もしも田中角栄がヒトラーに転生したら

ホカート

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プロローグ マッターホルン会談

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 1940年夏。大英帝国宰相、ウィンストン・チャーチル氏は、そのブルドッグのような容貌を日に日に険しくさせていた。理由をあげればキリがないが、最大の原因は、英国にとって乾坤一擲だったダンケルク撤退戦が大失敗に終わったことに尽きる。
 であるが故に。彼は今、ドイツとの休戦交渉のため、住み慣れたダウニング街ではなくスイスの山岳ホテルにいた。30万もの英兵士がドイツの捕虜収容所に押し込められてしまった以上、ドイツが申し出た休戦交渉を黙殺することは国内世論上、不可能になっていた。
 標高2千メートルを超える高所に位置するホテルからは、純白のピラミッドとも形容すべきマッターホルンが眺望できた。チャーチルはぶつぶつと独り言を始める。いいだろう。交渉の舞台には出てやるとも。だが、休戦はノー、ノン、ナインだ。自分はチェンバレンの二の舞になるつもりはない。どうせ、ドイツ人はドーバーの大防壁を乗り越えることはできないのだから。
 それに、時は我らの味方にある。ルーズベルトが参戦を決意さえすれば、この戦争が1918年と同じ帰結を辿ることは誰の目にも明らかだった。
 いかにして休戦交渉を破綻させ(できれば兵士の返還を引き出しながら)、戦争を継続させるか。彼はこれまで学んできた政治技術の全てをその一点に注ぎ込もうとしていた。
 会談の舞台に入る直前、彼は自身を奮い立たせた。どれほどの弁が立ったとしても、突き詰めれば恫喝を繰り返してきた煽動屋に過ぎない。怪しげな私兵集団がいなければ、激しい議会の洗礼を潜り抜けられない輩に、交渉で負けるわけがない。酷い虚勢であることは自覚しつつも、彼は口元に笑みを浮かべながら扉を開けた。
 ドイツ側はすでに全員が着席していた。チャーチルの視界に、扇子を常人の十倍の速さで扇ぐ男が映り込んだ。
 「まぁそのー、閣下、どうぞお座りください」
 男はドイツ語でこうまくし立てたる。神経質なまでに切り揃えられたその髭。新聞で目にしない日はない、かの人物に相応しい見た目であり、チャーチルが弁舌をもってねじ伏せようとしていた相手のはずであった。しかし、チャーチルは猛烈な違和感を覚えた。本当にあの男か? 実物を見るのは初めてだったが、人を殺めてきた独裁者特有の陰湿さがない。それどころか・・・。
 戸惑いを隠し切れずに着座すると、手元には場違いなシガーボックスが置かれていた。長さ7インチの太巻き――それもキューバ産でチャーチルが愛好するロメオ・イ・フリエタだった。
 「閣下もお好きでしょう?」
 「ご高配に感謝します」
 よくもまあ調べたものだ。そう感心したが、小細工に負けてはいられない。1本をじっくりと炙って、深く吸い込んだ。目の前の男も「じゃ、じゃ、失礼ながらね、私も久々に」と火をつけた。2人は紫煙をくゆらせた。随行団がひしめく一室に、葉巻の香りが充満する。
 チラリと目をやると、リッベントロップ外相が男の口元をまじまじと見つめているのが視界に入った。いや、リッベントロップだけではない。この会場にいる誰もが、男が欧州随一の禁煙家であることを知っていた。にも関わらず、男の吸い方はあまりにも堂に入っていた。
 「いやねぇ、私がかつて仕えた爺さんがね、閣下に憧れて葉巻をよく吸っていたりしたもので」
 我が愛しの秘密情報部はどれほど無能なのだろう。そんな報告、1回たりとも聞いたことがない。帰国したら叱りつけねば。
 「まっ、こんなもんで、そろそろ仕事を始めましょうか」
 男は再び扇子を水鳥の羽のようにあおぎ始めた。
 「申し遅れましたが、私は内閣総理・・・やっ、やっ、失礼、ドイツ国総統のアドルフ・ヒットラーであります!」
 差し伸べられた手をそのままにしているわけにもいかず、握り返す。ヒトラーはニッと笑い、力強く上下に揺らした。
 「よっしゃよっしゃ! 世界は独英の和平を待っておりますぞ!」

 欧州大戦の行方を左右する外交をいち早く報じようと、ホテルには各国のメディアが軒並み押しかけていた。従来ならばドイツメディアに独占されるはずの会場入りは、国籍を問わず抽選で入れる仕組みに改善された。ただ唯一、メディア関係者が首をかしげたのは、ドイツ宣伝省が特例措置として、英国メディアについては、論調の左右を問わず、優先的に現地に入れるよう斡旋していたという事実だった。
 会議開始からおよそ十時間。ロビーでうたた寝をしていた記者団に、唐突に会見場への移動が告げられた。
 「その前に一つお聞きしたい! 和平はなったのか?」
 ロイターの記者がドイツ外務省の役人に詰め寄るが、無言で撃退される。他の記者達も同業者意識で加勢に加わるが、役人の仏頂面は崩れなかった。

 会見場にはリッベントロップと、脇にヒトラーが立っていた。チャーチルの姿はなかった。会見の同席を断ったからだ。
 和平はならず。冒頭、リッベントロップが悲しげな表情で語りかけると、記者団からは失望の声が漏れた。そのため息には歴史的舞台に居合わせるチャンスをモノにしながら、眼前で逃したという憤りも大いに混じっていた。
 質疑応答の場では、英国メディアに優先的に質問の機会が与えられた。答弁にはまず、リッベントロップが立った。
 「なぜ和平はならなかったと考えるか」
 「ひとえにチャーチル氏の頑迷さ故である」
 「提示した和平の条件は何か」
 「英国がドイツへの敵対行為を停止すれば領土の要求なしに休戦をすると申し入れた」
 「領土の要求なしと申されたか」
 「いかにも」
 「捕虜については」
 「休戦がなれば即時にお返しする」
 立て板に水のやり取りを止めたのは、英保守紙タイムズの気骨ある質問だった。
 なるほど。しかし、外相はそうおっしゃるが、ミュンヘン協定を破り、チェコスロヴァキアを併合し、ポーランドを犯したドイツの主張を世界が信じられるとお思いか。
 会場がシンと静まる。言い返そうと力んだリッベントロップを制止して、ヒトラーが喋り出した。
 「それにゃ、私がお答えしましょう。じゃあね、英国が今お持ちの植民地。あれは一体どうやって獲得されたのか。どれだけ条約なるものを反故にされてきたのか列挙しましょうか。私は皆さんご承知の通り、大学には行っておりませんが、少なくともね、そういう質問をするほど勉強不足じゃありませんな」
 ヒトラーはジロリとにらみを利かせた後、一転して白い歯を見せた。
 「まあ、まあ、そういう話は別の機会に話しましょうや。今はね、とにかく和平を結んで、若い兵士たちをクニの父ちゃん母ちゃんたちに会わせなきゃいかんと。そういう話をね、人間アドルフ・ヒトラーとしてね、申し上げたわけであります。わたくしも従軍した過去が御座いますからね。戦友も多く亡くしております。これはお約束ですから。和平を結べばね、30万の英兵士をすぐお返しする! それでも、チャーチル氏は席を蹴られたのであります!」
 この即興の演説は実に効いた。記者の多くは先の大戦に従軍していただけに、ヒトラーがあまりにも粗雑な詭弁を弄していると内心では理解しつつも、本能では共鳴するものがあった。そして同時に思った。メディアを集めて今の発言を書かせれば、大衆はきっとドイツの主張になびく。クソッタレ、俺たちをゲッベルスの小間使いにしやがった。
 彼らの予想は正しかった。翌日の各紙には軒並み会談の詳細が一面を飾った。英国では反戦団体が息を吹き返し、チャーチルの挙国一致内閣は不協和音を奏で始めた。
 我々は戦う。岸辺で、上陸地点で、野原で、街路で、丘で――。
 チャーチルがかつて唱えた名演説は急速に光彩を失った。失意のチャーチルは辞意を表明。親独派のロイド・ジョージが後任に就任し、ドイツとの休戦協議入りを発表した。

 外見上におけるヒトラー氏は、会見を終えた後、ホテルの自室で湯船に揺られていた。濁声で持ち歌の「湯島の白梅」を歌おうとするが、思い通りに〝母国語〟が出てこない。畜生、この身体になってからずっとこれだ。平仮名さえ手本がなければ書けない始末。一方で、ドイツ語は流暢に書けるし、話せる。これなら一高の連中にも負けないと皮肉げに笑った。他人には決して見せない表情だった。
 バスローブに身を包んで冷えたビールをクイっとやる。ああ、目白が懐かしい。娘に会いたい。あんな金髪碧眼の連中ではなく佐藤や早坂と喋りたい。何より、越後に帰りたい。
 思わず涙がこぼれそうになったが、頬を叩いた。もう、仕方がないではないか。全てを捨てて日本大使館に逃げ込むことも考えたが、この立場の人間を亡命させてくれる可能性はゼロであろうし、何より俺は天下の独裁者だ。元の人格が何をやらかしてきたかは重々承知している。職を放り出したとしても、今度は命が危うい。
 生きて、日本の土を踏むためには、この国を崩壊させるわけにはいかない。そして、あわよくば、日本の運命さえも回天させなければいけない。なぁにやってやるさ。日本の内閣総理大臣を舐めるなよ。アドルフ・ヒトラーこと田中角栄はそう決心していた。
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