【完結】『社畜の鑑』

M‐赤井翼

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「交通事故」

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「交通事故」

 母が亡くなった翌朝、靖がいつも通り「システムのなにわ」に午前8時半に慶弔休暇届を提出するために出社すると祥が待っていた。
「靖ちゃん、大変やったな…。俺、なんもできへんけど話し相手くらいにはなれるからいつでもそこだけは頼ってや。ちょっとけったくそ悪い話やねんけど、昨日の会議の後、課長は社長らと飲みに行ったんや。今日の営業先直行はたぶん嘘やな。
 そんでこんな時に言いにくいねんけど、昨日、靖ちゃんが抜けた後はもう「欠席裁判」や。今週末契約予定やった靖ちゃんの案件は靖ちゃんが休む可能性があるからって課長扱いにされて、その分8月の新規開拓のノルマが靖ちゃんと俺にまわって来たんやわ。一応、課長からこのリスト渡すように言われたけどお葬式が済むまでは俺が代わりにアポ取りしてもええから無理せんと言うてや。」
と祥はいつも以上にやさしく接してくれた。祥から渡された慶弔休暇届には週末契約案件の緊急対応を考慮し通夜の今日から本葬儀の明日の日付を書き込み印鑑をついた。
 次にチェックした会議終了後の営業ノルマ振り分け表では、今週末契約予定だった大口案件は課長に担当が変えられ、新たな目標金額が上乗せされていた。靖はため息をつくことも忘れて呟いた。
「まあ、しゃあないわな…。その場に居れへんかったんやから。まあ、社畜としてできる限り頑張るわ。」

 事件はその週末に起こった。木曜日の朝に金曜日契約予定だった契約担当が課長に変わった元々は靖の大口契約案件で一部仕様変更の申し出があった。課長は飛び込み営業に出ていた靖を無理やり呼び戻し、関連システム会社への仕様変更対応と再見積もりの作成を命じた。
 週末に契約予定の大口客先からの「小原さんから担当変わるんかいな。こんなこともすぐに対応できへん無能な課長さんやったら小原さんに担当戻して欲しいわ。あーあ、納期遅れたら値引きしてくれはるんでしょうな。あんじょう・・・・・よろしく頼んまっせ。」との連絡を運悪く若社長が電話を取った事で、課長の逆切れの矛先が靖に向いた。
「おい、仕様変更しても納期は守るぞ。関係会社含めて明日午後4時までに全部調整しておけよ!」
と一方的に靖に無理な仕事を押し付け、自分自身はろくに残業もせず午後7時半には退社していった。木曜日の靖の仕事は徹夜となった。外注先の仕事が増えた分は「システムのなにわ」で賄うしか納期を守ることができないのは明確だった。契約予定の金曜日午後4時までの30時間はトイレに行く以外はデスクにつきっきりで作業を行った。大量のエナジードリンク剤だけが喉を通る物だった。

 何とか金曜日の午後4時の契約に間に合うよう書類は仕上がった。靖単独で課長の待つ、取引先に社用車を走らせた。到着するとすぐに変更点について説明し仕様を再確認した。取引先からは「さすが小原さんやな。やっぱり頼りになるわ。また、担当に戻ってきてな。」と言われているのが気に入らない課長は「さあ、契約も済んだことですし飲みに行きましょか!今日はうちの経費ですから、寿司か焼肉の後はキャバでもラウンジでもピンサロでもご希望のところに連れて行かせてもらいまっせ。」と機嫌を取りながら、靖には「さっさと帰って自分の仕事をせえ!」と吐き捨てた。
 まだ明るい夕刻だったが、完全徹夜の疲れとエナジードリンクのカフェイン効果の断絶が同時に出た。いつもであれば確実に気づくであろう交差点で信号無視して入ってきた右方からの車に気づかず社用車をスタートさせた靖の運転席に真横から猛スピードで突っ込まれたのだった。

 靖が目を覚ますと、見覚えのない白い天井が見えた。ふと腕時計を見ると午前4時過ぎだった。どうやら病院のベッドの上で寝ているであろうと想像した。右足は石膏のギブスで固められているようで天井から吊るされている事に気づくと不意に痛みが襲ってきた。靖は汗をかきながら枕元のナースコールを鳴らした。
 まもなく看護師と白衣の若い医師が飛び込んできた。医師はモニターの数値をチェックすると靖の脈をとった。
「意識が戻ってよかったです。頭を打った形跡がないにもかかわらず意識が戻らないんで心配してたんですよ。」
と靖の顔を覗き込む男性医師の胸には「消化器内科 伊庭真一」とあったので靖は混乱して尋ねた。

 「先生、名札に消化器内科って書いてありますけど俺…、いや私なんで病院に居るんでしょうか?何か病気で倒れたんでしょうか?」
伊庭は首を横に振った。靖が自動車での交通事故に遭い右足骨折で救急車で運び込まれてきたということを最初に説明した。頭部CTや身体のレントゲン等で他覚症状が無いものの昏睡状態が10時間にわたり続いていて心配していた事と、伊庭は夜間当直担当で骨折以外に他覚症状のない靖を担当することになっただけであることと右足は全治8週間である旨が説明された。靖は木曜日からの徹夜作業とそれまでも過労状況、母親の身辺整理で今週はほとんど睡眠が取れていなかったことを伝えた。
 伊庭は「若手医師の病院での当直勤務以上の激務ですね。」と自らの勤務状況と比較し感心したというよりあきれた様子で靖にやさしく言った。「とりあえず朝までゆっくり寝てください。」と言い、病室を消灯してくれた。枕元のハンガーにかけられたスーツの上着のポケットからスマホを取り出すと祥と晶からのラインが何度も入っていた。
 祥からは事故の報が警察から会社に入り事故を知った事と晶にも璃子を通じて靖の事故を伝えた事にお見舞いの言葉が添えられていた。晶からは午前0時過ぎに祥からの連絡を璃子を介し知った旨と、靖の状況を案じている旨が綴られ、最後に「連絡できる状況になりましたら容態と入院先を教えてください。」とメッセージが入っていた。
 靖は「明け方に失礼します。どうやら交通事故に遭い右足骨折の様です。全治8週間との事。門真総合病院に入院しています。ご心配おかけしました。ご報告まで。」と入力するとふたりに返信し、(あぁ、この間見た夢はこの事やったんやな。ほんま当たりすぎる予知夢にも困ったもんやな。未解決な夢もあるし…。その前に見た阪神優勝の時の夢はどないなるんやろな…。お母ちゃんが忌の際に言うてくれた晶さんには精一杯やったりやって言うてたから泣いてた理由が分かれば精一杯俺にできることをするしかないよな…。)と思いながら再び深い眠りに落ちた。




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