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愛と希望と『絶望のパスタ』🍝 Love, hope, and “ Spaghetti alla disperata ”
第28話 絶望のパスタ
しおりを挟む夕方になって、アデルはドワーフの坑道から帰ってきた。
けれど、『聖夜の街』に向かったドラコは、まだ戻ってこない。
「ドラコとライくん、今頃どうしてるかな」
「『聖夜の街』のドワーフからは、何の連絡も入っていないそうだ。まあ、吹雪では伝書鳩や妖精による通信も不可能だろうし、仕方がないな」
「そっか……心配だね」
「ドワーフのトロッコは速く安全だ。目的地にはとっくに着いているはずだが、吹雪は止んでいない……ということは、ライがまだフウの気持ちを動かせていないということだな」
「フウちゃんが、ライくんを拒絶しているのかな?」
「どうだろう。吹雪の強さが変わらないのであれば、そもそも会いに行けていない可能性もある……フウの居場所が、ドワーフの坑道から離れているのかもしれない」
「……大丈夫かしら。ドラコも、ライくんも、寒くないかな。お腹空かせてないかな?」
「二人とも人ではない存在だ。俺たちよりずっと頑丈にできてる。心配いらないさ」
「そう、だよね」
歯痒いけれど、私とアデルはいつも通りに生活して、ドラコの帰りを待つしかない。
そして、ドラコが帰ってきたら、「おかえり」を言って美味しいものを食べさせてあげよう。
「じゃあ……ドラコには悪いけど、ご飯にしよっか」
「ああ。手伝うよ」
「じゃあ、カトラリーとサラダ、テーブルに運んでくれる?」
「わかった」
アデルは、言った通りにテーブルをセッティングしてくれる。
その間に私は、パスタの麺を茹で、ソースをテキパキと用意していく。
「いい香りだな。今日はニンニクのパスタ?」
「うん。アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ――別名、絶望のパスタね」
「絶望……?」
「正確な由来はわからないのだけど……必要な材料が少なくて、絶望的なほど貧しくても作れるからとか、絶望している時でも美味しく食べられるからとか、シンプルなのに絶望的に美味しいからとか言われてるわ」
最低限必要な材料は、パスタ、ニンニク、オリーブオイル、塩。唐辛子、それから、もしあれば、鰯など。
肉や魚や乳製品がなくても作れるし、もし唐辛子が手に入らなくても美味しい。その場合は、「ペペロンチーノ(唐辛子)」の名はつけられないから、「アーリオ(ニンニク)・オーリオ(オイル)」のパスタだ。
「シンプルだからこそ、絶望的に難しくもあるんだけどね」
このパスタの要は、乳化という作業にある。
パスタの茹で汁をフライパンに移して乳化させるのだが、その茹で汁の量やタイミング、塩分量など、細かい部分の差で驚くほど完成度が変わるのだ。
「完成!」
トングで捻るように、皿に盛り付ける。
最後に乾燥パセリを上から振りかけ、テーブルへ運んだ。
「いただきます」
アデルは、食事の前に手を合わせる。彼とゆかりある国での、礼節のひとつなのだそうだ。
「いただきます」
私も、彼にならって手を合わせてから、パスタをフォークに巻き付けていく。乳化は成功していて、とろりとソースが絡みつき、つやつやと輝いている。
パスタを持ち上げると、湯気と共にニンニクの香りが立ち上ってくる。
「うん、美味いな。ピリっとした辛さが舌に心地良い」
「ふふ、良かった」
アデルもご満悦のようだ。美味しそうに食べる彼の顔を見ていると、やっぱり幸せな気持ちになる。
ドラコのいない食卓は静かで少しだけ物足りないけれど、それでもあたたかくて幸せな空気は、変わらずここに満ちていた。
「それにしても……絶望のパスタか」
アデルは、あっという間にパスタを平らげて、食器を片付けながら呟いた。
「先人たちは、『絶望』に希望を見出して、前向きに暮らしていたのだろうな。そんな願いが、強さが、この料理にはある……そんな気がする」
「絶望に、希望を……そうね。そうかもしれないね」
絶望すらも平らげて、明日への糧にしてやろう。なんなら笑いものにしてやろう。
そんな気概が、このネーミングには含まれているのではないか。私も、そんな気がする。
「あ、そうだ。そういえばね、今日、お部屋を掃除してたら、なんか日記か手帳みたいなのが出てきたの」
私は、食後の紅茶を用意しながら、戸棚の奥から出てきた本のことを報告した。アデルはすぐに思い当たらなかったようで、首を傾げている。
「日記? 手帳?」
「うん。勝手に見たら良くないと思って、中は見てないから、安心して」
「そうか。それにしても……日記か」
アデルは、顎に手を当てて、真剣な表情で考え始めた。
「アデルのじゃないの?」
「……ああ。見てみないとわからないが、おそらく……ドラコの前にこの家の管理をしていた者が書いた日記だろう。今レティが使っている部屋を、使っていたから」
「そうなんだ。その人って――」
私はアデルに聞こうとして、口をつぐんだ。
彼の表情が、とても苦しそうだったから。
少なくとも、その人は今、ここにいない。
つまりそれは、アデルを置いてどこかへ行ってしまったということなのだろう。
森の中にいるのか、外にいるのか、それとも、もうこの世にはいないのか――どちらにせよ、アデルにとっては、きっと思い出したくないことだ。
「――やっぱり、なんでもない。とにかく、その日記、私の使わせてもらってる部屋に置いてあるから。あとで持ってくるね」
「……ああ、ありがとう」
私は笑顔を作ってそう告げると、空のティーポットを持って洗い場へ向かい、そのまま洗い物をする。
後片付けが済んでダイニングに戻ると、アデルは、すでに席を立っていた。
普段は食後も少しゆっくりしてから部屋へ戻るのに――飲みかけの紅茶もそのままに、声もかけずにいなくなるなんて、珍しい。
あの日記を書いた人は、アデルにとってとても大切な人だったのだろう。
アデルの心をあんなに乱すほど。
絶望に、希望を見出せないほどに――。
*
後片付けを終えて部屋に戻った私は、はあ、とため息をついて扉を閉める。
アデルの反応を見た私は、日記の中身を見たくて仕方なくなっていた。
先程のアデルの言葉によると、これを書いたのはアデル自身ではない。書いた本人も、もうこの家にはいない。
なら、少しだけ……そう思いながら、日記を手に取る。
「……でも」
見たくない気持ちも、ある。
もしもそこに、アデルにとって大切な人との、輝かしい日々が綴られていたら……。
「……うう、でも、やっぱり気になる。最初のページだけ」
結局、誘惑に負けてしまった。
罪悪感を少し感じながらも、私は表紙をめくって、最初のページをおそるおそる覗き見る。
――そして、私は、後悔することになった。
『わたしの愛しいアデルバート。
いのちの灯火が消えるこの瞬間に、あなたと共に在ることができて、わたしは幸せでした。
ありがとう、そして、さようなら。
たった一人の、特別なひと。
この身体が溶けて消えても、わたしはずっとあなたと在ると、ここに誓います』
それは、熱烈なラブレター。
記されていたのは、おおよそ三年前の日付と――美しく重たい、愛と感謝と、訣別の言葉だった。
「……見なければよかった」
私はそっと日記を閉じ、テーブルの上に置き直した。
アデルに届けると約束したが……やっぱり、今は彼の顔を見たくない。
アデルの部屋に向かう気も起きず、のろのろと灯りを消して、ベッドに潜り込む。
干したばかりの枕に顔を埋めて、私は一人、静かに泣いたのだった。
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