わたしは決してあなたを離れず

文字の大きさ
上 下
1 / 2

第一話/邂逅したのは地獄だった

しおりを挟む
 花屋の息子だからといって、花が好きとは限らない。甘ったるく青いかおり、びっしりと葉を覆う繊毛、光に舞って輝く花粉。俺はこれが嫌いだし、好き好んで他人に贈ろうとする気持ちも理解し難い。今まで恋人にしたやつらは、俺が花屋の息子だと知ると「きれいなお花」を期待した。でも俺は生まれてこの方自分で「きれいなお花」を仕立てたことはない。それは俺の仕事じゃないからだ。
 うちの花屋。それは商店街で細々と仏花を売って暮らしてるような小売店ではなく、全国の駅やデパートにチェーン店を構えるそれなりに大きな企業だ。花屋というと父はいちいちフローリストと訂正するが、花屋は花屋である。お祖父さまが創り上げたこの企業が、俺が主に齧る脛であり、将来なにがしかの椅子が約束された場所。だから今日も、俺は花を売らずに油を売っている。まだまだ俺はモラトリアムなのだ。

 暦上の夏になって久しい。ただ今年は残念なほど肌寒い冷夏である。
 先日渋谷で知り合った女が急に会いたいと言い出したので、特に会いたくはなかったが予定もないのでOKと返信した。月曜日だからという理由でスーツを着ていたが、仕事でもなんでもなく、ただ月曜日だからである。ネクタイは胸ポケットに押し込んで、髪をかきあげてひと撫でしてから家を出る。待ち合わせに指定されたのは新宿で、電車移動も考えたが面倒臭いのでタクシーを呼んだ。どうせお支払い係になるだろうと少し重くした財布が煩わしくて、現金主義と鞄を持たない主義は共存できないんだなあとくだらないことを考えた。女の名前も正直うまく思い出せず、スマホに登録していたラベルは「渋谷のバー」、それから日付。そこまで入力したならもう少し頑張って名前をいれておくべきだ。だがその夜の自分に青筋を立ててもしかたがない。それとなく名前を聞きなおせばいいだろう。もしかしたら、名前はいらないことを、するのかもしれないし。どうでもいいか、と思考を放棄して窓の外をみれば、どうやら新宿は雨のようである。
 タクシーの運転手に屋根のあるとこに停めてくれと頼むとぶっきらぼうな返事をされた。カスタマーサービスの質が低いな、と心中でお門違いの評価をする。それでも、完全に屋根の下から新宿駅舎に入れる完璧な場所に停車したこのタクシーは、きっと仕事のデキるタクシーなのだろう。
 雨足は弱まるどころかどんどんひどくなっているようで、待ち合わせ場所の東口改札の柱に凭れていると、濡れネズミになった老若男女が通り過ぎていく。用意周到にレインコートを着ていた様子のマダムが、人混みでそれを畳んでいるさまを、若い女子大生が迷惑そうに睨みつけていた。傘を振りながら歩くサラリーマンに舌打ちするサラリーマン。駅員を詰るカタコトの日本語。お気軽な怨念が溢れてるここで、名も知らぬ女を待っている俺。雨だというだけで、いつでもここは地獄に変わる。
 この豪雨で小田急線が遅延しているとアナウンスがかかり、とっくに通勤時間を過ぎたはずの構内がにわかにざわついた。胸ポケットのスマートフォンを取り出して、スリープを解除すればメッセージの通知がふたつ。
『雨が降ったから中止』という渋谷の女から一通、睦月と登録された父から『今日はお祖父様が来るので夕方までに帰宅せよ』という一通。雨天中止に門限って小学生のガキかよ、と思わず空いた左手で眉間を押さえたが、あながち間違いでもない。どちらのメッセージにも了解の二文字だけを返し、特に行く宛もない俺はなんとなく東口へ出る階段を上がった。
 雨はなかなかひどいもので、待ち合わせが中止にならなかった雨宿りの人間が犇めいていた。傘を持ってないことに思い当たり、為す術のなさにもう一度眉間を押さえた。しかたがない、駅ビルのカフェにでも入ろう。その前にうちの花屋でも冷やかすか。タクシーを呼んですぐに帰宅してもよかったが、とんぼ返りする気にもなれなかった。しかしこのゲリラ豪雨の様子じゃどこもかしこも避難民で溢れてるのだろうな。
 人混みをかきわけるように、花屋とカフェに向かうほうへ進む。この半階上に花屋があって、さらに一つ上がカフェだ。人より少し体格に恵まれているので大した苦ではないが、ああ、いま恨みを買っているなあという心持ちである。知ったことではないが。
 ほんの数段しかない階段の元に辿り着いたとき、不意に鮮やかな黄色が視界に現れて一段目にかけた足が止まった。後ろに続いていた男が避けそこねて背にぶつかったが、なにか言い捨てて抜かしていった。しかしそんなことは些事だ。見上げたその黄色は、暗雲立ち込める新宿では鮮やかすぎる向日葵のブーケだった。ご丁寧に揃いの黄色いリボンがかけられている。この地獄に差した一筋の光条のようである。
「向日葵、お好きですか?」
 向日葵越しに降ってきた声に、俺は年甲斐もなく気恥ずかしくなってしまい、少し息をすっただけで返事を返せなかった。
 黄色に見惚れてしまったことも、その声があまりに綺麗だったことも、その声の主の男の面貌が美しかったことも、自分という生物の未完成さを強調されたようで急に恥ずかしくなったのだ。泥でグズグズに汚れたこの階段をこの男が降りることすら想像できない。見慣れない黒の長衣に黄色が映えて、警告を示しているようでもあった。嫣然と笑って俺を見下ろすこの男を守るような黄色。点字ブロックの黄色。
 ああ、いえ、と乙女のような声量でなんとか答えると、そうですか、と先程と同じトーンで声が返ってくる。革靴の底でジャリジャリと泥が鳴った。生き様もスラックスの裾も汚れている俺。階段を一段とばしで、ただしゆったりと登り、”向日葵の君”の横にたどりつく。
 特別小柄でもないが、横に並ぶと華奢な印象の男である。向日葵の花が少し大ぶりに感じる、顔が小さい。初対面の人間を不躾に観察して、その上思わず「綺麗だ」と呟いて、しまったと思った。三度目の眉間。しかし、ドン引きされるでもなく怒られるでもなく、向日葵というよりは百合のような笑みで俺を見上げて「ありがとうございます」と言う。
「そこの花屋で買いましたよ、まだあるとおもいます。あ、あちらの方が繕ってくださって」
 哀しいようなありがたいような、完全に向日葵への感想だと思われたようで、すぐそこで不安そうに俺をみていた花屋の店員を指さした。まごうことなきうちの花屋である。見知った顔の店員が青い顔をしている。自分の手落ちを不安視してるのか、この男のことでなにか思うことがあるのか、俺に対して言いたいことがあるのか判別付きかねるが、とりあえず放っておく。
 普段なら男だろうが女だろうが、良しと思えば何も考えずに口説いては済し崩しに肩を抱いて歩きだす俺だが、なんと言えばいいか、この男は別種だった。そういう類の感情、ではない、とも言い切れなかったが、そうだとも言えず、まさに煮え切らない。こんな風に初恋を拗らせたような気持ちを急に見つけてしまい、戸惑いすらおぼえる。
「迷っておられる」
 急にワントーン下がった彼の声に、えっ、と間の抜けた反応を返してしまう。後も続かず目を何度か瞬いて、俺の心を見透かすように彼の右目が微かに眇められていた。俺がこの先を求めることを迷っているのか、もしくは縁を繋ぐこと自体をか。彼はにこにことしているにも関わらず、急に冷ややかな空気を感じてさっと鳥肌がたつ。向日葵が冷気に中てられて枯れてしまいそうだなと、ありえないことを考えている俺の目は、わかりやすく泳いでいるだろう。
 こうしている間も俺たちの周りをたくさんの人間が過ぎ去っていく。俺のスーツにはお構いなしに泥水を撥ねさせていくが、向日葵を抱くこの男には細心の注意を払っているような素振りさえ見せた。ただ、それが単なる美しさへの敬意なのか、彼のもつ独特の空気が畏怖させているのかは判別つきかねる。くるぶしのあたりがひんやりしている。誰かが革靴のかかとをこすっていった。
「向日葵を買うことを迷ってらっしゃるなら、あなたには似合いませんよ」
 大輪の向日葵の束に、すっと鼻先を沈めたあと、人の良さそうに笑って言った。さっきの一瞬はなんだったのだろうか。そもそも初対面であることを鑑みれば、この距離感での対話もさもありなん、なのかもしれない。
「百合なんて、よろしいのでは」
 思わず心臓が跳ねた。本当に思考をよまれているような気持ちだった。
「あいにく、花が得意ではなくて」
 情けない声で情けないことを言った。男は少し驚いたような顔をして、やっと同じ人間だったかと腑に落ちる。あまりに完成された造形は人形めいた印象を抱かせる。生きている美しい男の緑の黒髪と、切れ長の双眸が、人波に揺れて、黄色を反射していた。
「そうなのですね。てっきり、お好きなのかと思って」
「ああ、いや」
 あなたにみとれていたんですよ、と言いそうになってとまった。流石にクサくないか? 初対面の男に男が「みとれていました」? 気が違っている。とりあえず微笑んでみたが、マヌケなことこの上ない。急に何もかもが上手にできなくなって、みたくれだけそのままで、高校生に戻ったようだった。むしろ高校生の頃の俺のほうがうまくやっただろう。
「に、二条常務……」
 いつの間にか俺達の横までやってきていたのは、うちの花屋の店長で、真っ白の顔で俺を見上げていた。気の弱い小男は、目の前の向日葵の君と俺をちらちらと見比べて今にも過呼吸を起こしそうである。やはり自分の落ち度があったのではないかと心配だったらしい。
 とりあえず、と父から俺に与えられた肩書を呼ばれ、急に意識が現実に戻ってくる。
「二条常務?」
 美しい声に名を呼ばれると、小男から震える声で呼びかけられるのとは万倍心持ちがかわるな。感心している場合でもないのだが、いちいち行動に感情が左右されてしまう。
「なんでもないよ、ただ向日葵がきれいだったからね」
「あっ……え?」
 俺の花嫌いを知っている店長からしたら、それはもう珍しい感想だろう。目を白黒させたあと、左様でございますか、と呆けた声が言った。そのまま目の前の男に「またよろしくおねがいします」と頭を下げ、早足で元の位置に戻っていった。
 すこし気まずくなって、少しの沈黙。それを振り払うように、俺は内ポケットに入っていた名刺入れから「二条フローリスト」のロゴの入った名刺をとりだして、向日葵の君に差し出した。肩書は常務。俺の名前は二条皐月。名刺には書いてないが今年二十八のアラサー男。
「いや、名乗りもせずにすみません。そこの花屋の関係者で、二条です」
「あすこのお身内の方だったなんて、私ったら余計なことをペラペラと……」
 彼は名刺を受け取り、気まずそうに笑う。
「二条さんのところに、いつも教会のお花をお願いしているんですよ」
 それから花束を片手で抱え直し、黒いジャケットの右ポケットからシンプルなアルミの名刺入れを取り出した。器用に花を抱いた手も使って名刺を取り出すと、片手ですみません、と言いながら空いてる方の手で少し小さめの名刺が差し出された。
「上永谷と申します。三丁目の駅から上がった百貨店の方の、少し奥に教会があるのはご存知ですか? そこで神父をしています」
 神父。出で立ちや、まとった雰囲気の独特さは聖職者だからだろうか。神父であるという情報を得たことで、彼を見る目が急に変わる。特に悪くなるというわけではなく、自分の身の回りにいない職業人であり、もっとも自分から遠い存在であることを認識したのだ。俺は神父と牧師の違いも曖昧だが、一応何を信じているか程度の知識はある。いや、知識があると思っているのは自分だけで、実際は違うかもしれない。
 あいにく教会の存在は知らず、彼の言う百貨店はよく使うのだが、そのあたりに教会などあっただろうか。自分の生活圏にぞっとするような美人が暮らしていたとは、と自分でも呆れるようなことを考えて残念な気持ちになった。名刺には、司祭・上永谷瀬人、と美しい書体で印刷されている。年下なような気もするが確証はない。
「上永谷神父!」
 未だに人間が蠢く東口で、向日葵の君、上永谷神父を呼ぶ声が響く。上永谷神父の金糸を弾くような繊細な美しい声とはまた違った、きれいな声だった。叫ぶような呼びかけだったにも関わらず、丸く柔らかいその声はいっそ心地が良い。人混みをかき分けるようにして現れた声の主は純朴そうな青年で、短い黒髪が湿気に少しハネていた。生来のものか、眠たそうな顔をものすごい顰めてこちらに近づいてくる。傘を二本抱えてずんずんと階段を登ってくると、俺と上永谷神父の間にたち、あからさまな敵意をもって俺を睨んだ。親を守る子のようでたいへん微笑ましいが、睨まれる筋合いはない。おそらく。
「遅くなってしまい申し訳ありません。車を回してきたので、こちらに」
「よしみちくん、この方は二条フローリストの方ですよ」
 教会へ納品しているとは知りもしなかったが、どうやらお得意先のようだった。完全に俺のことを無視して上永谷神父を連れ出そうとしたこの青年は、諦めたようにため息をついたあと、俺に向き直った。
「いつもお世話になっております」
 これで文句はなかろう、とでも言いたげな刺々しさが合ったが、俺はいい大人なので笑顔で対応する。実際のところ割りとかちんと来ていたが、いい大人なので我慢する。
「中央東口の方を回って、車止めまでいきましょう。そちらで車が待っていますから」
「タクシーでよかったのに……」
「近いんですから、お気になさらずに」
 向日葵の花束を自然とうけとり、荷物をすべて引き受けると、もう一度青年は俺を鋭い視線で刺した。お前はこの男の騎士かなにかなのか。あながち間違いでもなさそうだが、面白くはない。
「二条さん、よかったら今度遊びにいらしてください。向日葵、飾りますし」
俺が未だに向日葵に見とれたと思っているのか、麗しい笑顔とともに上永谷が言った。そのままよしみちと呼ばれた青年が促すまま、階段を降りていく。二段降りたところで足を止め、またあの冷ややかな空気を纏いながら振り返った。雑踏の中透き通る声で言う。
「春ならいつでもさしあげましょう」

 捨て台詞のように「絶対来るなよ」と口パクでダメ押ししてきた青年は、神父が俺に放った言葉の意味を理解できるのだろうか。それとも理解できるからこその、絶対来るなよ、なのかもしれない。雨の地獄で出会った天使のような男は、まさに神のみ使いだったわけだが、もしや思っているほど清廉潔白ではないのか? そんなことを悶々と考えながら、カフェにも行きそびれ、タクシーも捕まらず、父の車に拾ってもらうという散々な体たらくで帰宅した。
 祖父が青山の本邸に帰ってくるのはめずらしく、いつもは藤沢の別宅で花畑にかかりっきりだ。今年の冷夏で、おそらく例年通りの種子の収穫とは言えないだろう。各地に温室施設を持っているとは言え、一番大きな神奈川の温室がダメになると少し事情が変わってくる。それもあってなのか、なにか別の事情があるのかもわからない。男三世代が顔を突き合わせて飯を食うことが、まったく楽しくないことはわかる。女手が家政婦しかおらず、今日家を出る時は居なかったような気がするが、帰宅すれば玄関で出迎えられた。肩の濡れた俺をみて「行き掛けに傘をお渡ししたかったのに、上の空で気づいてくださらなかったから」と残念そうな顔をする。俺も残念だが、傘があってもなくてもスラックスの裾はしとどに濡れていただろう。
 玄関の三和土にはすでに祖父のものと思われる泥除けの付いた下駄。神奈川はもっとひどかったらしい。先にお風呂をご案内しました、と家政婦が言うので、俺も着替えてきますと自室に退いた。
 ポケットに、少し湿った名刺が一枚。すでに何度も脳内で反芻した。上永谷瀬人、それからあの青年。とても同じ世界の人間とは思えなかったが、名刺は確かに本物だった。着替えをさっさと済ましてリビングに降りると、祖父どころか父もまだいない。柔らかい革のソファに腰を下ろして、スマートフォンの検索窓に「神父」といれる。エンターを押す前に消して「新宿」「教会」と打ち直して検索した。確かに少し奥まっているところだったが、それ以上に想像しうる教会の外観と百八十度違っていた。これでは前を通っていても気づかない。教会のホームページには、彼の姿こそなかったが新任司祭として”上永谷瀬人”の名前があった。記事のタイムスタンプは早春。彼が新宿の人間になったのはごく最近のことらしい。
「お前、いつの間にあそこいったんだ?」
「うお、びっくりした」
 父が後ろから手元の名刺を覗き込み、不審そうに言った。すごいびっくりしただろうが。
「東口の花屋に寄ったときに会っただけ。教会にはいってない」
「上永谷、上永谷って最近来たえらく別嬪な神父さんか」
 やはり、一般的な感性でも彼を美しいと認識するらしい。すこし安心した。幻のたぐいで化かされたわけではないようだ。もちろんそれは当たり前なのだが、未だに白昼夢のように感じていた。第三者の視点が加わったことで、少し地に足がついたような心地である。
「先代からの大口だからな、俺も一度行ったことがあるよ」
 一人がけのソファに身を沈めながら、記憶を辿っているのかぼんやりした顔で言う。先代、ということは今風呂に入っているお祖父様の頃からのお客様なのか。我ながら仕事に対して熱情どころか興味がないな、と感心する。おそらく東口の店長はそれを知っている。だからこそあそこまで挙動不審で様子を伺っていたのだろう。自分の失態で客先を一つ失うわけにはいかない。当然そうだろう。一方、俺はものすごく失礼なことをしたわけだが。
「お祖父様が若かったころは、きちんと、きちんとというか、俺達のおもう教会の外見をしていたらしい」
「今じゃコンクリートの羊羹……」
「ははあ確かにそうだ。国内じゃ有数のハイテク教会だよ」
「ハイテク教会……、情緒もへったくれもない……」
 大小いくつかの鐘楼はコンピューター制御、礼拝堂には最新の音響設備、ホームページをざっとさらうだけでお金をかけている感じがよくわかる。清貧を掲げていた記憶があるが、どうやら違っているらしい。父が言うに、幾つかの小さな教会をまとめる役割をもつ立場らしく、必然的に整備が進むのではとのことだった。件の礼拝堂はステンドグラスの保護のため、建物をほとんどそのままコンクリートで囲って補強したようなもので、一時代を超えた礼拝堂を守るための箱らしい。細く同系色の十字架が埋められていることに気づかなければ、体育館か美術館か、それに似た区の施設かなにかとしか思えない。
「俺も訪ねたのは一度きりだし、祭壇の花を任されてかなり経つ。いい機会だから一度顔を出してきたらどうだ」
「はあ……」
 言われなくても、とは言い切れなかったが、これで精神的な口実ができた。美人に会いに教会へ? 違う、業務上の視察である。立派な理由だ。思わぬキラーパスにどうやら俺は浮かれたらしく、その後の死ぬほどつまらない食事会の間、笑みを絶やさずワインを煽り続けることができたのである。
 祖父は神妙な面持ちだったが、主な話題は開発部門についてで、冷夏の影響の話ではなかった。先だっての向日葵も、天候からいえばやや時期外れのものだが、温室管理のために実現している。それでもあまり強くない種は運搬や店頭での管理が難しく、限られた時期にしか提供できない。アレンジメントに関して、競合他社と差をつけるには、季節に左右されないことをもっと強化していかなければ。とのことだった。花畑で花の世話をしている、といっても、きちんと整備され広大な敷地に幾つものビニールハウスをもつ大農場の主だ。のんびり花壇に水やりをするような話ではなく、品種改良や後継の教育を続けているわけだ。ほとんどニートの俺に対しては何も言わないが、おそらく業腹に違いない。素面ではあまり会いたくない。
 それをわざわざ、東京の青山くんだりまできて俺たち親子に話をしたのは他でもない。俺を神奈川に連れて行くためだ。単刀直入に言う、といって本当に単刀直入であることは珍しいが、お祖父様は違った。
「皐月を神奈川で働かせる」
 単刀直入である。やはり業腹だったのだ。フラグの回収が早すぎる。この老人は古希を次の年に控えているにも関わらず縁側で茶を啜るビジョンはもっていない、生涯仕事一筋だ。いっそ俺がそんな茶飲み生活をしたいものだったが、上手いことは行かない。絶対に定年退職してやる。
「お父さん、皐月は本社の取締役常務です。神奈川のハウスだって十分な人員がいるでしょう」
 父のこんなフォローは焼け石に水。むしろ火に油である。
「睦月、お前は甘すぎる。あの女の件で引け目を感じているのはわかるが、いい加減自立させろ」
 ガラスのテーブルに思い切り置かれたグラスが耳障りな音をたてる。強化ガラスは簡単には割れないが、傷ぐらいはつくだろう。ガラスのぶつかる音に、焦ったような家政婦が顔を出したが、すぐに立ち去っていった。
 話題の中心は俺だったが、当の俺は特にはじめてではない祖父と父の諍いをワイングラス片手に傍観する。飽きないものだ。
 神奈川に行く、ということについて反論はない。働くことに嫌悪があるわけでもなく、ただ、許されているからふらふらと生きているだけだ。それでも、まあ、もう少しは遊んでられると思ったのだが。
「それで」
 ワイングラスの中の残りを一気に飲み干して、静かにテーブルに置いた。
「いつからいけばいいんですか?」
「三ヶ月後だ」
「はあ」
 すぐにでも来いと言われると思っていたが、案外猶予をつけられて拍子抜けする。何を意味する三ヶ月なのだろうか。身辺整理か? 女はみんな切ってこいみたいな。島流しじゃあるまいし、と訝しげな顔をしてしまい父に咎められる。
「秋までは取締役常務としての仕事を熟せ。睦月の言うことをよくききなさい」
 自慢じゃないが、反抗期を終えた後に父に反発したことはない。それくらいが取り柄である。
 それよりも、いままでハリボテだった肩書に突然ウェイトを与えられたことのほうが荷が重かった。取締役常務。あの美人の社長秘書に、新人研修からはじめてもらおう。

 三日後、再びの新宿。
 土砂降りだったあの日とは打って変わって、埃っぽい空気が蔓延していた。地下鉄から地上にあがると、夏らしい陽射しが降り注いでいる。久しぶりの快晴だったが、平日ということも手伝ってそれほど人出はない。百貨店に寄り、夏の新作だという菓子折りを手土産に購入した。領収書はきちんと貰っておく。
 スカイブルーの紙袋を提げ、いつもと違ってネクタイまできちんと締めた姿が自動扉に写っている。まさにサラリーマン。似合わない。明るい髪の色も手伝って、どちらかというと水商売の店長だ。新規開店するのでご挨拶に参りました、といっても信じてもらえそうである。嬉しくはない。
 ビルとビルの合間に突然現れた巨大なコンクリートの箱は、大きさに対して存在感が無い。奥行きもかなりあるはずだが、周りに先ほどの百貨店などがあったり、雑居ビルが乱立していたりと綺麗に目立たくなっていた。隠したつもりはなかったはずだが、結果的にひっそりとしてしまっている。
 思ってた以上に大きかった教会の前で、上永谷神父と同じような格好をした老年の男性が掃き掃除をしている。建物の規模に対してこじんまりとしたその光景は少しアンバランスだった。しかし通り過ぎる人は気に留めず、日常を思わせる。ハロウィンなんかのコスプレ衣装とは違う、上質な黒はこの夏のかすかな熱をよく吸収しそうだ。
「失礼、こちらの方ですよね」
 黙々と箒を動かしていた名も知らぬ神父に声をかけると、怪しげなものをみる目を向けられる。箒を握ったまま、俺の頭から爪先までを眺めた後、小さな声で「そうですが」と言った。ものすごく怪しまれている。
「俺、いや、私は二条フローリストで専務をしております。二条皐月と申します」
とりあえずにこやかな顔を繕って、名刺を差し出した。道端で何をやっているんだか。
「ああ、花屋さんのところの……。これはどうも、きいております。すみません、信徒には見ない顔だったものですから」
 こちらへどうぞ、と箒を持ったまま自動扉の内側へ招かれる。その老年の神父は斎藤と名乗った。斎藤神父は事務所のような部屋を抜け、応接間に入るまで箒を離さなかった。俺を応接セットのソファに案内したとき、なぜか自分が箒を持っていることに驚き部屋の片隅に立てかけていた。そんなに警戒しなくてもよろしいのでは。
 俺は腰を下ろす前に、買ってきた手土産を両手の空いた斎藤神父に渡す。ツマラナイモノデスガ、とまったく心のこもらない言葉を付け足す。スカイブルーとともに、少々お待ちください、と斎藤神父は部屋を出ていった。
 落ち着いた西洋風の部屋だったが、アンティークを模した家具はあまり古くない。ここ数年で買い揃えたものだろう。深い赤色の絨毯に至っては、新品のようであった。壁際には小さな祭壇が作られており、十字とそれに架けられた男が一人。同じ側の壁に宗教画が二枚。写真立ての多い部屋だ。
 紅茶を持って戻ってきた斎藤神父は、思いもよらぬ、いや予想はできた人物を従えていた。
「二条さん」
「は」
「お知り合いですか?」
 予想は出来ていたが驚いてしまった。上永谷神父がにこやかな顔で立っていた。斎藤神父がもっと驚いた顔で俺と彼の顔を見比べる。知り合いだから、と連れてきたわけではないのか。たまたま、というか若いしお茶汲み係なのだろうか。でもトレーを持っているのは斎藤神父だった。役割分担……?
「先日東口のフラワースタンドで」
 上永谷神父が楽しそうに笑っている。案外感情豊かである。
「ああ、あのゲリラ豪雨の」
 ローテーブルに三脚のカップとソーサー。揃いのミルクジャグとティーポットもそっと置かれた。見間違えか偽物じゃなければ、ウェッジウッドのカタログに載っていたのを見たことがある。えらくバブルを感じる教会である。小皿に乗った茶菓子は、硬そうなビスケットだったが。
「上永谷神父が向日葵を買いに行くと駄々をこねられた日だ」
「駄々はこねていませんよ」
 斎藤神父が笑いながら向かいのソファに腰を下ろし、その隣に上永谷神父も腰を下ろした。この二人が並ぶと、おじいちゃんと孫、といった風情がある。ふたりとも温厚そうで、穏やかな顔をしている。道徳の教科書に載っていそうだった。遅くなりましたが、と斎藤神父が名刺をくれる。何の変哲もない。ただし、肩書は司祭長であった。上永谷神父が伴じたのは、ただ上司にたまたま行き会ったからかもしれない。
 今日の訪問は事前に会社を通して伝えており、突然の来訪というわけではない。雑談を交わしながら紅茶を飲み干す頃合いになると、斎藤神父は見計らったように立ち上がり「では参りましょうか」と言った。礼拝堂を見学させてもらうのだ。ミサのない午後、花を納品したのはちょうど昨日なのでまだ盛りだろう。白百合の品種を幾つか、霞草、それからいくつかのグリーン。一年のうちほとんどはこの組み合わせである。薔薇の日もあるが、哀しき弱点だが白薔薇を大量に納品するのが難しく、大抵他の色とのミックスになる。その他は季節や、教義上の理由との兼ね合いで様々な種類のものが納品されている。
 先ほど入ってきた入り口の正面にあった大きな木製の観音扉、これが礼拝堂のメインエントランスだという。重たいうち開きの扉を押し開くと、都内とは思えない空間が広がっていた。天井が高い。真正面に現れた三枚のステンドグラスは午後の光をかすかに拾って色を落としていた。このステンドグラスも現在は建物内にすっかりはいってしまっており、建物内からは見ることができないが、裏手の壁が採光のため一部ガラス張りになっているらしい。みたところ室内はほとんど左右対称であった。斎藤神父の説明によればここは三廊式バシリカ教会堂という建築様式で、ステンドグラスのある突き当りの壁面の両端にアプスという半円形のスペースが二つ作られている。側廊部分だけ二階層になっていて、今はこの礼拝堂から二階に昇ることはできなくなっているということだ。ごくごくシンプルな作りの木造建築であるが、印象として、とても広い。このビル、というか教会の建物自体は外から見る限り三、四階建て程度の高さだったが、おそらくそれをすべてぶち抜いているのだろう。なんというか、保護するにしたって強引過ぎるような気がしないでもない。ステンドグラスの掲げられた半円の空間の少し手前にステージのような場所があり、花の気配がした。大小の教卓のようなものが配され、そこが祭壇なのだと推測できる。身廊の中心を空け、左右にズラリとベンチが並び祭壇の手前まで続いている。教区のなかではそこそこの大きさの礼拝堂で、収容人数でいえば二五〇人程度だそうだ。
「新宿にこの教会が出来たのはもう昭和もはじめのころですんで、あちこち傷んでしまっててねえ」
 それでもベンチも柱も、少し遠い祭壇も柔らかく艶めいていて、手入れが行き届いてることがよくわかる。ステンドグラス以外は木の深いブラウンと、絨毯の少しの赤、それから壁の白だけでシンプルだ。宗教画が何点か壁にかかっている。ヨーロッパやイギリスでみた教会と言うものに比べて、素朴なものだ。ステンドグラスこそが、この教会の至宝なのだろう。
 俺の前に斎藤神父、俺のすぐ後ろに上永谷神父が控える形で一列に並んで堂内を歩く。絨毯のせいで靴音がしないため、ものすごく静かだった。
「そういえば、あの、こちらってパイプオルガンがありますよね?」
 先日ホームページをみたときに、パイプオルガンの写真があった気がする。礼拝堂正面にはその気配はなく、ふと不思議に思ってしまった。
「ああ、それでしたら」
 後ろを歩いていた上永谷神父が足を止めた。それに倣って足を止め、振り返る。
 振り返った先には二階、というべきか中二階というのか、バルコニーのように作られた空間があり、そこにそれはあった。今しがた、俺はパイプオルガンの下をくぐってきたということか。左右に扉が見え、どうやら別のルートを使ってそこに昇るようだ。確かにさっき、ここから二階には行けないと言っていた。
 気を取り直し、祭壇にたどり着けば生花の独特の香りが鼻についた。火の消えている溶けた蝋燭が燭台に並んでいる。近づいて気づいたが、向かって左手の演説台のようなものにはマイクが置いてあり、教会内もよくみればスピーカーが吊られていた。なにせ知識がないのでそれが当たり前なのか、ここが特殊なのかわからない。察したのか、上永谷神父がそっと「海外でもよくあります」と言った。
 花は綺麗に咲いており、左右に広がるようなアレンジメントはよく整っていた。花に関しての審美眼はてんでないので、これが美しい意匠なのか否かはまったく判断できなかったが、この礼拝堂の雰囲気によくあっている。花越しにみるステンドグラスは確かに美しいものであるし、午後の陽光だけで照明の落とされたこの空間でも、白がよく映えた。
「白の花というと、どうしても葬儀のイメージになってしまうのですが」
 斎藤神父が祭壇の照明をつけながら話す。
「この季節はどうしても白百合をお願いしてしまうんですよね」
 電球色のLEDライトに祭壇の周りだけがぱっと明るくなる。
「そういえば、そういう理由がお有りになる割に、白以外はあまり頼まれないですよね」
 葬儀を連想させると言う割に、いつでも白の花ばかりである。春先にすこしグリーンが増える時期があることと、冬にはシクラメンが混ざること。今までの納品記録を見る限り、その程度の変化が、数年単位で繰り返されていた。
「こんなことを言うのはお恥ずかしいのですが、花に詳しいわけではありませんしほとんどおまかせ、といいますか」
「なるほど、確かにこちらとしても宗教上のことはよくわかりませんからね。白い百合といわれたら、その先の提案はむずかしいかもしれません」
 思いの外、職務上意義のある訪問になりそうで少しの安心感を得る。
「もしよろしければ、新しく違う種類の花を入れることも考えてみませんか。季節ごと、NGさえお伝えいただければもう少し発展したご提案ができるかと」
「ああ、それはいいお話です。今、館内の装飾は上永谷神父におまかせしてますから、そのあたりも彼からお聞きいただければ」
 斎藤神父が嬉しそうに笑ってくれたので、少しだけ表情筋が緩んだ。こんなに和気藹々とした空気は久しぶりである。しかも担当がこの上永谷神父である。願ってもない好機である。なんのチャンスかってとこは、アレだが、まあ好機は好機だ。満ち足りた気持ちで握手まで交わし、そこでふと、そもそも上永谷神父が伴じた理由が「装飾の担当」だったからということに気付いた。お茶汲み係でも上司に付き合ったわけでもなかった。
「祭壇のお花まで私が決めてよろしいのですか?」
 上永谷神父が不安そうに斎藤神父にきいていたが、老年の神父は孫をみるような優しい顔で頼んだよ、とだけ答えていた。
「よろしければ教会内の他の場所も見学していってください。小聖堂もございますし」
 斎藤神父は、そういって上永谷神父に案内を任せ「もう一件、来客がありまして」と申し訳なさそうに場を辞した。重たい扉が閉まる音が少し離れたところで響き、その音の反響でここが聖堂であることを再確認する。
 俺はぼうっとステンドグラスを見上げ、何を意味するのかまったくわからないその図像に首を傾げるばかりであった。わかる人には、定番なのかもしれない。
「二条さん、この間の向日葵、まだ綺麗に咲いてますよ」
 祭壇周りのコードを几帳面に端に寄せ、斎藤神父がつけた照明を一つ一つ消して歩きながら上永谷神父が言った。また昼下がりの薄い光だけが堂内を照らしている。
 二条神父はあの人変わらず、人形のように整った顔で笑っている。今日はジャケットは羽織っておらず、名も知らぬ長衣を身に着けていた。あの百合のように白い肌をした両手が、首をもたげた花をそっと直す姿はあまりに絵画的で、同じ人間であることを忘れそうになる。彼は同じ人間であり、同じ男で、同じ国の住人であることを時々思い出さねばならない。初恋の熱に浮かされた思春期の少年のように、彼に関して盲目的な賛辞ばかりが溢れてしまい、どこをみても美しい、美しい、美しい、としかいえなくなってしまう。いい歳をして何を考えているんだろうかと、我に返るとかすかな虚無感にため息を漏らす。
 ほんの小さなそのため息に、上永谷神父がそっとこちらを振り向いた。あの嫣然とした、何かを見透かすように、右目がちょっとだけ眇められた微笑みを浮かべている。このひとのこの微笑みの前で、俺はいつもどおりに振る舞うことがひどく困難で、蛇に睨まれた蛙のごとく硬直してしまう。それを必死に誤魔化そうと口をあけても、特に言葉はでてこずに間抜け面で口をぱくつかせるだけで終わる。それがどうしようもなく恥ずかしくおもい、咳払いだけをして、もにゃもにゃと曖昧なことをいって笑った。
 その不思議な微笑みは次の瞬間にはすっかり消え失せて、にこにことした顔で笑う彼が「そういえばお花、苦手なんでしたっけ」と言う。まるで金縛りがとけたように緊張が失せて、首筋に伝う汗に夏を思ったりして、そうなんですと笑ってみせた。全部バレているようでそれが少し居心地が悪かったが、その座りの悪さみたいなものにも気づかないふりをした。
 二階へご案内しますよ、と上永谷神父が言って歩きだしたのでそれに素直に従った。入ってきた大きな扉ではなく、右手の隅にあった極普通のドアから礼拝堂の外へでた。すでに陽光の届かない廊下は、俺達が足を踏み入れた瞬間光に満たされた。センサー式の照明である。廊下の両側に数部屋あるようだったが、特に興味はなかった。ほんの少しの廊下の突き当りは扉が一枚だけで、そこを開けた先には何やら道具や本が棚に並べられた不思議な部屋があった。香部屋です、と上永谷神父が簡単な説明を添えてくれる。ミサの前の準備をする場所ですよ、と言っていた。大きなテーブルが部屋の中央を陣取っている。彼は少し待ってくださいね、といってテーブルの上に積まれていた数冊の本を片付ける。
 向日葵はそこにあった。窓際、大きな白い花器に、大輪の向日葵が幾つか。三日も経てば首が折れるかとも思ったが元気そうである。少しだけ褪せた黄色も、まだ少し保つだろう。なんとなく癪な気持ちになって、テーブルの向こうのその花器へ近づいた。花びらを軽く弾いてみる。もちろん、向日葵は何も変わらない。それはそうだ。
「まだ、迷っておられる?」
 背後からの声に、驚き思わずはっと息を呑んだ。今、俺は花に対して何を考えていたのか。
 あの日も彼は、俺に「迷っているか」と問うた。美しい声で、俺に問うたのは何の迷いだったのか。外界の気配を完全に遮断したこの部屋で、俺は得体の知れないものに背後をとられて絶体絶命の男である。迷ってなどいない。いつだって自分のやりたいように生きてきた。何を迷っているのか? あの日俺は何を迷っていただろうか。
「あなたには向日葵より、百合が似合いますよ」
 その言葉と共に、背中に感じる確かな人の重み。棒立ちのままの俺の背後から、すっと伸ばされた右腕が向日葵の花弁を艶やかになぞった。それから、栄光にも選ばれた一枚の花弁は、ぶち、と千切られた。ハラハラとおちていく花弁を、思わず目で追えば、花びらをちぎったその腕は、手は俺の喉笛を同じようになぞった。思わず、喉が鳴る。上下した喉仏を、俺の汗でぬめる指先がなでた。
 カッとなったと言わざるを得ないのだが、その瞬間、沸騰した本能が理性を一撃で殺した。向日葵のことなんて一瞬で忘れて、背に感じる男の気配を逃がさないため強引に振り向いた。冷ややかで伏し目がちの両の目の目尻はかすかに赤く血走っていて、薄い唇は柔らかな弧を描いていた。楽しそうに歪んだその顔は、道徳の教科書にはとても載せられない妖しさに満ちている。乱暴に腕を掴んだ俺の顔を見て、さらに笑みを深くする。まるで別人のような彼に対する戸惑いも恐れも、おかしくなってしまったような思考回路からは閉め出されてしまっていた。テーブルに上半身を押し倒すと、これ以上何をするというのか、と息を吹き返したかすかな理性が動きを止めた。熱を発散するように長く息を吐いた。押さえ込んだ腕は離すことができず、彼の顔の横についた左手はかすかに震えていた。
「わたしに触れることを、迷っていらしたでしょう」
 その体勢のまま、喉元を晒した彼が言った。床から浮いた彼の足先が、俺の内脛をかすっていく。なにも答えられない俺は、ただじっと、上永谷神父の顔をみつめ、まるで先に目をそらしたほうがとって食われるような気持ちになっていた。狩りの獲物、である。この場合、俺が。
 自由になる左手で、彼は俺の目元をそっと拭った。
「どうぞ泣かないで、あなたは救われますから」
 一瞬なにを言われているのかわからず、心拍数の上がった身体は一気に覚めていく。慈愛に満ちた美しい男の顔が俺を見ていた。俺は自分がいつからか涙を流していることに気付いていなかった。こんなことは今までただの一度もなく、迷子のような心もとない気分になり、思わず彼の右腕を押さえる左手の力を強めてしまった。刹那の安堵と、波のように押し寄せる戸惑い、この場を支配しているのは押し倒されているはずの彼だった。
「生きることはつらいでしょう、でも、大丈夫ですよ」
 あなたは救われますから、二回目のその言葉に今度は堪え難い羞恥を感じ、耳の先が熱くなるのを感じた。とっさに押さえていた腕を離し、後ずさる。ゴン、と花器が窓に当たる音がした。ゆっくりと起き上がった彼は、俺に絡みつくように抱きついて、はあ、と悩ましげにため息を吐いた。小さな子供にするように、そっと俺の背中を撫でる。混乱のまま、ちょうど顎の下にみえる彼のつむじと、涙で霞んだ視界に息が苦しくなる。思わず彼の背に手を這わせようとした。その瞬間だった。
 目を覚ませ、とでも言うように、強く扉をノックする音が響いた。三回繰り返されたノックの後、俺たちどちらの返事も待たずにドアがあいた。あまりうまい状況ではない。思わず両手をホールドアップして、突然の闖入者に無罪を主張する。
「なんです!」
 失礼しますよりも先に、俺の顔をみて怒りに声を上げたのは、先日の騎士の青年だった。今日も短い黒髪がぴょこぴょことはねていた。上永谷神父はいつの間にか居住まいを正し、襟元を直している。
「ここがどういう場所なのか弁えておいでですか!」
「よしみちくん」
 上永谷神父の、窘めるような声音に、彼のみならず俺まで思わず息を詰める。失礼しました、とよしみちと呼ばれる青年は落ち着いたようにみえた。だがすぐに俺のことを親の敵のような顔でみるので、思わず目をそらした。この場を支配しているのは、やはり彼なのである。
 四辻です、朗読係をしております。青年は苦虫を噛み潰したような顔をして、俺にそう名乗った。
 場所は変わってロビーのラウンジである。ソファーやテーブルがいくつかおかれ、ジュースの自販機が二台並んでいる。俺が泣いていたことにはありがたいことに気付いていなかったようで、むしろ青年のほうが涙をなみなみと溜めて俺を睨んでいた。思わぬことに上永谷神父が司祭室に呼ばれ途中退場し、この場にいるのは青年――四辻くんと俺だけである。お互い妙な気まずさを抱えていたが、彼の困ったような、眠たそうな顔はやはり生来のもののようだった。ぐす、と鼻を鳴らすさまは子供のようである。
「四辻くんっていくつ?」
「……二十三です」
「ふうん……」
 おもったより年が近かったので以外だった。白いシャツに黒いスラックスという出で立ちだったが、聖職者ではないらしい。それを問うたときこれは別の仕事着です、と言っていたが仕事は教えてくれなかった。上永谷神父とはまた違い構い倒したくなるタイプの子だな、さっきまで子供みたいにぐずぐず泣いてた俺がいうと死ぬほど滑稽である。
 挨拶もきちんとせずに帰るのも悪いと思い、上永谷神父が戻るのを待つつもりだったが、四辻くんもまた同じ理由で残っているようだった。本来は借りたものを戻しに立ち寄っただけだという。それにしても間が悪い。
「上永谷神父と……」
 四辻くんが、か細い声で話し始める。向こうから何かを話しかけてくるとは思わなかったので少し驚いた。
「あなたはそういう関係なのですか」
「は?」
 思わず声が裏返った。単刀直入過ぎる。流行か?
「いや、ち、がうとおもうけど」
 まだ、と言おうとして流石に飲み込んだ。
「ならば、もう手を出さないでください」
「それは自分が好きだから?」
 震える声でそういった彼に、俺がそう聞き返すと、予想だにしない反応が返ってきた。てっきり顔でも赤くして「やめてください」と目を潤ませるのかと思ったが、彼はあまりに真っ青な顔で俺を睨んでいた。どうやら違うらしい。
「あの人は、神聖な神の御使です。慈愛に満ち溢れた方です。だからたくさんのひとがそれにつけこんで」
 たくさんのひとがそれにつけこんで。なるほど。それでピンとくるものがあった。この教会内、というより四辻くんの目の届く範囲で俺みたいな男――男に限らないかもしれないが――は一人じゃないわけだ。新宿駅でのあの態度にも納得がいく。これ以上悪い虫を増やしてたまるか、というところだろう。
「でもそれが、御使のご意志ならば」
 ほとんど勝手にこぼれた俺のその言葉に、次の瞬間、左の頬へ四辻くんの平手が飛んできた。これは俺の落ち度である。口の端に微かに鉄の味を感じながら、ごめんごめん、と謝ると返答の代わりに睨まれた。
「そういえば上永谷神父っておいくつなの?」
「春に二十六になりましたよ」
 まったく空気を読んであげない俺が死にそうな四辻くんに尋ねると、返答したのは上永谷神父本人だった。さっきまでのことなどすっかりなかったことのように、清廉潔白を絵に描いたような凛とした佇まいである。にこやかに、そこに立っていた。
 四辻くんは、すっと立ち上がると上永谷神父と二三言葉をかわすと頭を下げ、俺のことなんかちらりともみずにその場を去っていった。これはものすごく嫌われたに違いない。慣れたものなのでなんとも思わないが、面白いのでぜひまたお会いしたい。
「お待たせしました、まだお時間大丈夫ですか? お花の話、少しでもできればとおもったのですが」
 大丈夫ですよ、と言おうとして、すぐに思い直した。ただ俺個人の理由で、日を改めたかった。
「あ、ああそれでしたら、今日は資料がないのでよろしければまた後日」
「わかりました、それでは来週の同じ曜日、同じ時間は大丈夫そうですか?」
 アポイントメントだけはメモをとった。花、と一文字だけ横に添える。
 外に出れば太陽はだいぶ傾き、教会の前はすっかり日陰になっていた。人通りの少ない道路はうら寂しさがある。お見送りを、と連れ立って外に出た上永谷神父は日陰でみても美しかった。
 では、と一抹の名残惜しさと、日常へ帰る安心感を抱えて背を向けると、そっと腕を掴まれた。さっきの出来事が一瞬頭をよぎり、心臓が縮む。振り向けば日陰の中で、少し驚いた顔をした上永谷神父がいた。すみません、とびっくりした顔のまま言うと腕を掴んだ手はすぐに離れていった。なんとなく別れ難くなってしまい、とはいえそうもいかない。彼の”奇行”の理由を解するところには至れないが、ころころと変わる印象はなるほど放っておけない気持ちにさせる。四辻くんの気持ちはすぐに理解できそうであった。元通りの穏やかな顔で「失礼しました」といって笑っている彼がものすごく欲しくなって、胸の高鳴りに口角を歪めた。
「上永谷神父、瀬人くんって呼んでいい?」
 遠くで、蝉が鳴いていた。


to be continue...

しおりを挟む

処理中です...