女神のために

タクナ

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プロローグ

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 気がついた時、それはそこにいた。いつから、そこにいるのかもわからない。気がついたという言葉すら、正確ではないかもしれない。
 ただ、それがそこにあるという事実だけは正確だ。

 それは、自分自身が何者であるかもわからず、己が今いる場所を形容する言葉すら持たない。

 「―――――――」

 何か意味のある音を出そうとして、自分には口がないことを知った。

 「―――――――」

 何か意味のある音を聞こうとして、自分には耳がないことを知った。

 「―――――――」

 何か意味のある光を見ようとして、自分には目がないことを知った。

 「―――――――」

 何か意味のあるかおりを嗅ごうとして、自分には鼻がないことを知った。

 「―――――――」

 何か意味のある物に触れようとして、自分には手が、足が、身体がないことを知った。

 そして、何もできないのにも関わらず、焦りも動揺も何も感じなくて、自分には心がないことを知った。


 ああ、私は何も持っていないのだな。
 ああ、僕は何も持っていないんだ。
 ああ、俺は何も持っていないのか。
 ああ、我は何も持ちえぬのか。
 ああ、あたしは何も持っていないのね。
 ああ、ああ、ああ――――――


 いくつもの考えが生まれては消える。自我があるのかどうかも曖昧なそれは、自白を続ける。
 時間という概念を持ち得なかったそれにはわからなかったが、それは一つの惑星ほしが生まれ、生命が誕生できるほどの膨大な時間だった。

 それだけの長い長い時間を過ごした結果、それは、あるヒトと出会う。

 『ようやく見つけたわ』

 その声は、それの中に直接響いてきた。その凛と澄み渡る声を聞いた途端、涙を流しそうになった。それに瞳などという器官はないし、涙という言葉すら

 その声を聞くだけで、それは心を取り戻した。
 自らの心に、名前もわからないが次々と生まれては、消えたり増幅したり、萎んだりする。こんなにも心が忙しいのはだ。

 「あなたは、こんなに長い時を独りで刻んできたのね」

 その言葉だけで、それは耳を取り戻した。
 自らの耳に、その声以外の他の音は聞こえない。だが、その音が聞こえるというだけで、心に色々なが生まれるのを感じる。

 「これからは、もう独りではないのよ」

 その好意だけで、それは鼻を取り戻した。
 自らの鼻に、漂ってきた香りに、心が落ち着くような、それでいて昂ぶるように心がざわつく。

 「大丈夫、私がそばにいるわ」

 その安心だけで、それは瞳を取り戻した。
 自らの目に、周囲の光景が映し出される。視界には一面が真っ白の空間が広がっており、その中にポツンと、注目を引きつけるようにがいた。右も左も、上も下も、遠い近いも、空間を把握できないほどのまばゆいほどの白に塗られた空間に、彼女は不釣り合いなようにも見える。
 それは、この表現以外に彼女を形容する言葉を持たなかっただけである。もし、言葉を持っていたならば、違うように形容するであろう。
 腰まで長く伸びる銀髪から、端正に整った誰もが羨むような美貌を覗かせている。光にキラキラと反射する銀髪を前に垂らし、一糸纏わぬ姿を神々しく隠している。

 「私の愛しいヒト…………これからはあなたの時代よ」

 そう悲しげに手を伸ばし、離れていく彼女に触れようとして―――それは手を、足を、身体を取り戻した。
 取り戻したばかりの五感と身体を使い方もわからずに闇雲に動かす。彼女を求めようとして、伸ばした手を握り、近づこうとして足を踏ん張った。
 言葉にならない声を、ただの音として発して、少しでも彼女に伝えようとする。

 私を置いていかないでくれ
 僕を置いていかないでくれ
 俺を置いていかないでくれ
 我を置いていかないでくれ
 【???】を置いていかないでくれ

 「…………ごめんなさい。そういうルールなの。ごめんなさい…………」

 なんで、貴方が泣きそうな顔をしているんだ?
 なんで、君が泣きそうな顔をしているんだ?
 なんで、おまえが泣きそうな顔をしているんだ?
 なんで、汝が泣きそうな顔をしているんだ?
 なんで、【????】が泣きそうな顔をしているんだ?

 自分の中に生まれた、この胸を満たすモヤモヤとしたがどういったものなのかわからないまま、それは彼女を見つめ続ける。
 それの中に生まれたものを、ヒトは感情というのだが、それには形容する言葉は必要ない。どうせ、感情という言葉に内包されうる様々な感情の形容の仕方もわからないのだから。
 それは自分の中に生まれたものには見向きもせずに、心のどこかで届かないとわかっていながらも、【????】に手を伸ばし掴もうとする。しかし、その手は届かない。まばゆいばかりの白という虚空をむなしく掻いただけだ。
 【????】は自らへと伸ばされたその手を名残惜しそうに見ながらも、彼女はどんどんと離れていく。彼女が故意に離れていったわけではない。真っ白な空間そのものが拡張され、物理的に離されていく。
 それは、離れていく間に何度も手を伸ばすが、遠ざかる彼女には全く届かない。彼女が遠ざかり小さくなり、やがて豆粒ほどの大きさになる。それの瞳が届かずに見えなくなるまで、それは意味のないことを繰り返した。
 彼女が存分に離れて、その存在が知覚できなくなり、それは手を伸ばすことをやめた。それは、上も下もわからないこの空間で、下を向いて独り震える。ヒトの言葉で言うのならば、絶望にうちひしがれながら。



 それから幾ばくかの時が流れ、それは、上を向く。目から涙を流しながら、強い意志のこもった瞳で、彼女のいなくなった方を見つめる。



 「どれほどの時が流れようと、世界が君を忘れようと、ことわりによって引き裂かれようと、僕は必ず君を見つける」



 ――――――――今度は僕の番だ。
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