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見えぬ想いと消えぬ怨み

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  空を切り、地に舞い降りたのは

  怪を束ねる宮人、暁音《あかね》。

  暗闇でも静かに光る灰色の髪は

  その片目を隠し、小ぶりな耳に少し

  被り、その艶やかな一本一本が

  琵琶の弦のように芯をもって見る者の

  目を奪ってしまう。



  「あ、お前もこ奴らの仲間か。」

  雪之助は咄嗟に身構え、麻影を後ろ手に

  守った。

  「ふっ、子らにはわしが見えるようだ

  な。こっちの扱いにくい男どもには

  いかが見えておる。」

  少し低く、しかし心地よく響く声に

  何やら優しさを感じたのだろう、

  兄の背に隠れた麻影が言った。

  「鞍馬天狗さまですか。」

  「お麻ちゃん、オイラがおるゆえ安心

  しておくれ。この方は悪い方ではある

  まい。オイラにはわかる。」

  元太が力強い声で麻影を支えた。

  



  暁音がチラリと目を配り、周りに

  誰もいないのを知るとイラついた様子で

  言い放った。

  「隠れは、どうした。おらぬのか。」

  「は、宮人様。そなた様のお目覚めには

  本当ならまだ数年ございますから… 」

  姿の見えぬものが答えた。

  おなごの声のようだが、宮人と呼ぶ

  目の前の者に、心より従っているのが

  わかる。

  「なら、お前でよい。今は仕えよ。」

  「は、仰せのままに。」

  どうやら隠れという付き人がおらぬため

  代わりに側に仕えるらしい。

  しかしその者が言った。

  「宮人様、彼らは全てが見えているので

  しょうか。」

  「その宮人という呼び方はやめろ。
  
  両の神より頂いた暁音という名があろう

  に。長年眠っていたから忘れたか。」

  「は、失礼をいたしました。暁音様。」



  そばに呆然と立っていた荒武士ら二人は

  その間にすかさず麻影を奪い取り、

  その一人が雪之助の首に刀をかけた。



  「さっきから仕えよだの、うるせー。

  お前もこの娘がほしいのか。ならば

  この坊主をどうする。あと一寸手先を

  かえせば死ぬぜ。」

  だがその荒武士の手は情けなくも震えて

  いた。




  暁音は焦りもせず淡々と言った。

  「お前たちのせいで、わしの匂いが

  人間に勘づかれてしまったのだな。

  無粋なものは貴いものまで汚しよる。

  娘もその坊主も要らぬ。わしが欲しいの

  は妖力も何も持たないただの人の体のみ。

  お前らにはわかるまいに。」

  しかし言葉とは裏腹に彼の体からは

  武士の力を腑抜けにしてしまう甘い

  香りと湯気のような憤りとも取れる

  破壊の力が巡り始めていた。



  「お、おいっ、どうした。」

  片方の武士もどきの男が仲間の体を

  激しくゆすると口から血を吐き、

  血管全てが浮いて見え、死に絶えてい

  た。

  麻影を腕に抱きながらも雪之助は腰を

  ぬかし、動けない。



  「お前、やりやがったなー。舐めやがっ

  て。」

  暁音は動じることなく、目もくれず、

  ただ座り込んでいる3人の子らに尋ねた。

  「雪之助とやら、お主は本当は何をしに

  ここまで来た?」



  麻影が代わりにこう言った。

  「父上が母様を家から追い出したので

  す。母さまに会いたい…。」

  「お前には聞いておらぬ。わしは全て

  知っている。もう一度聞く、雪之助、

  お前はなぜここにいる?」



  辺りは山の木々の風に揺れる音だけで

  あった。

  その時、ほんの少し火鉢の火の粉が飛ぶ

  ような音がして女の声がした。

  「暁音様、隠れの琴春です。遅くなり

  申し訳ございませぬ。」

  暁音にとっての大切な相棒なのか、
 
  少しにやけた暁音は続けてこう言った。

  「言わぬともこの子らの屋敷は見てきた

  だろうな。」

  「はい。さきほどまで火消しが懸命に

  火を消そうとしておりましたが、今しが

  た館の主人と家臣らが死人となって

  ふたすじほど向こうに未成仏のまま

  彷徨っておりまする。」



  「はっ、父上が?お瀧もチヨも?

  なぜ?兄上?ど、どうしよう。」

  泣くことも忘れ、驚き戸惑う麻影に

  優しく手を添えて真剣な面持ちでいるの

  は、元太であった。

  「元太、わたしにはもうお屋敷も父上も

  お瀧もチヨもいないの?うそよ、そん

  なのうそよ、ね、兄上?」



  すると雪之助はいきなり飛び跳ねて

  震え出した。

  「げ、元太?いや、お麻、元太はどこ

  にいるのじゃ。」

  麻影は訝しげに雪之助に答えた。

  「兄上、どうされたのですか。元太は

  ずっと一緒にいるでしょ?ここに。」




  暁音は高笑いをした。嘲るような、

  それでいてどうしようもない悲しみを

  隠すかのように右手で銀色の髪を

  かきあげた。

  人のものとは決して思えぬ危うく美しい

  仕草に雪之助はたじろいだ。




  暁音は琴春に目配せをして雪之助の

  腕をとらえさせた。

  だが雪之助はもう動く気力もなく、

  目だけをぎらつかせ、こう言い放った。



  「何でも知ってる?いや、お前なんかに

  は何もわからぬ。父上は母上を捨てた

  んだ。離れに一人、お瀧にだけ身の回

  りの世話をさせてた。父上はチヨを

  側女にしたんだ。チヨは優しい、

  歌の上手い女中だった。父上は…

  父上はチヨを無理やり…」




  琴春は暁音の命なくも、さっと麻影の

  両耳をふさいだ。まだまだあどけない

  この子らにはわからずとも良い醜い

  人間の所業である。



  「元太?ふんっ、何を血迷ったことを

  言う。元太はわたしが刺してやった。

  チヨが作り損ねた竹笛の竹で。」


  不気味な風がしきりと吹き、柳の枝が

  激しく揺れ始めた。



  「ひくっ、ひくっ。兄上、嘘でしょう?

  元太はここに。」

  しかし周りを見渡しても元太はいなかっ
 
  た。

  麻影は泣きじゃくりながら元太を呼んだ。

  「げんー、元太ー、どこに行ったのぉ」



  暁音が優しく答えた。

  「初めから元太はおらぬ。お前を大事に

  想う気持ちが、巷にごろつく妖力を
 
  引き寄せてしまったのだろう。

  お前には元太が見えた。だが他はだれ

  も見てはおらぬ。その鼻緒の痛みも、

  少しばかりの血も、恨みつらみを捨てら

  れぬ妖力には惹かれるものだったのだろ

  う。元太はお前を守っていたのだ。

  わかったか、生きよ、麻影。」




  逃げるに逃げられず腰をぬかした荒武士

  と、その場で肩をいからせ立ちすくむ

  雪之助はその場でへなへなと座り込んだ。



  暁音は荒武士に目を向けるとぱっと

  手を払いのける仕草をした。

  その瞬間荒武士は目を覚まし、あたふた

  と逃げた。

  追う琴春に暁音は言った。


  「捨ておけ。屋敷の死に人らに食われる

  までよ。」



  雪之助は握り拳を前にふりかざし、

  威嚇をするかのように暁音をにらんだ。



  「母上は自ら死を選ばれたんだ。」

  暁音は頷いた。

  「わしは全てわかっておる。嘘ではない

  ことも。そしてお前たちにはわからぬ

  大人の悲しみもずるさも、弱さもな。」



  雪之助は自ら腹を何度も何度も叩き

  始めた。

  「父上は…。父上はわたしを遠縁の

  養子に出そうとしたのだ。わたしは

  長子ぞ!なのに、なのに、子の出来ぬ

  縁者にくれてやろうとおっしゃったの

  だ。」




  暁音は厳しく言った。

  「お前は麻影から父を奪ったことには

  まだ気づかぬのだな。屋敷に火をつける

  は大罪。何の罪のない者らも苦しみ

  死んでいった。それもわからぬか?」

  琴春が抱き止めていた手をほどいた。

  「暁音様、この者をどうなさるのです

  か?まだ幼きゆえ…。」

  「幼いからなんだ。子にも悪の種は

  簡単に芽吹く。摘まねばのう。」



  その言葉とともに雪之助はチリのよう

  に消えた。

  琴春は麻影に問うた。

  「父上と母上の名は。」

  麻影は我に返り、かみしめた口から

  弱々しく答えた。

  「父上は青井市之進、母上は絹代と

  申します。母上は追い出されたのでは

  ないのですか。なぜ亡くなられたの

  ですか。元太は、元太はいつ…。」


  暁音が麻影にそっと触れた。

  まるで小さな花を愛でるように。

  「あの山の麓の墓が見えるか。あれは

  お前の兄が母の死を知ったときに

  か弱い力をふりしぼり、大石を積んで

  建てたのだ。まだ父の霊は入っては

  おらぬがのう。」

  麻影ははっと口に手をやり、涙が

  伝う頬を緊張させた。

  「母上は父上のお側にいたいとお思いで

  しょうか。」



  暁音が墓を見やり、寂しそうに麻影に

  答えた。

  「すまぬ。死んだ者の心までは見えぬ。

  だがおそらく元太はそなたといたいはず

  じゃ。ちがうか?」



  琴春に支えられ、ふらふらと麻影は

  立ち上がった。

  「母上はわたしにこうおっしゃいまし

  た。絹などたいそうな物でなくてよい。

  心丈夫で、お慕いできる方の影となり

  力となり生きるのですよと。

  麻は元太の心になりとうございます。」




  暁音は大声で笑った。みやびなその姿を

  麻影は見上げ、少し、ほんの少し微笑ん

  だ。


  「案ずるな。この世は優しいものよ。

  ほら、お瀧がお前を呼んでおるぞ。」

  暁音の言葉に琴春が速やかに動き、

  麻影を呼ぶお瀧のよろよろ歩く姿を

  見てとらえ、その方をあごで麻影に

  示した。



  麻影が手を振り、またこちらを見た時

  そこには何もいなかった。



  暁音は琴春にこう告げた。

  「この世はまだ怒り悲しみに満ちておる

  のう。はあ、わたしはなぜ目覚めたの

  だ、疲れた。」

  「あなた様のお力が必要なときが
 
  まいったのでしょう。おそらくは

  両の神の思し召しかと。」



  錦の衣が風にゆれ旗めいた。

  「琴春、またしばらく頼む。」

  
  琴春が暁音の前にひざまずき言った。

  「はい、決して離れず、あなた様の

  蝶となり、また眠るまでお側で

  用をなし、お目を楽しませて

  さしあげます。」



  「ああ、そうしてくれ。」

  眠そうな顔で暁音は返した。

  もう墓は崩れ、入れぬ魂の嘆きが

  聞こえてくるが、懸命に歩く麻影に

  寄り添う元太が薄く薄く輝いていた。


 

  

  

  


  




  

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