に違いはない。欲望の矛先を誤った方へ向けたとき、夢と現実のどちらに身を置けば良いのだろう。



 やはり夢だろうか。



 自ら為さんとする行為を正当化するのが不可能だと知った時、いつでも入れる裏戸を用意しておくのはけして悪い事ではない。



 それとも現実だろうか。



 夢の中で起こった結果は現実に一部たりとも反映されない、という訳でもない。夢の中での経験を現実に活かすことが出来たのならば、正夢として反映されたことになるのだから。



 現実の事象は夢の材料となり、夢は現実の事象を多少なりとも支配している。



 この二つは容易に切り離せるものでもない。酸いも甘いも噛み分けた私にとって夢は希望であり、安息の地であり、空虚な現実なのだ。



 兎にも角にも、夢とは興味深い代物だ。

 


      ✡




 墨より黒くて黒より暗い、空虚な世界。



 其処へと続く道もまた、誰も見知らぬ底なしの闇。



 人生の旅路に迷い疲れた者を誘う片道切符の到着先は、もうすぐだ。
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