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14.病院
しおりを挟むピンポーン。掲示板に520という数字が点滅する。「520番の方、診察室Cへお入りください」。電子音のアナウンスが流れる。
千勢は541番の受付票を見て、ため息をついた。かれこれ1時間以上、待合室の椅子に座っている。あと20人以上。これでは診察する前に疲れてしまう。
いつも思うのだが、予約しているのだからもう少し待ち時間はどうにかならないか。
今朝は8時に家を出て2時間かけ、定期的に通院する東京都内の総合病院に来ていた。
産婦人科の前の待合室には4~5人掛けの長椅子が5列ほどあり、入れ替わり立ち替わりでほぼ満席状態を保っている。
一番後ろの左側に陣取った千勢は、目をつむって小さく息をはく。漂う病院特有の臭いに胸がモヤモヤしていた。
病院では常に生と死がせめぎあっている。
消毒や洗浄液の科学的な臭い、血液や汚物の生身の人間の臭い、かすかに残る死臭。嗅ぎ分けることが出来ないくらい複雑に混ざり合い、無色透明で形のない空気になりすまし、これでもかと「生と死」を主張している。
『人間は生まれた瞬間、死に向かって生きていく』
いったい誰の言葉だっただろう。
はっとして千勢は周りを見渡した。いつの間にか千勢の思考は迷宮に入り込んでいしまっていたようだ。
視線の先でジャンパースカートを来た女性が診察室に入っていくのが見えた。隣の女性はピンク色のカバーをかけた母子手帳に何か書き込んでいる。斜め前の椅子に大きなお腹を押さえながら女性がヨイショと座る。
産婦人科は病院の中で唯一、死よりも生のパワーが強い場所だ。生きるエネルギーが満ち満ちている。
子供を産んだことのない60歳の女性が、新たな命を育む女性を前にしたらひれ伏すしかない。太陽だ、女神だと崇め奉る。そうして千勢はそのままエネルギーを吸い取られてしまう。
そこへ看護師に車椅子を押され、ぐったりした老人が通り過ぎた。眠っているのか首が折れそうなほど下を向いている。男性はパジャマを着ていても骨と皮だけなのが分かる。
千勢は「死ぬことに何も恐れることはない」と断言できる。しかし、老いは怖い。死ぬことよりも、死ぬ手前の老いのほうが怖い。
日本の平均寿命は80歳を軽く超える時代。
シワが増える、白髪になるなど体の衰えはジワジワと迫ってくる。膝が痛くて歩けない、肩が上にあがらない。それまで出来ていたことがどんどん出来なくなる。
そしてついには起きることも食べることも思い通りにならなくなる。自分の身体を自分でコントロールするのが難しくなる。
誰かの手を借りなければ、つまり介護されなければ、生きていけなくなるなんて。
『人間は生まれた瞬間、死に向かって生きていく』
思い出した。作家で尼僧の瀬戸内寂聴の言葉だ。確か、こう続くはずだ。
『そう思うと、今日、今この瞬間が惜しくなってくるでしょう』
病の兆候は1年ほど前からあった。
不正出血が続いたため掛かりつけのレディースクリニックを受診したら、この総合病院を紹介された。
いくつかの検査の後、診断されたのは「子宮体がん」だった。ステージⅡ。主治医によると子宮全摘出術と卵巣・卵管切除術に加えて、様子を見ながら放射線治療を行うとのことだった。
がんは早期発見・早期治療をすれば完治する可能性が高いとはいえ、かなりショックを受けた。ただ、それよりも千勢を苦しめたのは、がんが子宮に出来たことだった。
子宮体がんはエストロゲンという女性ホルモンによる刺激が長期間続くことにより引き起こされる。それは妊娠・出産の経験がないことも一因になるという。
がん告知を受けた日の夜、稔に泣きながら相談した。
「赤ちゃんを育むことが出来ないどころか、命を蝕む細胞を育んでいるなんて。私の子宮は、なんてポンコツなんだろう」
悲観的になって自分を、自分の身体を責めた。
「女性としての役割を果たせなかったのだから自業自得。これ以上生きている価値はない」
千勢は治療を拒否しようとした。そんな千勢に、稔は手を握って一緒に泣いてくれた。「男は人前で涙を見せるもんじゃない」と思っている九州男児なのに。
「何があっても俺はちーちゃんと一緒にいるから。死ぬまで、いや死んでも一緒にいるから」
稔がそばにいてくれたら辛い闘病も耐えられるかもしれない。
「2人でがんを乗り越えられたら、以前登れなかった富士山にもう一度、挑戦しよう」
稔のために生きようと手術を決意した直後だった。
稔が、死んだ。
千勢は、稔のいない世界の全てが、どうでもよくなった。
千勢の方が死に近い場所にいたはずだ。なぜ自分だけがのうのうと生きているのか。何の生産性もない、いてもいなくても構わないような存在の自分が。難問の答えはどこにも見つからない。
死は誰にでも平等にやってくる。それは自然の摂理。頭では分かっている。
残された時間を精いっぱい生きてから迎える死。
残された時間を意識することなく突然訪れる死。
死への覚悟は、本人ではなく残される者のほうにこそ、重要なのではないだろうか。
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