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最終章

42話

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「……おかあさ、ん」

 ふと、サクラの唇からこぼれ落ちた小さな声に、グレンの動きが止まる。アメジストの瞳をこれ以上ないほどに見開き、夢の中にいても尚、涙を流すサクラを見つめた。

「おかあ、さん」

 サクラはまた、小さな寝言を漏らす。
 ぐずっ、と鼻を啜りながら、グレンの大きな手を握り返していた。

 夢を見ていたのだろうか。
 幼き頃に病床で亡くした愛する母の夢を。

 グレンは瞼を徐々に細め、熱い吐息が混じり合っていた唇と唇の距離を離していく。彼もまた昔の記憶を思い出したのか、虚しい切なさに晒されたような表情を浮かべた。

「……サクラ」

 唇に触れることが叶わなかったグレンの薄い唇は、サクラの薄く透き通った首筋に押し当てられる。指を交互に絡めて、愛し合う恋人同士のように手を握って。幾つもの撲りつけた跡に紛れて、独占欲の朱を散らした。


「本当のお前を愛してやれるのは俺だけだ。サクラ。早く、俺の元に来てくれ」


 ──懇願するような、或いは縋るような言葉がサクラの胸に突き刺さる。なんてまっすぐで、残酷な言葉を吐き出すのだろう。

「……サクラ」

 痛々しく腫れ上がったサクラの頬。
 鬱血するほどに強く掴まれて跡が残ってしまった手首。
 大腿にうっすらと浮かんだ薔薇色の斑点。

 自分がつけたサクラの身体の傷すべてに、グレンは余すことなく唇を落としていく。


 聖女だった頃の自分が、忌み嫌っていた相手から労るように触れられる姿を──今のサクラはただ見つめることしかできなかった。






「……あっ」

 視界の光景を瞼で遮断し、再び世界を映した瞬間、眼前の景色がまた変わっていた。

 彩り鮮やかなステンドグラスが光り輝く天井の下、聖壇の前で向かい合う二人の男女。純白のドレスに身を包んだ黒髪の少女サクラと、白銀の髪を後ろに流した青年──ヴィクトールの姿が見えた。
 浄化の旅が終わって、ヴィクトールと大聖堂で結婚式を挙げたときの記憶だろうか。

「顔が強張っているぞ。緊張しているのか」

「だって、初めてのことです」

「それはお互いにそうだろう。あと敬語はやめろ、私達は夫婦になるんだ」

 頬を紅潮させて羞じらいを見せるサクラに対し、ヴィクトールは目元を崩して笑いながら、愛慕に満ちた眼差しを向けている。
 歓声と祝福の声があがる中、ヴィクトールはサクラの顔を覆ったベールをゆっくりと持ち上げた。

「サクラ、愛している。この先、なにがあってもお前のそばにいることを誓おう」

「……はい」

 悦びの涙で潤んだサクラの瞳は、ヴィクトールしか映っていなかった。
 今なら分かってしまう。二人を祝う人々で溢れ返る大聖堂の片隅に、漆黒の外衣で身を隠した人間がいたことを。

 その正体がグレンだということも、今のサクラはすぐに気がついてしまった。

 (……あっ)

 幸せに包まれた二人が誓いの口づけを交わす最中、グレンはふらりと踵を返す。彼の胸から溢れ出した黒い靄が、心のうちに秘めた感情に蓋をするようにグレンの身体を包み込んでいく。

 (グレン……)

 祝福に包まれた昔のサクラとヴィクトールを背に、サクラは去り行くグレンを見つめる。

 五年前のあの日、サクラもグレンと同じように黒い靄に心と身体を蝕まれそうになった。愛する人に捨てられてしまったとばかり思い込んで、闇に染まりそうになった。

 それでもグレンのように闇に堕ちなかったのは、ヴィクトールがすべてをなげうってでもサクラを守ろうとしてくれたから。全身全霊でサクラを愛し抜き、心が壊れないようにそばにいてくれたから。

 グレンが犯してきた罪の数々は、赦されるべきものではない。愛するヴィクトールから引き離そうとした彼を、サクラ自身も赦すべきではないのかもしれない。
 しかし、彼を救うことができるのは自分しかいない。聖女である以前に、グレンを救うことはできないのだろう。

 ──哀れな化け物と成り果てたグレンの闇を完全に祓わなければ、きっとこの負の連鎖は終わらない。

「っ、あ……!?」

 心の声に反応したのか、床から現れた黒い影がサクラの足首を掴んだ。大理石の床から深淵の闇と化した奈落の底へと引き摺り込まれそうになる。

「やっ、あぁ」

 ずぷり、ぬぷりと足の先から沼のように泥濘んだ暗闇に喰われていく。息苦しさに苛まれ、全身が押し潰されるように圧迫され、あっという間に闇黒に呑み込まれてしまった。

「っ……んっ……」

 やっとの思いで開いたサクラの瞳に、人影が映る。
 黄金の髪に、禍々しい色を放つアメジストの瞳。悪魔へと変貌したはずの彼は、元の人の形をしてそこに立っていた。

「……グレン」

 目の前に立ち塞がる男の名を、おそるおそる呼ぶ。
 サクラの目の前に佇んでいた男──グレンは、昔と同じように蔑むような眼差しを向け、吐き捨てるように嗤った。

「馬鹿だろう、サクラ。どうしてここに来た。お前を苦しめた原因の側室とその子供ガキなんて見殺しにすれば良かっただろう」

 サクラはなにも答えない。
 ただまっすぐにグレンの瞳を見据える。

「……なんだよ。なにか言え。本当は怖くなったのか。後悔しているんだろう、ここへ来たことを。もう遅いぞ、幾ら悔いたところでお前は愛する旦那のところへは帰れない。昔みたいに泣いて叫んでも、旦那はお前を助けに来てはくれない。どんなに帰りたいと縋っても永遠に闇の中だ」

 やたらと饒舌になるグレンのどんな脅しも、今のサクラに恐怖を与えることはない。
 サクラは揺るぎない光を宿した瞳を向けたまま、拳を握り締め、最後のグレンと対峙した。


「──グレン。あなたを倒してみせる。これですべてを終わりにしましょう」


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