線路と暗闇の狭間にて

にのまえ龍一

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前編 尾上なち、夢うつつ

暗闇と黒猫その一、学校の屋上の〝夢〟

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 暗がりの中、雨音だけが聞こえていた。



 両目を開けたとて、さっぱり何も見えなかった。



 次に感じたのが、全身にまとわりつく不快な圧迫感。その次が、後頭部を走る鈍痛。



 そのまた次が、額と左右の頬から滴り落ちる、匂いのしない液体の感触。



 ありのままの現象総てが意味を為して繋がった瞬間、やむを得ず絶句した。



 ―――列車の中で、人や荷物が廃材の山となって、ワタシが埋もれている!



 かろうじて頭だけが圧迫を免れていたのだが、首より下は動かなかった。こんな状況で、いや、こんな状況だからこそ不要な無駄知識が脳内をよぎっていく。



 首より下を土中に埋められた後、天から雫を一滴また一滴と、脳天目掛けて延々と繰り返すという一風変わった罪人の処刑法。日に日に時間の感覚を失われる中で、何も抗えずに水滴の落ちる感触だけを味わわされる死刑囚。彼らはついぞ発狂し、意識を失い死に至る。



 まさか、ワタシもこうなるとは思わなんだ。



 割れた列車の窓ガラスからハラハラと降りかかる雨は、ワタシの理性を着実に奪っていく。そうでなくとも、今は強気を装うだけで精一杯である。



 唯一自由に動かせる濡れた頭部だけを懸命に上下左右捻っているうちに、だんだんと目が慣れてきた。車内の様々な輪郭が、僅かだけれど認識できる。



 窓カラスは殆どが大破し、風は無いけど吹きさらしになっている。



 つり革の一つ一つは自重で頼りなく九〇度ほどしなり、吊り広告も思いっきり外れて乗客……だった物体の上に乱暴に覆いかぶさっている。割れたガラスの破片もかなり広範囲に飛び散らばっているに違いない。



(ひっ!)



 視線を手元に戻す途中、一人の男性と目があった。記憶違いでなければ、駅の階段から降りてきた時にちらと目にした、あのサラリーマンだった。

 両目は飛び出しそうなくらいに見開かれ、口からも一筋の紅を垂れ流し、割れて歪んだ縁なしメガネは、すでに男性の生命活動を終えた証拠品みたいに思えた。



 ほんとうに映画で見るような無残で無機質な死体だ。先の恐怖は何処かにすっ飛び、かわりに嗚咽のような苦しさが込み上げてきて、やむを得ず悲しくなってきた。弔いの悲しみではなくて、自分だけが取り残されたという事実から来る、涙さえ出ない空しい悲しみだった。



(このまま、死んじゃうのかなぁ)



 とんだ不幸にあったもんだ、一度目はそうやって考えた。



 けれども二度目には、助かる見込みは無いんじゃないかと改めた。避難訓練でもここまでハードな災害を想定することは、到底ありえないだろうから。



 ケータイや列車無線は、恐らく通じまい。たとえ上手くいったとして、救助体制が整うまでにどれ程時間が必要か、想像するだけでも萎えてくる。

 本当に、このまま夢で終わってくれればいいのに。



(あぁ)



 相変わらず涙は出てこない。もしかしたら、雨粒と一緒に無意識に流しているのかもしれない。舐めとってみると、ほとんど水の味しかしなかった。



 感傷に浸り過ぎても、しようがなかった。なぜワタシだけが生き残ってしまったのか、それだけが気がかりだった。列車の二両目以降からも音沙汰は全然で、やっぱりワタシは一人なんだと結論付ける。



 救助が来るまでこのまま生き延びることは、万が一にも等しい。せめて、身体さえ自由になれたら―――と何気なく強く願ったのが功を奏したのか、





《よーぉ。待ってたぜ、娘っ子》





 あの〈声〉がいずこから、今回は直接鼓膜を震わせて話しかけてきたのだ。



「えあっ⁉」



 柄にもない悲鳴を上げて、首を左右に捻り回すワタシ。



《大方、俺の予想通りに始まってくれたな》



 声は、まったく意味の解らないことを呟いた。



「ど、どういうことっ」

《お前はバベルの塔から転落したってこったよ》



 声の態度は、あの時と同じく何処か気に障るところがあった。だとしても、会話の出来る相手が現れてくれたお蔭で、ワタシの心はちょっぴり穏やかになった。



「なにそれ、どういう意味?」

《言葉そのままの意味だ》

「それなら、アンタはワタシら人間を落っことした神様とでも言いたいわけ?」



 ワタシが虚空に問いかけると、愉快そうな笑い声が返ってきた。



《俺ぁンなべらぼうな風体じゃねぇよ》

「さっさと正体を明かしなさいよ、卑怯者っ」

《そう急かすな、後で教えてやっから》



 しかし声はそう言って、ワタシを突き放す。



「何だよ、もぅ」



 ハッキリしない彼に、ワタシはむくれてみせる。



《どうだ、片手くらいは出せそうか?》

「え?」



 唐突に声は尋ねてきて、ワタシは下げていた視線を、上げるでもなく上げた。



《流石の俺も、お前の首根っこ掴んで引き上げるなんて手荒な真似は出来ねぇからな》



 言われるがまま、ワタシは自分の両腕の所在を確かめる。良かった、どちらともつながっている。左より、右腕の方が自由に動かせそうなので、質感の違う肉と肉に挟まれた中で、一生懸命モゾモゾさせていく。



「ふっ、うう、ん~……っ!」



 その甲斐あってか、右肩より先の解放を成功させた。どれだけの間圧迫されていたかは無論分からないが、血が通っていないのではないかと思えるくらいに重たくなっていた。



 しわくちゃのヨレヨレになった制服の先、暗くてもハッキリ分かるほど白くなった手をグーパーしてみると、改めて自分の手だと再認識できる。



《よし、それじゃあ引っ張るからな》



 返事をしようとした瞬間、ワタシの右手をネットリとした感触が包み込んだ。とっさの出来事に、全身の毛穴が敏感さを取り戻していくような気がした。



「待ってよ。先に、あんたの顔を見せてくんない?」



《あともう少ししたら、ね》



 返答したのは、女乃君の〈声〉だった。こちらは脳内で反響して聞こえてくる。



 一瞬だけ戸惑ったが、ただちに順応して聞き返す。



「ねぇ、やっぱりあんた、女乃君なの?」

《さっきも言ったよ。君の想像次第だ、ってね》

「それじゃあこの手は、女乃君の?」



 すると〈声〉は、女乃君の声で笑った。



《そう思ってくれた方が嬉しいかな。じゃ、引っ張るよ》



 身体の埋まり具合からしてこのまま一気呵成に、それこそ芋づる式にズルズルと出せるのか、一抹の不安が脳裏をよぎった。普通に考えれば、ワタシの身体は微動だにせず、最悪右腕だけが自由になってしまうのではないか。



「……?」



 が、予想は見事に外れてくれた。身体は肉塊と摩擦を起こすどころか空気のようにフワリと抜けていき、数秒間、無重力空間に放り出されたような浮遊感を味わったあと、ストンと冷たい肉の床に降りたった。



 浮遊感が終わったと同時、右手から黒い手の感触は消えていた。そのかわり、不安定な足場の上だったので、ペタンと座り込んでしまった。ワタシの体重を支えているのは、今まで自分もその一部だった、かつては息をしていた人達の亡骸。



 もう、中途半端な命乞いは止めよう。いくら非日常な展開に巻き込まれたとしても、各々の環境に適応・順応するのが人間の特質だ。だからといって、死者を敬う心を、忘れていいはずがない。だから、彼らの顔は決して踏みつけまいと、ワタシは自らを戒めることにした。



 現在位置から一メートルほど離れた場所に、大柄な男性のうつ伏せた姿をうっすら見かけたのでハイハイの姿勢で寄っていき、無礼を承知で体育座りさせて貰って暫くすると、



《驚いたかい?》



 何処からともなく、女乃君の〈声〉が聞こえてきた。



「うん。そりゃまあ、ね」



 視線を向けるべき位置も分からないので、先程の不思議について呟くように尋ねてみた。



「さっきのはいったい、どんなトリックなの」



 すると、女乃君の〈声〉はまたしても笑い出した。



《君って案外、理屈っぽいんだね》

「それ、ワタシが厭味いやみに見えるってこと?」

《いやいや、今まで見てきた女の子とは違って、すごく魅かれるものがある》



 彼が突然人間臭いことを言ってきて、ワタシは少し混乱する。



「あっそう。ワタシに気があるんなら、早いトコ顔出して欲しいんですけど」



 だが、あくまで強気を装って謎の存在に立ち向かう。姿の見えない存在というのは実に気味の悪い相手だということを、久方ぶりに実感する。



《そう急かさないでってば。僕はもっと、君と話がしたいんだ》



 何とも身勝手なことだ。こんな極限の状況の中で、呑気に会話に花咲かせようとは。



《おぅ、いつまで出しゃばってやがる》



 ワタシが彼に反駁しようとした途端、もう一人の〈声〉がそれを遮った。



《出しゃばるなんて人聞きの悪い。君に言葉を教えたのは、どこの誰だっけ?》

《うっせえ、いいから黙ってろ》

《ハーイハイ》



 それっきり、女乃君の〈声〉は聞こえなくなった。



「ねぇ、あんた達って二重じん……」

《気にすンな。んなことより、今から俺の話をよぉく聞けよ》

「言われなくても、ちゃんと聞いてますよ」



 ワタシが口応えすると〈声〉はフン、と鼻(と思しき器官)を鳴らして続ける。



《この列車の中に、お前の言う女乃ってやつが隠れてる。そいつを探し出せたら、俺と会う権利をやる》



〈声〉はそんな提案をしてきたものの、女乃君が隠れられる場所といえば、死体の中くらいしか考えられない。こんな薄暗闇であるから、適当に寝転がっていれば見つからないとも言えないが、はたして彼がそこまでするだろうか。



「亡くなった人たちを使って遊ぶとか、趣味悪いにも程があるよ」

《言っとくが、女乃は必ずしもお前の知っている男とは限らねぇぜ》

「え、何それ」

《忘れたか。ここは〝夢〟かもしれないってことをよ》

「〝夢〟……」



《第一、お前だけがこうやって生き延びていること自体、不思議なもんだろう》



 彼と初めて会った時、確かにそんな事を言われた気がする。



 これが〝夢〟かどうかは君自身の好きにすればいい、と。



《俺だってこんなんチンタラやりたくねぇんだ。とっとと済ましてくれよ》

「せめて、ヒントくらい教えて」



 ワタシがそう聞くと、彼は濁った声でしばし唸り、こう答えた。



《声はすれども姿は見えず、されども人は怖がらず……これで充分だろ》

「……」

《あとは任したぜ、ガキンチョ》

《うん。あとは、彼女次第だね》



 改まった女乃君の〈声〉を最後に、彼らの〈声〉はバッタリと途絶えた。



 他方、なぞなぞ式のヒントを頼りに、職業病よろしく思考に没入していくワタシ。雨音だけが静寂を埋めるように、列車の側壁もとい天井を叩き続けている。



(声はすれども、姿は見せず)



 先の〈声〉の通りに女乃君がワタシの知っている姿でないとしたら、幾通りもの解釈ができてしまう。あまり想像はしたくないが、屋根裏のネズミのような小さい体で乗客たちの中に潜り込んでいるのならお手上げだ。



(されども人は怖がらず、か)



 しかし二つ目の文節も考慮に入れれば、ネズミのようなちまっこい存在でもなく、隠れている場所も限られてくるはずだ。



 さらにもう一つ、女乃君を女乃君たらしめる大事な要素があったはずだ。



(―――あっ!)



 向かうべき答えは、割かし早々に見当がついた。日の上らない未明の車内を今一度見回し、最短かつ安全なルートを考える。横転した車内の吊り革をテナガザルのように伝っていくのも有りかと思ったが、不都合な問題が発生しかねないので即刻却下した。



 妥協した結果、またしてもハイハイの要領でそこに向かうことにした。両手両足の付ける場所に注意しつつ、目標地点を急ぐ。



(すいません、ホント、すいません)



 死人に口なしとは分かっているが、やはり他人の身体に乗っかるという行為は、ともすると敬遠するのが当然だ。幼少期にしょっちゅう父の背中に乗って遊んでもらっていたことを思い出して、ほんの一瞬だけ頭の中が空白になった。



 幸いといっては不謹慎かもしれないが、一両目にはワタシの他に、同じ学校の生徒は乗り込んでいないようだった。「ようだった」という言い方はもちろん、他の乗客の下敷きの可能性があるわけで、何もしてあげられぬ自らの無力さを強く噛みしめる。



 一、二分は経過しただろうか、ゴール地点に本来は縦長の長方形をした四角い枠を両目で捕える。



(よかった、開いてた)



 横転の衝撃か重力によるものか、スライド式のドアは開ききっている。



 辿り着いた場所は、列車の先端である運転台の入口だった。運転士さんがこの場所で列車の運転をしながら専用のマイクで乗客への案内をする光景を、過去に何度か見たことがある。



 彼らはストイックな生活をしているせいか誰もが若々しく快活で、その中でも日頃から印象に残っていたのが、さっぱりした髪型の少年みたいな人だった。列車に駆け込んだ時はあいにくその顔を見ることは出来なかったが、列車が転落する前、窓越しに後ろ姿が見えたので彼だと判った。



 流石に運転中の邪魔をしてはいけないし、車内のどんよりした空気をぶち壊すほどの大物でもないワタシはあの時、列車が転落するまでずっと彼の背中を見つめていた。それなのに、事故の直前まで彼の不審な行動を目にすることは無かった。



 そのあとは車両の突然の揺れも感じず、乗客の悲鳴も耳にせず、身体がフワリと宙に浮く感覚の直後、深夜の自宅で見た謎の白猫の時と同じように視界がブラックアウト。気が付けば肉の海に埋没していたという、どうしようもなく〝夢〟みたいな出来事の連続である。



 ところで今、部屋の入口は横倒しになっていて、奥に入るのに少々の高さがあった。ワタシは、入口手前で綺麗なまでに仰向けになっている肥満体の青年の腹部を足場にさせてもらうことにした。



 死後硬直の時間帯はとっくに過ぎたのか、青年のお腹はブヨブヨとして、あえて良いイメージで表現するならばウォーターベッドみたいだった。その上で両膝立ちになり、横転して高さのなくなった入口へよじ登っていった。



 そのまま匍匐前進の要領で下半身も滑り込ませ中を覗くと、案の定、目をそむけたくなるような運転手の白い顔がワタシを見てきた。首は曲がってはいけない方向に曲がっていて、二十代にも見える若く凛々しい顔立ちがひどく崩れている。記憶に違いがなければ、やはりあの車掌さんに違いなかった。



(……?)



 やっとのことで死体を直視できるようになった途端、車掌の顔と手袋以外に、暗闇で白く映えるものが目についた。手が届く距離だったので、もう少しだけ上半身を乗り出し、震える人差し指と中指の二本でそれを摘んだ。



 広げればA3サイズはありそうな、無地で四つ折りの紙切れだった。メモに使う予定だったのか分かるはずもなかったが、きっと重要な物に違いないと直感し、もう一回だけたたんで八つ折りにしてから制服のポケットにしまい込んだ。それから再び室内をぐるりと見回してみたが、特に目ぼしいものは無いように思える。



 だがそれも結局、ただの思い込みに終わった。視線を戻した直後、車掌室の非常灯と思しき黄色のランプが点灯し、あまりの眩しさにワタシは両目を両腕でかばった。運転手はすでに息絶えたはずだ。



 他に可能性があるとすれば、ここにいるのはまさか―――



「ご名答ぉ」



 それと目が合って、最初はわが目を疑った。



「やっぱり簡単だったかな」



 二言目で、声なき〈声〉の主が目の前にいることに、一先ずの確信を持った。射抜くようにワタシを見つめるそれは何とも自然な笑顔で、ワタシに不自然に話しかけていた。



 もちろん、〈声〉はワタシの脳内に響いている。



「本当に女乃君?」

「ああ、そうさ」



 白雪の毛並に、正三角形の耳と大きな瞳。ピンと伸ばした左右の髯は、僅かな触感をも微細に捉えるアンテナのようで、クニャクニャと揺れる毛並みの優れた尻尾とは対照的だ。



「猫……だったの?」

「そ。言葉も話せる賢い猫さ」



 運転席の運転レバーの上に器用に座り込むその猫は、深夜のテレビで見たあの不気味な白猫と、完全に一致していた。もはやワタシの知る現実はどこか遠くへ行ってしまったと、確信した瞬間だった。



「まぁ、こんな所で立ち話も何だし……いよっと」



 白猫は運転レバーから滑るように降り、運転手の腹の上に音もなく着地すると、間を置かずして跳躍した。入り込んだ先は横長に広がっていた部屋の入口、ワタシから見て左側の空いたスペースだった。平均的な成猫にとっては裕に広い空洞を抜け、ワタシの下半身がはみ出ている乗客室側へと移動したのだ。



「ちょ、ちょっと⁉」



 置いて行かれまいと動き出した途端、ワタシの後頭部に重い衝撃が走った。なんのこっちゃない、自ら振り上げた頭をぶつけただけだった。



 だが何故か、普通はすぐに来るはずの激しい疼痛が来なかった。かわりにフラフラとした余韻だけが脳内を包み、十秒ほどでそれは過ぎ去った。もしもこれが本当に夢の中ならば、痛覚くらいはなくたって不思議ではない。



 でも、今はそんな場合じゃない。あの女乃君の〈声〉で喋る白猫の後に続かなければ。



「大丈夫かい?」



 まったく呑気な声で、白猫が安否を尋ねてくる。



「だい、じょう、ぶ」



 入った時と同じ匍匐の姿勢で後退しながら、ワタシは彼(?)に返答する。



「うわあっ」



 そういえば入口の真下には肥満の青年がいたことを忘れ、着地体勢を大幅に崩したワタシは彼の腹の上で尻もちを突き、勢い余って後転までしてしまった。うつ伏せのまま、ワタシの目の前に白猫が再び、青年の腹の上で佇みながら話しかけてくる。



「色々災難だね」

「余計なお世話だっつの」



 なるほど。猫になってもこんな憎らしい笑顔ができるんなら、異性を惹き付けられるのも納得だ。運転席からの灯りが逆光になって、その時は多少だけど鬱屈した笑みにも見えた。



「じゃ、僕は先に二両目で待ってるから」



 有無を言わさず白猫はワタシの頭上を優雅に飛び越え、



「うひゃっ⁉」



 無礼にもわざわざ尻の上に一回着地してから、足音すら立てずに背後へと消えていった。



 このやろう、と言い返そうと振り返った途端、列車に新たな変化が起きていた。



 誇張するほどの変化ではないが、一両目と二両目の連結部分にあたる空間が白く、正方形に光っていたのだ。ワタシのいる一両目は横転していて、二両目は偶然正立していたと考えれば真四角になるのは当然だ。



 運転室から連結部分までは目測で二〇メートル。鉄道会社に携わる父に教わった通りの距離ではあったが、薄暗闇の中ではこれがやけに長く思えた。それに、動かなくなった乗客や彼らの私物、ガラスの破片の反射光が目について、改めて事の悲惨さを知った。



 乗客の大半は会社帰りのサラリーマンだと思うが、ワタシと同年代かもう少し上の若い人達もちらほらと見られた。中にはリアカーに幼子を乗せた母親もいて、偶然覗いたその顔はどうしてか、とても幸せそうだった。



 これ以上感傷に浸ってはダメだ、唯一の生存者たるワタシに残された使命は、彼らの死を世間に知らせることなんだと勝手に決めつけると、さっき運転室に向かった時と同じように四つん這いで進もうかと考えたが、



(すいません、ほんとすいませんっ)



 と、せめてもの断りを入れてから、極力顔は避けつつ乗客達の上を踏み渡っていくことにした。吊り革にしがみつきながら先へ先へと、自分でも驚くくらいの速さで進んでいくと、スタート地点で見た時よりも口を大きく開けてそれは待っていた。



 まるでそこに白昼の太陽があるかのような眩しさのため、二両目の内部はさっぱり分からなかった。それなのに一両目内部をまったく照らし出さない奇妙さに首をかしげつつ、薄目がちにそっと片手を差し出した。



(何ともないな)



 女乃君は本当にこの中を潜っていったんだろうか。どこまでも疑り深い自分の性格に呆れながらも、光の先に何の手応えもないことを確認したその直後、



(―――えっ)



 何者かにまたしても手を掴まれた感触を得たワタシは、心の準備もさせてもらえずに次なるステージへと招かれていったのだった。



 その間、意識も一緒に遠くへ飛んでいった。



 



 意識が戻った時、ワタシは目を開ける前から異変を感じ取っていた。



 目の奥がやや強めの光に刺激され、耳元からは雨音だけがきれいに削がれていた。結果残ったのは絶対的な静寂で、かえって不気味な空気を肌身で感じ取った。



 一方ワタシの身体はと言うと、固くて平らな地面の上で仰向けに寝転んでいたようだった。そして何やら、左の頬に少し硬くて弾力のある感触がある。鎖骨から胸にかけても同様、何やらずっしりとした圧力を感じる。



 確か二両目に移ろうと手を伸ばして、正体不明の何かに手を掴まれて―――



「おぅ」



 ついに両目を薄ら開くと、すぐ目の前に黒い塊が見えた。



 多分、奇妙な触感の正体はこれだ。そいつはあろうことか、人の言葉を話すようだ。



「おぅ、起きろ。起きろってンだ」



 結構癖のある声してるなと腹の内で呟くと、先読みされたように腹部に細かな圧迫感が複数回走った。そいつがきっと、ワタシの腹の上で暴れているのだろう。



 抵抗のため、ほとんど反射的に胴体をビクンと跳ね上げると、



「おわっ」



 と、そいつは慌てた様子で身体の上から飛び退いた。



 ようやく明るさに目が慣れたので、普通に瞼を開いていくと、やはりここは列車の中だと間もなく判明した。



 ただ、ひどく激しい違和感もあった。あんな高所から落ちたというのに車内は全くの無傷、蛍光灯も、吊り広告も吊り革も、窓ガラスでさえひび一つ入っていないのだ。



 そして、乗客の誰一人もが居ない。



 代わりにいたのは、黒猫だった。



「ずいぶんしこたまぐっすりだったじゃねぇか」



 もしかしたらワタシは、生きている人間がすべて猫に見える〝夢〟を見ているのかもしれない。女乃君を名乗る白猫の次は、江戸っ子口調の生意気そうな黒猫。退屈しない展開だけども、流石にいつかは醒めてほしいと心底願うばかりだった。



 座席の上でスフィンクス像の如くワタシを見据える二つの瞳は片方が金、もう片方が銀のオッドアイをしていて、眉間より上には喧嘩で出来た傷跡らしき薄ピンクの線が、縦にまっすぐ走っていた。



 思ったほどだるさを感じない上体を起こし、単刀直入に黒猫に尋ねてみた。



「まさか今までワタシの手を握ってたのって、もしかしてあんた?」



 すると黒猫の口が開いて、



「察しがいいな」



 本当に人間が喋っているように、少々ハスキーな青年男子の声で返答してきた。



「お前に姿を見られない限り、俺は人の姿に化けられる。だから駅のダクトの中とか、この列車の中でお前の手を掴んだのも、ぜーんぶ俺の仕業よ」



「だから暗いところでしか、ワタシに近づこうとしなかったんだ」

「お前が今ここで目ぇつむりゃ、出来なくもないがな」

「いやいいよ、やめとく。何か不都合なコト、あるんでしょ?」



 黒猫は沈黙の肯定で答えた。こういう場での沈黙は何よりの苦痛だと感じたワタシは、思いつく限りの質問を浴びせかける。



「ここって、ワタシが乗ってた電車の二両目だよね」

「ああ」

「雨、いつの間に止んだんだ」

「そうだな」



 トーンを変えず、黒猫は淡々と返してくる。



「ワタシ、まだ夢見てんのかな」

「さぁな。そっちの方が都合はいいだろ」

「乗客の人達は、みんなどうしたの?」



 この問いに黒猫は突然、口を閉じたまま「くふ、くふ」咳き込むように身体を痙攣させた。



「ど、どうしたの?」

「お前、ガキにしちゃあものっそい神経が図太ぇよな」



 両目を横に細め、からかうようにワタシを見る黒猫。



 どうやら身体の変調とかではなく、ただ笑っているようだ。



「何のこと?」

「だってよぉ、さっきまであんな正気の沙汰じゃいられねぇところで、チョコマカ動き回れるンだものなぁ」



 黒猫はまたも「くふ、くふ」と怪しげに笑う。



 この笑い方に、記憶の水底に沈んでいた物を吸い上げぬわけにはいかなかった。



「あんたのそれ、聞き覚えがあるんだけど」

「ほぅ?」

「あるんだけど、なんだろ。うーん、はっきり出てこない」



 記憶の水底の、何のこっちゃない事である事は確かだ。些末だからこそ、見えたと思った途端に溶けてなくなってしまうのか。知り合いや家族に、こんな下卑た笑い方をする人間はいない。そう断言できる自信は持っていた。



 ワタシをよそ目に、黒猫が、今度は器用に含み笑いをしながら言った。



「どうやら全部、お前の計画通りになったみてぇだな」

「えっ」



 今の彼の言葉は、どう捉えてもワタシに向かって言ったんじゃない。それを証明する様に、黒猫はワタシから視線を外し、おもむろに右斜め上を、彼が座る反対側の座席の上へと首ごと動かしていった。



 つられて視線を追いかけていくとそこにいたのは、



「あっ」

「やぁ、お目覚めだね」



 あの白猫だった。透き通るマリンブルーの瞳が、ワタシを見下ろしている。



「おぅガキンチョ、早ぇトコこの娘っ子に説明しろ」



 黒猫は声色まで急き立てるように、女乃君(白猫)に命令口調でそう言った。



(ガキンチョ……娘っ子……)



 それを聞き入れている最中耳に付いた妙な呼称に、ワタシの脳神経は次々と発火を始めていく。



「あぁ、それがいいね」



 女乃君は返事をするなり、荷物置き場に使われる金属製の棒の中の一本を四本の足で器用に渡り歩いていき、座席の端にある仕切りの上を足場にして床まで降りてきた。



 ワタシもずっと床に尻を付けているのは気持ちが悪かったので、一端立ち上がってから黒猫の隣にストンと腰を下ろした。黒猫は全く動じない。



「それで、説明って?」



 女乃君が反対側の座席に飛び乗ってこちらを向いた瞬間にワタシが問うと、後ろ足を折りたたんで腰を落ち着けた彼が答える。



「僕についての補足と、これから君にやってほしいこと」



 良からぬことが起こりそうな予感に身を引き締めつつ、どこを見るでもなく見ている隣の黒猫を見下ろしてみる。呑気にあくびをしていた。



 それから一呼吸、いや、二呼吸くらいの間があってから、女乃君はニンマリとした顔で言った。



「僕ってね、化け猫なんだ」



 笑顔を崩さぬまま、女乃君は〈声〉を使って語り掛けてくる。



「化け猫……」

「人は勿論だけど、〝夢〟そのものにも化けられる」



 なるほど、彼の言った禅問答はこういうことだったのか。人と猫、両方を使い分けられれば常識ある人間には決して同一の存在だと認識できなくて当然である。



 だとしても、今度は〝夢〟に化けると来たもんだ。



「もうちょっと、噛み砕いて説明して」



 やや前のめりになって、強気に出てみる。女乃君は、当然の反応が返ってきたと言わんばかりに余裕も綽々の様子であった。



「尾上さん、昨夜遅くにテレビ見てたでしょ?」

「そうだけど、あれがどうしたっての?」

「あの時からすでに、君は〝夢〟に化けた僕の中にいたんだ」



 当人に全く実感のないことを言われても、そう簡単に鵜呑みに出来ないのが人間としての性だ。今のワタシはあいにく、彼の言うことを理解しなければ話が進まないことは、もう分かっているつもりだが。



「どうやって、ワタシを〝夢〟の中に?」



 女乃君は長い尻尾を身体の前まで伸ばしてきて、そっと口元へと近づけた。



「この〈声〉さ」

「えぇ?」

「僕は人間の無意識の中に潜り込んで、〝夢〟を作ることができる。さらに、その〝夢〟の中に〈声〉を聞いた人間の意識を連れ込んで、〝夢〟の世界を現実の世界の出来事と錯覚させることが可能なんだ」

「はぁ……」

「つまりは催眠術の一種だね。もちろん、この催眠術は僕の意思で解除もできる」



 尻尾を口から遠ざけた彼が、改まった目つきになる。



「そこで僕が最初に接触した人間が、君のクラスメイトの久池井紫月さん」

「し、しーちゃん⁉」



 驚きに目が丸くなるを自覚するワタシを見ながら、女乃君は人間臭く上を向いて、思い出し語りをする。



「ちょうど去年の秋頃だったかなぁ。とっても活発な子できっと交友関係も広いんだろうと踏んで、彼女が深夜に一人でリビングに来たところを狙ってテレビを点けた。その時、僕は久池井さんに女乃愛人という人物が存在するという〝夢〟を見せたのさ」



「それから?」

「彼女の中の記憶にちょっとお邪魔して、尾上さん……君を探り当てた」



 慣れないことに慣れるには、いつだって骨が折れるものだ。努力する必要性があるかどうかにも関わらず、ワタシは聞かされた内容を懸命に自分の言葉で翻訳していった。



「じゃあその後はワタシん家のテレビに映り込んで、ワタシを〝夢〟の中に?」

「ご名答。久池井さんの言った通り、聡明な子だね」



 褒められているのは間違いじゃないんだろうが、どこか嫌味な臭いの消えない〈声〉と顔のせいで余り気分はよくならなかった。このまま彼に好き勝手進められるのは不愉快なので、こちらからも攻めることにする。



「でもさ、どうしてそこまで回りくどいことをする必要があったわけ? それに、どうしてワタシじゃなきゃいけないの?」

「それにはねぇ深い事情が」

「ガキンチョ、それくらいにしとけ。ベラベラ喋りすぎだ」



 ところがそれを、黒猫が水を差すように声を上げて制してしまう。



「じゃあ僕はこの辺でお暇するよ」

「えっ、どこに行くの」



 無意識に腰を浮かせたワタシに、座席を立った女乃君はやはり笑って答えた。



「ちょっと用事があるから、ね」



 返事も間に合わず、踵を返した女乃君は斜め上向かって跳ねると漫画でよく見るような亡霊の如く窓ガラスを容易くすり抜け、闇夜へ溶けるように消えていった。ポカンとなるのも束の間、溜息をついて座席に沈むように座り込んだワタシ。



 そうして、黒猫と二人(?)っきりになる。この際、先程から気にかけていた事も交え、こいつから色々と訊いてみたくなった。



「あんた、女乃君の友達?」



 黒猫は尻尾だけを気だるそうに動かして、少し経ってから言った。



「お前がそう思うんなら、そうすりゃいい」



 彼のそっけない態度に、ワタシも投げやりな態度を声に変えて表す。



「ねぇ、これからワタシどうすればいいの?」

「どうすりゃ、って?」

「ワタシ今、女乃君の〝夢〟の中にいるんだよね?」

「あのガキンチョの言う通りなら、そうなるな」

「女乃君がいないとワタシ、〝夢〟から出られないんじゃないの?」

「帰ってくるまで気長に待てばいいンじゃねーか」



 一向に目を合わせてこない黒猫に対して、いよいよ苛立ちが募り切ったワタシは、片手を伸ばして思い切った行動に出た。



「ふおっ⁉」



 黒猫の身体全体がふわりと浮かんで、ワタシと同じ目線の高さまで届くようになる。しかし彼は、何ら抵抗もできない。



「やっぱり、コレには弱いんだな」

 四本の足をダラリと垂らしたままの様子を確認して、ワタシは女乃君みたいにニヤつきながら優越感に浸る。



「何しやがる」

「さぁ、知ってること全部話してもらおうか」



 女乃君がこの場に居なくなってしまった以上、話を聞き出せるのはこいつしかいない。なればと考えたワタシは、隙だらけだった彼の首根っこを掴んで大人しくさせることに成功したのだった。



 しかし黒猫は暫くすると「くふ、くふ」と笑い出し、全身を大きく震わせた。



「お前もせっかちな娘だな、ったくよぉ」

「なにが可笑しいのよ」



 眉根を寄せたワタシを見て、彼はすぐに表情を真似る。正直、背筋が凍えた。



「いいから、まずは降ろしやがれ」



 言われた通りに渋々座席の上に戻してやると、なんと黒猫はいきなりワタシの膝元に飛び乗ってきたのだ。



 リアクションも十分に取れぬうちに、彼はワタシの制服の右ポケットあたりを、その黒々とした頭で幾度も擦りつけてくる。



「なにしてんのさ」

「ん、ちょっとな」



 傍から見れば愛猫の戯れ事にも見えるのだが、この猫に限っては色んな意味で似つかわしくない。



「おい、猫でもいい加減にしないと打つよ」

「待て……ん、これだな」



 黒猫がそう言って膝の上からやっと降りると、ワタシは制服の右ポケットの中をまさぐってみた。すると、中に薄く角ばったものが複数入っている手応えを感じたので、しっかりつかんで抜き取った。



「これ、って」



 紫月ならば、これを良く知っている。



 トランプよりも少々縦長で、人や動物、天使や死神が描かれたローマ数字付きのカード。これらは占いで用いられる西洋発祥の道具、すなわちタロットであった。



 もしやと思い、左側のポケットにも同様に手を突っ込んでみると―――あったあった、八等分にされたカードが揃いも揃って入っていたではないか。



(んん、あれ?)



 しかしそれらの表面には絵柄が描かれておらず、さらに運転席で入手したA3サイズの紙が代わりに消えてなくなっていた。ということは、何の変哲もないと思って八つ折りにしたあの紙が、一部を除いてタロットの一枚一枚に生まれ変わったと見なせば納得がいった。



「どーやら、全くの無知って訳じゃなさそうだな」



 いつの間にこんなものを、と言いそうになったワタシは、手元の一番上に来ていたカードを見て、あることを思い出した。



「これ……〝塔〟のカードだ」



カードには、天高くそびえ立つ塔が落雷や火災で崩壊し、内部に住んでいた人間たちが地上へと落下していく様が描かれている。黒猫の「バベルの塔」という言葉の意味は、きっとこれを暗示していたのだろう。



「お前、タロットに明るいのか?」

「ワタシの友達がね、趣味でやってるんだよ」



 黒猫は「そうか」と言いながら、またあの笑い方をした。気に食わない態度だと感じつつ、左手の無地のカードと右手の既製のカードを一まとめにする。



「同じタロットに導かれた者同士、魅かれるモンでもあるんだろうな」

「なんか嬉しそうじゃん」

「類は友を呼ぶ、って言うだろ。いや、今回は逆に友は類を呼ぶ、か?」

「アンタの友逹になった覚えはないんですけど」

「誰もお前が俺のダチとは言ってねぇだろ」



 この猫、思った以上に可愛くない―――彼と出会って間もなくして、そんな印象を抱いた。



 それにしても、彼の言う通りに「友が類を呼んだ」のだとすれば、制服の中にあったタロットは何かの縁結びのしるしと受け取っても良いと思った。



 ここでワタシはタロットを動かしていた手を止め、黒猫に聞いてみる。



「んで? 〝塔〟はどんな意味があるんだっけ」

「正位置は『崩壊・災害・悲劇』、逆位置は『緊迫・不幸・突然のアクシデント』だ。お前を占った時はタロットが上向き、つまり正位置だった」

「どっちみち、いい結果じゃないじゃん」



 再度タロットを流し見ながら、不服な視線を黒猫へと送る。だが彼はまた例の笑い声を上げて、嬉しそうにワタシを見上げてきた。



「結果にこだわりすぎンのは良くねぇんだな、これが」

「へ?」

「タロットの結果はな、あくまで占った人間のそン時の心情が反映されるに過ぎねぇんだ。肝になンのは、タロットがこれからのお前に何を告げてくれっかだ」



 とりあえず「はい」と返せばいいのだろうか。紫月との一件の通り、占いはこう見えても結構信じてしまう初心なワタシには、まともな解決策も浮かばなかった。



 そこで返事の代わりに、すぐにでも答えてくれそうな疑問をぶつけてみた。



「このタロットさ、まっさらなのが五枚あるけど、どうして?」



 待ってましたとばかりに、黒猫が「くふ、くふ」と笑う。



「お前に協力してほしいことがあンだよ」



 黒猫はそう言って座席から降りると、なぜか列車の中央付近までトコトコ歩いていき、目的の位置と思しき場所で止まり、こちらを振り返った。



「こっちに来い」



 言われるままに、戸惑うワタシは黒猫の傍まで歩み寄る。



 彼の真ん前で両足を止めた次の瞬間、列車の隅々が暗黒に包まれた。



「わっ、えっ⁉」



 突然の暗闇に動揺を隠せないワタシは、何も見えない空間をキョロキョロと繰り返す。それから間もなくしてワタシの足元が、より正確には足元よりもう少し前が、最も正確には黒猫の体を中心に、落ち着いた青紫色の光が点りだしたのだ。



「娘っ子、床の上に白いタロット、全部置いてみろ」



 黒猫から唐突に指示され、何やら急かされる気分で五枚のタロットを無造作に並べる。



「ちげーちげー、こうやってやるんだ、よっ」



 ダメ出しを受けるや否や、黒猫は立ち上がって自らの前足を器用に用い、タロットの並びを縦に四枚の二列に揃え直していった。



 彼は意外と神経質なのか、作業の際に僅かなズレを見つけると好奇心に唆されたように前足をチョン、チョンと小刻みに何度も繰り返すので、猫本来の可愛さに癒された気がした。



 作業を終えた黒猫は元の位置に戻って腰を下ろすなり、今度は黒々とした尻尾を逆立てた。そして両目を瞑って大きく息を吐き出し、吸い込む途中で両目をカッと見開いた。



「あっ!」



 黒猫の両目は、淡い赤色の光を発していた。



 声を漏らしたワタシの視線の先、八枚のタロット全てが淡い赤色の光に包まれ、十センチ近く宙に浮いた。それが五、六秒ほど続いたのち、タロットは羽毛のようにふわりと地面に舞い戻った。無地のタロットは猶も蛍の光の如く、一定の間隔で明滅を繰り返している。



 間もなくすると黒猫の両目から輝きが消え、かわりに車内の蛍光灯が息を吹き返した。



「凄い……あんた、本物の魔法使いなんだ」

「オズだ」



 光のなくなった無地のタロット達を拾い上げながらワタシが問うと、彼はそう言ったのだった。後になって彼から聞いたことなのだが、先の魔法はタロットに絵柄を戻すためのおまじないらしい。



「え? オズってあの、魔法使いのオズ?」

「ああ、そうだ。俺のことは今からそう呼べ」

「本名、あるんじゃないの?」

「んなモン、俺には必要ない」



 何かっこつけちゃって、と口から出そうになるのをワタシは堪えた。



 彼―――以後〝オズ君〟と呼ぶことになる黒猫―――の顔に、冗談の色は浮かんでいないのが感じられたからだ。



「じゃあワタシのことも、なちって呼んでよ」

「やなこった」

「何で?」

「お前は娘っ子で充分だ、千年早ぇよ」

「何だそりゃ可愛くねーの……って、ん?」



 黒猫の頑固な態度にムッとなっていたワタシは、視界の端に移った車両ドアの異変に少し遅れて気が付いた。車輛右側の奥から二番目のドアが、ガラス越しに白く輝いている。それはちょうど、さっき並べた八枚のタロットの位置と合致していた。



「ボサッとすンな。ささっと拾って付いてこい、娘っ子」

「ああっ、チョット待ってってば」



 床に置かれた他のカードをワタワタと掻き集めて一つにまとめ上げると、黒猫の立つドアの前まで、ワタシは迷わず進んでいった。



「この扉の向こうが、旅路への第一歩だ」



 いつになく真剣な横顔で、ドアから漏れ出す光に視線を突きさす彼。直視をしても眩しさを感じない怪しさ満点の入口は、大物ゲストの到来を待ち詫びていたかのようにゆっくりとした開扉で歓迎してくれた。



 この先は何もないんじゃないかとか、列車の外はどうしたのかとか、今更気にしてもしょうがなく思えてきた。



 〝夢〟が醒めぬのなら、とことん奥までのめりこんでやろうじゃないか。



 かくしてワタシの長くも短い夢路は、光と共に始まった。





 扉の向こうには、宇宙が広がっていた。



 その空間を真っ先に表現するならば、これが妥当だと思った。四方八方すべてに目を凝らしても「果て」と呼ぶべき境界線は見当たらなくて、有限の存在たる自らの矮小さを思い知った瞬間だった。



 列車は影も形も見当たらず、ワタシとオズ君は円盤のような光る足場の上に一緒に立っていた。視線の先にも同じような円盤は無数の点として散在しており、それらすべてが水晶のような材質で出来た橋という線でお互いに繋がっていた。



 暗所で燦然と輝く氷の世界―――などと言えば聞こえはいいが、派手なイルミネーションや目を引く彫像なんてのは一切ない。マニアックな代わりの表現を探せば、鍾乳洞内の天井でヒカリキノコバエの幼虫の出す粘液が暗闇で青白く光り、プラネタリウムがそこにあるかのような世界、だろうか。



「でさ、何すりゃいいの?」

「歩きながら話す。付いて来い」



 橋の上をトコトコと小気味よく進んでいくオズ君を見失わぬよう、少々早足で駆けていくワタシ。橋と言っても両側に欄干はなく、日本庭園の小池に架かる石橋のような造りであったため、ひとたび足が滑れば宇宙の塵と成り果てるやもという状況である。



 とはいえ、どれだけ歩こうが身体に疲れを感じないのは事実で、恐怖以外で生きている心地がしないなんてまったく初めてだった。



「タロットの番号を見てみろ。一番の〝魔術師〟から十一番の〝正義〟までは、順番に揃ってンだろ?」



 再びポケットからタロットの束を取り出し、確認のために足を止めると、それに気づいたオズ君も歩くのを止めてワタシの方を向いた。例の光るカードはもはや普通のカードと同じように紛れ込んでいて、違和感もとっくに薄れていた。



「いち、に、さん……ホントだ」

「番号のねぇピエロみてぇな人間が描かれた一枚は〝愚者〟って言ってな、大抵はゼロ番としてタロットに含めることになってンだ」



 オズ君は「それからな」と、低い声で説明を続ける。



「タロットの絵柄には物語性がある。カードには人間や動物、神や魔物が虚実の世界に入り乱れて描かれてる訳だが、解釈は人ぞれぞれだ」

「ふぅん」



 タロットから一端目を離して、オズ君の方にワタシは向き直った。



「んで、大アルカナの十番〝運命の輪〟は二つの世界を循環させる歯車の役割を担ってる。そこに番号を持たない〝愚者〟が面出して、〝運命の輪〟に頼んで二つの世界を行ったり来たりと繰り返す。ところが〝愚者〟って野郎は、何かになりたいのに何もきっかけを見つけらンねぇ。それでもいつか願いが叶うと信じて、終わらない旅を続けるっちゅう哀れな話よ」



「何だかそれ、ワタシのことみたいだね」

「あん?」

「今までリアルの世界で暮らしてたワタシが、今こうしてオズ君と〝夢〟の中で旅をしているんだよ? ワタシをその〝愚者〟って人物に当てはめたらそんな感じ、しない?」



 なんとなくの思い付きで言ってみたら、彼は「くふっ」と鼻まで鳴らして笑った。



「なるほど。だとすりゃ、お前がそうならねぇように祈っといてやるよ」

「黒猫に祈られても、不吉な予感しかしないけどね」

「けっ、可愛くねぇ」

「可愛くなくてケッコー」



 そう言った後で、ワタシはこの猫と何処か通ずるものがあるように思えてきて、顔には出さずとも親近感が湧いた。



 感傷に浸るのも束の間、彼の四本足が再び、滑るように前へと運び出されていく。



 呆気に取られたワタシは、タロットを落とさないように制服のポケットへ急ぎしまい込み、早歩きでオズ君の後を付いていった。



「話、戻すぞ。俺達はこのだだっ広い中をチンタラ歩くなんて事はしねぇ。〝夢〟に向かって進むンだ」

「〝夢〟に向かって? 比喩か何か?」

「言葉通りだ」

「このタロットは、その〝夢〟と何か関係があるの?」

「ある。〝夢〟の中には、お前以外にタロットを持った人間どもがいる」



 人間ども、というフレーズに、ワタシはなぜかドキリとする。



 相変わらず足取りの早いオズ君と距離が離れていくことに気づき、ワタシはその度に慣れない小走りを強いられる。



「その人たちに会ったら、何すればいいの?」

「簡単なこった。そいつらの愚痴を聞いてやりゃいい」

「ワタシはスナックのママかっての」

「嫌とは言わせねぇぞ」



 勝手に話を進められ、こちとら気持ちの整理もままならない。オズ君の横暴さは理不尽極まりなかった。



「じゃあ聞くけど、タロットに関係する人達ってワタシの知ってる人?」

「そいつは会ってからのお楽しみだ。タロットの導くままにな」



 期待したくなかった答えが帰ってきて、聞いて損をした気分になった。



「それよりほれ……あそこに玉っころが浮かんでンの見えっか? あれが〝夢〟だ」

「え、どこどこ?」



 彼が唐突に黒い足を止めたので、連られたワタシも急停止する。



 オズ君が前足で指すその先に目を凝らすと、現在地よりも数メートルは下の円盤の上に浮遊する球体が見えた。ここからだと大きさは豆粒ほどしかないのだが、近づけばワタシの伸身長位の直径にはなるだろう。



「それから、これだけは言っておく。絶対に俺より先に進もうとすンなよ」

「守れなかったら、どうなるの」

「面倒ごとが一つ増える……ほれ、行くぞ」



 選ばれた光の橋の一本の上でオズ君が四本の足を動かし始めると、彼の歩いた跡が赤く淡い輝きで塗り替えられていった。凍り付いた臓器に暖かな血液が巡っていくような、ひどく神秘的な光景だった。



 いっぽう光の橋の幅は成人男性一人分がやっとで、猫にとっては充分な広さでも高所が苦手な自分には内臓がキリキリと締め付けられる設計になっている。オロオロと進む間にもオズ君はテンポよく目的地まで行ってしまうので、もしこの赤い軌跡がなければ永遠にこの空間で迷子になることは免れ得なかっただろう。



「おぅやっと来たか、遅ぇぞ」

「無茶言わないでよぉ」



 その場所に着いた時点で心中はとっくに泣いても良いよと囁いていたが、オズ君の前に浮かぶ球体を見た途端に、そんな弱音は許されないみたいだった。



 球体といっても輪郭はあいまいで、何故なら濃密な墨色の煙が球状に固まって出来たような外観だったからだ。ドラマやアニメで占い師が水晶の中を覗き込むと浮かび上がるヴィジョンのような、といった方が正しいのかもしれない。



「よし。早速こン中入って、話聞いてこい」

「ええっ、オズ君は行かないの?」

「行かなくても俺には分かる。タロットに導かれる者同士だからな」



 口癖なのかは知らないが、オズ君は今の言葉が好きらしい。表情にもそれは如実に表れていて、細めたオッドアイがその証拠だった。



「―――わっ!」



 制服の中で例のタロットが、今までよりも一層強い光を溢れさせていた。とっさの勢いで例の一枚をポケットから取り出すと、光が弱まった途端に新たな絵柄が入っていたのだ。



「大アルカナの十三番〝死神〟か」



 オズ君が、ワタシの斜め後ろから絵柄を覗き込み、楽しそうに唸った。



「どういう意味があんの、コレ?」

「ノーヒントだ」

「なんで?」

「答えは、こン中で見つけて来い」



 ワタシのアキレス腱あたりを頭で小突いて急かそうとするオズ君。これ以上の口答えも流石に気が引けたので、球体と視線が十センチ以内に迫るまで歩を進める。怖々と指先を伸ばしてみると。球体に触れた部分が白く光って変色した。



 それ以外は特に身体の異常も見つからなかったので、ここは一つ意気込んでみる。



「じゃ、行ってきます」

「おぅ、気ぃつけろよ」



 彼の素直な気遣いは、何とも気持ちが悪かった。



 身体の前半分までが球体に入り込むと視界は瞬く間にホワイトアウトしていく。直後に鼻の奥がすうっとする感覚に包まれ、大気圏ど真ん中に生身で放り出された気分を味わうと、プッツンと全身が萎んでいった。



 夢の中で〝夢〟を見るなんて、新鮮な感覚だとしか言えなかった。



 

 両目に眩しさを感じ、重たい瞼を開いてみると、外は曇天。



 ザリザリとするコンクリの上に寝そべり、直角に曲がった光景の端に留まったのは、壁に垂直に立つ一人の人間だった。ワタシから背を向けていたので、こっちには気づいてない。



 のっそりと身を起こし首を左右に回して数秒、ワタシは理解した。



 ここが母校の屋上だってことを。



 平行に戻った視界の先にいる人間、もとい真っ黒の学ランを身にまとった男子学生は屋上の縁に立っていた。飛び降り自殺でもするのだろうか。両の拳は固く握られ、心なしか肩もフルフルと震えている。



 他人事なのに他人事ではないこの状況に、ワタシは戸惑った。



(どうしよう)



 彼はきっと、オズ君の言った話し相手に違いない。だがこの状況だと、まずは彼を引き戻す必要があるのではないか。誰か応援を呼ぼうにも、すぐ近くの入り口ドアを開け閉めする音でバレる可能性も否定できない。



 思考する時間がもっと欲しかったが、現実はせっかちだった。



 彼は長くて大きい溜息を吐くと、強張っていた両肩を緩め、その場から一歩動いた。前ではなく、後ろにだ。そうして彼はおもむろな動作で、ワタシと目が合う。



 頭一つ高い身長の彼はひどくやつれていた。証拠はなくとも、その目が物語っていた。



「え、あ、ワタシはあのっ」



 すっくと立ち上がり、柄でもなく狼狽えるワタシ。まだ彼は何も言ってないのに、どうしてこんなに取り乱す―――ああそうだ、ワタシの癖だった。



 彼は一歩、今度は前に向かって進みだした。つまり、ワタシのいる方角である。余韻の如く二歩三歩と足取り小さく出て、再び止まった。



「君もダメだったの?」

「え?」

「大学受験さ」



 どうやら彼は、ワタシより一個上の先輩のようだ。堀の深い大人びた顔つきのおかげで、さらにもう二つか三つ上にも見える。



「いや、ワタシは二年……です」

「そっか。あー、別に敬語なんか使わなくていいよ」



 どうしてだろう、彼は切羽詰まっているはずなのに妙に穏やかだ。



 昔の事だから記憶に薄いのだが、小学校に上がる前に祖父の顔を見に行って、末期のすい臓がんでもはや虫の息だった時の顔を思い出した。絶対に苦しいはずなのに、どうしてあんなに饒舌でいられたのだろう。



 目の前の男子生徒はというと、祖父とは匂いの成分が異なっていた。



「なんで君はここに? 俺の死を見届けてくれるの?」

「いえ……あ、ううん、そうじゃないけど」

「じゃあ、なに?」



 貴方の遺言を聞きに来たといえば嘘ではないが、謎の責任感がワタシを後押しする。どうせここは〝夢〟の世界なのだ、嘘をつくなら盛大な物にしてやろうと決意した。



「ワタシ、あなたがずっと気になってた」



 言葉だけの上っ面な好意なのに、言った後で背中がむず痒くなった。



 彼は両目を皿のように見開き、すぐに我に返って笑った。



「本当かい? だとしたら、君はとんだ不幸者だ」

「え?」

「俺、もう決めてあるんだ。第一志望の大学に入れなかったら死んでやる、って。もし君が俺を本当に好きなら、一生後悔し続けることになるよ」



 ワタシも一応は、高校受験で第一志望には届かなった身である。ただこの人の場合、ワタシと違い命を賭して勝負に臨み、結果敗北したのだろう。その大きな背を以てしても責任感の重さには耐えきれず、さっきのように飛び降りようと絶壁の淵に立ち尽くしていたのだ。



「だったら……だったらワタシも、一緒に飛び降りる」



 こんなセリフは勿論、〝夢〟だから言えることだ。



 〝夢〟から醒めれば、ますます自分がかわいく思えて仕様がなくなりそうである。



「正気かい?」



 またしても両目を丸くした彼はさらに一歩、歩み寄った。



「正気だけど、正気じゃない」



 何だか人気ドラマの女優になった気分だ。両手を胸の前で組み、緊迫した面持ちを彼の眼差しに刻み付ける。撮影シーンは清々しさと縁遠い場面ながら、だからこそ演技の光る見せ所だろう。少なくとも今だけは、紫月よりは上手く出来る自信がある。



「嘘、付かなくてもいいんだよ」

「う、うそ?」

「君、俺の顔見たの初めてでしょ」



 彼の方が、一枚上手だった。なぜばれたのかは見当もつかない。



「ど、どうしてそう思うの?」



 なぜだか素直に負けを認めるわけにもいかず、歯向かってしまう。すると彼は、また笑ってこう答えた。



「その制服、ウチの高校の女子が着るやつと違うから」

「えっ、この制服はウチの高校のだよ。あなたは他校の生徒じゃないの?」



〝夢〟とはいえ、訳が分からなかった。ここは確かに母校の屋上で、彼の来ている学ランは母校のものではない。



「いやいやウチの女子はセーラー服だよ、みんな」



 彼のこの一言に、ワタシは違和感の正体を掴んだ。



「待って。いま西暦何年?」

「いきなり、何?」

「いいから」

「……一九八〇年、だけど」



 どんぴしゃり、この時はこの言葉がまさに相応しかった。確信を早足と共に引き連れ、ワタシは男子生徒の立っていた場所まで向かっていった。少し遅れて、彼が後からついてくる足音が聞こえてくる。



「―――っ、やっぱりね」



 眼下に広がる街並みは、ワタシの知っているそれとは違っていた。建物はまばらで発展途上の雰囲気を色濃く残し、緑広がる未開拓の土地もちらほらとうかがえる。



 ワタシの母は母校のOGなのだが、あまり思い入れはないらしく、卒業写真のアルバムに写ったセーラー服姿はどうもふて腐れた顔をしていた。つまり集合写真の男子生徒は皆、目の前の彼と同じ学ランを来ていたことから、ここが過去の時代だと分かったのだ。



 そして目を引くのが、祖父がその年に開業し、以来街で数本の指に入るほどの収入源となった複合医療施設「尾上総合病院」が真っ白くそびえ立っていた。



(だとすりゃ、ワタシは未来人か)



 男子生徒の人となりも気になるが、〝夢〟が見せたこの光景にどんな意味があるのかも無視できなかった。



「何がやっぱり、なんだい」



 彼は不審そうな顔をして、背の高い体を折り曲げながらワタシの横顔を覗き込んでくる。



「ワタシ、尾上なちって言うの。君は何て名前?」

「おの、え―――それってもしかして、あの病院の?」



 驚くのも無理はないだろう。ただ、時代的にワタシはまだ生まれていないので、親族という便利な言葉を使わせてもらったのだ。



「そう。ワタシね、あの病院の関係者の親族なの」

「そっか、そうなのかぁ」



 彼は背筋を伸ばして遠くを見つめ出し、ぼんやりとした顔のまま、呟いた。



「×××」



「え?」



 おかしい、彼が名前らしき言葉を発した瞬間、脳裏にノイズらしき不可解な音が走って聞き取りが出来なかったのだ。



「あ、ごめん、聞こえなかった? ×××だよ、×××」



 どれだけ聴覚を研ぎ澄まそうが、彼の名前が聞こえない。



 素人なりに読唇術を試みようにも彼の口元がぼかされ、叶わなかった。何度も尋ね返しては不審がられる可能性もあったので「そっか、分かったよ」と、適当に相槌を打って済ませることにした。



 この際だから、彼を×××と呼んでやろう。



「まぁいいか。どうせ俺の名前なんか憶えて貰わなくたって」

「ほんとに、死ぬつもり?」

「うん。俺はもう、何もかも終わってるから」



 言い終えた×××はトボトボと足を動かすと、幅のある屋上の淵に腰掛けたので、ここは空気を読んで隣に一緒に座ることにした。セメントの固い感触は臀部にヒシヒシと伝わるが、温度は感じなかった。



 両手を身体の横に突きながら、×××はリラックスした姿勢で話しかけてくる。



「俺、昔から自分の才能に自惚れてたんだよなぁ」

「そうなの?」

「勉強だって運動だって努力しなくてもずっと成績良かったし、人付き合いだって全部ノリでこなしてた。でもこれって、借金だったんだよ」

「借金……」

「努力って貯金をぜーんぜんしないで、才能って財産を食い潰すような生活……過去の栄光なんて、言葉だけのしょぼいもんさ。マジヤバいって思った時には、年が明けてた。何もかも手遅れだったね、結果はお察しの通り、惨敗さ」



 ×××は笑っていた。面白くもないのに無理に笑おうとして、ぎこちない横顔が出来あがっていた。でも心の底から絶望しているのだとしたら、あんな顔ができるわけがない。



「それ、ただのバカだね」

「あっはっは。はっきり言われちゃどうしようもないね」



 能天気な男子共が馬鹿笑いする様に、隣りの×××もアホみたいに笑っていた。



 人生における自らの過ちを社会に押し付けないのならば、あとになって返り咲くのも花散らすのも当人次第だ。ところが社会生活を営む者の中には必ず、失敗を社会の所為にする人間もいる。社会が俺を殺したと言い張って自棄になり、犯罪を起こす人間だっている。



 ワタシはずっと、前者であることを願っている。



 名前も知らぬこの男は、後者でいいのだろうか。



「尾上さんはさぁ、将来の夢って、ある?」



 不器用な笑みを少し解いて、×××は唐突に聞いてきた。



「え、ワタシは……」

「なさそう、だね」



 事実、そうであった。現にワタシは高校二年生も終わりに差し掛かり、そろそろ具体的な進路を決めねばならないのだ。進路選択は皆それぞれの夢への第一歩であるし、でもワタシはその一歩すら踏み出せていない。



「医者は? あの病院の親族ならさ、目指して当然だろ?」



 嫌味などなく、率直な声色で×××はそう言った。



 褒められれば気分はいいが、なにぶん状況が状況である。



「わかんない」



 だからワタシも、率直に答えた。適当なつもりはこれっぽっちもない。



 すると×××は「そっかぁ」と微笑みながら、眼下の街へと視線を下ろした。



「実は俺ね、第一志望に合格したら億万長者になろうって決めてたんだ」

「ホントに?」

「ちょびっと年の離れた兄貴と姉貴が居てさ、二人とも良いトコ出てんだよね。兄貴は公務員試験に一発合格で今は国の官僚候補、姉貴も司法試験に一発合格で今じゃ大手企業の顧問弁護士。俺がこんな二人と互角に張り合えるっつったら、それくらいしかないっしょ?」



 優秀な兄姉がいて、相対的に落ちこぼれと同等の扱いを受ける人間は、この世界の何処にだっているんだろう。さりげなくでも真実味を帯びた話し方をされれば、なるほど同情もしたくなる。



 でも、それが何だっていうんだ。



「お兄さんたちと同じ道を歩むのが、嫌だったの?」

「俺は昔っからどんなことだって、真似すんのも真似されんのも嫌いだった。今に振り返ってみりゃ、へそ曲がりの天の邪鬼なだけなんだけど」

「プライドが人一倍強いと、コンプレックスも人一倍強くなっちゃいそうだもんね」



 我ながら失礼な言葉だとは思う。それでも、言わずにはいられない衝動に駆られたのだ。



 ×××は癪に障る様子もなく、ワタシの方に少しだけ顔を寄せた。



「もしかして、尾上さんも挫折とか経験してるの」

「まぁ、高校受験の時に、ちょっとね」



 彼は驚く素振りを見せず、むしろ納得した顔でワタシを見ていた。



「でも尾上さんにはまだ、チャンスがあるじゃん」

「チャンス、ねぇ」

「だって、地頭はすごくいいと思うもん。高校受験はきっとまぐれだよ、まぐれ。一年もあれば、パパパッて第一志望に受かっちゃうって」



 言ってくれるなぁ、現実はそう簡単に甘くないんだぞ。何でもかんでも自分の思い通りにできたら、苦労なんかかなぐり捨てるに決まっている。



「あなただって浪人すれば医学部くらい、簡単に受かるんじゃないの?」

「浪人したら意味がないんだ。現役で受からないと」

「どういうこと?」



 彼の表情は、鉛色の空と同じくらいに曇りだした。どうやら受験に失敗した代償は、時間とか金銭だけではないようだ。



「結局、プライドだよ。兄貴や姉貴と違って現役で受からなかった事実より、屈辱的なことがあるかい?」

「……」



 呆れた訳ではないが、×××の返答に、更なる言葉を返す気にはなれなかった。死ぬ以外に良い選択肢なんて、いくらでもあるというのに。



 彼はいったんため息をついて、自らを落ち着かせるように言った。



「大丈夫、尾上さんの将来は俺よりずっと自由で明るいよ」



 ×××は暗い感情を悉く放り投げるように、視線をまたしても眼下の街へ確と向けた。



 相変わらず無責任な言の葉に、ワタシは疲れたように言い返す。



「将来の事なんかどうだっていいよ」

「え、どうして?」

「ワタシ、昔っから欲がない人間なんだもの。勉強だって、親の命令に従ってやってたようなものだし。君みたいにすごい才能があるわけでも、ないし」



 言葉にしてみて、ワタシは〈ワタシ〉を理解したつもりになっているのだろうか。



 考えても正答がパッと浮かんでくるわけでもなし、分かったところで世の中が急激に変貌を遂げるわけでもないんだから、今は保留ってことにしておこう。



「そっか、残念」



 ×××はとつぜん腰を上げた。



 同時にワタシの右手が握られ、中腰の姿勢を強制される。



「ちょっと、何すんの⁉」

「一緒にやり直そうよ。二人でここを飛び降りて、生まれ変わるんだ。燃え尽きたなら灰になって生まれ変わればいいんだよ、不死鳥みたいに!」



 ひょろ長い体躯から想像もできない力で、ワタシの体が断崖絶壁へと引っ張り上げられる。高所恐怖症ゆえに落下の恐怖ばかりが先行し、思わず真下の景色をガン見してしまう。胸からへその下あたりまで、内臓のほとんどがヒューンと吸われる感覚に襲われた。



「ワタシが飛び降りるって言ったの、嘘だって分かってたでしょ?」

「それなら少しだけ時間をあげようか」

「何分くらい?」

「君が飛び降りる決心がつくまで」

「やめて放してっ、バカじゃないの⁉」



 柄にもなく、暴言を吐いて制止させようとする。右腕をブンブン振り回し拘束を解こうとするが、握り締める×××の手はまるで鎖に繋がれた手錠のようにワタシを放さなかった。



「ああ、俺はどうしようもないバカだよ。でもね、君のおかげで踏ん切りがついた」

「はぁ?」

「バカな人生送っちまった以上、最後までバカを貫き通すってさ」



 自殺者の心理とは、分別のある人間には到底理解できないことが、いま分かった。理解できないからこそ恐ろしい反面、どこか神秘的であるということも。



「……後悔しても知らないよ」



 あくまで理性を保って反駁するワタシ。彼を宥めるでもなく、同情するでもなく、ただ彼の覚悟を確認したいが為の台詞だった。



「俺、何となく分かるんだ」

「何が」

「俺が生きてきたこの世界は、俺がいなくても回っていくんだってこと」



 あまりにも身勝手な科白だ。



 精神を追い詰められた人間が現実逃避をしていると当てはめれば、今の彼はまさしくその通りな気がしたのだが、この世界が〝夢〟だと判明している以上、安易に同意するのはよろしくないと思った。



「根拠はあるの?」



 ワタシはただ、彼に向かってそう言った。

 ×××は両目を静かに閉じ、何者かと交信するような顔をした。



「生きることは死ぬことである。死ぬことは生きることである。この二つの命題は、どちらも偽である。論理学はそこまでしか教えてくれない。だけどお釈迦様や龍樹の教えでは、どちらも偽であることを認めた上で、人の世は成り立っていると説いたんだ」

「あなた仏教徒だったの?」

「あくまで思想に賛同しているだけさ」

「あなた自身は、この世界に何も貢献できなかったってこと?」



 ×××は、肺に溜め込んだ空気を吐き出した。



 すぐに大きく息を吸って、再び目を閉じて答えた。



「多少はしたさ。でも本質はそこじゃない。俺が人生で大成功を収めようが大罪人になろうが、時が経ち肉体が滅んでなくなれば、みんな過去の出来事だ。世間が俺の生前をどう評価しようが俺が生きていたことに変わりはないし、俺が生きてきた事実そのものは文字、言葉、写真、関わりを持った人々の記憶によって形を変えて存在し続ける。お釈迦様や龍樹だって同じさ。大事なのは己の存在に生き死にも含めて固執しないことだよ」



「よくわかんなくなってきた」

「分からなくたっていいさ。でも俺が理想とする境地に至るには、まだ何か足りないものがあるんだ」



 目を見開いた×××は、自身の足元に視線を落とした。



 彼の言わんとすることが、その時だけは察することができた。



「あなたは楽をしすぎてきたから、今度は苦しい思いをしなくちゃいけないんじゃない」

「今こうやって飛び降りようかと悩むことが、俺にとって人生最大の苦しみかもな」

「だったら止めようよ、こんなこと」



 彼の視線がゆっくり上がっていき、止まってすぐに返事をした。



「いや止めない」

「えっどうして?」

「いくら悩んだところで、答えはもう出てるから」

「あり得ないってそんなの」

「俺の人生はお釈迦様のように怠惰にならず、かといって気を張り詰め過ぎないことが理想なんだ」

「結局、飛び降りて死ぬのがあなたの理想ってわけ?」



 真下をちらと見た後に、ワタシは彼にそう言った。



 今からでも遅くないと、彼の首が横に振ってくれるのを願った。



 しかし×××は、ゆっくりと縦に頷いた。



「生きているだけじゃ分からないことって、きっとある気がするんだよ」

「ほんとに意味わかんないよ、あなた」

「いっぺん死んで、死後の世界を体験して、別の誰かに生まれ変わる。この一連の過程で俺という存在はもみくちゃにされ、曖昧になっていくかもしれない。でもそれで構わない。夢の中で自分が蝶になって旅をするように、俺の意識は無明を漂いながらいつかはどこかに着地し、苦しみながらも新たな自分と向き合う。そして俺を縛り付けるものが何もなくなった時、俺という存在はやがて、この世の真理に辿り着くんだ」



 真正面から、向かい風が強く吹き付けてくる。



 思わず目を瞑るワタシ。



 風が吹き止むまで、彼はまったく動じなかった。



「あなたはホントに死ぬのが怖くないの?」



 ワタシは×××の横顔を凝視しながら、悪あがきするように言った。



 彼の表情を確認するが、何もかも手遅れのようだ。



「怖いか怖くないかなんて、今の俺には聞くだけ無意味だよ」

「悟りの境地ってやつなの?」

「ただ為すべきことを為すまでさ」



 ワタシが如何に引き留めようとも、彼の意思は宣言通りに揺らがなかった。彼にワタシの言葉が届いているのかも、最早怪しかった。



 曇天の空の下、晴れの日よりも白っぽさの目立つコンクリが敷かれた母校の屋上は、無口なままで二人分の体重を支えていた。



 せめてもの思いで、ワタシは彼に突拍子な質問を投げかけた。



「君は……この時代の人間じゃないの?」



 上目遣いに×××を見る。



 しかし彼の視線は、またしても遠くを見ていた。



「さぁ、どうだかな」



 彼の顔は、決してこちらを向かなかった。



 答えはイエスかノーなのか。仰いだ空に広がる灰色のように、彼はうやむやな態度しか示してくれなかった。この人はきっと、何か大事なことを隠してる。オンナの勘ってやつが、ここぞとばかりに鋭くなった。



「ワタシに何か隠し事してるんでしょ、言ってみてよ」

「あったとしても上手く言葉に出来ないんだ、ゴメン」



 答えたあとに口の端を持ち上げた×××は、右手に力を入れた。



「行こう」



 たった一言で、彼は飛んだ。ワタシも文字通り、つられて宙へと躍り出た。



 飛んですぐに風を感じた。でも温度は感じなかった。



 少し経って重力を感じた。でも温度は感じなかった。



 落ちていく中で涙が溢れ出た。高所恐怖症として忍耐の限界が来たからか、鬱屈とした日常からの解放感を、繋いだ彼の手を通して共有できているからだろうか。それとも単に、間近に迫った死に恐怖しているだけなのだろうか。



 でも、温度は感じなかった。



 意識がなくなる最期まで純粋に感じ取れたのは、×××の言動に対する違和感と理不尽さだけだった。彼はもしかしたら―――いいや、やっぱり信じたくはない。



 しょうがないよね。だってこれ〝夢〟だもん。
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